第5話 雨の記憶Ⅱ

 一度の絶叫が終わるころ、薙斗は自分の心を落ち着かせようと深呼吸に努めた。だが、先ほどまでの魔力行使と精神的な負荷からきた体力の底が、うまくそれをさせてくれない。深呼吸をしようとして何度か咳き込み、ようやく一回できたそれも随分と震えながら行われたお粗末なものだった。

「マスター」

冷めた声が、聞こえた。その声は、出会ってから一日しか経っていないとはいえ、それから今までその少女から一度として聞いたことのない、冷たく、恐怖さえ感じるほどの、生気の感じられない声音だった。

「レキ……ナ……?」

まだ呼吸は整っていなかったが、薙斗はその言葉に顔を上げた。

「あいつが……あのフェアリーが、お父さんと、お母さんを……!!」

はっとして、レキナの視線を追う。そこには、全身をライダースーツのようなものに包んだ男と、その男の前に立つフェアリーがいた。フェアリーは……笑っていた。この状況で笑えることなど、一つもない。それは薙斗にもすぐに分かった。そして、レキナは確実に相手がこの事件の犯人であることを確信していた。ゆっくりと二人組へと近づいていくレキナ。薙斗もふらふらと立ち上がる。レキナの四肢から、明らかに薙斗の指示とは無関係にバチバチと放電しているのが見て取れた。それと同時に、左手に違和感が走った。ズキズキと痛む感覚。それは、少しずつ大きくなっていく。

「許さない……許さない……!!」

レキナから溢れる放電量もまた、少しずつ増えていく。

 まずい、このままじゃ――。

「レキナ、待っ――」

だが、薙斗の言葉が届くよりも早く、レキナの全身から激しい光と轟音と共に、雷が溢れ出す。それと共に、薙斗の左手に埋め込まれていたサイファーが光を放ち始め、それと同調するかのように、激痛が薙斗の左手に襲い掛かる。

「ぐ、ううっ……!!」

召喚士試験の時に試験内容として出題された中に、「インフェクションレベルとそれによる人体への危険」という内容の設問があった。フェアリーが召喚士の制御を受け付けないほどに魔力を膨張させた際、召喚士を取り込もうとするほどの魔力の逆流が発生する、と。

 きっと、目の前のレキナの状態はそれに近いものになっているはずだ。感情が爆発しているせいで魔力の制御がおぼついていない。

「ほぉ? 召喚士がいるか……どうやらまともな状態ではないようだが」

召喚士の男がこちらを見てそう言った。冷静な分析の元に、自身のフェアリーへと指示を出す。

「リゼルタ、迎撃だ。見たところお前に近いタイプだ。気は抜くなよ」

「了解だ、マスター」

リゼルタと呼ばれたフェアリーが一歩、こちらへと踏み出す。レキナはそれを見て、両腕から雷を撃ち放つ。威力は彼女の全力のそれだった。彼女が攻撃を繰り出すのと同時に、薙斗にもまた、魔力の逆流が発生する。

「ぐぅっああ!!」

痛い。ただひたすらに痛い。薙斗はそれでも、ゆっくりとレキナ達の方へと近づこうとする。

「……ふむ」

リゼルタが一つ頷いた。それと同時に、彼女の全身から青白く光る雷が放たれる。その雷はレキナの放った黄に輝く雷をいともたやすく撃ち落とす。

「レキナの雷を、雷で撃ち落とした……!?」

しかも、その挙動には一切の無駄や力みがなかった。傍から見ていただけでも理解できた。実力差が違いすぎる。この事件の犯人がこの二人であるとして、協力者はどこかに潜んではいるはずだが、もし彼らだけだったとしたら、その実力差は見間違いようのないものだ。彼らは十階にもなる建造物を倒壊させているのだ。その力が生半可なものであるはずがない。

「レキナ、撤退だ。あっちは手練れ、こっちはまだ召喚して一日だ。分が悪い」

「でも、ここでやらなきゃ、お母さんとお父さんが――!」

これはきっと、レキナなりの「救済」のつもりなのだろう。何もできないまま終わりたくない、そんなレキナの気持ちが、まるで逆流する魔力に乗って伝わってきているような気がした。

「大丈夫。やれるよ――!」

レキナがそう言いながら、魔力を集中させる。それを見てリゼルタが雷を発射する。レキナもワンテンンポ遅れる形で雷を放つ。両者の間で、二色の雷が弾け、鮮やかな色の火花となって消える。だが、あっという間にその位置はレキナの方まで迫り、レキナの肉体にリゼルタの雷が当たる。

