第22話 吊り橋

 サイスを出た三人は、北西の街道、山岳地帯の道を進んでいった。アドルフに指定された魔獣の生息地域は、キルグライスでも最も山の深い辺りにあるようだった。

 昨日通った、グラントから繋がる街道とは違い、人の姿が全く見えない。サイスから出る人々も、皆北東へと行ってしまった。世界に見捨てられたかような道を、三人は進む。

 昨晩あんなことがあって、さすがにヒューも気まずそうだった。少しは態度を改めようと思ったのか、いつものようにとはいかないまでも、ちょくちょく軽口を叩いている。だが今度はレナの方が、あまり話す気になれなかった。

 それでも少しは喋りながら、山道を歩いていく。相変わらず岩だらけの歩きにくい道だったが、昨日よりも高低差が少なく、体力的にはまだ楽だった。どちらかと言うと、下りる方向に向かっているようだ。

 しばらく行くと、周りにある木の密度が徐々に上がっていった。山の中にいるのか森の中にいるのか、段々と分からなくなってくる。

 道の中にも木が増え、どこまでが道なのか、区別を付けるのが困難な場所が多くなってきた。過去にここを通った旅人たちが、石を積んだり、岩に印を彫り込んだサインを残してくれているお陰で、辛うじて行く先が判断できる。迷わないよう、慎重に進む。

 不意に視界が開け、見上げるほどの高さの崖が、眼前に姿を現した。今まで歩いてきた道は、壁に突き当たって行き止まりのようになっている。そして崖の上から、一本の長いロープが垂れ下がっていた。ロープを手に取りながら、ヒューが言った。

「登れってこと?」

 レナは不安げな表情で、ロープの先を目で追った。ごつごつとした岩でできているその崖は取っ掛かりが多く、まあ登りやすいと言えば登りやすいかもしれない。ただし、角度はほぼ垂直だ。

 道を間違えたんじゃ、というレナの意見に従って、少し戻ってサインを確認してみた。だがやはり、道はこの崖に繋がっているようだった。

「行くしかないね。まずは俺から……」

 強度を確かめるため、何度もロープを引っ張っていたヒューが言葉を切った。何度目かの試行で、急に抵抗がなくなったのだ。その直後、ロープの反対側が、崖の上から音を立てて落ちてきた。

「おいおい……」

 苦々しげに眉を寄せるヒュー。木か何かに結び付けていたのか、輪っかになっていたであろうロープの端は、一か所が千切れていた。誰かが登る前でよかった、とレナはほっとする。

 ヒューは崖の上をしばらくじっと見たあと、残った二人の方に目を向けた。

「俺が先に行って結び直してくるよ」

「ロープ無しで登るんですか?」

「ま、大丈夫でしょ。これぐらいなら。終わったらレナちゃんから登ってきて」

 言いながら、ヒューは真上に手を伸ばし、突き出た岩に手をかけた。確かに、背の高いヒューなら、比較的楽に登れそうだった。

「言っとくけど」

 ヒューはエヴァンを横目で睨むと、脅すような声音で言った。

「レナちゃんに手を出すなよ」

「……当たり前だ」

 憮然とした表情で答えるエヴァン。レナはそれを見て、胸の奥がきゅっと苦しくなる。やっぱり、仲良くしてはくれないんだろうか。

 ヒューはロープを腰に巻き、崖登りを始めた。慎重に進路を見極めながら、危なげない足取りで一歩一歩上がっていく。やがて頂上に着くと、下を見ながら言った。

「待っててね。しっかり結んでくるから」

「はい」

 レナはこくりと頷いた。ヒューはひらひらと手を振ったあと、岩の向こうに姿を消す。

 ちらりと横を見ると、腕を組んだエヴァンが崖の上を見つめていた。その表情は、若干不機嫌そうにも見える。先ほどのヒューの発言に、腹を立てているだろうか。

 ふと、彼の頬の傷に目がいく。ヒューの居ない今が、傷について聞くチャンスかもしれない。何の傷かが分かれば、少しは彼の疑いも晴れるかもしれない。

 でも、聞いていいものなのだろうか。エヴァンが精霊使いを襲っている犯人だなんて、レナは全く思っていない。だがそれにしたって、聞かれたくない事情があるかもしれない。顔に刃物でついた切り傷だなんて、よっぽどのことがあったはずだ。

 相手がこっちを向く気配を感じて、さっと顔を伏せた。傷を見ていたことを気づかれなかっただろうかと、少し不安になる。

「疲れたのか?」

 予想外のエヴァンの言葉に、レナは思わず顔を上げた。下を向いていたものだから、そう思われたのだろうか。彼はちらりと崖の上に目をやったあと、言った。

「下から押してやろうか?」

「い、いえ、大丈夫です」

 レナは慌てて首を振る。誤魔化すために目を逸らしただけなのに心配されてしまって、罪悪感に襲われた。

「いいよ。レナちゃん」

 そうこうしているうちに、頭上から声が降ってきた。目線を上げると、崖の上からヒューが顔を覗かせていた。作業は終わったようだ。

 レナは小さくため息をついて、ロープを掴んだ。


 崖を超えたすぐあとに、今度は深い谷に行き当たった。谷底には、荒々しい川の流れが走っている。ざあざあという音が、岩壁に反響して何重にも聞こえてきていた。

 谷には、一本の細い吊り橋がかっていた。ずいぶん古いもののようで、橋を支える太い縄は、どれもぼろぼろになっているように見える。橋床きょうしょうには横向きの丸太が使われているが、それぞれの間隔は結構広い。足を踏み外したら、谷底まで真っ逆さまだ。

(大丈夫なのかな)

 さっきの切れたロープのことを思い浮かべてしまって、レナは不安になった。縄はあのロープよりもかなり太く、古いとは言え丈夫そうではあったが……。

 橋に近づいたヒューが、縄を引っ張って強度を確かめていた。それだけで、橋はぐらぐらと揺れる。仮に縄が切れないとしても、ちゃんと渡り切れるのだろうか。レナの不安はさらに増した。

「一人ずつの方がいいかな、さすがに。俺が最初に行くから、レナちゃん次ね」

「はい」

 ヒューが丸太に片足を乗せる。何度か体重をかけたあと、軽い足取りで進み始めた。歩くたびに、ぎしぎしと嫌な音が鳴る。

 レナは自分の髪をぎゅっと掴み、はらはらしながらそれを見ていた。だが結局ヒューは一度もペースを崩さずに、向こう岸に辿り着いた。

(渡れるかな、私)

 次は自分の番だ。途中で足がすくんでしまいそうだった。せめて下を見ないようにしよう。

 両手で左右の縄を持ちながら、最初の一歩を踏み出す。ヒューに倣って、一定のペースで足を出していく。大丈夫、これを繰り返しすだけで向こうに着くんだから、と言い聞かせながら進む。

 はたから見れば落ち着いて、実際は無理やり落ち着けながら、レナはゆっくりと歩いていく。だが橋の真ん中あたりまで行ったところで、異変が起きた。

「え」

 踏み込んだ丸太が沈み込む。右側の縄が、ぶちりと切れた。橋床全体が右斜め下に傾き、それに従って、橋もぐらりと大きく揺れた。急激に力のかかった左側の縄も、はじけるように切れ飛ぶ。

「……っ!」

 手から縄がするりと抜ける。レナの体は、空中に投げ出された。

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