優等生

karo

[40代男性無職の場合]


 娘が死んでから、六年が経った。

 交通事故だった。もうすぐ小学校を卒業し、中学に進学するという希望に満ちた桜並木で、娘は鉄のかたまりにぶつかり、あっけなくバラバラになった。

 もともと愛情が薄まっていた夫婦関係は娘の死をきっかけに破綻し、妻は俺の前から姿を消した。残ったのは定年まで払い続けなければならない愛の巣代と、きれいに片付いたままうっすらと埃を重ねるばかりの娘の部屋と、一気に増えた白髪だけだった。

 家族や同僚は気を遣って言外ににおわすだけだが、この六年で俺は相当老け込んだ。毎朝、洗面台の前に立つと知らない爺さんがいる。肌は浅黒く垂れ下がり、髪は萎れ、目は黒く濁っている。

 誰だよ、こいつは。


***


 「本当に、いいのか?」

 「えぇ、もう思い残すことはありませんし」

 投げやりに辞表を提出してから二カ月。惰性で引継ぎを済ませ、今日が最後の出勤日だった。

 上司は何か声をかけなければと思案したようだが、結局適当な言葉が見つからなかったのか、

 「まぁ…がんばれよ」

 と会話を締めた。

 長年通ったフロアを歩いていると、一時は俺に羨望を向けてくれていた部下たちの、哀れみの表情があった。今や、どう接していいのかわからない存在がいなくなって清々したという気配すら感じる。さすがにそれは被害妄想がすぎるだろうか。


 娘が死に、妻と別れた後も俺は仕事に打ち込み続けた。それ以外何をすればいいのかもうわからなくなっていた。同僚は心配して何度も休むよう忠告してくれたが一切を無視した。そうして六年の月日が経ち、ついに体にガタがきた。

 ある日会社で冗談みたいな血を吐いた。女性社員の悲鳴が遠くに聞こえ、そのまま意識を失った。救急搬送された病院で、医師から休職を指示された。特別な病気というわけでもないらしく、適切な投薬を続ければ復職も難しくないとのことだったが、一度立ち止まると、もう二度と動けなくなってしまった。


 二十年以上勤めた会社を後にし、街へ出る。結婚をしても、子どもが生まれても、ずっと働きづめだった。平日の昼間から時間を持て余したところで、どう暇を潰せばいいのか分からない。

 会社の最寄り駅から自宅のある千葉県柏市には電車で一本だが、どうもこのまま帰宅するには気が重すぎた。

 これから俺はどうなるんだろう。

 状況だけ鑑みるとお先真っ暗としか言いようがない。しかし、そんな希望のない未来予想もどこか他人事のような気がしていた。


 営業マンが携帯片手に謝りながら早足で歩く街を抜け、高級ブランドが立ち並ぶ気取った街も通り過ぎると、ふと募金を呼びかける声が耳に入ってきた。

 どうやら大学生らしい若者たちが必死に声を張り上げている。そしてその前を何人もの社会人が素知らぬ顔で通り過ぎて行く。

 今までに何度も見たことがある光景のはずなのに、なぜか急に引き留められた。

 大学生らの曇りなき眼に心を打たれたのか、これまで無難に生きてきた人生に罪の意識を感じてしまったのか、はたまた女子大生の一人が可愛らしかったからなのか、あろうことか気が付くと、財布から千円札を取り出し、男子学生の抱える手作りの募金箱に入れていた。

