夏色の神様ノスタルジィ

てば@

第1話

1


コンクリートが焼ける臭いと密集した街並みを横目に蒼シュウ(あおい しゅう)は大きな溜息を吐き出し、歪んだ顔で呟いた。


「あーあ……何でこうなったかな」


「しょうがないだろう?過ぎた事だよ」


大きな排気音を響かせて車を運転する姉、蒼南(あおい みなみ)か頷く。一カ月分の荷物を詰め込んで二人はコンクリートの街並みを抜けようとしていた。


「……何もないだろ。あの場所は」


梅雨が明けて夏が来る。

大学を出て会社に就職し、プログラマーとして働き始めたシュウが突然意識を失うように倒れ、目覚めた時には病院のベッドで点滴を打ち込まれていたのがつい先月の事。


お腹が空けばてきとうなジャンクフードやお菓子をお腹に詰め込んでいたかと思えば、数日間何も食べずに過ごす。そういった事を何度も繰り返す内に胃や腸は働く事を忘れ、シュウに食べた物をかき混ぜるように吐かせた。栄養を吸収する事も出来ず、疲れ果てたシュウは朝起きる事さえ億劫になる程、無気力に世界を見据えるようになってしまった。


南が気付いた時には時すでに遅くシュウのやつれ具合にはほどほど言葉も出なかったが、陽の当たる場所へシュウを出さなければならないと思った。

きっとまたアパートに戻しても同じ事の繰り返しになるだろう。両親は仕事が忙しく不摂生な生活になる事は避けられないだろうし、自身もまた仕事がある。


祖母の家に連れて行こうと言ったのは南だった。田舎の良い空気で心も安らぐだろうし、美味しい物もたくさんある。事情を聞いた祖母はちゃんとしたご飯をいつも出してくれる事を約束してくれたので安心してシュウを預ける事が出来た。



大きな山は濃い緑に色付いて、影は濃く、日差しはガンガンと照り付ける。

都心から離れた場所にあるこの世界は田舎とは言えども小さな町並みが広がっている。石畳みに木造りに並ぶ町々は隙間なく積み重ねられているように感じた。情緒あふれる小さな町並みである。

まるで風を流すように坂道が多く作られている。町から見下ろせば大きな川を跨いで田んぼが所狭しと並んでいた。青々とした田んぼが風に揺らぐ。


「はい、着いたー」


南が車のエンジンを切ると辺りに静けさがズンッと広がった。


シュウは車のトランクから自分の荷物が入った大きなバッグを降ろして玄関の前に置く。


「あらあら、シュウちゃん。よく来たね」


「ばーちゃん」


祖母が出迎えるとシュウはおぼつかない変な顔で笑った。


「あー!ばーちゃん、これから一カ月シュウ宜しくね〜」


「良いのよ、気にしないで。ささ、あがって」


シュウが久しぶりに会う祖母に緊張していない様子を見て南は安心した。そして痩せたシュウの容姿を心配する言葉が出なかった事にも南はホッと息を吐いた。シュウの体重は10㎏近く減り、普通の女の子よりも痩せて窶れた姿を見て祖母に不安を感じさせたくなかった。いや、祖母の事だから追い討ちをかける真似はしたくなかったのだろう。安堵も出来ないようでは意味が無い。祖母は和かな顔でシュウを家の中に入れた。


「エアコン付けてないんだ」

「シュウが住んでる場所より、ここは気温が低いからね」

「へぇ…」


シュウは畳の床に荷物を置いて窓際に座った。畳に足を付けたのは何年ぶりだろうか。ほんのりとした藺草の匂いを感じてシュウは息をゆっくりと吐いた。自分の家ではクーラーを付けないで夏は過ごせない。冷風で冷え切った身体を布団で包んで携帯ゲームを延々と戦う日常こそが至福であったが、祖母の家に流れるゆっくりとした時間をただ感じている方が気持ちが良いと思った。


二階の八畳の一室をシュウの部屋として貸してくれた。小さな部屋には畳と小さな机、布団が畳んである。押し入れを開けたが空っぽだった。


「良い眺め。充分すぎるね」


「はぁ…」


南は窓から見える町並みに目を輝かせた。見える景色が違うと新鮮味も大きいものだ。シュウは長時間助手席に乗って凝り固まった身体を動かして布団を倒れた。ふかふかで和らい布団は家のとはまるで違う。干したての良い匂いもする。