「あああああっ!!」

レキナの悲鳴を聞いて、薙斗はなんとか近づいて止めようとした。レキナはまだ、戦意を失ってはいない、それでも、止めさえすれば、後は薙斗が牽制しながら撤退することも不可能ではないはずだ。

「まだ……まだあぁぁぁぁぁ!!!!」

レキナが全身から雷を溢れさせる。

 その時、事故は起きた。

 レキナの放った高威力の雷が、大気中の雨を、地面に張った水たまりを経由して、周囲広範囲な場所へと降り注いだのだ。むろん雷は薙斗へも容赦なく襲い掛かった。

「あ――」

回避も防御も出来なかった。それよりもレキナにもっと近づきたいと思っていたから。だが、そんな薙斗の思いをぶち壊すかのように、正面から、頭上から、足元から、レキナの雷が直撃する。それと同時に、逆流してくる魔力の痛みも上乗せされている。

「ぐああああああああっ!!!!!」

全身を貫かれるような感覚。いや、もはや感覚という事象そのものが消し飛ぶのではないかと思う程の強烈な、暴力的な雷。レキナが違和感に振り替えり、自分のしたことに気づく。そして雷を収める。それと同時に、左手を襲い続けていた痛みも引いていく。

「え……あ……ます……たー……?」

自分のしたことに恐怖し、レキナが震えていた。全身の力はもうほとんど残されていないが、それでも、後数歩近づいて、腕を伸ばすくらいなら、できる――!

 薙斗は、ボロボロの身体で、レキナに半ば抱きかかえられる形になりながら、左手をレキナの頭にゆっくりと乗せた。

「レキナ……無茶はしないでくれ……」

「マスター……私……私……!」

レキナがどうすればいいのか分からないまま答えを探していた。薙斗は、遠のいていく意識の中で、呟く。

「俺を……一人にしないでくれ……!!」

頬を伝うのが汗なのか雨なのか、涙なのかは分からない。それでも、薙斗は全身ずぶ濡れで傷だらけの状態で、レキナにそう言って、ゆっくりと眠りについていった。

「――リゼルタ、戻るぞ。あいつらにはもう戦う力はねぇ」

「――了解、マスター」

幸いなことに、男とリゼルタはそこで攻撃を止めた。薙斗にとっても、レキナにとってもそれは文字通り、不幸中の幸いであった。


 それから一日の時間を経過したころ、薙斗は病室で目を覚ました。最初に薙斗の視界に飛び込んできたのは、真っ白なタイル張りの天井だった。それからぼんやりとした意識の中で、今まで何があったかをゆっくりと思い出していく。まだ霞んでいる視界の端で、窓の外の景色を見ることができた。雲一つない快晴だった。

(ああ……雨は、上がったのか)

薙斗が最初に思考したのはそれだった。掘り起こす記憶の中で一番鮮明に残っていたのが、全身を打ち付けるように振り続けていた雨だったからだろうか。そして、そうして身じろぎした薙斗に向かって、彼を呼ぶ声が響いた。

「ま、マスター!」

薙斗は、頭だけを動かしてその方向へと視界を動かす。青空から白タイルの天井を経由し、声の主を視界に収める。

「レキ、ナ……」

返答をされたことが余程うれしかったのか、レキナはぼろぼろと大粒の涙を流しながら泣き始めた。

「うわああああ――よかった……よがっだあぁぁぁ……私……マスターが目を覚まさなかったらどうしようって……うっ……うう……」

傍で泣きじゃくるレキナへと、ゆっくりと左手を伸ばした。動きはまだ鈍く、満足に動かせるような状態ではなかったが、その手がレキナの頭に届くまでの時間は、そうはかからなかった。

「ありがとな……心配かけちまったな……」

薙斗はゆっくりと、絞り出すような声を出した。重力に任せるままにレキナの頭に乗せた左手を、ゆっくりと左右に動かす。その時の薙斗は自分が一日中眠り続けていたことを知らなかったが、きっと随分と長い時間、彼女を心配させてしまったのだと自覚していた。

 ひとしきりレキナが泣き止んだころ、薙斗はゆっくりと体を起こし始めた。しばらく眠っていたせいだろうか、身体のあちこちが動くことに対してびっくりしたように動くことを拒否していたが、それでも少しでも全身を動かしたかったのだ。

