第18話 終焉の魔族
その瞬間、少年は衝撃波の直撃を免れていた。
男が少年の前に立ちはだかったからである。
咄嗟に少年を庇った男が崩れ落ちるようにしてその場に膝をつく。
「――っ師匠!」
少年が男を支えるように腕をのばした。男の手がその腕を掴む。生きている。
「大丈夫だ……っ、――無事か、ハクア」
厳めしい顔で微笑む男の頬にブロンドの髪がかかる。背で束ねていたはずのその長さが肩にかかるほどに短い。
ハッとしてハクアが男の背中を覗き込もうとするのと、男の体が前のめりに倒れ込むのとが同時だった。
男の背中はえぐれていた。背中の肉が削げ背骨や肋骨、肩甲骨が白さをもってうかがえている。それでも辛うじてそれだけで済んでいるのだ。
ひとえに意志ひとつで大気を操る魔王のなせる業だった。
もっともそれが少年であったなら背中の肉をえぐられるだけではすまなかっただろう。
――さすがに頑丈だな。
感嘆をもって、少年を庇ってみせた男を賞賛し、魔王は空の高処からその背中の損傷を見ていた。
ただの人間ならば即死を免れたとしても死に至るだろう致命傷だ。
「師匠! 師匠っ! やだッ、死なないで!!」
今にも地面に倒れそうな男を支えて叫ぶ無事な少年の姿を視界に入れて、魔王は視線を転じた。
そこに炎の魔人の姿はもはやなかった。
しかし、赤く色付いた地面と、赤く染まった勇者ジュラが持っていた剣だけが、そこにそれが確かに居たことを示している。
魔族が現われ消えたのは一瞬。
すべてが一刹那のことであったというのに、剣を投げ一矢報いたというのか。そして少年まで庇ってみせた。
――やはり侮れぬ。
人間たちの勇者に相応しい男を見据え、自らの死神としての勇者に選んだ少年を見詰め、黒い鳥となっている魔王は街へと引き返した。
炎の魔人は廃墟の中にいた。
押さえた腹からは鮮血が溢れ、その姿により鮮やかな赤を添えている。
赤い髪、赤みの差した肌、全身を飾る赤い文様、赤い鮮血、赤い唇、赤い目。
金の左目の虹彩に赤い影。黒々とした瞳孔から放射線状に赤が放たれていた。
その瞳に影が映った。
金も赤も塗りつぶそうな黒。赤に侵される瞳に安堵が走った。
瓦礫に手をついて支えにしていた炎の魔人が弾かれたように駆け寄る。
崩れるようにしてすがったのは、廃墟の作る影に立つ、影よりも濃い黒を纏う男。炎の魔人はその首に腕を回して精一杯の背伸びに体を逸らせ喉を逸らせて、男の唇に深く接吻けた。
「――わたしを殺すのですか。」
血の味をさせた唇を離し、炎の魔人が囁く。喜びさえ響く声に魔王は片眉を跳ね上げて細いその首を掴んだ。
「――なぜこのような真似をした」
もっとも、炎の魔人がずっとハクアを殺してやろうと機をうかがっていたことは知れている。
現われるとともにためらいもなく冷静にハクアに向けた手の平。
浴びせる捨て台詞を吐く間さえも惜しむかのような攻撃。そして、タイミング。
魔王の気が逸れているその一瞬の隙を狙った。そうでなければ魔王の手の内にいる少年に手を出すなど不可能だっただろう。
事実、そのタイミングで魔王には大気を動かして衝撃波の威力をわずかに削ぐことができた。
そして素早く駆けつけ治癒魔法を唱えれば命を繋ぎとめられただろう。邪魔さえなければ。
魔王を相手にする覚悟さえもしていただろうペルムにとって、勇者ジュラの存在は大きな誤算だったはずである。
「お分かりのはず。あれがあなたの存在を脅かすからです。」
「くだらぬ。――仮令そうなろうとも、もはや時の残らぬお前には関係のないこと。私が殺されようと今にも消えるお前のその死に変わりはない。捨て置けばよいのだ」
「お解かりにならないでしょう。わたしの心の内はさしものあなたにも見えぬのですから。」
自らの身を削ってもハクアを殺したかったその心の内を。あの夜から従う姿勢で身を潜めながらも密かに機をうかがっていたその胸の内を。あなたは知らない、と。
魔王はならば云ってみせるがいいと細めた目で促す。
炎の魔人が口付けてくる。
「愛しているのです。愛しい方。あなたを愛しています。我が王。我が命。」
「戯言だな」
誘惑するような眼差しを一言のもとに斬り捨て魔王は嗤う。
その耳がハクアの声を捉えていた。遠く、本来ならば届くはずの距離にいるその声を聴覚が拾う。名を呼ばれているからだろう。
トリアスが治癒魔法を使えると知っている少年の、助けを呼ぶ声である。
