第14話 学者
ギルドのある大橋地区の北東には、高級住宅街が広がっている。他の多くの都市とは違い、城壁に囲まれたりしているわけではなく、誰でも自由に入ることができる。グラントの治安が良い証拠だ。
とは言え、
実際のところ、この区域に入るのは初めてだった。遠目から眺めて、庭が綺麗だなあなんて思っていたぐらいだ。中に入った今は、本当に自分がここに居ていいんだろうかという不安が
ギルドに仕事を依頼した、アドルフという男性の屋敷は、高級住宅街の西の端にあった。ギルドと関係が深いということだったし、近い場所の家を買ったのかもしれない。なんにせよ、高級住宅街の中心部――グラントで最も金と地位を持つ者たちの領域だ――まで行かずにすんだのは、まだ良かった。
屋敷は他と同じぐらい大きく、庭も同様だったが、雰囲気はだいぶ異なっていた。華やかさに欠け、かと言って見すぼらしいわけでもない。庭も含めて直線だけで構成された外観は、絨毯の刺繍のような幾何学的な模様を立体に移したかのようで、完璧な左右対称になっている。なんだか、堅そう、というのがレナの感想だった。
門を通って庭を通るのは勇気が要ったのだが、家の前でうろうろするのは余計に悪いと思って、早足で屋敷の建物に向かった。扉に付いた金属製のノッカーを鳴らすと、はーい今行きまーすという、この高級住宅街にはそぐわない軽い口調の声が響いてくる。それを聞いて、少し落ち着いた。
ばたばたという足音が近づいてきた後に、大きな扉が重々しく開いた。その奥から顔を出したのは、レナと同じぐらいの年の少年だった。工房の職人が着るような、分厚い布製の前掛けを身に着けている。
まさか、彼がこの家の主人のアドルフなのだろうか。勝手に中年の男性を想像していたが、そう言えば年齢なんて聞いていない。いやそれとも、こんな見た目で、自分の倍以上の歳だったりして……。
「なにかご用ですか?」
固まってしまった訪問者に、少年が尋ねる。レナははっとした表情で、用意していた仕事の資料の紙を懐から取り出す。
「あの、この仕事のことで……私は、ハンターのレナと言います」
「ええと……ああ! どうぞどうぞ!」
扉を大きく開け、少年は手で屋敷の奥を示した。レナが恐る恐る中に入ると、玄関ホールはレナたちの家よりさらに大きく、そして同じくぐらい殺風景だった。広い分、寒々しさは増している。
少年に先導され、ホールを抜けて廊下を進む。飾り気のない、曲がりくねった道は何度も枝分かれして延々と続き、もう一人では玄関に戻れそうにない。
途中に通った部屋のほとんどは、扉が開きっぱなしになっていた。ちらりと中を覗くと、用途不明の器具が放り込まれていたり、木箱が詰まっていたり、物置として使われているらしき所ばかりだ。
不意に、少年がとある部屋の前で立ち止まった。珍しく、きっちりと扉が閉まっている。それをこんこんとノックしながら、彼は言った。
「先生、例の仕事を受けてくれるハンターの方がいらっしゃいましたよ」
「ふむ。入れ」
扉の向こうから、落ち着いた、低い声で返事があった。この人がアドルフさんかな、と思いながら、少年と共に中に入る。
その部屋は、他とは違って物置では無いようだったが、それでも物でいっぱいだった。ごちゃごちゃした小物も多いが、特に目を引くのは、中央にある二枚の直立した板だ。金属の光沢を持つ黒っぽいそれは、ベッドを縦にしたぐらいの広さで、足元には支えが付いている。二枚は、レナの肩幅二つ分ぐらい離されて、向かい合わせに立てられていた。
その板のすぐそばに、背が高くすらりとした男性が、両手を後ろに回した格好で
「こ、こんにちは。レナといいます……」
少し緊張しながら、ぺこりと頭を下げる。アドルフ(だと思う、多分)は何も答えず、視線をゆっくりと上下させ続けている。居心地が悪いことこの上ないし、なんだか体がむずむずしてきた。
「僕、準備してきますね」
そう言って、少年は外に出て行ってしまった。目の前の男性は、ようやく観察を終えたのか、視線をレナの顔に向け、言った。
「君」
「は、はい」
「本は好きかね?」
「へ?」
予想外の質問をされて、変な声を出してしまった。恐る恐る、答える。
「好き、ですけど……」
「どんな本を読む?」
「え? その、小説とかを……」
「ふむ。よろしい」
アドルフは、ゆっくりと大きく頷く。何にかは分からないが、満足したようだ。彼は二枚の板を指さした。
「その間に立ってくれ」
特に何の説明も無いまま、そう指示される。まるで、魔獣ではなく、自分が何かの実験をされるかのようだ。ここに来たのは、面接のためだったはずなのだが……。
「ではその場で跳び上がって」
「え? はい」
何の意味があるんだろうと不思議に思いながらも、ぴょん、と軽くジャンプする。アドルフは、片方の眉を器用に上げた。
「もう少し高く」
言われるがままに、力いっぱい跳ぶ。自分でも、それなりに高く跳べたと思う。運動できなさそうなんてたまに言われるレナだったが、一応はハンターの端くれだ。毎日訓練はしているし、同世代の女子の中では身体能力は高いはず。
だが無情にも、アドルフは静かに告げた。
「もっと高く」
「は、はい」
まだだめなんろうか。今度は少し身をかがめ、力を溜める。
「……えいっ!」
掛け声とともに、バネのように体を伸ばして地面を蹴った。髪の毛が、ふわりと大きく揺れる。ジャンプの最高点で、伸ばした右手の先が、高い天井にわずかに触れた。
ちょうどその時、先ほどの少年が部屋に帰ってきた。両手には大きな木箱を抱えている。彼はぽかんとした表情で、レナの
「ええと、何をやってるんですか?」
すとん、と地面に降り立つ少女を、少年は変な目で見た。レナは小さく首を傾げる。
「え、跳べと言われたので……」
言いながら、アドルフの方に目を向ける。彼は相変わらずの平坦な口調で、こう言った。
「冗談だったのだが」
「ええっ!?」
レナは思わず声をあげた。じゃあ、自分は無意味にぴょんぴょん跳んでいたということだろうか。しかも掛け声まで出して。急に恥ずかしくなってきて、頬が熱くなる。
少年はアドルフに近づきながら、抗議するように言った。
「先生の冗談は分かりにくいんですよ!」
「ふむ」
アドルフは短く反応すると、木箱の中に手を突っ込んでがさがさとやっていた。やがて、二本の木の棒を取り出し、片方をレナに差し出す。
「ではこれを持ってくれ」
「はい……」
レナは項垂れながらも、素直に頷く。これ以上変なことをやらされないように祈りながら、棒を受け取った。
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