――――「消しゴム」

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 ガラス窓が割れると同時、近くにいた生徒は短い悲鳴を上げる。さらに――。

 爆弾装置が重ね重ねの衝撃でついに起動した。鞄と共に外空へと飛び出した爆弾装置が放物線の頂点に達したその時、許容量の限界まで膨らんだ水風船が弾け割れ、中から茶色い飛沫と粉状に砕いたガラス片が飛び散って、辺り一面へと降り注いだ。

 太陽の直射を受けてキラキラと反射し、まるで光の雨のような――。

 野放図な有様と化した教室内も、その雨が降った一瞬だけは全ての動きが止まり、ただ呆然として、ポカリと開いた口を並べるのみとなった。


 ◇


 少年少女たちはその光景が生まれた理由を知らない。絡まった糸のような、その現象に至るまでの道筋を誰も理解していない。

 当然だ。

 連鎖の絡まりを一つ一つ解いていけば、教室後方に忘れ去られた一つの汚れた消しゴムがすべての始まりであるという事など、誰も知る由は無かったのだから。


 ◇


 消しゴムは思考しない。塩化ビニル製の白い塊に思考する能力は無い。時に筆箱の奥に転がり、時に間違いを正す為に身を削られる。己の意思など一欠片も存在しない、純粋な塊。

 つまりその小さな塊は本来、蝶の羽ばたき程の小さな力すら生み出せない、ただ粛々と身を小さくしていくばかりの、無機質な物でしかなかったのだ。


 しかし、蝶番隆太の手に握られた瞬間。

 その瞬間だけは確かに、ホンノリと、淡い恋のぬくもりを纏っていた。小さな存在が、小さな存在なりに羽ばたく。その意志を纏っていた。




 コツンと小さく鳴くように床へと落ちた消しゴムは、直後に激しい上からの圧力で潰された。まだ新しい表面にはパウダーが吹きかけられていて、白い本体を包むスリーブごとその身を滑らせる。角が削れ、汚れが付着する。勢いのままに机の脚にぶつかり、コロコロと小和刈穂乃香の足元へと転がった。




 消しゴムは誤ちを消すために存在するが、しかし全てを消し去る訳ではない。深く刻まれた溝は擦った後にも残っている。

 つまり誤ちというものは、隠す事はできても、そこに存在しつづけるのだ。

 太刀川類堂の誤ちは、消しゴムの傍でその存在を儚く訴えていた。


 床に転がった消しゴムというものは、とにかく人に気づかれにくい。そこに確かに存在するのに、気付かず皆素通りしていく。何も出来ない消しゴムは、ただ誰かに気付いてもらうまで、ひっそりとその場に居続ける。

 小和刈穂乃香もまた、誰かに気づかれるのを待っているのだろう。救いの手が伸ばされるまで。




 ガタガタと来井句流詩也が暴れ狂う。

 怯えた少女の震えたつま先が消しゴムを小突き、シュルシュルと滑った。




 強い力で消しゴムを使えば、それは暴力となり、紙は破ける。間違いを正さねばと焦るあまり、さらに悪い方向へと彷徨うのだ。

 来井句流詩也もまた、恐れと焦りを抱え込み、そんな間違った方向へと彷徨ってしまったのだろう。

 消しゴムに触れた少年の手は、悲しく汗ばんでいた。




 手に弾かれた消しゴムは、乱立する机の脚の間をコツコツと跳ねながら進んだ。立ち上がる生徒の足に当たり、急にガタリと引かれた椅子に当たり、苛立ちを隠す教師の足で蹴られた。


 氷上を滑るカーリングのストーンのように、勢いを弱めながら辿り着いた先で、緑のコガネムシにぶつかった。




 消しゴムを最後まで使い切る人間はどれだけいるのだろうか。そもそも消しゴムの最後とは何だろうか。

 短くなって使いにくくなった時。新しい消しゴムに目移りした時。落として失くしてしまった時。

 つまり、消しゴムの最後というのは、そこに諦めの感情が生まれた時の事なのだ。


 ――ああ、シルバー隊長すいません……。俺……俺……。


「……死にたく、ねえよお……」


 それを奇跡とはいわない。ただ、緑のコガネムシはまだ最後じゃなかっただけ。それだけの事なのだ。




 滑り込むように足の裏へと到達した消しゴムは、緑のコガネムシを弾き飛ばし、代わりに踏み潰された。捻るように圧力がかかる。周りを包むスリーブが少し破れる。薄汚れた本体にもヒビが入った。




 消しゴムはいつだって傍にあるが、では人間に感謝の気持ちを捧げられる事があっただろうか。間違いを正し、夜遅くまで身を削り、時には遊び道具として使われる。そんな消しゴムにありがとうと声をかける人間がいただろうか。いないだろう。何故なら消しゴムは思考しない物であり、塊であり、小さな存在でしかないのだから。


「ありがとう。消しゴム君」


 故に、七門クルミがそう言ったとしても、それは特別な出来事であり、そもそも消しゴムは思考しないのだからその声に反応する事もなく、ただポツリと汚れた姿を晒すだけだった。

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