好きだった、ただそれだけ
瓶戸 みどり
過ぎし日は思ひ出
「なぁ、なぁ、お前さ確か好きな人いたよな?」
散々遊び倒し、もう日が明けようかという深夜。付き合いの長い友人は、そう尋ねてきた。
僕は曖昧に首を傾げて誤魔化そうとしたが、彼に諦めた様子はなく、逃がすまいとこちらを睨んだ。
「とぼけんな、卒業したら教えてくれるって話だったろ」
「忘れてくれて良かったのに」
「絶対聞こうって決めてたからな。で、どういう人だったんだ?てか、俺の知ってる奴?」
ずいっ、と身を乗り出した彼は無神経に僕を質問攻めにした。それに苦笑しつつ、また誤魔化すように紙コップを徐ろに呷ると、友人はなぁ、なぁ、と再度僕を急かした。
「もう、別に言ってもいいけど、多分そんな面白い話でもないぞ」
「構いやしねぇよ、時間潰せんなら何だって。夜は長いんだから」
「…はぁ、分かったよ。話せばいいんだろ」
カラになった紙コップを暫く手で弄りながら、僕は少し昔を振り返った。
「よく、本を読んでたんだ」
「…は?」
「カバーの掛けてある本でさ、結局何読んでるかは…分からなかった」
─────*──*──*─────
多分、彼女は僕の事なんか見ちゃいなかったんだろうな。当然だ、僕の無個性さは僕が一番分かってる。人に好かれるような人間じゃない事も。
「おはよう」
「あ、おはよう」
声を掛けると、彼女は読んでいた本から顔を上げ、へらっと笑った。眼鏡に掛かっていた髪がゆっくり横へスライドしていく。それを目で追っていると、彼女は本に栞を挟み、それを鞄の中にしまった。
「今日って一限なんだっけ」
「えーとね、確か数Ⅲかな」
彼女は一人の時以外本を読まない。友達が近くにいる時はお喋りを優先したいそうだ。少なくとも、僕もその友人の一人という事だろう。素直に嬉しかった。少々人見知り気味だからか、彼女は一度心を開いてくれると、とてもフレンドリーだった。
「でねー、お母さんがさ、おっかしいんだよ」
「また取り込んだ洗濯物を干し直したの?」
「ううん、今度はまた洗濯したの!」
彼女と話す時、僕は彼女の眼鏡のフレームを見るようにしていた。そうしないと上手く話せなかったからだ。僕という人間は、人の目を見るのが苦手で、そして何より、彼女が話してる途中にずれた眼鏡をあげる仕草が好きだったのだ。
「おらー、HR始めんぞー、席につけ」
「きりーつ、れーい」
彼女と仲良くなったのは、委員会が同じだったからだ。良くある、放課後に同じ作業をしていたら気になってた、ってやつだ。僕らは二年生後期の間、(これもありがちな話だが)図書委員だった。
図書委員の仕事は、放課後に書庫の整理と貸出の受付、それから未返却の本をリストアップする事。普通にハードな仕事で、放課後も時間を取られるからか、常に委員会決めでは最後まで残る常連だった。当然、僕も図書委員にはなりたくなかった。しかし、着々とジャンケンに負けていった僕は、そのハズレくじを引く羽目になった。
決まってしまった事は仕方ない、後期だけの辛抱だ。そう頭に言い聞かせながら、黒板に名前を書く。その時、横に書いてあった名前が視界を掠めた。
「…蒼元…さん?」
「うん、蒼元!よろしくね、森永くん」
それが彼女との出会いだった。
確かあの時は、ただ珍しい苗字だな、なんてどうでもいい事を考えてた気がする。眼鏡を掛けてお下げが多かった彼女は、クラスの中でも地味な部類に入る女子で、少なくともその時の僕も周りと同じように思っていた。
それから僕は、月に二日、三日ほど彼女と放課後を共にする事になる。
それは楽しくて、それでいて、とてももどかしい時間だった。
「へー、図書委員、立候補したんだ」
「そーだよー、本好きだしね!小学校の頃からずっと図書委員なんだ」