 「あ、ありがとうございます」

 自ら頼んでいるのにも関わらず、こんな詳細不明の箱に金を入れるなんて正気かと疑うような戸惑いを見せつつ、大学生たちは一層大きな声で礼を述べた。

 「いや、いいよ。あの、がんばって」

 「はい、ありがとうございます」

 健康的に日焼けした凛々しい顔立ちの青年が改めて勢いよく頭を下げた。持っていた募金箱に額をぶつけたのも気にしていない様子だった。

 恥ずかしいような申し訳ないような、居心地の悪い気持ちになり、俺は足早にその場を離れた。

 その後も日が暮れるまで所在なく歩いてみたが、未来に明るい光など一向に差してはこなかった。


 そういえば、あれはなんの募金だったのだろうか。

 帰宅し、三本目の缶ビールを開けながらそんなことを考えた。

 料理が苦手ということはなかったはずだが、離婚してからというもの家事が手に付かず、夕食はいつものコンビニで済ませた。

 部屋には衣類が溢れかえり、ゴミも随分長い間放置している。寝室と子供部屋と小さな書斎のある2階には、しばらく上がってすらいない。最近はリビングのソファで酒を飲み、気が付くと朝を迎えている。


 金の行方などどうでもいい。当面の生活費は失業保険で賄えるし、前妻が計画的に貯蓄をしてくれたおかげで、通帳には思っていたよりも一桁は多い残高があった。離婚調停の際、慰謝料を要求されることもなかった。加害者家族から受け取った賠償金は八割を妻に、二割は俺が受け取った。さすがにその金を使うほど落ちたくはないが。


 しかし、あの大学生たちのことは一度気になり始めると止まらなくなった。なぜあんなくそ暑い中、自分以外の誰かのために金にもならない労力を払うのか。彼らは何を考え、何を感じているのか。あの輝きはもう二度と、俺には取り返せないのだろうか。

 ついにはまた明日も見に行ってみようと思い至ってしまった。まぁ、どうせやることもない。

 それに、もし娘が生きていたらあの子たちと同じくらいの年齢だ。


***


 次の日も、またその次の日も、缶ビールを片手に大学生たちを眺めた。

 募金の内容は、世界の貧しい国の子どもたちに教育の機会をどうとか、何度も説明は聞いたのだが、その実よくわからなかった。というより、俺にとって重要なのはそこではなかった。

 なにより、彼らの若々しい姿を見て、声を聞いていると、救われる思いになった。

 特に、先日初めて彼らを見かけた際、一番に目に留まった可愛らしい女子大生と、募金箱に頭をぶつけて尚、礼を述べた男子学生は、眩しくて見とれてしまうほどだった。

 彼らは交代制らしく、顔ぶれは随時変わっていたのだが、その二人だけは三日間とも、雑踏に募金を呼びかけ続けていた。

 正義感が強く、溌剌としていた娘のことだから、大学に進学していたらこんな風に社会貢献活動に励んでいたかもしれない。

 

 ただ、当たり前ではあるが、彼らは明らかに俺を訝しんでいた。俺が熱烈な視線を送る一方で、数日前には俺に尊敬の眼差しをくれていた彼も、三日目にははっきりと侮蔑の態度を示していた。

 そろそろ警察を呼ばれてしまうかもと考えていた翌日、大学生たちはついにいつもの場所に現れなかった。期間が終了したからなのかも知れないし、不審者がいたため場所を変えたのかも知れない。


 なににせよ、家族も仕事も失い、失意のどん底である中年男性に、たった三日間だけでも光を見させてくれたことには、いくらでも支払わせてもらいたかった。

 さぁ明日からはどう過ごそうか。状況にそぐわない、妙に清々しい気分でいると、

 「ねぇ、おじさん」

 最初は自分にかけられた言葉とは思わなかった。

 「ねぇってば」

 そこには、昨日まで穴が開くほど眺めていた女子大生の顔が、俺を覗き込んでいて、ぎょっとした。

 「おじさん、昨日までずっと私たちのこと見てたでしょ」

 やばい。直感した。

 俺は家庭や仕事を失った上に、人間としての尊厳まで失うかもしれない。なんせ無精ひげを生やした汚らしい男が、うら若き青少年たちを長時間眺めていたのでは、なんらかの罪に問われてもおかしくない。逃げようか、なんと言い返すべきか、とっさに逡巡していると、