 薙斗がレキナに支えられながら上体を起こしたところで、ノックの音が響いた。薙斗はレキナに向かって一つ頷く。レキナもそれを確認して「どうぞ」と返した。こうした人間社会における常識的な部分は、マスターの魔力を通じてフェアリーは学習する。だから、召喚して間もないフェアリーは短時間の間に社会の中に順応することができる。もちろん、マスターの生きてきた経緯によっては、その常識に多少ズレが生じる場合もあるのだが。

「失礼する」

レキナの返答を聞いて、二人組の女性が病室へと入ってくる。その姿は看護師や主治医には見えなかったが、纏う雰囲気は一般人のそれとは思えなかった。

「久しぶりだね、狭霧薙斗くん。会うのは『魔力制御コンテスト』以来かな」

そうだ、薙斗はそれを聞いて、目の前の女性の素性を思い出した。

旭川佳苗あさひがわ・かなえさんに……フェアリアさん……」

彼女達と会った最後の日。小学生時代に出場していた『魔力制御コンテスト』と呼ばれる、学童向けの魔力制御能力の対決場所で、薙斗は特別審査員の席に座っていた二人を見たことがあった。その大会に優勝した薙斗は、随分と彼女から褒めちぎられたのをなんとなく覚えていた。

「あなた方が、なぜここに……?」

特別審査員に選ばれる、それはむろん、世間から認められた存在であるからこその待遇だ。そして、その理由はとても分かりやすいものだった。

 魔力研究の第一線で活躍し、世界で初めて、フェアリーの存在を確認し、その召喚に成功した、フェアリー研究の第一人者、旭川佳苗あさひがわ・かなえ。そして、彼女によって召喚された、原初のフェアリー、フェアリア。研究者を志す人間にとっても、フェアリーの使役を目指す召喚士志望にとっても、その名は知らぬ者はいないといわれるほどの、超が付くほどの有名人なのだ。

「将来有望な召喚士の卵が事件に巻き込まれたと聞いてね。到着が遅れてしまったが、身体の方は無事なようで何よりだ」

「はぁ、おかげ様で」

記憶はだいぶはっきりと思い出してきていた。だが、まだ自分の中で実感が湧かなかった。あの日のことは、夢だったのではないか。あんな事件など起きていなくて、両親はどこか別の部屋で待ってくれているのではないか、そんな思い浮かべる意味の見いだせない希望が、まだ薙斗の中には確かに存在していた。

「狭霧薙斗くん。私は、君に伝えなければならないことがある」

研究を続けていた彼女は、すでに四十を超えている。だが、その実年齢よりも少々老けて見える顔は、老人特有の柔らかい笑みをすっと消し、どこか悲し気な顔で、その続きを離し始めた。

「薙斗くん。君が眠っている間に、うちの研究スタッフも交えて診察が行われたんだが――君は、魔力特性のほとんどを失っている」

告げられたことの意味が、理解できなかった。あまりに現実味のない話は、脳に言葉を伝達する前に霧散し、消滅してしまったように感じた。

「仰っている意味が――」

「具体的に言わせてもらえば、君は保有していた二十近い魔力特性のうち、魔力による壁を作り出す障壁系、魔力によって物質を仮発生させる創造系、そして、フェアリーの使役に必要な召喚系の三つを除いた全ての魔力特性が死滅した。いや、特性の死滅というよりは、魔力の循環経路の大部分が破壊されているせいで、脳が特性を認識できていない、と言った方が正しいかな」

「特性がなくなるって……そんな……」

薙斗が必死に否定の言葉を探す。レキナもまた、何か声を発しようとするが、何も言えずに口を開けているだけだった。

「ほら」

その言葉と共に、薙斗へとリンゴが投げ渡される。フェアリアが持っていた見舞いの果物が入ったカゴに鎮座していたそれを、薙斗は少し覚束ないながらもキャッチした。薙斗はそのリンゴを乗せた手に魔力を込めた。念動系能力が生きているならば、リンゴ程度の質量なら、怪我明けの寝起きでも移動させることなど容易い。