彼女は仕事中よく喋った。沈黙が嫌いらしい、何故かはよく覚えていない。けれど、退屈な重労働の中、それはとても助かったのは覚えている。むしろ、こうやって二人きりで話すのは、何だか秘密の会話みたいで楽しかった。
色々な話を聞いた。ちょっと(本人談)抜けてる母親の事、厳しい物理の先生への悪口、クラスでの出来事、話題は主に彼女から提供された。僕は滑舌が悪く、ウィットに富んだ話術も持ち合わせていなかったので、ほぼ聞き役が多かった。
おかげで、僕は彼女の事を沢山知ることができた。好きな食べ物の事も、好きな音楽の事も、好きな教科の事も、どれも僕とは違っていたけど、それは大した問題じゃないと思ってた。多分、その時はただただ、舞い上がっていただけだったんだ。彼女の優しさに甘えてる事も気付かないで、馬鹿みたいに相槌を打つだけで満足していた。
けれど、それも長くは続かなかった。
─────*──*──*─────
「…一度だけさ、彼女が好きだっていう曲を聞こうとしたんだよ」
「お、おう…」
「けど、無理だった。クラシックだって事は知ってるんだけど、うん、曲名を覚えていられなくてね」
自分から聞いたくせに、友人は少し引き気味だった。ざまあみろ、聞いたからには最後まで話してやる。
「まぁ、とりあえず普段聞かないって事が分かったんだ」
「確かに、お前が好きなのってポップスとかだもんな」
「うん、こんな眠くなるのが好きだなんて、面白いな子だなーって思ってた」
─────*──*──*─────
半年はあっという間だった。
部活に入ってなかった僕にとって、放課後の楽しみと言ったら専ら委員活動で、きっとあれは僕の青春だったんだろうな。
「蒼元さんは来年も図書委員やる?」
「うん、やるよー、どうせ残るだろうしねー。森永くんは?」
「蒼元さんがやるなら、やろうかな」
二年生最後の仕事の日───僕にとっては図書委員として最後の日に、僕は勇気を出してそう言った。今思い出すだけでも顔から火が出そうだ。
「えー、嬉しい事言ってくれるねー!」
尤も、彼女に真意は伝わりはしなかったが。
かくして、そうして僕は半年の業務を終えたわけだが、先も言った通り翌年も継続して図書委員をやるつもりだった。図書委員を立候補する奴なんて変人ぐらいしかいない、彼女を除いて。
だからこそ、慢心していたのかもしれない。三年生の始めの委員会決めで、図書委員には僕を含めて三人の男子が立候補した。当然焦る僕はたじろぎながらジャンケンをする事になった。はっきり言おう、僕はかなり動揺していた。それのせいでもあったのかもしれない。
僕は、ジャンケンに負けてしまった。
僕は、図書委員にはなれなかった。
「えっ…」
「やったー、勝ったー」
目の前で起こったことが急すぎて、断面的にしか覚えていないのだが、ジャンケンに勝ったクラスメートはやる気無さそうに勝利を喜んでいた。
咄嗟に彼女を探していた。彼女を見つけると、向こうも僕の方を見ていて、目が合うと困ったように笑った。口がパクパク動く。
「ざ・ん・ね・ん」
そう言っているのが分かった。
図書委員の女子には当然、彼女の名前があった。けれどその横にあるのは、僕の名前じゃなかった。
「よろしくー、蒼元さん」
「うん、よろしくねー、久田くん」
僕がいた場所には、僕じゃない誰かが収まっていて、混乱の解けぬまま僕は席についた。ちなみに僕は、美化委員になった。
久田は、単的に形容してイケメンだった。目にかかるくらいの髪も不快感がなく、人の懐に入りやすい雰囲気を持っていて、それに加え勉強もできるような、正直僕が勝っている要素なんてどこにも見つからなかった。何より、彼はとても性格がいいのだ。それは僕が一番知っていた。なんでかって?彼は僕の仲の良い友人の一人だったからだ。