 「どうして?なんで私たちのこと見てたの?」

 「き、君は…君たちは、どうして街頭募金なんかしているの?」

 質問を質問で返していた。ほとんど条件反射で、俺はこのいたいけな女の子に、完全に狼狽していた。

 「んー、人それぞれだと思うけど、私はなんとなく、かなぁ」

 彼女は、俺が質問に答えないことなど全く意に介さない様子であっさりと答えた。


 肩に触れるか触れないかくらいの明るい茶髪は、まさにどこにでもいる女子大生といった風で、大きな瞳をくりくりと右斜めに向け、人差し指を顎にあてた。

 「私、大学で初めて東京にでてきたんだー。それで、なんかやることないかなぁって思って、そしたらなんとなく有意義そうなことがあったから、それで」

 「どうして、俺に声をかけたの…?」

 会社で部下の指導に当たっていたとはいえ、これほど年の離れた新入社員はいなかった。どう接していいのかわからず、はやくこの場を立ち去りたいと思うのに、また質問を口にしてしまっていた。

 「えー、だからさっき言ったじゃん。おじさん、なんで私たちのこと見てたのかなーって、気になっちゃって」

 彼女はにこにこと笑いかけてくる。この子はもう少し警戒心というものを持った方がいいのではないかと、こちらが心配してしまうほどだ。

 「それで、もしかしたら今日も来てるのかなーと思って見に来たら、ほんとにいるんだもん。声かけちゃった」

 びっくりさせちゃってごめんなさい、そうして彼女はいたずらっぽく笑う。子どもと言うには大人びていて、大人と言うにはあどけない。

 小学六年でこの世を去った娘の姿とつい重ねてしまうが、かといって目の前の女性はもう子ども扱いをしていい年齢でもないだろう。

 「その、君たちの様子を長時間窺って、不審に思わせてしまったのはすまなかった。深い意味はないんだ。今後も、その、見に行くようなつもりは一切ないから、気にせず募金、続けてくれ。じゃ、じゃあ、おじさんは予定があるから、失礼するよ」

 一息に言い切ると、すぐさま背を向け、無い予定に急ぎ足で向かった。

 別に、おじさん来てくれてもいいのにー。間延びした声が聞こえた気がしたが、やっと動き出した歩を止めようとは思わなかった。


***


 退社後、数カ月は荒れた生活をしていたものの、しばらくすると一転し、失業中とは思えないほど穏やかな毎日を過ごした。

 最初は手持ち無沙汰が過ぎ、なんとなく、学生時代に授業をサボってまで熱中したテレビゲームを何十年かぶりに引っ張り出してきたことから始まった。

 結婚してからはゲームなど触ったこともなかった。前妻はゲームを嫌っていた。はっきりと禁止されたことがあるわけではないが、ピリピリとした空気を傍で醸し出されると、そのうちコントローラーを取り出すのも億劫になった。

 しかし、久しぶりにプレイした一昔前のFPSは、数時間も触っていると、すぐにかつての感覚を取り返すことができた。


 そして、ゲームに飽きたら今度は家の周りを散歩し、道中気になった飲食店にふらっと入る。

 結婚し、千葉に越してきてからは、毎食、妻の手料理を食べていた。彼女は外食が嫌いだった。栄養バランスが気になるからと、遠出する際にも必ず早起きをして弁当をこしらえた。

 しかし、自宅付近においしい定食屋を見つけ、トンカツに箸をつけていると、ふと独身時代はこうして、隠れた名店を探すことが趣味のひとつであったことを思い出した。


 半年が経つ頃には、すっかり家を片し、自炊を再開し、元の生活を取り戻していた。

 なぜ、愛する家族や、楽しかった仕事を失ってもなお、こんなふうに平気でいられるのか。自分を嫌悪したくなる夜もあった。しかし同時に、緩やかな自分だけの生活は、長年抑えつけていた自己を取り戻していくような感覚もあり、困惑した。


