第2話
テレビを見て夕暮れを感じた後、祖母は食欲が無くても簡単に食べれる素麺を出してくれた。刻んだミョウガが鼻を優しく刺激する。椎茸と昆布の香ばしい汁の匂いがした。
「食べれなかったから、無理しなくても良いからね」
「いや、食べるよ。ありがとう…」
誰かと2人で食卓を囲んのは久しぶりであった。祖母も少し恥ずかしそうな顔を見せた。久しぶりの孫との食事は二人っきりと言うものの、シュウの幼少期と重ねて見ると自然と頬が緩んでしまったのだろう。
薄く刻んだミョウガと素麺をつゆに浸して口に入れた瞬間、ミョウガの香りが口の中を漂わせた。シャキシャキとした食感と素麺のつるりとした喉越しがシュウの頬も緩ませる。
「美味しい…」
「そうかい、良かったねぇ」
良かったね…そう…良かったのだ。即席のではない甘く柔らかな風味のつゆがより一層美味しさを際立たせる。飲み込んだ後もミョウガの匂いが口の中を包んだ。シュウはいつも食べる量よりも少しだけ多く食べて手を合わせた。祖母は安心したような顔でホッと息を吐いて見せたので、シュウそれを見て照れ臭そうに笑う。表には出さなかったが、随分と心配して居たのだろう。久しぶりに会った孫の窶れた顔は去年会った時よりも随分と痩せて顔のクマが目立っていた。そこらの普通の男性とは比べ物にならない程不健康男児に見えとてもショックを受けたがそれを口にはしなかった。祖母はシュウの笑った顔が見たかったのだ。
この町は夜も夏の暑さをあまり感じさせない。まるで肌を刺すような冷たい風が坂を駆け巡るようだった。辺りはもう薄暗くなってきた。だが町を色付ける小さな雪洞がオレンジ色にいくつも光って道を照らすのは幻想的で、シュウが住んでいる街と比べると雰囲気はまるで違う様を見せた。
祖母は八時を過ぎた頃には就寝すると言ったのでシュウも風呂に入り、自分の部屋に戻った。こじんまりとした小さな家ではあるが、いつもと違う家の雰囲気を感じるのは大人ながらにして何だか少し怖い。自分と祖母以外に誰かが屋根裏なんかに住んで居たらきっと恐怖で震え上がってしまうだろう。そんな事を考えながらも、シュウは部屋の窓から町並みの灯りが並ぶ様を見つめていた。
気になったのは今日会った透子と黒鉄の家の明かりは付いて居らず、こちら側から透子達の家の様子は伺えない。祖母と同じように寝るのは早い人達なのだろうか。明日も会えるだろうか。
シュウはいつもより早く就寝した。
寝るのが早いと眼が覚めるのも早かった。いつもなら締め切った遮光カーテンが日光を遮っていつも真っ暗な朝を迎えていたが、朝7時にあたたかい日差しを感じて目が覚めた。なんて気持ちの良い目覚めだろうか。まだ少し空気が冷えていて、窓からは車通りが見える。これから会社へ出勤する人達なのだろう。これが日常の、この町の普通の光景なのだろう。
「あら、シュウ、朝は早いのねぇ」
祖母は新聞を広げたまま言った。
「いや…たまたまなんだけど…」
「そう、あ、そうだ。おばあちゃんは今日は老人会の集まりがあるからお昼は一緒に食べてあげられないのよ。ごめんねぇ」
「いや、良いって。大丈夫、なんかてきとうに食べるから。行ってきなよ」
そう言うと祖母はまたはにかんだ笑顔で朝ご飯あるから食べなさい、と言ってまた新聞に目を通した。これが祖母の日課なのだろう。シュウはさっきの言い方は少し変だったか?
