第10話 宿命的な自分
ハクアの目の前で扉が閉められる。
十二歳の子どもは落胆に肩を落として、あからさまにトボトボと廊下を歩き出した。
師匠と慕う男がいなくなってから、ハクアはカンブリア宮廷騎士団の騎士たちを追い掛け回していた。
誰彼構わず手当たり次第に「剣を教えて」と頼み込み、決まって困惑した顔と、「今は忙しいから」や「明日な」など歯切れの悪い答えを返されていた。その騎士たちの態度からは、少年が慕う師匠に対しての遠慮と、その師匠が可愛がる少年を怪我させてはまずいという危惧がうかがえた。
勇者ジュラがカンブリアに向かって半月。
カンブリアの残党集団は場所を一度移動したが、前の移動間隔からいえば、手間取っているようだった。
無理もない。全体の三分の一が勇者ジュラとともにカンブリアに向かったため、移動経路の安全確認に割く人数も、屋敷の守りに割く人数も大幅に減っているのだ。事実、魔王につけられた見張りの数も三人だったのがわずか一人となっている。
剣を学びたがっている少年は廊下の半ばで深い溜息を吐いて、不意に足を止めた。
じっと、何もない壁のほうを眺め、緑の瞳に逡巡の色を浮かべている。
少年が見詰めている先、幾重もの壁を透し部屋を越えた先、喧騒を嫌った庭の片隅に魔王の体――トリアスがいる。
トリアス――魔王はハクアの戸惑いごとその視線を受け止めていた。
――そうだ。剣ならば私が教えてやる。私のもとへ来い。さあ、ハクア。
魔王の視線に気付くはずがないハクアの眉間にわずかに皺が寄る。壁を見つめるようだった視線が睨むような視線になって――。
「きゃあぁっ」
不可思議な悲鳴とともに、魔王は体の上に何かが落ちてきた衝撃を感じた。
痛みに意識が肉体に呼び戻されて、魔王は舌打ちし目を開けた。
腹の上に乗っていたのは、子どもだった。木陰でぼんやりしていたことを思えば推理しなくともそれが木の上から落ちてきたことが分かる。
栗毛色の髪を後頭部で纏め、町娘のような半端な膝丈のスカートに薄汚れたエプロンドレスという格好をした、緑の瞳の、十二歳くらいの人間の少女。
その少女に、魔王は見覚えがあった。
意思の強そうな大きな緑の目に反して、柳眉が下がる気の弱そうな眉。王宮の奥深くで蝶よ花よと大切に育てられたのだろう、線は細く、儚げな弱々しい庇護欲を掻き立てそうな見掛け。いわずと知れたカンブリアの姫である。
確か名はシルルだったろうか。肉眼でみれば尚、魔力の欠片もないその存在が鼻についた。
「姫っ?!」
遠くで見張りの騎士が小さな驚きの声を上げたのを、聴覚が拾う。
前後して、騎士が走り出そうとして踏みとどまる気配があった。少し様子を見ることにしたのだろう。
魔王は乱れた髪をかきあげて、下敷きにした相手の思わぬ美貌に魅入られていつまでも腹の上に乗っている少女を見下げた。
「退け」
「――あっ! はい、ごめんなさい……! ――あの……、ごめんなさい……」
冷めた一言に少女が我に返って慌てて立ち上がる。そして自分の状況を思い出したのか、ただ単に恥らっているのか、少女は魔王の視線を避けるように俯いた。
魔王は、スカートの裾をところどころ汚し足にも手にも多くの擦り傷を作っている姫らしくない姿の姫を無遠慮な視線で眺め、ある程度の見当をつける。
部屋の窓から枝伝いに逃げ出したのだろう。
――脱走か。
間引きされるべき存在が、自分を庇護する存在を見捨てて逃げ出すなど滑稽な。
魔王は、好きにすればいいと心中に吐き捨て、それが誰か気付かぬふりで門のある方角を顎で示した。
「迷い込んだのなら出口はあちらだ」
少女が驚いたように顔をあげて魔王を凝視する。騎士ならば必ず自分の正体に気付くと思ったのだろう。訝しむ目が向けられた。