「トリアスっ! トリアスぅ! ――お願い誰かっ、師匠に治癒魔法を! トリアスぅ! お願い気付いて――トリアスぅ……!!」
気付きながら捨て置いている魔王は微苦笑。声が枯れるまで呼び続けていればいい。
「――我が身を一番に思う魔族の愛などたかが知れている。愛していると囁くその口で殺してほしいと囁くのであろう? それがお前たち魔族の望みだ」
魔王に殺されること。それを魔族は望む。
永い寿命が尽きるよりも先にその叡智に、人格に、自我に終焉が訪れるからだ。
美しくあることに心を砕く魔族にはその醜さが堪えられなかった。自我を失い穢れにまみれて美を損ない醜く朽ちてゆく生き物になるのが。
しかし、かといって魔族が自殺することはない。それも美を損なう穢れた行為として嫌悪をもって倦厭するからだ。
「お前とて、自らが失われる前にこの魔王に殺されることを願って追ってきたはずだ。城に残った他の者たちとは違い、お前の身では次の魔王では間に合わぬからな」
魔族が魔王のしもべとなるのは、魔王が絶対的強者で自らを確実に殺してくれる相手だからである。
魔王城にいた魔王のしもべの魔族たちは自らの終わりを悟って魔王のもとに集った魔族たちであった。
――だが、従う魔王は何も魔王トリアスでなくともよいのだ。トリアスが勇者に殺されようとも構わない。次の魔王がいる。城に残った魔族たちは勇者を求める魔王に見切りをつけたのだ。
「美しい方。我ら魔族が魔王様のその手によって還されるのをどれほど望んでいるか。――ですが。私がその歓喜に震えるのは。あなたに。他ならぬあなたに還されるからです。城に残った他の者たちとは違う。他の魔王など望んでいません。あなたを愛しているのです。一瞬でも永くあなたの側に居たいがために穢れを恐れ。お戻りにならぬあなたを待ち焦がれ。身を削る決意であなたの側へ。城を離れ穢れた世界に身を投じるほどに。愛しているのです。側に居られるその僅かな時をなげうってでも。あなたを脅かすあの子どもを殺してしまいたいほどにっ。この身は失われると知っても尚あなたの存在が失われるのを厭うほどに! あなたが失われるなど赦せないッ!」
――だから勇者に成り得るハクアの命を狙ったというのか。愚かな。
見た目に反した冷静さを欠いた炎の魔人が吼える。
感情の昂ぶりを示すようにオッドアイから涙が溢れ赤い文様の走る頬を流れ、その首を掴む魔王の手の上に落ちる。それがやはり冷たい。
金の瞳の中にちらつく狂気の赤に、はじまりつつある人格崩壊を知り納得する。
我が身が一番の魔族が愛を叫ぶのも、穢れを厭う魔族が自ら穢れの行為を犯すのも、おかしい。
叡智が、人格が、自我が、侵されているのだ。
――だが、だから何だというのか。
「――可愛いペルム」
囁き、魔族の高い治癒力によってすでに血が止まっているその腹に手を当て、治癒魔法を唱える。
魔王のその行動がペルムには不可解だったのか、オッドアイが見開かれた。
「魔王様……?」
「ペルム。私はお前を存外気に入っていたのだよ。魔王のしもべの魔族でありながらこの魔王に否を唱えるその従順ではないところを、な。思い通りにならぬゆえに気に入っていたのだ。――だが、間違えるな。お前とてこの魔王にとっては一時の退屈凌ぎにしかすぎぬ」
ぐっと細い首を掴んでいた手に力を込める。
哀れな生き物だが同情の余地はない。それほどの怒りが胸にくすぶっていた。
――退屈凌ぎが楽しみを奪おうなど思い上がるにもほどがある。赦せることではない。
「そのまま自我を失い醜く朽ちるだけの魔物に成り下がりたくなくば、私に従え。私の言葉通りにするというのならば望みどおりこの魔王が殺してくれよう。この機を逃せば永遠にお前を殺してやろうとなどという気は起こらぬぞ」
「――だからこそ。あの子どもを殺してしまいたかったのです。」
目を伏せて炎の魔人が吐き捨てる。
それほどの怒りを魔王に与える存在を、殺してしまいたかった、と。
ならば醜く朽ちればいい、と魔王は炎の魔人を解き放つ。
背を向けてすぐ、その背中にすがるものがあった。
「従います。愛しい方。あなたの逆鱗に触れるのは覚悟の上。失敗った今。あなたに還される機が残されているのなら。縋らぬはずがありません。」
答える瑞々しい声に叡智の影を感じて魔王は炎の魔人を振り返った。
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