第1話 不死の退屈
フサルク大陸には魔王や勇者に関する多くの伝説、伝承があった。
しかしその多くは伝説であり、やはり伝承だった。『古の時代』で語られる、おとぎ話である。
語り手は時に面白おかしく、時に神妙に、物語を大げさに誇張して伝え幼い少年少女の胸を打った。
少年は勇者に憧れそこから勇気を学び、少女は魔王を恐れ平和の尊さを学んだ。だが、彼も彼女も暗黙の了解として魔王も勇者も作り話だと思いこんでいた。
なぜなら、最後に魔王の存在を史実として記録に残した書物はとうに滅亡した国の廃墟の中に没してしまっていたからだ。
誰もが、歴史を忘れた頃。
しかしそれは星が落ちるほどの唐突さで現れた。
始まりは、じわりと布に水が染み込むように。
人間の村や街に魔物が姿を見せるようになり、村や街が人知れず消えていった。ひっそりと染みた水はやがて大きな街を呑み込み、都市を呑み、国が失われた。
人々は怯え、そして確信した。
魔物たちはある一箇所から現れていたのだ。
フサルク大陸の中央にある森、世界で最も魔王の伝説と伝承が残るフェオ地方にある森、フェイヒューの森である。
人々はそこに古の邪悪なる王、魔王が居るのだと確信した。
フェイヒューの森。
その奥深くには、忘れ去られたような風情の黒い岸壁でできたような城がひっそりとたたずんでいた。
森の木々の根がはびこり、ちょっと見はただの大きな岩のようであったが、ところどころに人工的な加工のあとが見え隠れし、それが自然物でないことを教えた。
それを造りあげたのは人間ではない。獣の類でもなく、彼を王と掲げる魔族たちだ。
そこは古から存在しながらも人間には忘れ去られていた魔王の城であった。
「つまらんな」
男は吐き捨てた。黒い髪、黒い眸、黒いマントに黒い服といういでたちの男は壮麗な顔に手を当て、黒光りする石の玉座の肘掛に肘をついていた。いかにも退屈という態だ。
彼――魔王は退屈していた。
「前に魔竜が現れたのはいつだった?」
「五百年ほど前だったと聞いております」
どこにともなく投げた問いにすぐ間近から返事が返る。
水蒸気のようにその場に沸き出たのは半透明な人型だった。
獣じみた毛皮質の耳に長い尾をもち、しなやかな肢体と鋭そうな爪を持っている。獣より人に近い半獣種の魔族だ。全体的に青みを帯びていて、空の成分で作られたような印象がある。
魔王は彼――空の獣は雄の特徴を有している――に一瞥を投げただけで、さも興味なさそうに視線を虚空に漂わせた。すべてが退屈に満ちている。
「いや、六百七十五年前だ。我が永遠の宿敵、
「わたくしども魔王のしもべよりも、我らが同胞の宿敵、ドラゴンをお望みですか?」
「妬くな。私にしてみればどちらも同じ。いつかはこの手で
「さようで。ならばドラゴンの一匹でも捕まえさせましょう」
「易々と捕まるドラゴンを殺して何が楽しい。英知にたけ、大賢と称されるまでに生きたドラゴンだからこそ楽しいのだ。――よい、戯言と思い、捨ておけ」
主と仰ぐ王の慢性的な退屈さを気遣っての言葉にさえ退屈を覚え、魔王は手を払うようにして空の獣を下がらせた。
空色の彼は透明な毛皮の耳を垂れ、現れた時同様、水蒸気のように空気にまぎれるように消えた。
「魔王様!」
前後してまた別の魔族が現れる。魔王の座すその正面にある扉を押し開いての登場である。
燃えるような赤い髪に金と赤のオッドアイの、烈火を思わせる魔族だった。金環や黄金の飾りで全身を飾り――いや、それだけが彼女の纏うすべてだった。
尖った耳に金の爪に赤みの差した肌。比喩すれば炎の魔人か。
魔王のしもべの中では彼女が一番、魔王に近い姿をしていた。
炎の魔人は玉座の魔王を前に小さくなって跪くと手を懇願の形で組み、魔王を上目遣いで見上げる。
魔族は決まって――魔王ほどでなくとも――美しい生き物だった。