もし、彼に僕の心情を伝えていれば図書委員に立候補しなかったかもしれない。でも当時の僕は、何だか気恥ずかしくて打ち明けられなかったのだ。それを僕は、後で死にたくなるほど後悔する事になる。
─────*──*──*─────
彼女と委員会が別になってから、僕の日常に少し変化が起きた。
クラスでも彼女と話す回数が増えたのだ。まぁ、それも当然の事ではあるが、僕からしたら大きな変化の一つだった。朝の挨拶から始まって、休み時間に顔を合わせれば他愛もない会話をしあった。
そしてもう一つ。
久田が時々、いや、よく彼女の話をするようになった。
それは去年の僕を見ているようで、強い胸騒ぎに襲われた。久田も明確に表現はしなかったが、言葉の端々に現れる好意がそれを補完していた。間違いなかった、久田は彼女の事が気になっていた。
対して彼女はと言うと、特にさしたる変化は見当たらなかった。久田から聞く彼女も、僕と仕事をしてる時と変わりなく思えたから、きっと大丈夫だ、なんて根拠の無い自信と安堵が、毎日僕の中を通り抜けていった。
そんな緩み、はたまた不安と言った方が正しいのかもしれないが、それのせいで僕は更に自分を苦しめることになる。
何を血迷ったか、僕は放課後に図書室に向かった。理由は何となく。いや嘘だ、彼女達を一目見たかったのだ。一目見て、安心したかったのかもしれない、まだ大丈夫だと。
古びた図書室の扉はいつもより重く感じて、ゆっくりとそれを横に引き───そのまま僕は立ち尽くした。
「──でね、先生がさ───」
「───だろ、でもあれさ──」
返却図書の整理だろう、二人は並んで本棚に本を押し込んでいく。その距離は僕と彼女とのそれより、ずっとずっと近くて、人が入って来たなんて全く気付いてない風だった。それほど二人は会話にのめり込んでいた。しばらくそれを呆然と眺めていると、ようやく久田がこちらに気付いた。
「あ、森永」
「え?あ、森永くん。図書室で会うのは久しぶりだね!」
「…あー、うん、そうだね」
久田の影からひょっこり顔を出した彼女は、髪を一つに束ねていた。僕はその髪型の彼女を初めて見た。もちろん似合っていたし、とても可愛かったが、僕の知ってるお下げ髪の彼女はいなかった。
「どうしたの?本借りに来たの?」
「え、森永、本あんま読まないんじゃなかったか?」
「えー、勿体ない!読みなよ、本!おすすめ教えようか?」
「あ、あれは?この前言ってた短編集のやつ」
「あー、あれね!あれならあまり本読まない人でも────」
僕とは本の話なんて、した事もなかった。けれど、久田とは話していて、三人で会話してる筈なのに何だかまるで二人で話しているようだった。いや、二対一の方がしっくりくるか。何だか急に、自分が惨めに思えてきて仕方なかった。
「森永くん?」
「あー、悪い。久田に用事があったんだ。本を借りに来た訳じゃない」
「俺に?」
「そう、ゆうまが仕事終わったらクラス来いって」
うまく動揺は隠せただろうか。久田は妙なところ察しがいいから、気付いたかもしれない。これ以上、ここには居られない。少しでも早く立ち去りたかった。
けれど、そんな簡単に都合よくいく筈がなくて。
「あー、えっと…ゆうま達には先に帰ってもらうように伝えてもらっていい?」
「…どうして?」
「今日さ、楓さんと帰るから」
目眩がしたと思う。ぐらっと、地面が気持ち悪く波打つような感覚が襲った。その時僕はどんな顔をしていたんだろうか。分からない、逃げなきゃ、うまく切り上げないと。
「…そっか、りょーかい。ゆうま達には用事があるって伝えとくわ」
「ありがと、助かるわ」
「それじゃ、二人とも委員会お疲れ様、気をつけて帰れよ」
「おう、じゃあな」
「また明日ねー」
その後はよく覚えていない。図書室を出て、右に行ったのか左に行ったのかすらも曖昧なくらいだ。ただ、足元をじぃっと見て歩いていたのは覚えている。