「貴方は……? ――……あっ、その、屋敷の使用人の人にしてはこんなところにいらっしゃるから、――あ、その、ここには女の子しかいないと聞いていたので……」
曰く、この屋敷には貴族の女の子ひとりしかいないと聞いていたので貴方を無条件で使用人と思ったがそうは見えないので疑問に思った、と言いたいらしい。
自分が姫であることを前提に生じた疑問のせいで混乱をきたしているようである。
「私は魔物討伐人だ。その女の子とやらが魔族に狙われているようなので勝手に此処にいる。――カンブリアの姫だそうだ」
魔族のくだりで見るからに顔色を変えた少女が、最後の一言にびくりと震える。
混乱の所為か、ただの町娘に重大な秘密を洩らす相手の軽率さには違和すら感じていないようだ。
「……そう、なんですか。知りませんでした…」と、わざとらしい驚いた顔をする。
「――もっとも、その姫は此処にはいないらしいがな」
「え……?」
驚く姫に嘲りをもって魔王は素知らぬ顔で、騙されている魔物討伐人を続けた。
「王侯貴族とはそんなものだ。自分だけは常に安全なところにいる。その安全のためにどれだけの命が犠牲になっているとも知らないでな。高慢な存在だ」
「――! 違うわっ!!」
深い侮蔑をもって吐き捨てれば、町娘風シルル姫が小さな肩を震わせて強く否定した。
魔王が怪訝そうな視線を向ければ、少女がハッとして視線を地面に落とし彷徨わせる。
「ち、違うわ。――……シルル姫は、違う、と思うわ。噂をきくかぎりではそんな人じゃないと思うわ。……やさしい人だってきくもの。だからきっと……、きっと自分のために皆が命をかけて死んでいくのをつらく感じているわ……」
きゅっと唇をかみ締めて少女が自分を弁護する。それを魔王は嘲りをもって眺めていた。
つまりそれが、今その姫がここに居る理由だとでもいうのだろうか。馬鹿馬鹿しい。
「つらくて当然であろう。それが命の重みだ。それが死だ。生命が失われる嘆きと血が流れる穢れを負うのだ、つらくないはずがなかろう。――それは当然引き受けるべき痛みだ」
「――っでも! シルル姫はまだほんの十二才だわっ!」
少女が突然、険しさをもって魔王に噛み付く。
自分でもどうしてそう叫んだのか分からないという顔をして、少女は視線を彷徨わせると緑の目に涙を浮かべた。
「…………どうして当然なんていうの……? 大人にとっては当然でも子どもにとっては当然じゃないわ……! まだ十二才の子どもなの! なのにどうしてそんなつらい思いをしなければならないの?! どうしてつらいとさえ言っちゃいけないの?! まだ弱くて小さな女の子なの……! ……大きな使命も、多くの命も、重くて重くて……つぶれてしまうわ……っ! なのに、どうして当然だなんて言うの?! ――シルル姫はまだ十二才の女の子なの!! きれいに着飾っておいしいものを食べて毎日幸せに暮らしていたの! すてきな恋を夢見ていた女の子だったの……! まだ、まだまだ花のように大切に守られて、ただただ幸せに夢見ているはずだったの……!!」
その幸せを一瞬で壊したのが目の前にいる男だと、堰を切ったように涙を流し過呼吸になって訴える少女は知るよしもない。
「――……姫……」
深い嘆息の呟きが見張りの騎士から。
十二歳の少女の叫びは遠く離れた位置にいた配下の騎士の胸を打ったようで、哀れみの滲む嘆息だった。
自分たちが希望として掲げていたものが儚くも脆い十二歳の少女であったことを思い出したのだろう。
悲劇のシルル姫は騎士の憐れみを引くことに成功したようである。しかし、魔王は厭きれをもってその訴えを聞いていた。
「それがどうした」
冷淡な声にシルル姫の目が怯えたように震えて、縁から大粒の雫が落ちる。まるで憐憫を誘おうとでもしているかのように。