「魔王様。人間の国を滅ぼしたとか。」
「ああ、そのようだな」
他人事のように返し、魔王は一番美しい魔族に手を差し伸べ、無言で近くに来るように命じた。近づいてきた魔族の頬に触れその顔を覗き込む。
「お前は不服のようだな?」
金と赤のオッドアイが物怖じせず、まっすぐに見詰め返してくる。
金の奥にある黒い瞳孔のさらに奥。そこに魔王のお気に入りだという自負が見えるよう。
「死は好みません。
熾烈そうな見た目に反しての涼やかで
「そうであろうな。穢れは美しさを損なう。美しくあることに心を砕くお前たち魔族にとっては、死は厭うもの。死に穢れたこの私も厭うか?」
「美しい方。あなたは好きです。我が王。我が命。」
炎の魔人が悲しげな声で囁き、魔王の手に両手を添えて
「けれどどうして人間の国などに興味を。大地を我が物と線を引き奪い合う人間の真似事を。聡明なあなたのようではありません。」
「人間をすべて殺してしまえばお前の嫌う線引きごっこも終わろう」
「うそです。人間の殲滅をというのならもっと徹底的になさるはず。じわじわとまるで楽しむよう。」
口を尖らせて嘘をとがめる炎の魔人に、魔王はその手を振り解き、立ち上がった。
一歩踏み出すと、扉までの直線の脇にふわりと、全身に羽毛の生えた人型が姿を現し跪く。
さらに一歩。また違う魔族が床から生えるように現れる。
魔王は一番のお気に入りの魔族に語りかけた。
「ペルム、私は退屈しているのだよ。退屈で退屈で退屈すぎて、死にそうなのだよ。私はこの生に心底辟易しているのだ」
この退屈から解放されるというのならばこの命さえ投げ出しても構わないほどに、と振り返り流し目を送れば、目の縁に赤いラインの紋様が走るオッドアイが痛ましげに伏せられた。
シャラリ、と細身の体にまとった金の飾りが悲しげに鳴って、炎の魔人のような魔族――ペルムがかしずく。
「わたしにあなたの退屈を慰められたら。どんなによいでしょう。」
「望みを持つな。お前では無理だ」
「……嗚呼。やはり。あなたは勇者を待っているのですね……っ。」
背中に悲痛な投げかけ。
魔王は振り返らずに、ただ口元に笑みを刻めた。
こみ上げるような笑いが喉の奥。それが通りやすいように魔王は喉をそらせて、天井を仰いだ。しかし口から吐き出されたのは笑いではなく歌うような言葉だった。
「神の呪いがさだめる魔王を殺す勇者か。――なんでもいい。この退屈ささえなくなるというのならな」
それが死を与えるものであっても、その終わりに死があったとしても。
永遠に続く退屈さに比べれば死など恐れるものにはならなかった。むしろ、退屈の終わりという甘美ささえ魔王は感じている。
恐れはしない。死も神も勇者も。
望みさえする。死も神も勇者も。この退屈さに神経を焼かれていくくらいならば――。
だから魔王は人間を襲いだしたのだった。人間を襲い、かつて人間のうちに現れたという勇者の存在の再来を期待したのだ。
いや、願った。勇者との遊びは絶対に退屈しないという確信がある。そう胸のざわめきが教えている。
勇者は魔王に用意された最後の遊び相手だ。
勇者と遊ぶ条件はただひとつ。――命を懸けること。
魔王は不意に笑った。
「――なんと神の巧みなことか。永遠の命に退屈さを蔓延させて、神はまんまと、不死身の生き物であるこの魔王を、勇者という死神が待つゲームへと誘い込むのだな」
巧妙な、とあざ笑って天井を睨み、いっそう笑みを深めた。
もうゲームははじまっている。
先に仕掛けたのは魔王のほうだった。誰とも知れぬ勇者ではなく神を相手取り、この魔王が人間を殲滅するのが先か、神が勇者を魔王の元に送り込むのが先か、と。
退屈しのぎも兼ね一つ二つ小国を滅ぼしたが簡単すぎ、あまりの退屈さに難易度を求めてフサルク大陸一の強大国と呼ばれ、最も強固といわれていた王城を陥落させた。わずか三年間の出来事だった。
