2016年のごく短い小説

浅黄幻影

「ラストオーダー」


 赤毛の髪を両方の肩で結び、エプロン姿で素っ気なく立つ彼女は、営業スマイルの仮面を付けていた、けれど、それでも隠せないくらいにどこか不機嫌な雰囲気をしていた。その表情は、この手の居酒屋でよくあるのだが、たばこの煙やアルコールの息に包まれたウェイトレスたちの深いな心持ちと地下のホールを走り回るためのものだった。

 ホールには回転率を上げるために固いスツールがおかれていて、客が長居することを拒んでいた。けれど、私は彼女を見たときから気になってしまい、長いことずっと眺めていた。

 彼女は私の視線に気づいた。だが笑顔で手を振ったりはしなかった。酔っぱらい相手の面倒事はたくさんだという様子で、厨房に一度入って、しかしすぐにホールに戻れと言われたのだろう、出てきた。けれど誰かが私を追い出すこともなかった。私はときどき、ハウスワインをおかわりしていたが、ついに最後の客になりそうだったときに、ラストオーダーを聞かれた。私は彼女に言った。

「次の休みはいつ? どこかで会えないかな」

 彼女はさっきまでの不機嫌な態度ではなく、むしろ不意をつかれた様子で私の顔を見つめた。そして目をそらしてもじもじしながら、もう一度ラストオーダーの件を口にした。

「じゃあ、また明日来るよ。ラストオーダーはなしだ」



 翌日から毎晩、私はその居酒屋へ向かった。そしてしつこく、彼女にハウスワインを注文した。彼女は最初は困った様子をして見せたけれど、次第に気を許してくれるようになった。おかわりを注ぐ量が少し増えていた。

 四日目になると、また来たという微妙な笑いで迎えてくれた。それに私は心からの笑顔を返した。

 店は毎日やっていたけれど、彼女も毎日いた。客足は平日は寂れることもあった。しかし最低でも一人、私だけはいた。厨房では、料理の注文をほとんどしない私を睨む腕の太い主人が、新聞を広げて暇をしていた。こういう日は、私は彼女と話をすることができた。

「また聞くけど、休みはとれないの?

 ──言いにくいんだけど、私しかここのホールはいないの。労働法なんてどこの話だか。

 ──今日みたいな日は休みにしておいても損はなかったのに。僕一人だ。(誰かが咳払いをした)

 ──悪い人ね。でも、オーナーは絶対だから。あちらの」

 私はワインのおかわりをもらいながら、これから書き込まれる伝票の上に前もって連絡先と愛の言葉を書いたカードをおいた。私が本気だというために、最後の証明書として書いたものだった。

 私の詩的な文句によい返事がもらえればと思った。自分の鼓動が久々に高鳴っているのがわかった。──彼女はなんと言うだろう?

 しかし彼女がそのカードを見た数秒で、答えが残念なものだと察するに十分だった。それでも彼女は、出会った頃の不満そうな居酒屋のウエイトレス顔ではなく、親しくなった顔で言ってはくれたけれど、ごめんなさいと返事をした。

「もうすぐ結婚するの。もしもっとずっと昔に会っていたら、違った結果になっていたかもしれないけれど……」

 私はあきらめて、彼女にラストオーダーと言った。けれど私は、彼女に別れを告げるラストオーダーなんて本当は頼みたくはなかった。

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