 もうひとつ、困惑と復帰の理由がある。

 それがあの女子大生、カナとの出会いだ。


 もう姿を見に来ることは一切ないと宣言したにもかかわらず、俺は彼女に声をかけられた数週間後、また同じ場所を再訪していた。

 最初は家でいるのが息苦しく、悲しいことに、会社員であったときと同じ時間に起き、同じ時間に家を出て、同じ満員電車に揺られることが、自らに平静を与えてくれると気が付いたことがきっかけであった。

 ただし、もちろん出社するわけにもいかないので、ふらふらと徘徊をし、そして毎度同じ場所にたどり着く。それを何度か繰り返しているうちに、またあの募金活動を目撃してしまったのだ。


 まずい、そう察したときにはもう目が合っていた。

 口を「あ」の形に開き、彼女はこちらに駆け寄ろうとした。

 しかし、それをあの端整な顔立ちの彼が腕を掴んで引き留めた。「やめとけよ、危ないだろ」そう言っているように見えた。

 彼が説得してくれているうちにその場を離れればよかったのに、自分でも信じがたいことに俺は、彼女の姿を再び捉えられたことに、若干の高揚を覚えていた。


 呆然としている間に、男子学生と話をつけたらしい彼女が手を挙げながら近寄ってきた。

 「おじさーん、ひさしぶり」

 彼女は以前よりも少し日焼けたように見えた。といっても、たった数週間ぶりなのだが。

 「あ、あぁ。君はまた、国際支援?すごいね」

 「すごくなんかないよ、私たちはただ声かけてるだけだし」

 一瞬、表情が曇って見えた。彼女たちは彼女たちで、何かしらの無力感や、やるせなさと戦っているのかもしれない。

 だがすぐに口角を引き上げると、

 「おじさんは?何してたの」

 と首をかしげ尋ねてくる。

 「えーっと、散歩かな、はは」

 本当のことを話せるわけもなく、適当に誤魔化したつもりだったが、なにせ人と話すのが久々であったために、愛想笑いもぎこちなくなってしまった。


 そんな怪しい返事の仕方を大して気にする様子もなく、というか興味なさそうに、

 「ふうん。あ、そうだ。はい、これ」

 彼女は脇に抱えていたチラシを一枚差し出した。

 「私たちの活動日と場所。おじさん、すごく興味持ってくれてるみたいだったから。あ、毎回お金いれてほしいなんて思ってないよ。興味持ってもらえるだけでも嬉しいし、よろしくお願いします」

 最後は今更改まったふうに上目遣いをして見せた。

 「あ、あぁ、ありがとう。受け取っておくよ」

 彼女がなぜここまでこんな風体の中年に構うのか不思議でならない。悪い気はしないが、新手の詐欺か何かだったらどうしたものか。


 俺が勘ぐっていると、彼女はうーんと俺の顔を見上げて短く呻った後、

 「あと、これ」

 なにか思いついたように、ズボンのポケットから小さな紙片を取り出して寄越した。

 「私の名刺。なにかあったら、連絡してきてもいいよ」

 近頃の学生は自分の名刺を持っているのか。唖然としていると、悪いことには使わないでよと笑って、じゃあと軽やかに持ち場へ戻っていった。

 平田佳奈。

 白い名刺カードに青い明朝体でそう記されていた。所属はまずまず有名で偏差値の高い私立大学の名前が載っており、こんなものを配ってしまって本当に問題がないのか、心配でならなかった。

 もし俺が親なら、叱って即刻やめさせただろう。


***


 俺の人生は、いつだって平均点。及第点。それ以上でもそれ以下でもない。

 そこそこに学び、そこそこに遊び、そこそこに働いて、それなりの女性と結婚した。

 友人から紹介してもらった彼女は、もうすぐ三十になるからとトントン拍子に物事を進め、互いの両親に急かされたこともあり、交際期間たった数ヶ月でゴールインした。

 それでも、彼女はそれなりに美しかったし、元来めんどうくさがりな俺は勢いよく決断していく彼女のことが嫌いではなかった。


 何十年ものローンを組む契約書に判子を捺したときには手に汗を握った。しかし、小さいながらも、できあがった自分の家を目の前にしたときは興奮した。その日は、婚姻届を提出した夜よりも、結婚式の夜よりも、ハネムーン先でよりも熱くまぐわった。