久田は僕の知らない彼女を知っていた。僕よりも近い距離感を築いていた。一緒に帰る程の仲になっていた。彼女の下の名前を呼んでいた。
強い焦燥感と、そして同時に醜い劣等感が僕を包み込んだ。だって彼には勝てない。色んな魅力を持ったな彼と、何も持たず聞き役にしかなれなかった僕とでは、勝負にすらならないのだ。
そして何より。
彼女の彼を見る瞳を、僕は知らなかった。
─────*──*──*─────
それからの日々は、ただひたすらに長かった。
授業中も彼女の事を考えてしまうくせに、彼女と出来るだけ距離を取ろうとしていた。何だか後ろめたくなったからだ。彼女と話している時、その下心を見透かされているような気がして怖くなった。極力自分からは話しかけない、それはもどかしくて仕方ない日々だった。
どうやら久田と彼女は、委員活動以外の日でも一緒に帰ったりしているらしかった。そして彼は、僕が図書室に顔を出したあの日から彼女の話を更によくするようになった。今まであまり他言しなかったからか、秘密を知った僕は、聞き役に持って来いだったのだろう。あの日の動揺を気付かれていなかった事は本当に良かったが、これはこれで精神的なダメージは大きかった。
この時期に僕は、彼女を諦める事を決めた。
決して、彼の魅力に勝てないから、という陳腐な理由ではない。ただ、彼女がもし彼の事を本当に好きなら、そしてそれが成就する可能性を秘めているなら、そこに僕の出る幕はない。彼女の人生の中で、僕はただの友人Bでなければならないと思ったからだ。
きっとそれが言い訳だって事も、全部気付いていたけれど。
─────*──*──*─────
「…告白とかしなかったん?」
「…んー、しなかった…とも言えるかな?」
遊んでいた他の友人達は、とっくに布団に入ってしまっていた。起きているのは僕と、話を振ってきた彼だけだった。多分、そうでなければ、こんな話はしないだろう。
「えーとね、確かあれは球技祭の前の日だったから、うん、十月くらいかな」
─────*──*──*─────
夏休みが終わった。
図書委員は仕事で何日かは学校に顔を出さなければならなかったから、恐らく彼女達は夏休み中も会っていたのだろう。もしかしたら、仕事以外の日もそうかもしれない。
けれど、何の用事も無い僕は、ただダラダラと受験勉強を続けるだけだった。
夏が終われば、受験も本番に近づく。夏休み明けと共に、クラスの空気が少しだけ鋭くなっていくようだった。
「───という訳で、球技祭の種目決めをしたいと思います!」
だからなのか、LHRの時間はもはや自習の時間になっていて、それを担任ですら注意できずにいた。無論、僕もその一人だった。
夏休み明けの委員会決めで、僕は図書委員に立候補しなかった。それは当然の事で、それに関して彼女に何か言われる事もなかった。それくらい彼女と僕の関係は希薄になっていた。
代わりに久田と話す事が増えた。自分でも阿保みたいだが、何時の間にか僕は彼の良い相談相手になっていた。二人の帰り道の話や、その時どんな話題を振ればいいかとか、僕に聞くなんて見当違いも甚だしいものばかりだったが。その度に真摯に聞いてしまうのは未練なのだろうか。そうだとしたら、僕があんな事をしてしまったのも頷ける。
「森永ー、競技何にする?」
「うーん、どーしようかな…やってたし、サッカーでいいかな」
「そっかー、俺もサッカーにしようかな」
結局、久田も僕も球技祭はサッカーをやる事になった。素直に嬉しかった。彼と最後の球技祭を楽しめる事が純粋に嬉しかった。彼が僕を信頼してくれているのと同じように、僕も彼を親友だと思っていたからだ。それだけで十分な気がしていた。