しかし、いまだに勇者は現れるどころかその気配さえない。
先ほどの炎の魔人の進言にしても、その間、一度として退屈さが晴れなかった魔王を見るに見かねてのものだったろう。魔王の退屈さによって死に赴く人間を哀れに思ってか。いまだに勇者を魔王の元に送らない神の慈悲を凌ぐ慈悲である。
ふと魔王の頭にひとつの考えがひらめく。
この退屈さを終わらせるために勇者が必要ならば、自ら用立てればいいのだ。
「……なるほど。それも面白い、か」
それを考えると胸が締め付けられるような震えが起こる。
バクバクと心臓が全身に音を送って、それが潤滑油となって退屈さに錆び付いていたあらゆるところに流れ込む。
いまにも駆け出しそうな心は、それだけで退屈さを振り払えそうである。
「――決めたぞ」
決意は深い響きとなって魔王の口に上った。
「私は勇者をこの手で育てる」
魔王は、気付けば二十数の多種多様な魔族がかしずいているそこに向かって、笑みを深めて言い放った。
その場に、気配だけを漂わせて静かに集っていた魔族たちがその気配さえ殺すような、静寂が降り立つ。
四十数の様々な色の目が魔王に向けられていた。
それに浮かぶ心情の色も様々だ。
「……っいけません。」
色とりどりの感情が潜む静寂を破ったのは瑞々しい声だった。同時に、背後からマントと腕の裾にしがみついてくるものがある。赤みを帯びた細身が、シャラシャラと音を立ててすがりついていた。
集団の中からも誰のものとも知れぬ声があがる。
「貴方様は我らをお見捨てになるのですか……?!」
その一言は、にわかにざわめきはじめていたその場を元の静寂に突き落とした。
静まり返る誰もが、すがるような目を向けてきている。
「我は従います」
不意に集団の中からあがった声が沈黙を切り裂く。
最前に立つ筋肉質で、兎のような灰色の毛皮の長い耳をした魔族だった。
ペルムのように左右で色の違う、赤と紺色のオッドアイをしている。顔や体に目の色と同じ紺色の文様が走り、頭髪に当たる部分と背中の体毛が繋がっていてその先に小さな丸まった尾がある。比喩すれば兎の怪人だ。
兎の怪人が目の前にまで歩み出て、かしずく。
「どうせ永くはない身。この命はとうに貴方様に捧げております。――我は従います」
「魔王様がそうお決めとあらば、否はございません」
真横からも声があがる。空の獣だ。蜃気楼のように現れ、その場にかしずく。
「御心のままに」
さらに数名の声があがる。
魔王のしもべとして忠義心を見せるそれらの魔族にそれぞれ笑みを向けて魔王は、いまだ戸惑いをみせる多数集団のそこに視線を投げた。
「好きにするがいい。だが、その忠義には必ずや報いよう」
宣言すると、さらに数名が戸惑いを振り切って名乗りをあげた。それでも半数は複雑そうな顔で互いに目を見合わせ、戸惑いの視線を交し合う。
それらに用はなかった。
魔王は服従を強制する気はまったくなかった。そもそもこの場にいる魔族のすべてが彼ら個人の意思で魔王のしもべとなることを選びここにいるのだ。
来る者を拒む気も、去る者を追う気もない。それは、いかにお気に入りのペルムに対してもそうだった。
「魔王様……。わたしは。」
「かわいいペルム。穢れを恐れたとて誰も責めはしない」
責める気はない、と。だからさっさとその手を放せ、と。
尚もすがりつくように袖を握り締めるペルムに告げた。
赤い爪をもつ指が震えて、ゆっくりと開かれる。
魔王は、この場を離れがたい意思のある者を残し、玉座に背を向け城の外へと向かう。
その背後には十数の魔族が従っていた。
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