 それからの一年は俺の人生で最も輝かしい日々だった。

 当たり障りのない程度にしか力を入れていなかった仕事に初めて懸命になれた。大学を卒業して適当に入社を決めた会社だったが、自分の家という大きな買い物はそれほど俺に熱を与えた。

 そして、不思議なもので、やる気になると急に仕事が楽しくなってきた。仕事が楽しいなんて妄言をこの俺が言うようになるとは全くの予想外だ。

 また、楽しいという感覚は、急に契約を呼び込むようになった。上司は、

 「最近調子いいねぇ」

 と大きな仕事を振ってくれるようになったし、

 「やっぱ結婚ってすげーんだなぁ」

 と同期は囃し立てた。

 「そんなんじゃないよ」

 笑い返しながらもまんざらではなかった。

 そうして、会社の一年分の売り上げにも筆頭するほどの大型契約を勝ち取り、部下や上司に囲まれたときには、思わず大きく喜びを声に出してしまった。


 マイホームの購入だけでなく、やはり仕事に活力を与えるのに結婚は大きかった。

 一番は妻の後方支援だ。疲れて帰ってきても温かい飯がある。ワイシャツは風呂場に放っておくと次の日には真っ白に伸びたものがハンガーにかかっている。家事からの解放は仕事に没頭できる大きなチャンスだった。


 大学に入学してから十年弱、一人暮らしをしていた俺は、自分で自分の生活の面倒を一通り見れてしまうので、これまでは彼女と同棲をしても、家事を一任するということがなかった。

 しかし、妻は結婚を機に仕事を辞め、そうすべきなのだと強く主張し、家事に専念してくれた。

 女性は結婚したら家庭に入るべきだ、なんて考えはさらさらなかったのだが、妻がそうしたいと言うなら、俺に彼女の意志を覆すほどの異論はなかった。

 なんにせよ妻と出会ったことで俺は、結婚をした男女は、男が家計を支え、妻が家事を担う。それが当たり前であり、その規範から外れることは大きな過ちのようにも感じるようになっていった。


 ただ、仕事がうまくいくようになると、今度は家庭に不穏がやってきた。

 妻は結婚前からエネルギッシュな女性であった。結婚当初に食後、俺が皿を洗っていると、彼女はとんでもない悪行を発見したかのように怒った。

 「家事は私がするからあなたは手を出さないで」

 当時は、なんでも完璧にしたがる彼女らしいと思った。以降、俺が料理や、掃除や、洗濯を担うことは一切なくなった。彼女の仕事には文句の付けようもなかったし、俺は元々あまり細かいことを気にしない性分であった。


 しかし、そのうち彼女は暇を持て余すようになった。昼間時間があるのならパートや習い事でも始めたらどうだと提案したこともあるが、彼女は頑として受け入れなかった。

 「女は家にいるものなの」

 彼女は、何かそうしなければならないと思い込んでいる風にも見えた。


 なにより結婚後、彼女は急に積極的になった。

 「ねぇ、今日は…しないの?」

 結婚したらそうするものだとお互いが思い込んでいた節もあり、就寝は毎夜共にしていた。しかし、毎日かけられるその言葉に、俺はなにか責められているような気がした。

 「あぁ、でも、その、仕事でつかれてるから…」

 「そう…」

 そのうち帰宅するとおかえりより先に身に覚えの無い浮気を問い詰められたり、果てにはEDだと罵られた。


 妻の怒りが何によるものなのか皆目見当がつかない折、母からの電話で理由を悟った。

 「もう結婚して一年も経つんだし、そろそろほら、子どもとか、ねぇ?」

 全く想定していなかったわけでもないが、そんなに急ぐこととは知らなかった。

 そして、なんというか我ながら純朴すぎるのだが、子どもというのは授かりものだと思っていた。命とは、愛する者同士が恋慕の果てに授かるもの。

 そのうちにとは思っていたが、無理にセックスをして作るものとは思いたくなかった。

 それでは、製品のようではないか。

 

