第6話 育成の始まり
魔王は狭い部屋に押し込められていた。
寝台と、壁際にある机と椅子の一式がある以外は、窓もない部屋だった。
扉一つのその向こうには、見張りの気配が二つ。施錠はされていないが、牢屋よりも牢屋らしい。
魔王は何をするでもなく寝台に体を投げ出した。
埃が立って、わずかに顔を顰める。
「セッカイ、そこにいるな」
「はい。魔王様」
声を低めて虚空に呼びかければ、空気が湿気のような湿った匂いを帯びて揺らめく。
そこに半透明な人型が浮かび上がった。大気中の空気にまぎれて常に近くにいた魔族――空の獣である。他にも微弱な気配だけを残して幾人かの魔族が近くに控えている。
「誰かをカンブリア王城に向かわせろ」
「といいますと?」
「そこを魔王の拠点とする。これよりカンブリアは完全にこの魔王の支配下に置く。魔王の名のもと王城を占拠し、主要の都市には魔族を配置、すべての街に幻獣を送り込め。カンブリアから完全に人間を消し去れ。いいな」
「御心のままに」
空の獣がスッと音もなく消える。それとともに魔族たちの気配がいくつか遠ざかった。
――さあ、これでオルドビスにうつつを抜かしてはいられまい。
必要とあればオルドビスもこのカレドニアも滅ぼすつもりだった。人間の敵が唯一魔王であり、勇者の敵が唯一魔王になるまで。
人間同士の線引きごっこなどは魔王のいないところでやればよいのだ。
寝台に転がったまま時間は流れた。
ずいぶんと、それなりの時間が過ぎた頃だったろう。
魔王にしてみれば狭い部屋も広い魔王城も同じ退屈さが蔓延した空間だった。いや、今この瞬間が勇者を相手にしたゲームの中にあると思えば幾分もマシだった。
悪くない感覚だ。わずかに心躍っているのが分かる。
その名を聞いた時は思わず胸が弾んだ。
「どうしたんだ? ハクア」
魔王は寝台に投げ出していた体を反射的に起こしていた。
扉の向こうで声が聴こえる。
「食事を持ってきたんだ。入ってもいいかな?」
見張りに話しかけて許しを得たのか、前後して扉が開いた。
現われたのは言うまでもなく、深い藍色の短い髪をした緑の目の少年である。生意気そうな少しつり目の、十二歳くらいの、人間の子ども。現勇者候補。
少年はおずおずと入ってくると入り口のところで、食事ののったトレーをもったまま所在無さげに立ち尽くした。魔王は顎で机を示し、そこにトレーを置かせた。
「ハクア」
名を呼ぶと、魔王に背を向け机にトレーを置く少年がびくっと怯えたように肩を震わせた。
ゆっくりと振り返り、戸惑いの表情でじっと魔王を見詰める。
「あんた、強いんだろ……?」
「トリアスだ」
魔王は自分の名を告げた。
名も無い魔王という存在である自らに、いつだったか、まだ退屈していなかったはるか昔に自分でつけた名である。
誰もがそれと認識する唯一無二の魔王であった自らには必要のない、誰にも呼ばれなかった名前。
少年が戸惑いつつも、魔王をうかがいながら口にする。
「トリアス……」
その瞬間、魔王には不思議な感慨があった。
感動にも似た、喜びのようなものが胸を締める。名を呼ばれたその瞬間、魔王は確かに、古の魔王とは区別される違う存在としての自分を感じたのだ。
人間たちの間ではとうに伝説となった古に勇者によって殺された魔王。それらが呼ばれるはずもない名。今ここにいる自分だけが呼ばれた名。
そこには名のもつ音の響き以上に、すばらしい響きがあるように感じた。
胸が躍る。――悪くない。
魔王は自分で意識せずに自然と微笑みを少年に向けていた。
「ああ。私は強い」
見据えた先の少年がぼんやりと魅入られている様子に、魔王はそこでようやく自分が相手を魅了する表情を見せたことを知る。
少年ばかりか自分自身に対しても嘲るように口を歪ませると、少年がハッとしたように我に返り、気まずく目を逸らした。
「……魔物討伐人は、魔物退治のプロだって聞いた。魔族や、ドラゴンだって倒せるって」
「ああ。魔族ならば何百人とこの手で殺した。ドラゴンも殺したことがある」
「魔王は?」
魔王は倒せるのか、と。
目の前にしているのが魔王とは知らないとはいえ
魔王に魔王を殺せるのかと訊く。自殺はできないのだと言えば、答えになるだろうか。そんな愚考に魔王は嘲笑を噛んで、魔物討伐人として答える。
「魔王は勇者が殺せばいい。魔物討伐人の出る幕ではない」
「知ってる。師匠から聞いた。魔物討伐人は魔物を倒して生活してるから、実力があっても魔王を倒そうとはしないって」
「その通りだな」
魔物討伐人は基本的に勇者になろうとはしない。もし魔王が死んで魔物が居なくなるとすれば彼らの生業が成り立たなくなるからである。因果な職業だ。社会的に認知されないのはそれもあるからだろう。だからこそ魔王が人間を装うのに都合のよい職業なのだが。
「でも、強い……」
少年が呟く。先ほどから濃いためらいを感じさせるような様子に魔王は腕を組み、寝台に座ったまま悠然と足を組んだ。
安物の寝台が軋む音が響く。
「ああ、強い。お前が師匠と呼ぶあの男よりもな」
「――っっそんなこと……ッ! 師匠だって強い!」
突然の激昂はおそらく、少年自身がチラリとでもそう思っていたからだろう。図星を刺されての逆上である。
