第20話 魔王の不死
「何故だッ!!」
厳めしい男が咆える。
悲痛さを訴えるような。疲労と苛立ちとが入りまじり混乱と困窮に捉われ、深い畏怖に襲われた叫びだった。
男は明らかに怯えていた。魔王を見る目には恐怖が、顔には戦慄が張り付いている。
「気は済んだか?」
地に伏していた魔王が立ち上がり問えば、勇者ジュラが恐ろしい形相で凍りついた。
それに魔王は苦笑した。
腕を斬られ足を斬られ、胴を斬られ。首を、皮を肉を臓腑を骨を斬られ。腹に胸に頭に刃を受け、串刺しとなり細切れとなり。――しかし魔王は生きていた。
地に伏し、やったかと勇者ジュラが息を吐く間に再び無傷の姿で立ち上がる。もはや驚異的な治癒能力では説明ができないほどの再生を、魔王は亜人の前で繰り返していた。
「――っ全知全能の神、過去と未来と現在を統べる主なる神、ソール神よ。我に悪しきものを滅する力を与えたまえ。我は神の僕、我が右手に恩恵を――」
勇者ジュラが呪文のような言葉を唱えはじめる。
魔法の詠唱ではなかった。魔法の詠唱に伴う精霊の動きがないからである。
おそらく男自身が精神集中のために使っている言葉なのだろう。事実、その右手には魔力が集まりはじめている。
魔族が放つのと同じ魔力を凝縮した衝撃波である。
美が魔力と直結しているため魔力を失うのを極端に嫌う魔族は滅多に使わないが、魔力の生き物である魔族が本気になれば、その威力は人間の街ひとつを容易く消滅させるほどにもなりうる力であった。
亜人の場合ならば魔力を失うのも恐れず使えるのだろう。しかし、それが体に負担をかけるものであるのは勇者ジュラを見るに明らかだった。
魔力を搾り取られた肉体が悲鳴を上げるように痙攣している。それを放てば、しばらくは動けなくなるだろう。それほどの威力をその衝撃波を持っていた。
放たれた瞬間の大気の振動。魔王の肉体に接触し炸裂した瞬間の衝撃に。辺りを呑み込む余波。
魔王の肉体は一瞬で弾け飛び、次の瞬間には塵と化して消滅していた。
「――…………やった……、ついにやったぞ……っ! 魔王を倒したぞ!!」
勇者ジュラの雄叫びを魔王は聴いていた。
聴覚をもつ耳どころか、肉体もないというのに、魔王は確かにそこに存在していた。
「――……まさか、……馬鹿な……っ」
男の怯えきった声。
すでに魔王は再生されはじめていた。魔王の肉体が消えたそこで、地面が蠢き塵が一片の欠片となりやがて形を帯びていく。
これこそが魔王の持つ不死身である。
肉体がどれほどの損傷を受けようとも必ず再生される。糧は土か大気か。おそらくその辺りの魔王を取り巻く自然のすべてだろう。
すべてが自然から生成され自然へと還ることを考えれば何ら不思議はない。自然にはすべての要素が含まれている。そして、その要素をおそらく魔王の魂と呼べるものが寄せ集め形作るのだ。
それは姿を変える時のそれと似ている。
組織の構成が一瞬で崩れて素元素まで分解され、塵に還り再び再構成される。組織は、土か大気かおそらくそのあたりのものに混じり、そのあたりのものから再生する。外界と接する感覚部分が無になるのはほんの一瞬である。すぐにそれなりの感覚を伴って生き物として肉体をもち世界に放り出される。存在はただの一度も失われなかった。
違いがあるとすれば、肉体の再生は痛みを伴うことだ。すべての生き物がもつ痛覚を魔王もまた持っていた。
損傷の痛みを感じないのは肉体のもつ痛覚神経が断ち切られ神経が再生するまでのその間だけである。
魔王が痛みを意識した時には肉体はほぼ再生していた。全身に針が刺さっているかのような痛みにじっと立ち尽くし、再生が終わり痛みが消えるとともに勇者ジュラを見た。
「――なぜ……っ、貴様のような生き物が存在する……ッ?!」
その男から戦意は完全に失われていた。
持ち続けていられるはずがない。何をしても殺せない存在を前にしているのだ。
魔王は大地から剣を生成してそれを、魔力を使い果たし動くこともままならない勇者ジュラを前に振り上げ、せせら笑った。
「天で神に問うがいい。この私とて神の被造物なのだからな」
亜人の死を見届けて、魔王は視線を地面に倒れ伏したままのハクアに向けた。
師匠と慕う男の死を知ればハクアはどんな顔をするだろうか。嘆き悲しみ半狂乱で泣き喚くのか、それとも茫然自失となって笑うのか。かつて魔王はそういう人間の姿を見たことがあった。
「セッカイ、居るな」
「はい。此処に」
「私はこれよりハクアとカレドニアに戻る。その男の遺体はここに残してゆこう。私がカンブリアの残党どもと合流する少し前に、その首を――そうだな、勇者に相応しく銀の盆に飾り、送りつけてやれ。親愛なるカンブリアの姫へ、魔王からの贈り物だ」
「御心のままに」
従順な魔族の気配が消えれば、あとには静寂と今し方撒き散らされたばかりの死の穢れだけが残されていた。
死の漂うその中に、生の気配。気を失ったまま眠りについている藍色の短い髪の、つり目と上がり調子の眉が勝気そうな印象を与える少年。