 「ねぇ、今日は…」

 それでも妻や親がそうだというのなら、それが普通だというのなら、逆らうほどの理由も持っていなかった。


 今思えば、妻の考えを全て受け入れていたのは、優しさなどでは決してなく、ただそれほどの関心を持っていなかっただけなのだと思う。そして、その無関心が家庭を崩壊させることになった。

 その日は順序良く、ごく一般的に妻を喘がせることができた。

 終わった後、こんなふうにして生を受けた子どもが、果たして幸せになれるのだろうかと少し不安だった。


 それからは綿密な計画を基に体を重ねた。

 妻は目覚めるとまず枕元に置いてある体温計で数値を測り、ノートに記した。カレンダーには毎月末頃に赤い丸印が書き込まれ、隠れて自慰をすると叱られた。俺の射精する日は徹底的に管理された。

 しかし、妻は身ごもらなかった。

 「なんでよ、なんで…こんなに赤ちゃんがほしいのに…あんたのせいよ」

 妻が夕食の皿を片していた途中で、机を叩いて怒鳴った。あのとき、どんな会話をして妻はそんな言葉を口にしたのか、今ではもう思い出せない。


 やがて、夫婦で産婦人科に通い始めた。妻は世間体を気にしていたようだが、それでも結婚をして、子どもを産むというレールから外れることのほうが、彼女にとってはよほど恐ろしいことだったらしい。

 彼女が何にそこまで執着しているのか、慰めてやる言葉を、当時の俺は持っていなかった。そして今でもわからない。


 ついに、子どもは愛情のある行為の果てに授かるものではなく、病院の白い部屋でアダルトビデオを観ながら作業的に排出した精子を、試験管の中で作業的に受精させ、生産するものとなった。


 それでも、不妊治療に成功した彼女の喜びようは俺の心を多少安堵させた。

 再びエネルギーを取り戻した彼女はベビー用品を買ってまわり、子育て本を読み漁った。

 帰宅して言いがかりをつけられることも、就寝前に静かな怒りをぶつけられることもなくなり、家庭は平穏を取り戻したように思えた。


 大型契約のおかげで、仕事は以前より格段に忙しくなり、平日の帰りが日をまたぐことも増えた。しかし妻はそんな仕事ばかりの俺を全く責めなかった。妊娠をしても家事を怠ることはしなかったし、むしろ手伝おうとすると、

 「いいの、これは私のやることだから」

 と拒否した。

 仕事は好調だった。それに妻は子どもができて毎日充実しているようだった。子どものためと言って胎教だかなんだかをいろいろと試し、家事はそつなくこなし、本当によい妻であり、よい母だと周囲は褒め称えた。

 ただ、いつの間にかはち切れんばかりになっていた妻のお腹を見て、あんなふうに工場から出荷されるかのごとく生を受けた命を、俺は本当に正しく愛せるのか急に恐ろしくなっていた。

 