魔王には分かっていた。少年はそう思ったからこそ此処にきたのだ。
少年が此処にきてからずっと持っている濃いためらいや戸惑いはそのため。強さを求めてきたのだろう。
少年自ら、魔王の遊び相手を買って出ようとしているのだ。願ってもない。
魔王があざ笑うような目を向ければ、少年がますます激昂する。
「師匠は強いんだっ! いくつも街をすくったし、王様からもみとめられて、カンブリアの勇者って、勇者ジュラって呼ばれるくらい強いんだ!」
「勇者、か」
思わぬ単語に、魔王は軽く目を見開いて失笑した。
男たちの信頼を我が物にし、威圧感を発し他の者たちとは明らかに異なるある種の空気を纏う男。強者としてある程度の完成度をもっていた。まさに人間たちに勇者と呼ばれるに相応しい存在だろう。
――それを、師匠か。
目の前には、人間たちに勇者と称される男を師匠と慕う少年がいる。その偶然を魔王は殊更楽しく感じていた。
――勇者を育てようというのだ。ならば、どこまでも完璧な勇者を育ててみせよう。
魔王の死神として魔王にばかりでなく、唯一の希望として人間にも認められる勇者。世界の誰もが認める勇者。
人間にとっての勇者はおそらくあのようにあるべきなのだろう。あの厳めしい男はよい見本であった。
そして少年にとってもそうなっているはずである。少年が思い描く勇者はあの男に違いない。
魔王は面白くなってきた。――なんとしてもこれを逃がしたくない。
「ではなぜ、此処に――私のもとへ来た? なぜ私に強いかを問う」
「それは……」
少年が口ごもる。それをせせら笑って魔王は少年を魅せるように組んでいた足を優雅に解いた。
「お前は正しい。私ならばお前に、望むものを与えられる」
やさしい囁きで肯定し、わずかに身を乗り出して、少年の顔を覗き込んだ。そこに飾られた意思ある緑の玉を捕らえるように、見詰める。
もう誘惑の言葉は決まっていた。
その一言が少年の心理にどんな影響を及ぼすか、すべて分かっての言葉だった。
少年にとってこれ以上の誘惑はない。
「勇者に、なりたいのだろう?」
そう囁やいた瞬間の、少年の顔。
見開かれた目。
ゆれる緑の奥で深まる黒。
瞳の奥を射抜かれた少年が大きく瞬いて、喉を鳴らして唾を飲み下す。
そこに魔王は確かな手ごたえを感じていた。
言葉が少年を揺さぶったのだ。
少年の中にあったものを強く揺さぶり、そこに抗い難い誘惑を植えつけた。息が乱れている。
「――……っ勇者は、師匠だ……っ!」
上ずった声で、やっとそれだけを言うと少年が弾かれたように扉のほうへ逃げ出す。
その腕を魔王は掴んでいた。びくっと怯えたように驚いて振り向いた少年の、その緑の瞳の奥をまっすぐな黒い視線で射抜く。
「私は魔王を殺す方法を知っている。――あの男では絶対に魔王を殺せない」
大きく見開かれたその緑の目の中心にある黒い瞳孔の奥深くに、刻み付けるように、同じ黒をもって魔王は告げた。
純真な黒に何が映るよりも早く、じわりと涙の幕が垂れる。薄い水の膜一枚へだてて、そこにあからさまな反発をもった感情が滲んだ。
「――っっ師匠は強い!!」
「魔王はもっと強い」
間髪いれずに断言すれば、
すでに魔王は何度も、少年を打ちのめすような事実をつきつけている。それにひとつひとつ追い詰められていくような感覚を少年は味わっているはずだ。
逃れようとすれば、その行く手を奪うように閉ざされ、他の逃げ道も次々に塞がれていく。
忍び寄るような手は少年を裸同然にし、皮膚を剥ぎ取り肉を削いで、その奥、心臓か秘所に隠された心に触れてくる。その心ごと魂も肉体も、その髪の一筋さえ魔王には逃してやる気はなかった。
少年の細い腕を掴んだ手に自然と力がこもる。
「う……あ……」
ガタガタと震えて、もう自分さえも分からないような状態で少年が目を白黒させる。
今にも崩れ落ちてしまいそうな怯えようで、少年の瞳に幼さゆえの弱さが滲んだ。
強気の表情が崩れて、ぼろぼろと、見開かれたつり目から涙があふれ出て頬を流れ落ちていく。
――さあ、落ちろ。この私の手中に落ちてしまえ、ハクアよ。
陥落も近い、と感じたその時だった。
「――っやだ……っ」
少年が恐怖のままに魔王の手を逃れようと暴れだした。逃しはしないといっそう握り締める手に力を込める。
「――……っトリアス! 放せ……っ!」
少年が叫んだ。
その次の瞬間、少年の背が遠ざかる。
逃げるように扉を出て行く少年の後姿。
それを見送って、魔王はあっけに取られた気分で自分の手を見下ろしていた。
じっと、先ほどまで少年の細い腕を掴んでいた手を見詰める。
少年を逃がすつもりはなかった。後一押し、確実に落とせたはずだ。
――ああ、そうか。慣れぬ名で呼ばれたからか。
慣れぬことに驚いて、思わず手の力がゆるんだのだろう、と。
魔王はせせら笑い、飛び出していった少年の存在に驚いている見張り二人の騒がしい気配がする扉に視線を投げた。手を握り、寝台に倒れ伏す。
――まあいい。どうせはじまったばかりだ、気長に楽しめばいい。
ちらっと視界の端に映ったトレーの乗る机の上を眺め、魔王は笑みを深めた。
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