球技祭は一日を通して行われる。クラス数が多いからか、各競技はトーナメント形式をとっていて、学年の垣根を越えた一大イベントだ。男子は特に、自分の男らしさを女子にアピールできる貴重な行事な為、気合いの入り方もそれに比例していた。
無論、僕には誇示する意味もそんな勇気もなくて、ただこの球技祭を楽しめたらいいな、なんて一番純粋にこの行事を楽しみにしていたかもしれない。
そんな僕に、それは突然訪れた。
「俺、楓さんと付き合う事になった」
「…え?」
忘れもしない球技祭の前日、一緒にバスを待っている時だった。
晴天の霹靂、動揺する暇もなかった。強いて言うとしたら、照れ臭そうに、けれど安堵したようにそう言う彼の顔を、直視できなかった事くらいだろう。
「昨日の帰り、告白してさ、こちらこそよろしく、って言ってくれたんだ」
「あぁ、そっか…だから言ったろ?絶対脈あるって!…うん、良かったじゃん!」
「おぅ、相談乗ってくれてありがとな」
不思議と、嫉妬や絶望といった黒い感情は湧いてこなかった。
なんにも感じない。強がりや意地ではなく、何かがすとんと収まる様な、そんな感覚。それは痛みに慣れてしまったからなのか、それとも、もう彼女を諦める事に成功していたからなのかは分からないけれど。自分でも驚くぐらいすんなりと、祝いの言葉が溢れ出た。
あの日が明確な、終わりの日だった。
久田と僕は降車駅が違うので、すぐ一人になった。
その後も、特に落ち込む事もなかった。頭から離れない彼女との思い出もそろそろ霞みがかって、薄れていっている気がした。ただ、胸にポッカリ穴が空いてしまった様で、少し腹がムカムカしたのを覚えている。
これを失恋と言うのだろうか。だとすればそれはあまりにも呆気なく、あまりにも素っ気ないものだった。
こんな風に終わっていくんだなって、そっちの方が哀しくなるくらいに。
─────*──*──*─────
一晩過ぎて球技祭が始まった。
今朝の目覚めも良く、特に睡眠不足な訳でもなく、かといってベストコンディションな訳でもなく。それはぱっとしない僕に丁度良かったのかもしれないな。
僕が入っていたサッカーチームは、思いの外なかなかの快進撃を見せ、一回戦、二回戦と順調に勝ち進み、遂にはトーナメント決勝まで駒を進める事ができた。僕も活躍らしい活躍はかかったものの、チームに貢献できていたと思う。けれども一番のMVPは、久田のキーパーだった。彼が居なければ僕らはこんな勝ち上がっていなかっただろう。やっぱり久田には敵わない、僕の持ってないものを持っているんだから。
「久田!ソフトボールは負けちゃったらしい!」
「あぁ、もう俺たちだけだ!あと一勝だ!勝つぞ!」
「おぉ!!」
円陣でも彼はカッコよかった。
決勝戦ともなるとギャラリーが増える。ほぼ全学年の生徒が球技祭の最後を見届ける為に集まっていた。当然、久田の彼女であるあの子もその中に居て、彼に声援を送っている筈だ。負ける訳にはいかない。久田の為にも何とか勝たせてやりたかった。
けれど、相手が悪かった。
相手は二年生、現役サッカー部が何人もいたのだ。今までナイスプレーでゴールを守っていた久田も、こればっかりは無失点ではいられなかった。
それでも僕らは食らいついた。そのおかげか、残り二分を切った時に一対三、まだ逆転可能だ。
仲間がボールを奪えば走り、奪われれば全力で自陣に戻った。その甲斐もあってか、残り一分を切る直前に僕らは一点返した。
二対三、まだ勝てる。盛り上がるギャラリーに負けじと久田は声を張り上げた。声援が聞こえなくなる程、僕はボールに集中していた。相手の動きを読んで、ボールを足で弾く。今だ、丁度いい所に仲間が居るのが見える。殆ど転んだ体制で僕はパスをした。我ながらナイスパスだ、仲間は勢いをそのままにシュート。決まった!同点、同点だ!