変な感じだなぁ。などと思いながら上手く噛み合わない自分のセリフを頭の中で復唱させた。
朝ご飯は白米と味噌汁とシャケと玉子焼き。健全な日本人の朝ご飯だ。シュウはお茶碗に軽くご飯をよそって静かに口を付けた。銀シャリのように米の粒が甘みを感じさせて、シャケの塩気が米を欲情させた。うまい。誰かが作るご飯は美味しい。祖母の家に来て正解だったかもしれない。ご飯が美味しいと思ったのは久しぶりだ。
ご飯を美味しそうに食べるシュウを見て祖母は微笑んだ。美味しそうな顔をしながら考え事をしている時は邪魔してはいけなかったかしら、そう思いながらまた新聞に目線を戻した。
祖母が老人会に出掛けるのを見送ってからシュウは縁側に腰を掛けた。日陰で休む黒鉄がそれに気付いて足を伸ばしてトテトテとこちらまで歩いて来た。
「お前わざわざ来たのか、可愛いやつだな」
シュウは黒鉄が自分に懐いてる様子をみてすっかり上機嫌になった。昨日みたいに冷たい視線を送る事はなく、身体を撫でてやると嬉しそうに顔をシュウの足に擦り付けた。
「くすぐったいなぁ…」
「おやおや、今日のご飯は魚ですか、ずるいですねぇ」
「え…?」
シュウは身体を硬直させ、黒鉄を撫でる手を止めた。聞き間違いではなく、今まさに自分の手に触れていた黒鉄から声がしたのだ。硬直しているシュウ同様に黒鉄もまた尻尾を高く垂直に伸ばし、こちらを向いていた瞳は大きく眼光を開かせ身体を硬直させた。
「喋った……」
「いえ、今のは魚の匂いにうっかりという奴でして…え、あの……」
シュウが身体を後ずさり、黒鉄から距離を取ると同時に黒鉄は変わらぬ表情で口をパクパクと動かした。
「めっちゃ喋ってるし!!!!!え、こわっ!!」
腹話術などではなく、黒鉄と言う猫が……猫から声がしている。ニャァと言っていた声が人間の言葉を話しているのだ。とてもじゃないが驚きを隠せない。
「そんな驚かないでくだにゃい!」
それから黒鉄は二本足で立ち上がり、尻餅をつくような格好のシュウの前に立ち塞がった。
「ヒィッ!」
自分なりに情け無い声が出たな、とは思ったが正直猫が人間の言葉を喋るのは予想と違い気持ちの悪いものであった。
そんな慌ただしいやり取りをしているのを感じて、透子は向かいから気だるそうな顔をして近付いて来た。昨日と同様にTシャツに短パンという自分と対して変わらぬラフな格好だった。
「あーあ、うっかりにも程があるぞ黒鉄」
「シュウさんから、魚のっ、魚の匂いが!」
透子に首根っこを捕まれ手足をバタバタさせた。そのままドスンッと縁側に腰を下ろした透子は真っ直ぐにシュウを見詰める。シュウは透子の眼差しから逃げるように視線を泳がせた。それから短パンからスラリと伸びた太ももの白さが目に焼きつく。
「信じるか?猫が喋っているの」
「信じるも何も絶対これ喋ってますって!!」
透子の瞳が真っ直ぐこちらを捕らえて居たが、シュウがそう言うなり透子は大きな溜息を落胆するように吐き出した。
「んまぁそういう事だ。黒鉄は喋れるんだ」
「……で、透子さんは何者なんですか?」
喋る猫を飼っている位なのだから、貴方もですか?なんとでも言うようにシュウは笑った。こんな信じ難い事実を目の当たりにして今は受けとめ切れないものはないだろう。
「ふふっ……私はただこの町の番人をしているだけ女さ」
透子の銀色の髪の毛が風に揺れる。
「番人?」
「この町の異質を掃除するだけの守り番だ」
透子の顔がグッと近くに寄ってシュウを押し倒した。頭が床にぶつかると視界が暗転して透子の瞳に見下ろされる。
「町に新しい人間が来たら悪い物を持ち込まないかちゃんと調べるし、悪いことするやつはちゃんと排除する。それが私の仕事なんだよ」
透子はそう言うとシュウから顔を離し二ヘラッとまた下手な笑顔で笑った。
自分も検査されているのだろうか。この町に来た新しい人間を、危ないやつかどうか見極めて居たのだろうか。しかしながらこの町にやってきた自分は攻撃する気力もない、体力もない、ただの不健康男児である。
「黒鉄が喋るのは内緒の事だから、誰かに言ったりしないでくれ。変な研究所に連れて行かれたりすると大変だからな」
「分かりました」
確かに喋る猫なんて他に居ないだろうから、きっと研修材料として連れて行かれてしまうだろうな。
「シュウさん〜私にもお魚を恵んではくれませんか〜」
黒鉄が二本足で歩いてシュウの膝に寄り掛かると前脚をグリグリと押し込んだ。