 しかし、想像よりも遙かに出産は感動的だった。俺はいらぬ心配をしていたのだと思った。

 お産を終え、額に汗を浮かべた妻に

 「ありがとう」

 と声をかけると、彼女はやわらかく笑った。久方ぶりに妻を愛おしいと思えた。


 娘は本当に愛らしかった。

 妊娠中には何もできなかったけれど、これからは俺も仕事だけでなく、ちゃんと家族サービスも頑張ろうと心に決めた。


 しかし、妻がそれを許さなかった。

 産後の不調から立ち直ると、彼女は詳細に決め尽くされた自分ルールでの家事と子育てを再開した。俺の割り込む隙など一切なかった。

 妻の目を盗み、赤ん坊を抱きあげようとした時などには、

 「触らないで」

 と怒鳴られた。

 娘は耳をつんざくような声で泣き、俺にはもうどうしていいのか分からなかった。


 家庭を避け、再び仕事一辺倒の日々が始まった。

 とはいっても、その間たった一ヶ月ほどであったので、特に心境に変化はなかった。


 そうして一年が経ち、二年が経ち、娘は小学校に入学する歳になった。その頃にはもう娘のことは宇宙人にしか思えず、一言だって会話を交わしたことがなかった。

 それは娘にとっても同じだったらしく、娘が俺のことを父親として認識していたのかすらも怪しい。


 「あの子、私立の小学校に入学させることにしたから」

 ある日、日付が変わる間際に帰宅し、机の上に用意された夕食を口にしていると、妻がおもむろに起き出してきて俺に告げた。

 「は?なんだよ、急に、私立って…」

 「いいから、もう私が決めたの」

 「お前、ちょっとは俺にも相談くらい…」

 「なに言ってるの。あなたは黙って仕事だけしてくれればいいの。どうせそれ以外、何にもできないんだから」

 吐き捨てられた言葉に、その時やっと、妻が俺のことをどういうつもりで利用してきて、これからどう利用しようとしているのかがはっきりと分かった。遅すぎるくらいだ。兆候はもっとずっと前からあったじゃないか。


 「おい、ちょっとそれ、どういうことだよ」

 今まで一度も家では出したことがないような怒号が漏れた。時間帯のことなど頭にはなかった。

 「俺をさんざんコケにしやがっててめぇ」

 ダイニングテーブルから立ち上がり、パジャマ姿の妻に迫った。

 彼女は今まで俺に見せたことがない、恐怖を滲ませた表情で一歩一歩俺から距離を取った。


 「やめろ!」

 声のした方向を見下ろすと、妻の胸倉を掴んだ腕の下には、半泣き顔の娘の姿があった。

 「お前、お母さんになにかしたら、許さないから」

 「香菜!」

 俺は娘にとって、強盗か何かに見えたのだろうか。

 すぐさま妻がしゃがんで娘を庇うように抱きしめても、彼女が俺から視線を外すことはなかった。小さくて丸い瞳で俺のことを睨みつけ、歯を食いしばり、怒りを露わにしていた。


 娘の表情は、父親に向けるそれでは、なかった。


***


 >どうしてカナは、俺に連絡をしてくれるの?

 ≫なんだろうなぁ。なんとなく、つらい思いをしてそうな気がして。

 >なんだかカナと話していると、立場が逆転している気がするよ。

 ≫そんなことないよー。私も助けられてること、たくさんあるよ。


 カナと知り合ってから、半年以上が過ぎた。

 持ち帰ったチラシと名刺は、しばらく放置していた。放置すべきだと、頭のどこかで警鐘が鳴っていた。

 二回り近くも年の離れた大学生に、何うつつを抜かしているんだと何度も自分を叱咤した。しかしその度に、違う、これはそういうのではなくて、そう、なんだか娘が生きているように思えて、つい姿を重ねてしまっているだけなんだ。これは性欲ではなく、愛情なんだと擁護する自分もいた。

 

 結局、連絡先を手に入れてから数日も経たないうちにメッセージを送った。

 最初は、あまりこういうのは危ないから止した方がいいと大人ぶっていた。返信も一日に一通送るかどうかだった。

 しかし、だんだんと言葉を交わすうちに、俺は彼女からの通知を待ちわびるようになっていった。


 >カナはいろいろと熱心だし、友達も多そうだし、すぐに彼氏とか作るんだろうなぁ。

 ≫そんなことないよ。全然モテないし。

 >そんなこと言って、この間もあの男の子と仲良さそうにしてたじゃないか。俺、たまに見に行ってるんだよ。

 ≫えー、来てたなら声かけてくれたらいいのに。

 >だって、俺は一生懸命頑張ってるカナを見るのが好きなんだ。でも、さすがの俺でも、俺に返信くれないのに、あの子と親しくしているのを見せつけられるのは、ちょっと怒るかも。