「同点だ!勝てる、勝つぞ!」
背中から久田の声が聞こえる。
勝てる、勝ってやるんだ。それで全部終わりにしよう。何もかも終わりにしてやるんだ。それしか考えてなかったと思う。残り二十秒、あと一点。
しかし、相手も必死だった、サッカー部としてのプライドがあるのだろう。本気のボール捌きで僕らを次々と抜かすと、あっという間にゴールの前へ。しまった、そこから打たれたら─────。
サッカー部の強烈なシュートが炸裂した。一瞬息が止まった気がした、が僕は久田に背を向け走り出した。シュートの直前に聞こえたのだ、久田が僕の名前を呼んだのを。少し遅れて、背後では歓声が上がる、少し振り返って久田がボールを投げたのが見えた。流石久田だ、ボールは僕の目の前に落ち、ゴールとボールの間には相手のキーパーしか居なかった。
「いけぇぇぇぇ!!!森永!!!!!」
正直、キーパーなんて見ちゃいなかった。見ていたのはその先、ゴールの向こうに彼女が居るような気がして。僕の勝手な幻想だって、そんな事は分かってる、けれど、もうそれで良かった。もう遅いなんて事も、諦めた分際でおこがましい事も。それでも叫んだ、ひたすら何かを押し付けるように。僕の想いの全てを、このシュートに込めるんだ。
好きだった。ただ、それだけを。
─────*──*──*─────
「はぁー…」
気付けば至る所に擦り傷があった。それを水道に掛け、顔を顰める。久しぶりの怪我に、どうやら身体も困惑しているようだった。
逆転勝ち、にはならなかった。そんな上手く物事は運んでくれないのだ。放ったシュートは鋭い軌道を描いてキーパーの腹に決まった。ベコっと物凄い音がして、ギャラリーも静かになった。ゆっくりと前に倒れたのは、多分キーパーの最後の意地だろう。倒れ込んだ瞬間、試合終了を知らせるブザーが鳴り響いた。
緊張と、落胆と、それから謎の爽快感に、僕はその場で膝を付いた。全てを込めたシュートは届かなかった。それはあまりにも僕らしくて、気付いたら笑ってしまっていた。
その後サドンデスに入り、勢いを失った僕らはすぐに負けた。受験生の僕らはもう誰も、現役サッカー部達の体力に付いていけなかったのだ。
「お疲れ様、森永くん」
「えっ?」
水道で顔を洗っていると、後ろから声を掛けられた。
それは僕が良く知っている人の声で、去年良く聞いた声だった。
「カッコよかったよー!あんなにサッカーできるなんて知らなかったよ」
「あー…、去年の球技祭は風邪で休んだからね」
「そうだったねー、確かにあの時悔しそうにしてたもんね」
思い返して驚く程、僕は落ち着いていた。それは全てが終わったからなのだろうか。分からないが、何故だか彼女と話すのに全く緊張をしていなかった。
「…久田と付き合い始めたんだって?」
「え…」
「おめでとう、末永くお幸せにな」
見栄を張りたい訳じゃない、心からの言葉だった。これが僕の本心で、僕の中の答えだった。彼女は少し驚いて、それからまた僕が好きなあの笑顔を見せた。いや、あの時よりもずっとずっと、可愛かった。それが何となく嬉しくて、僕も自然と笑顔になった。
「ありがとう…いい顔してる、なんかすっきりしたみたいだね。やっぱあのシュート気持ちよかったでしょ!すっごく勢い強かったもんね!」
相変わらず彼女はよく喋る。そしてそれに僕は頷くだけで、きっとその距離が丁度いい。
けれど多分、これが最後だから。そう思うと何だか少し、胸が苦しくなって。
「いやー、凄いね!カッコよかった!」
「うん、君のおかげだ」
「え?」
「あのシュートは、君と…久田を想って蹴ったんだ」
伝わらなくてもいい、そんな事は求めていない。ただの自己満足でいいんだ。
首を傾げた彼女に、僕はまた少し笑って、それに彼女も困ったように笑って、ありがとうと言った。
乾いた秋風が僕らを駆け抜けていった。
─────*──*──*─────
「…って感じかな」
「…なんか、青春だな」
男二人、空けた窓からは緩やかな春風が入って、僕は少し目を瞑った。時計はそろそろ深夜3時を指す頃で、けれど眠気は更々感じなかった。
「…寝るか」
「あはは、うん、寝ようか」
気を利かせたつもりか、友人はいそいそと布団に入っていく。何だかまるで、失恋したのは彼の方みたいだ。
それが何だか可笑しくて、僕はまた声を押し殺すように笑った。
まだ、春の夜は明けない。
好きだった、ただそれだけ 瓶戸 みどり @koura_TurTle
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