「わっ、いや、魚は祖母が出してくれたもので……もうないんだよ」
黒鉄がさっきまで猫らしい猫の素振りを見せて居たのに、喋れる事が分かると途端に人間のような振る舞いをするのがなんとも気持ち悪く感じた。
黒鉄は眉間をキュッと真ん中に寄せて悲しい顔して見せた。
「お前は食べる事ばっかりよのぅ……黒鉄」
「透子様はぁ!いつも自分が食べたいものばかり食べてぇ!さかなは!さかな!」
黒鉄は頭をグリグリと透子に押し付ける。自分が朝ご飯にシャケを食べた事がここまで黒鉄に駄々をこねさせる結果になるとは思わなかったが。
「シュウのせいだぞ」
透子が艶やかな目でこちらを見た。
「ええっ!?お、俺のせいですか?」
「お前が魚を食べたせいで黒鉄がこの有り様さ」
透子が指差した先には畳に寝そべって猫らしか姿で呆然と天井を見上げる黒鉄の姿があった。力尽きたのか。
「シュウ、お前外には出れるのか?」
「まぁ……多分」
「ならばお前にお使いを頼みたいのだが」
「おつかい……ですか」
おつかいなんて頼まれるのは何年ぶりだろう。この暑さの中を歩くのか…嫌だなぁとは思ったが、この町に来てほとんど歩いて居ないのは少し勿体無いのかもしれない。運動するのにもいい機会だろう。
「何を?」
それを聞いた透子は待ってましたと言わんばかりの顔をして立ち上がった。
「ちょっと待っておれ」
そう言って透子はまた向かいの自分の縁側から家の中に入っていった。
「うぅん、今日のお昼はおサカナですかねぇ〜」
天井を見上げたまま身体を大っぴらげに広げて黒鉄が喋る。その口でどうやって声を発しているのだろう。
「君がそうやって駄々を捏ねたから、きっと魚なんだろう」
シュウが呆れた顔でそう言うと、黒鉄はこちらに顔を向けてグフフと薄気味悪い顔と声で笑った。
「シュウさんのおかげですな……」
黒鉄はニンマリと言うのが正しいか、猫らしかぬ表情をきゅっと凝縮させる。
透子は自分の部屋に入ると、奥の襖を開いて座布団に腰を下ろす。部屋の障子には格子柄の模様が描かれ、龍が彫られた欄間があった。時間の流れをゆっくり感じさせるように出来たこの部屋は魔力が籠りやすく、透子の能力が浸透し易いように作られていた。机の上には何枚もの習字に魅せられた紙が乱雑に散りばめられ、大小様々の筆が並び、墨が凝り固まったすずりが目に付く。透子の性格が良く分かる部屋の有り様だ。
すずりに墨汁を溜めた後、透子は自分の親指に犬歯を立て噛みちぎった。切れた皮膚からゆっくりと赤い血が滲み、数滴すずりに垂らす。墨の黒に血がとぷりと浮き上がり次第に混ざり合う。それを筆に絡め、長方形に成型された和紙に筆を滑らせる。和紙に滲む濃黒が淡い閃光を放つ。
呪詛のような文字を滑らせた後に筆を上げて息を吹きかける。瞬間、書かれた文字は硬直し和紙に張り付くように固まった。
まじないを作ったのである。
「久しぶりだが、悪くないな…」
透子は自分の作った札の出来に感心するや否、置いてあったがま口の財布にそれを折り曲げて入れ込んだ。
向かいに戻りシュウにがま口財布を渡す。
「お金はこれに入っているから使ってくれ」
「あ、ありがとうございます。で、一体何を買って来たら良いんでしょうか?」
シュウは靴下を履いてサンダルから運動靴に履き替えた。久しぶりに歩くのだから足にフィットした物の方が良いだろう。
「まぁ駅前の魚屋で干物でも……」
「干物」
やっぱり魚である。
「それと、もう一つ。駅から少し歩いた場所に神社があってな……そこに居る奴にコレを渡してくれ」
そう言って透子が短パンのポケットから取り出したのはピンクの布地に包まれた小さなお守りだった。
「お守り」
「そう、お守り。これを渡すだけで良い。道案内は黒鉄に任せるから頼んだぞ」
透子がシュウの頭に優しい手付きで触れる。何だか変な感じがした。この歳になって誰かにこうやって触れられる事は無かっただろう。夏の暑さのせいではない、シュウは自分の頬が熱くなるのを隠すように下を向いた。
「じゃあ、行ってきます……」
シュウがそう言うと黒鉄は長い尻尾をおっ立てて背筋を伸ばし、大きな口を上けて欠伸を放つと太陽の下に降り立った。
「よろしく頼んだぞ〜」
透子はそう言ってシュウ達を見送った後、また自分の家の縁側に腰掛けて夏の太陽が溶け込むこの町を見つめていた。
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