第15話 神の呪い
焚き火の炎が爆ぜる。
魔王たちは森の中で野営していた。
飢餓感だけの飢えた魔物が徘徊する街の中よりも、叡智に長けた魔族が支配する森のほうが安全だからである。
「ペルム、そこにいるか」
「はい。」
控えめな応えとともに木々の間から炎の魔人が現われ、焚き火の炎が光源の明かりの中に入ってくる。
橙色を帯びた光源が、昼の日差しのもととはまた違う輝きを炎の魔人に纏わせる。肌を踊る赤い文様が揺らめき、より艶かしく扇情的であった。
ペルムはちらっと左右で色の違う視線をハクアのほうに投げた。
「それが――勇者ですか。」
「そうだ。この魔王が育てている勇者だ」
魔王もハクアに視線を向け、応える。魔族が来ているとは知らない少年は魔王の傍らで健やかな寝息を立てていた。
「そんな魔力も低く凡庸な人間が。勇者ですか。」
魔力が低く、精霊とは無縁ゆえに気配に疎い少年に苦笑し、魔王はそのうち気配に聡くなる訓練もしてやろうと、毛布からはみ出ていた少年の腕を毛布の中に戻した。
「見所はある」
毛布をかけ直してやり、焚き火に枝をくべ、手にしていた手ごろな枝で炎を掻き混ぜる。
「……魔王様……。何をなさっているのですか。」
怪訝そうなペルムの声に、魔王は自分が甲斐甲斐しく少年の世話を焼いているように見えたのだろうことを知って苦笑した。
炎の魔人に濃い疑いの目を向けられている。
「凡庸な人間だ。風邪をひかれては面倒だからな」
「治癒魔法で治せます。」
治癒魔法は自己治癒力を高め、損傷組織の再生速度を速める魔法である。自己治癒を高めるのならば風邪にも有効だろう。
「だが、一日は無駄になろう。――一日も惜しい」
めきめきと頭角を現すように成長する少年に、一日とて無駄にはしたくなかった。
その一日でハクアにどれだけのことができるだろう。あっという間に成長し、過ぎ去ってしまう人間の生を考えれば一日とて無駄にはできないのだ。
――これは、誰が見ても完璧な勇者に育てるのだからな。
魔力も低く凡庸な人間だなどと魔族どもも云えないほど、脅威の存在に。
「――おやめください……っ。」
突然、ペルムが叫ぶ。何かと視線を向ければそこには、魔王を真剣な目で真っ直ぐに見詰める悩ましげな表情の魔族がいた。
視線が交わると誘惑者のように魔王の胸に取りすがり、身をすり寄せてくる。
「このようなこと。いますぐおやめください。勇者を育てるなど。やはり御身のためではありません。いますぐおやめください……!」
「何を」
魔王は炎の魔人を手で押し戻し嘲笑った。
と、傍らで、寝ていたハクアが身じろぐ。
「う……ん」
その瞬間、魔王は反射的にペルムの口を押さえ、押し倒すように地面に押さえ込み動きを制した。
その状態でしばらく息を殺し、ハクアから健やかな寝息が聴こえてきて安堵の息を吐く。
そして、自らの下で怯えたように息を止めている魔族を睨み、スッと音もなく立ち上がった。
「魔王さ……っ。」
驚いて声を上げるペルムを鋭く睨み、黙らせて魔王は顎で闇が広がる森の奥のほうを示した。
ペルムをその場に捨ておき、魔王は先立って野営地を――焚き火に、残っていた枝をすべてくべてから――離れた。
夜の森を闇のほうへと進み、わずか遠くにハクアのいる野営地の明かりが揺らめく辺りで魔王は手近な木の幹を背に振り返った。
数歩遅れてついてきていたペルムがシャラリと怯えた音を立ててその場に立ち止まる。
魔王は腕を組み威圧的にペルムを見据えた。胸前でぎゅっと手を握り締めたペルムが意を決したように見詰め返してくる。その右目が闇の中で鈍い輝きをもつ瞳孔まで赤い血色で、ペルムの意思は輝く金の左目にあった。
「勇者など育てるべきではありません。聡明なあなたならそれが何を意味するのかお判りのはずです。」
「死、だな」
囁き、言葉のもつ響きを受けて足元の闇が蠢く。
足下には死を受け止め、肉体を還す土。まるでこの身が土に還るその時を待っているかのようである。
「この魔王の死だ。勇者とは魔王の死神だからな、それを育てようというのならば、さしずめ自殺行為というところだろうな」
「笑い事ではありません。魔王様。今からでもまだ遅くはありません。今すぐあの子どもを殺してしまいましょう。できぬというならばこのわたしが。」