魔王は少年の傍らに立ち、膝を落とした。地面を転がった時にできたのだろう肘と額の擦り傷を治癒魔法で治してやり、頬についた土を払ってやる。
「お前とて勇者になれねば師匠と同じ末路だ」
囁き、ハクアの顔の前に手をかざす。
眠りに導く魔法を解いて、少年の体をゆすった。
「ハクア、――ハクア」
呼びかけてしばらく、少年の手が気だるげに持ち上がる。
頭を打ったのか、手の平が額に当てられ、きつめに寄せられた眉間が意識の混濁を示す。
「……トリアス……?」
「そうだ」
すぐに体を起こすことはできないようだった。声も不可解さに満ちている。
魔王は少年を助け起こしてついでに治癒魔法を唱え、その顔を覗き込んだ。胡乱な緑の瞳が徐々に目の前の顔に焦点を合わすように、はっきりしていく。完全に目が合ったと思った瞬間に少年は立ち上がっていた。
「師匠はッ!?」
叫び、立ちくらみを起こしたのか、崩れ落ちる。その少年を抱きとめて、藍色の頭を腕の中に抱きしめ魔王はそっと囁いた。
「――受け止めろ」
びくっとハクアが震える。
ゆっくりと顔が上げられて、険しく顰められたつり目の緑の瞳が意味を問うように見上げてくる。
魔王は目を逸らした。それが勇者ジュラの死を暗示させるための演技だったかどうか。当の魔王にも分からなかった。ハクアの瞳には魔王に目を逸らさせた何かがあった。その正体を知る前に、少年が魔王の腕を離れて立ち上がる。
ぐるりと辺りを見回したハクアの頭が一箇所で止まる。
よろりと、心許ない足取りで歩き出す。その先に、仰向けに横たわる男の姿。
魔王は倒れそうになるハクアの腕を掴み支えた。
「ししょぉ……? ししょぉ……」
師匠と慕う男を前にハクアが崩れるように座り込む。そして、おそるおそる手を伸ばしその顔に触れ、人間らしくない冷たさに驚いて手を引っ込める。
「――――こんなの、うそだ……。うそに決まってる……っ、師匠が死――っ、だって、師匠は神に選ばれた、勇者――っ、勇者なのにッ!」
「真の勇者ではなかったということだろう。――あちらに魔族も転がっていた。相打ちだろうな。早く此処を立ち去ったほうが――」
戻らぬ魔族の様子を見に魔王の使いが来る、と。続く言葉は失われていた。
少年が泣いている。
目を閉じて溢れるそれを流すまいとしているのだろう、瞼が震え濡れた睫毛が雫を含んで滲むように頬を流れる。噛み殺された声がかすかな嗚咽となって、細い肩を震わせた。
きつく寄せられた眉間がどれほどの想いに堪えているかを示す。
その姿は憐憫以上の感慨を魔王に与えた。
何がそうさせているのか、魔王には分かった。
素直に感情のまま悲しむことができないのは、少年がその死の責を負っているからだ。その死が、死因にはまったく関係ないハクアを庇った背中の傷の所為だと思っているのだろう。
自分の所為で負傷した勇者ジュラが、自分がいるために逃げることもできず満身創痍で魔族と戦って刺し違えたのだと。
自分の所為だと。
勇者ジュラを死なせたのは――殺したのは自分だと。
泣き喚いて縋り、感情のままにその死を悼み嘆いて心を軽くすることは赦されないのだと。
生命が失われる嘆きと、血が流れる穢れ。それを痛みとして少年は引き受けているのだ。
魔王は少年の濡れた頬に触れた。
「何を堪えることがある。泣けばよいのだ」
囁き、ゆっくりと開かれる瞼のその奥に微笑してみせる。緑の虹彩が揺れ、涙となって音もなくつり目の縁から流れ落ちる。
透明な雫のもつそのあまりの美しさに目を奪われた。
――悪くない。これに送られるのならば、死も悪くない。
純粋にそう思い、それに唇を寄せ雫の軌道を辿る。
遡れば行き着くのは澄んだ緑。縁に並ぶ睫毛が含む水気さえ奪って唇を離す。
驚いて瞬く瞳に微笑んだ。
「――私が死んでも同じように泣いてくれるか?」
瞬間、ハクアの顔に烈火のような怒りが走った。
振り上げられた拳が容赦なく胸を叩く。
「っやめろよ! ――こんな時にそんな冗談ッ!!」
「……ああ」
「死ぬなんて――っ、言うなよッ、冗談でも言うなよッ! バカ!」
少年の小さな拳に胸を叩かれ、どうしてか重いと感じ苦笑した。
少年に罵られるまでもなく、魔王は自身を嘲けっていた。
――何を世迷言を口走っているのか。愚かな。
不意に胸を叩いていた少年の拳が止まり、ぐっと魔王の服を握り締めるように掴んだ。
「……トリアスは死なないで……っ」
瞬間、胸を叩かれた訳でもないのに胸を打つものがあった。不可解なそれを、少年の吐いた言葉を一笑することで退ける。勇者が魔王に吐く言葉ではない、と。
――私が死なねばお前自身が死ぬというのに。
「死なぬ。私は死なぬ」
魔王という不死身の生き物であるのだから。
お前が勇者にならなければ脅かされる命ではないのだ、と。
心中で独りごちて、泣く少年を腕の中に抱き寄せた。
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