「そんな痩せてるからいつも疲れてるんだ。ちゃんとここで休養して、ばーちゃんにはあんま迷惑かけんなよ」


「分かってるよ」


流動食から普通のご飯が食べれるようになってもなかなか食欲は戻らないままだった。不貞腐れるようなシュウの姿を見てまだまだ子供だなぁとは思ったが口にするのはやめた。


「私はたまにはここに顔だすけど、今日はもう大学に戻るからね」


「え!?もう帰んの?」


「私も忙しいのよ。やらなきゃいけない事たくさんあるし、ここからまた寮に帰るのにも時間掛かるんだからゆっくりしてられないのよ」


「そっか…」


少し不安気な顔をしたシュウの足を蹴って南はケタケタ笑った。


「何かあったら携帯に連絡して。ねーちゃん帰るからね」


「うん」


シュウは南の後ろ姿を寝たまま見送って天井を見上げた。


一階から祖母と南が話す声が聞こえ、次第にエンジンの音が遠のいていった。寮に帰って行ったのだろう。しかし、この田舎町は静かで車も人もあまり通らない。


坂を上る途中でも人はほとんど歩いて居なかったが、夏休みでも子供達の声が響く事はなかった。

窓から町を見下ろしても太陽が照り付くからだろうか、歩く人の姿は無い。夏休みのこの時期に子供の声が響かない静かな町。穏やかで、静かで、少しだけ寂しい。


ふと石畳みに映る影からひょっこりと小さな黒がのそのそと動いているのが見えた。猫だ。猫は向かいの家の影で毛繕いをするように身体をぐっと伸ばしたりしてから、地面に腰を落ち着かせた。真っ黒な黒猫である。

悠々自適な生活を送る猫には少し羨ましところがあるなと思いながらシュウは部屋を出て階段を降りた。


「シュウ、しばらくはここを自分の家だと思ってゆっくりしてね。冷蔵庫も好きに使って良いからね」


「うん、ばーちゃんありがとう」


いつもなら部屋に籠って携帯ゲームに没頭しているだろう。それをさせない位に風が冷たく気持ち良かった。


畳に寝転んで縁側に目線を泳がす。二階で見た黒猫が丁度視界に収まった。セミが鳴くこの真夏に黒猫。日陰で休んで居るのだろうが、随分と視線を感じる。こちらを真っ直ぐに見つめる黄色い瞳。何かを見据えるような眼差しが鋭くシュウに噛み付く。まるでこちらを凝視しているようだ。


「何なんだ…」


思わずそう呟く位に鋭い眼光を感じさせる。この町に来た新しい人間の様子でもわざわざ伺いに来たのだろうか。猫の生態には詳しくはないが、普通であれば大して興味を持たれる事も無いはず。何故こんなにもずっと自分を見ているのか。


シュウは身体を起こし、縁側にあったサンダルを履いてそっと近付こうとした。その間も黒猫はシュウから目線を外さず、ジッと視線を配らせる。


「チッチッ…」


動物は嫌いじゃない。しかし生まれたこの方動物は飼った事はなかった。欲しいと思ったのは幼少期のみで、今となれば動物の命を自分の手に納める事が怖くなったのだ。自分ではない、命という責任を自分が握るのはどうしようもない恐怖に感じた。好きだった祖父が亡くなった時も心の中に空いた穴がしばらく塞がらず、心がずっとドキドキしているように感じた。穴から何かが溢れて止まらず、呼吸が荒くなる。きっと不安を煽る死と言うものを受け止めるだけの心の余裕が自分には無いのだ。其れを思えば、到底自分には動物なんて飼えないし、成長するにつれて自然と飼おうとも思わなくなった。


黒猫はシャンッとして居た姿から一変してシュウの手の内に頭を擦り付ける。ゴロゴロと喉を鳴らして足元に自分の匂いを押し付けた。


「可愛いな」


警戒し過ぎていたのはこっちなのだろうか。鋭い眼差しを受けた割には随分と甘える姿を見てシュウは口が緩んだ。毛並みは艶やかで身体を撫でると黒猫もつぶらな瞳をこちらに向けた。暖かな温もりと、血管が脈打つような生き物の鼓動を感じる。自分ではない生き物の肌に触れたのは久しぶりだった。