 >カナ、今日はどんな一日だった?最近連絡がなくてさみしい。また手が空いたときにでも返信ください。


 >カナ最近どうしてる?おれはついこの間、家の近くにおいしい定食屋を見つけて足繁く通っています。カナは今頃どうしてるのかなぁ。

 ≫ごめんなさい、最近ちょっとバタバタしてて…。

 >そうなんだ、大丈夫だよ。カナ、がんばってるもんね。そうだ、今度ごはんをごちそうするからうちにおいでよ。おれ、こう見えて料理得意なんだよ。


 >カナ、この間の話覚えてる?おれ、楽しみで材料買って来ちゃったんだ。今度の土曜とかどうかな?予定空けてくれないと、おれ大学まで会いに行っちゃうかも。


***


 久しぶりに二人で会ったカナは、ポンチョ型のコートに、赤いタイトスカートで、髪も初めて会ったときよりも伸び、色は暗い焦げ茶色に落ち着いていた。

 「ひさしぶり、元気だった?」

 この日のために借りて来たレンタカーを、指定された最寄り駅に停め、愛らしいカナを迎え入れた。

 俺のために今日はオシャレをして来てくれたのかと思うと、すぐにでも抱きしめたい気持ちに駆られたが、びっくりさせてしまうと悪いので、頭を撫でるだけに留めた。

 「ご、ごめんね、こんなところまで」

 「いいのいいの、俺も楽しみにしてたんだから。今日もカナはかわいいね」

 カナは俯きがちに照れ笑いをしたようだった。


 「スーパー寄っていい?お酒買って帰ろうよ」

 「え、だめだよ。私ほら、未成年だし」

 「そんなこと言って、大学の飲み会とかでは飲みまくってんでしょ」

 妻は酒も嫌ったが、彼女が俺に隠れて昼間から飲酒をしていたのは知っていた。

 俺だって弱いわけじゃあない。カナが酒を飲めないはずがなかった。


 「好きなの選んでいいよ、全部奢るから」

 酒コーナーを前にしても一向に彼女は選ぼうとしない。大きくて丸い目をしぱたたいて、こちらの様子を窺ったり、あれでもないこれでもないと忙しなく瞳を動かした。

 仕方がないので俺はカナに似合いそうな甘いお酒を数本カゴに入れて、カナの手を引き、急くようにレジを済ませた。彼女のいじらしい姿を見ていると、もう早く家に帰りたくて堪らなかった。


 車内や、食卓では、カナの大学の話や、募金活動の話、趣味の話など本当にいろんな話をした。他愛もない会話だが、俺にとってはどれもが大切で、こんなことならボイスレコーダーを用意しておけばよかったと心底後悔した。

 話しているうちに緊張が解けてきたらしく、彼女はいつもの調子を取り戻していた。

 ころころと笑う声が可愛らしく、耳に心地よかった。


 「ほら、飲んで飲んで、おかわりもあるよ」

 「そんなに飲めないよー」

 彼女は俺に勧められるがまま一本二本と缶チューハイを空け、頬を赤く染めていた。


 俺は向かい合っていた席を立ち、カナの隣に座った。

 カナは少し肩を震わせたけれど、俺が頭を撫で、腰に手を添えると、すぐとろけた表情になって俺に体重を預けた。

 「あれ?なん、だろ…なんか、ねむた…」

 うまく呂律も回らないようで、

 「カナは、ほんとしょうがないなぁ」

 俺は彼女のふっくらした柔らかい体躯を持ち上げ、二階にある彼女の部屋まで移動させる。

 

 眠りについた娘の、天使のような寝顔を見つめながら、

「本当に、いい子に育ったね。カナは俺の言うことなら、なんでも聞くもんな」

そうして、桃色の頬にキスをした。


***

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優等生 karo @ykmlkn

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