第9話 朝靄の中の対峙
辺りには朝靄が立ち込めていた。
まだ陽も上らない朝方、きまぐれに人間の世界を薄暗さと濃い靄が覆う。その靄の中に魔族や幻獣がまぎれては人間の街を我が物顔で闊歩し、朝靄とともに通り過ぎていくのを当の人間たちは知らない。靄の中に人影を見ても無条件でそれを人間だと確信し、その他の影を見ても浮浪する犬や何かと思い込む。
自分たちの生きる世界が多くの存在によって共有されていることに対するその鈍感さは、まさに国境という見えもしない線を大地に引いて不可侵を主張してみせる人間らしい。
朝靄の中、屋敷の裏口に人目を避けるように男ばかりが十数人ほど集まっていた。馬の手綱を引き、くすんだ甲冑を身につけ、隻腕の獅子こそいないがマントを纏った、みるからに騎士たちである。
朝靄にまぎれる魔族や幻獣のように、朝靄とともに人目を忍んで屋敷を離れ、街を後にしようというのだ。
「あとを頼む」
騎士たちの先頭に立つ勇者ジュラが、馬の手綱を渡してくる隣の男に言った。
応じるのは、勇者ジュラに手綱を手渡しつつ白い前歯を見せる三十半ばの、朽色の乱れた縮れ髪と無精髭という、まるで寝起きのような顔の男だ。
「ああ、任せておけ。姫は俺が無事カレドニア国王陛下のもとにお連れする」
頼もしく応える男は、髭はともかく髪を綺麗に纏めた姿を想像すれば、すぐにそれが常に勇者ジュラのすぐ後ろに従っていた騎士だと分かる。右腕だろうか。
体格のよい猛者で、頭の中の半分が筋肉でできていそうな、魔力とは無縁のタイプである。これが魔族なら矢面に立つのがせいぜいの役立たずだろう。
猛者が神妙な面持ちで勇者ジュラの胸を拳で軽く叩き、ささやく。
「いいか、先走るなよ、勇者ジュラ。カンブリアにはお前が必要なんだ。分かるな?」
「ああ、肝に銘じておく」
勇者ジュラは叩かれた胸を押さえ拳を握って頷いた。その答えに猛者が満足した笑顔とともに白い歯を見せる。
「くれぐれもそうしてくれよ。お前が魔王を倒すのをこの目で見届けるのが俺の夢なんだからな。だから、魔王が近くにいるからって変な気は起こしてくれるなよ?」
「ああ、分かっている。私が信用できないのか? デボン」
「ご立派な勇者様の正義感というやつに釘を刺してやってるだけだ」
寝起きのような汚らしい猛者デボンと勇者ジュラが親しげな抱擁を交し、勇者ジュラが馬に跨る。
同時に後方の騎士たちも馬に跨った。
「デボン、くれぐれもあの男のこと――」
「ああ、姫には近づけさせなければいいんだろう? ――だが、ジュラ。俺にはあの魔物討伐人がそれほど怪しい者には見えないんだが。魔物討伐人は
すでに魔王がカンブリアの残党のもとに身を寄せてから一カ月は経っている。魔族をあの手際の良さで倒せるならば、もっと短時間で楽に稼げるはずだ、と。
それに勇者ジュラが眉を顰めて前方を睨むように見据えた。前方の朝靄の中に、異形の姿を見てでもいるかのような、怪訝さをもって。
「――おかしいだろうか。あの男を見ていると血が騒ぐ気がするのだ。私の全身の血が怒りのように沸騰して、怯えのように凍りつく。――あれは、危険な存在だ」
「……、ジュラ、それは……、――いや、なんでもない。お前の勘は当たるんだったな。用心しておこう」
後方に控え、今かと出立の時を待つ騎士たちに視線を投げたデボンが言葉を濁した。
危うい言葉を避けてのものと分かるのは魔王も、寝起き男だけが知っているのだろうその事実にとうに気付いているからだ。
寝癖頭の猛者が自分の分厚い胸板の前に腕を掲げて、騎士たちを見送る。
馬上の男たちも誇らしげにそらせた胸前で右腕を掲げて応じ、馬を歩ませた。
すぐにその姿は、影をおぼろげに彷徨わせるだけの濃い靄の中に飲み込まれた。
馬の蹄の音を、遠くなっていた意識ではなく、肉体に直結している聴覚で捕らえて、瞼を開く。
前方の靄の中に今し方見送ったばかりのおぼろげな影を認めて、魔王は寄りかかっていた壁から背中を離した。
しばらくも待たないうちに靄の中の影は鮮明な輪郭を描き、やがて立体感を得て、勇者ジュラを先頭にした騎士たちの一団となって目の前に現われた。
それにあわせて魔王は壁際を離れ、開門された裏門の前に立ちはだかった。
魔王は無言の一睨みで騒がしい馬たちを威圧し鎮めた。臆病で聡い馬たちは、その乗り手たちとは違って目の前のそれが何かを鋭く悟り、頭を垂れて畏縮の態を表すようだ。
魔王は正面、おそらく乗り手たちの中で一番聡い人物を見据えていた。
「貴様っなぜ此処に!」
「聞きたいことがある」
他の男の声を無視して真っ直ぐに正面の男に問い掛ける。
色めき立つ騎士たちを手で制した厳めしい男の眉間の皺が増えて、応じる姿勢をうかがわせた。やはり聡い。
「ハクアにカンブリアの姫の身代わりをさせたのはお前か?」
魔王には確信があった。
「――あれは、あの子が申し出てくれたことだ」
一度、目を閉じて問いの真意をはかった男が慎重な口調で答えた。魔王は短い笑いとともに即座にそれを斬り捨てていた。
「言葉巧みにそう言い出すように導いたのだろう?」
「あれはあの子の意思だ」
「なんと言って誘った? あらかじめ姫と年恰好が似ているとでも仄めかしておいて、身代わりがいてくれれば、とでも神妙に呟いてみせたか?」
あからさまな侮辱に、一度は勇者ジュラに制された後方の騎士たちが色めき立つ。それを魔王は鋭い睨みで怯ませて、勇者ジュラに向き直った。
勇者ジュラの表情は依然変わらず、厳めしさを湛えた静かな面持ちだった。動揺の細波さえうかがわせない。
「――
尋問を退けた男が臆することなく見据えてくる。しばしその視線を正面に受けとめて、魔王はくっくっと喉で笑って体を横にずらした。
同時に馬たちに対して放っていた威圧感も和らげて、騎士たちに道を開けてやる。
馬に乗った騎士たちが横を通り過ぎていく。それがすべて後方になってから、魔王は嫌悪に顔を顰めた。
振り向くこともできないほどの憤慨が胸でのた打ち回り呼吸を止めさせる。
吐き捨てた言葉は低くくぐもっていた。
「――殺せ。生きてカレドニアの地は踏ませるな」
「御心のままに」
抑揚のない従順な声が即座に答え、短い命令とともにその怒りさえも引き受けて消える。
後には朝の静けさと、靄に漂う有象無象のざわめきをもつ生き物の気配だけが残っていた。
魔王にはカンブリアの勇者ジュラを再びこのカレドニアに、――友人にもカンブリアの姫にも、そして何よりハクアに、もう二度と会わせる気が無かった。
自然と口元に笑みが浮かぶ。ただ胸には過ぎ去った怒りのあとを埋めるようなほの暗い重みが鎮座していた。
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