「ふふっ…お主に餌をねだっておるのよ」


目の前からした声にハッとして現れた人物を見てシュウは咄嗟の行動が出来ず、地面にドシンッと大きく尻餅を吐いた。いきなり声を掛けられ、人の飼い猫を勝手に触って居た始末に言葉が追い付かない。


「わ、っ…あ、……すみません」


「構わんさ、撫でてやっておくれ」


咄嗟に出た言葉は謝罪の言葉だった。現れた飼い主は長い銀色の髪の毛が無造作に伸ばされ、緩んだTシャツと短パンを履いて居る女の人だ。自分と比べるのは大変失礼なのは承知であるが、少々見すぼらしい。しかし秀麗な顔立ちに、この夏には似合わぬ白い肌がより一層と彼女の異質さを際立てた。年齢は姉の南より少しだけ年上だろうか。きれいな人だ。

「引っ越して来たのか?」

「いや、休みの間だけ…祖母の家に」


銀髪の彼女が縁側に腰掛けてこちらに向かってヘラッと笑った。他人に作る笑顔が下手なのは少し自分と似た所があるかもしれない。


「ああ、向かいなのか。お前名前は?」

「蒼シュウです」

「私は透子。そっちは黒鉄。お向かいさんか…よろしくな」

「あ…はい、よろしくお願いします」


透子と名乗った彼女は少し不思議な雰囲気を感じさせる。同級生や家族、そう言った人間とはまた少し違っているような。まるで占い師のようだ。シュウは透子の瞳を見て少し胸がドキドキするのを感じた。まるで一瞬だけ時が止まったかのように思えてて、黒鉄を撫でる手が自然と止まった。

しかし黒鉄がペロリとシュウの指先を舐めた後、シュウはハッとして視線を黒鉄に戻す。


こんなに美人がお向かいさんだなんてわざわざこの町に来た甲斐もあったかも知れない。家を見つめると祖母が台所に立って何かしている姿が見えた。


「何でこの町に?」


正直に答えるか?いや、嘘をついても仕方ない。よく思われようとして変な事を言ってもこの人には直ぐに見抜かれてしまうだろう。シュウは目線を黒鉄に向けたまま口を開けた。


「……療養のためです」


「ふぅん、気が滅入るとお前みたいに飲み込まれる奴も少なからず居るさ。ここは時間の流れは都会と違ってゆっくりだし、気持ちも徐々に落ち着くだろう」


透子はシュウの窶れ目の下に出来たクマを指差した。細くて白い指先が視界に入る。


「ゆっくり休んで、食べて、動いたら良いさ」


「は…い」


シュウに投げ掛けた言葉は、シュウを否定もせずただ安堵するだけの物であった。シュウを包むような瞳が心臓を鷲掴みされているような気分にさせられた。


「じゃあ、俺…戻ります」


「暇だったらまたうちに来い」


最後に黒鉄を撫でて透子に頭を下げると、透子は澄ました顔で手を軽く振る。緊張感で自分の手が汗ばんでいる。夏の暑さのせいではない。



シュウが向かいの縁側から家の中に入るのを見送って透子は膝の上で頬杖をついた。


「妬くでないぞ、黒鉄」


「私は別に何とも思って居ませんよ」


黒鉄(クロガネ)と呼ばれた猫は透子に目線をやって淡々とした口調で喋る。凛とした黒猫は外から縁側に乗って、透子の後ろに擦り寄った。透子が白い指先で彼女の身体をゆっくりと撫でる。そして夏の静けさから現れたのは、凛とした顔立ちの黒髪の少女であった。そしてその少女こそ、黒鉄である。


「あの子の事、随分と気に入られたようで」


黒鉄は淡白で少し無愛想な口振りをして言った。


「なに、珍しい奴が来たな。と思ってな…買い被りは良くないか?」


「気紛れは止めて下さいよ、透子様」


「神様ってのは随分と気紛れで不平等な生き物なのさ」


透子は又もや二ヘラと笑った。笑顔、と言うのは神様の仕事の中にはない。この町の景観を眺め、ただ気紛れに生きる生き物である。其れはまた随分と厄介ごとが好きな神様であった。

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