 だが、リンゴは薙斗の手の上でピクリとも動かなかった。

「――こんなことは言いたくないが、これが現実だ」

佳苗の言葉は、思った以上に薙斗に突き刺さった。自分の力がなくなってしまうなどということが、今でも信じられない。一体何をどうすればそんなことに――。

「君が気を失う前、何かなかったか? 大きな衝撃を受けた、あるいは、魔力関係の攻撃を受けた、というのは」

「……あっ」

佳苗の言葉に、声を漏らしたのは薙斗ではなかった。薙斗はその声の主を見やる。レキナは、口元を押さえていた。

「あ……私……私……」

明らかな動揺。それは誰が見ても明らかだった。

「――君が高校を卒業するまでの生活費はうちから一括で出そう。見舞金だと思ってくれればいい。私たちはこれで失礼するよ――行くぞ、フェアリア」

そう言って佳苗は病室の外へと歩き出す。ずっと無言のまま傍にいたフェアリアが、見舞いの果物が入ったカゴを棚へと置くと、ゆっくりと病室の外へと歩きながら、薙斗とレキナにだけ聞こえるような声で呟いた。

「――神童、狭霧薙斗は、死んだ。随分な損失ね」

その顔は長い銀の髪によって細部まではよく分からなかったが、少なくともその顔は、無力感のような、そんな雰囲気を薙斗は受け取ったような気がした。

 薙斗とレキナ、二人だけが病室に残された。レキナは頭を抱えていた。こういうとき、なんて声をかけるのが最適なのか、薙斗には分からなかった。薙斗は、呟くように彼女の名を呼ぶ。

「レキナ」

彼女の身体がビクッと震えた。怯えている。そんな風に薙斗には見えた。おそらく、レキナの考えていた通りの原因なのだろう。レキナの暴走による魔力逆流、そして、力任せに放たれた彼女の雷に打たれた時に、魔力の循環経路が破壊されてしまったのだろう。フェアリアが呟いた通り、薙斗にとっても、日本にとっても、あるいは世界にとっても、損失である。

「マスター……私のせいで……マスターの全部が……。あの時あそこに行かなければ……あそこに行く必要がなかったら……私なんかが生まれて来なければ……マスターは……!!」

レキナの言いたいことは分かる。薙斗達はあの日、薙斗とレキナのためにあの場所に行ったのだ。薙斗が召喚に成功し、レキナが生まれた。それを祝うべく、両親は彼らを連れ出した。もし、少しでも何かがずれていたら、薙斗の両親が亡くなることも、薙斗が力を失うこともなかったかもしれない。だけど。

 それは、やっぱり「もし」の話なんだ。

 どんなに想像しても、どんなに夢を見ても、イフの話はイフのままなのだ。

「レキナ、顔を上げて」

その薙斗の言葉につられるように、レキナがゆっくりと顔を上げる。両目はここまで随分と泣きっぱなしだったのか、赤くなってしまっていたが、その目はしっかりと薙斗を捉えていた。

「確かに、俺はいろいろなものを失った。でもな、レキナ。俺は、お前に会えた。お前がいるなら、まだこの命にも意味があるんだって思えるんだ。だからレキナ――笑って」

レキナはその言葉に眉を潜めた。

「そんなの……できないよ……」

「お前が笑ってくれれば、俺はそれを命を懸けて守る。お前が笑ってくれるなら、きっと俺はまだ、生きていけるって思えるから――」

「でも、私なんかが――」

「レキナ!」

食い下がるレキナの両肩にそれぞれ手を置く。胸の奥からこみあげてくる嗚咽と合わせて、言葉を吐き出していく。声が心臓よりも早く震える。

 そうだ、きっと俺は。

「俺を、一人にしないでくれ――」

俺はきっと、寂しかっただけなんだ。だからこそ、レキナは全力で守り抜く。何があったとしても、何を失ったとしても。

「なら……」

その声に、下を向いたままの薙斗が顔を上げる。

「私も、全力で、マスターを守ります……! 私も、マスターと一緒に、生きるから……!」

両目は赤く、今また涙が溢れてきているというのに、レキナは笑顔だった。その笑顔に、その言葉に、その声に、薙斗は胸の中につっかえていた石のような何かが跡形もなく消えていくような気がした。それと同時に、あの言葉が蘇る。

 ――したいように、生きていいんだ。

 それはきっと、薙斗にだけ言った言葉ではなかったのだと、その時薙斗は思った。

 そしてまた、薙斗にも生きる意味を見いだせたのだ。父が語ったように、母が聞かせたように、自分のしたいと思ったこと、やりたいと思ったことのために、命をかけるのだ、と。


 薙斗の中に広がる空で、雨は止んでいた。


 だが、レキナの空にはまだ、あの時の風景が、あの時の光景が、あの時の情景が残っている。彼女の空はまだ、雨が降り続いている。それを薙斗が知るのは、そう遠くない次の雨の日であった。

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