炎の魔人が目の前で跪き服の裾に口付けてくる。そのペルムを見下ろし魔王は嗤った。
「ほう。穢れを嫌うお前が、その手を汚すと。よいのか? その身に大きな穢れを負えばお前はすぐにでも失われる。それを恐れ一時は城に残ったのではなかったのか?」
「愛しい方。あなたのための穢れならば。厭いません。」
臆せず見上げてくる金の瞳に本気がうかがえて、魔王は苦笑した。
「私のため、か」
可笑しそうに吐き捨て、炎の魔人の手から裾を奪い返し、背を向ける。
「ならばあの子どもに手を出すことは許さん」
「……魔王様っ。」
シャララっと繊細な金属片が神経質な声を上げて、炎の魔人が立ち上がる気配が背後。背中にすがるように触れてきた細い手に、魔王は避けるように振り返ると逆にそれを掴み上げた。
先ほど背にしていた気の幹に炎の魔人を押し付け、抗議の声をあげる前にその魅惑的な赤い口に喰らいつき、黙らせる。
「――何を勘違いしている」
大人しくなったペルムに囁き、魔王は闇の中でも扇情的な赤いラインが走っているのが分かる肌に口付けて、首筋を上るラインを這い、尖った耳に告げた。
「この私が、人間ごときに殺されると本気で思っているのか?」
「魔王様……?」
「ありえんな」
吐き捨て、炎の魔人を解放し離れる。反射的に残念そうな顔をした炎の魔人が瞬く。
「では勇者を育てるというのは本気では――。」
「本気だ。――本気でなければつまらぬからな」
少しの安堵に笑みをこぼしかけた炎の魔人の美しい顔が凍りつく。それを楽しく眺め魔王は、闇の中にほんのりと橙色が色付くような野営場所にちらっと視線を投げた。まるでそこで眠るそれが淡い光を放ってそこにいるかのような錯覚がある。
それを勇者に育てようというのは間違いなく本気だった。
「――だが」
魔王は嘲るような小さな笑いを噛み潰し、炎の魔人に視線を向けた。
「――可愛いペルム。お前に信じられるか? この私が、人間に――などと。如何に神の呪いとはいえ、信じられるか?」
問い、炎の魔人が戸惑うのを見て魔王は短く笑った。
――信じられるはずがない。魔王は不死身の生き物であるのだ。それを実感できるだけの生を魔王は生きてきたのだ。
多くの命が生まれ、死して朽ち大地に還っていくのを眺め、他の生き物なら死して当然のところを死することなく生き続けてきた。
魔王とは、死なぬゆえに絶対的強者で、多くの死に関わる存在なのだ。
その不死身の生き物である魔王にはもはや、死の方法も、自らの死の意識もなかった。生き物として例外なくいつか終わる、それさえも信じられなかった。
如何に『魔王が勇者によって殺される』とされようと、それが神によって定められた魔王の運命であろうと、それが実感をもって魔王の身に迫ることはただの一度も無かった。
ましてや、神の呪いと語られるそれも。
「私には信じられんな。この魔王が脆弱な人間に――などと」
「――では。先程のは――。」
傲慢に吐き捨てればペルムが当惑気味に云う。
魔王は炎の魔人が何を指しているのかを察して嘲笑った。
「先程? お前は何を見たというのだ、ペルム。この魔王が人間に尽くす姿か? それともこの私の心の内が見えたとでも? ――すべて演技にすぎぬ。人間を装うのも、身を挺してあの子どもを守るのも愛しむのも、すべてこのゲームを楽しむための、演技だ」
あの子どもを大切だと思い込むこと、勇者だと思い込むこと。すべてそれが一時の退屈凌ぎと知っての本気の演技である。真実に勇者が魔王を殺すというのならば――その神の呪いが真実にあるというのならば、死に見放されたこの生き物に真実に死を与えてみせるがいい、とさえ思いながらの。本気の、演技である。
「……演技。ですか。――このわたしにさえ見せたことの無いあの微笑みさえも演技と。」
「妬くな。作られた薄皮一枚の何を羨む」
なおも納得のいかない顔で疑いの目を向けてくる炎の魔人に魔王は苦笑し、その右顔に手を添えた。
見た目に反する冷たい肌の感触を楽しみ、囁く。
「可愛いペルム。お前は何も心配せず私に還されるその時まで黙って見ているがいい」
邪魔は許さない、と暗に仄めかして魔王は炎の魔人の赤いその右目に微笑みかけた。
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