「同情しろとでも? カンブリアの姫として生まれたのだから仕方があるまい」
「……っ好きで生まれたわけじゃないわ! そんなの理不尽よ!!」
「理不尽、か」
呟き、言葉の愚かしさに笑いがこばれる。
「ならば死ねばいい」
此処にいるのは生まれたその時から『魔王』である生き物だった。生まれたその時から『魔王』という宿命を背負う存在である。理不尽さなどない。その前にすでに存在していた。
望むでもなく魔王として存在していたトリアスには、少女の訴えが甘えにしか感じられなかった。幼さを言い訳に自分を哀れみ、負うべき義務と自分という責任から言い逃れようとしているだけである。見苦しい。
「死ねばいい。そう生まれたそれが納得いかないのなら、死ね」
「っそん、な……っ」
魔王の冷たい言葉に、姫として大切にされ自分は当然同情されるべきだと思っていた少女は蒼白になった。唇からは血の気が失せて、呼吸は乱れ浅くなり、胸が苦しいのか抑える手は震えていて、涙だけが勢いをもって白い頬を流れていた。
魔王は少女のか細い首を走る頚動脈を皮膚の上から撫でてそれを意識させた。
「それ以外方法はあるまい? ――姫として生まれたことは覆しようのない事実なのだからな。ならばそれが負うべきものは負うしかあるまい」
もとよりそれはすでに存在に負わされている。それを受け入れないこと――それはもはや自身の存在そのものを否定することになる。――自分を否定して生きるなど。
「――永遠に苦しみ続けるだけだ。負わず、なおも生きるのならばな」
人間として生まれたこと、女として生まれたこと、城に生まれたこと、姫として生まれたこと。――誰もが宿命的な自分を負って生まれてくるのだ。
それらからは生きているかぎり逃れることはできない。それでも、それを受け入れないのならば、否定されたそうある自分が苦しみを訴えるだけである。――ちょうど、カンブリアの姫が十二才の夢見ていたい少女である自分を認めてもらえないのをつらいと感じていたように。
カンブリアの姫が瞬く。涙が長い睫毛に宿り、木漏れ日を弾く。
「来ます」
風にまぎれるような報告は、水の匂いとともに低い囁きとなって耳に届いた。
魔王は視線を転じた。
そこに、ハクアの姿があった。屋敷の壁を背景に、じっと魔王を見詰めている。
――ついに来たか。
魔王は自然と微笑み、少年のほうへと足を踏み出そうとした。その一歩をなんとかとどめて悠然と腕を組み、少年のほうから近づいてくるのを待つことにする。
その仕草を受けてハクアがためらいを見せたのがわかった。よぎったのは師匠と慕う男のことだろうか。
焦れそうになって早く来いと叫びたくなる咽を抑え、口元に不敵な笑みをなんとか浮かべる。
距離はなかなか縮まらなかった。
ふと、魔王を見詰めていた少年の視線が逸れる。それまで気付かなかった第三者の存在に気付いたのだろう。
「――……っシルル姫様……?!」
魔王が舌打ちする間もなく、少年の注意は完全にそちらに移っていた。
それまでの魔王との緊張状態も、
魔王は静かな怒りをもってシルル姫を振り返った。その魔王の視線を、シルル姫はどう勘違いしたのか、気まずそうに目を逸らすのだった。
瞬間、風を切る音が耳を掠める。
大気が危険を報せ、魔王は反射的にハクアと――そのハクアが走り寄っていたためついでに――シルル姫を抱えて飛び退いた。
驚く子ども二人を地面に押し倒して、自分たちが居た所に刺さった矢に声をなくしてさらに驚く子どもを抱え、素早く立ち上がり木の影に身を滑り込ませる。
先ほどの、来ますという空の獣の報告はどうやらオルドビスのことだったようである。
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