第五章

「なぜだ!? なぜ人間如きに、こんなただの小娘に敵わないのだ!?」

 深緑色の甲冑姿の魔人が悲痛に叫ぶ。片方の腕は切り落とされ、意識は朦朧とし、視界も定かではなくなっていく。既に満身創痍な状態であった。

 その魔人と対峙していたのは一人の女剣士であった。この女剣士がたった一人で魔人を圧倒しているのである。

 魔人へと剣の切っ先を向けながら、男勝りな口調で女剣士は言い放った。

「そりゃあ、俺は人間だ。でもな、『人間如き』なんて自分を蔑んだことは無い! さぁどうした? もう終わりか? このまま尻尾を巻いて逃げるってなら、見逃してやらないこともないぞ?」

「ぐぅぅぅ、……くそが、くそぉがぁぁぁあ!!」

 魔人は女剣士へと決死の覚悟で飛び込んでいく。しかし、理性を失ったその単純な行動は女剣士に容易く読まれ、斬撃の一閃によって魔人はあっけなく首を跳ね飛ばされてしまっていた。

(……ばか、な)

 魔人の身体は力なく崩れ落ちると、霧状の煙となって消滅していく。

「よしっ。いっちょ上がりっ、と!」

 女戦士が剣を鞘に収める。すると、周囲から歓喜の声が上がる。岩陰に隠れて見守っていた街の人々が女剣士の活躍を讃える。

 女剣士は、その歓声に手を振りながら笑顔で応えた。

「いやいや、どーもどーも」

 この女剣士の名はエルマ・シトレイン。このときはまだ、若干20歳の女性であった。


 これは、エルマがシュトレイアス王国の女王となる前の話。そして、一人の魔人と出会い、国を興すきっかけとなったとある物語である。


「いやぁ~。流石は『魔人斬り』と名高いエルマ様。まさか一度ならず二度までも本当に魔人を倒してしまうとは」

 エルマは大きな一軒家の客間でもてなしを受けていた。

 前頭部のハゲた初老がもみ手をしながらエルマを称賛する。この老人はここ鉱山街の土地の権利を所有する地主である。

「これは、この街を危険から守っていただいた僅かながらのお気持ちです」

 老人は大量の金貨が入っているであろう袋を女剣士が座るテーブルの前へと差し出た。魔人を退治したことに対する謝礼金である。

 エルマは当時、大陸中の街や村を転々としながら、剣の腕を活かして用心棒を請け負うことを生業としていた。その実力と評判は高く、魔人ですら一刀両断すると噂され『魔人斬り』の通り名がある程である。実際、この鉱山街でも既に二度も魔人を倒していた。

 エルマの隣に座っていた付き人の男が、エルマに代わって営業スマイルで老人に応える。

「いえいえ~、この商売は実績が命ですから、こちらといたしましてもまた評判を上げることができ喜ばしい限りです。しかも、このようなものまで御用意していただけるとは」

 男はニヤけた顔で謝礼金へと手を伸ばす。この付き人の男はエルマの剣の腕っ節に目を付け、世渡りが下手であったエルマの代わりに用心棒として食べていくためのスポンサーのような役割を担っていた。

「では、こちらは確かに頂戴させて……」

 男が謝礼金の入った袋を掴もうとすると、エルマは剣の鞘で男の腕を引っ叩いた。

「痛っつぅ!? なにするんですか!? アネさん!」 

「あんたは黙ってな!」

 エルマは金貨の入った袋に手を突っ込むと十数枚の金貨だけを掴み取って席を立つ。

「それだけで、よろしいのですか?」

「食っていける分だけあれば十分ですので。……おい、飯食いに行くよ」

「ああっ、待ってくださいよ! アネさん!」

 男はまだ大量の金貨が入っているであろう袋を名残惜しそうに見つめる。

「早くしなっ!!」

「はいぃ!」

 エルマに怒鳴られながら、男は小走りでエルマの後を追い駆け外へと出て行った。


「アネさん。あれは用心棒としての正当な報酬なんですから、受け取っていいんですよぉ。ねぇ、アネさん。聞いてます?」

 男は街を歩くエルマの後ろでしつこく文句を垂れるが、エルマはそれを無視して前を歩く。

「アネさん!」

「『アネさん』って呼ぶんじゃないって、何度言えば分かるんだ!」

 エルマは男が金に執着していることよりも、呼ばれ方に対してキレる。

「ま~たそれですかぁ? 女に見られると舐められるからって言いますけれど、その隠し切れない豊満な胸をしておいてそれは……」

 ガツンッ! とエルマはいやらしい目付きをする男の脳天に強烈な鉄拳をお見舞いする。

「グギャ――――!? 痛い――――!! 頭蓋骨が割れたように痛い――――!!」

 男はその激痛に頭を抑えながら転げ回る。

「ギャーギャーとうるさいよ! こっちは動いて腹が減ってるんだ。食わして欲しかったら黙って着いて来な」

「……あー。アネさん。それなんですけれど。この後俺、約束があるんですよ。それですこーしだけ、お小遣いがほしいなぁ……、なんて。……さっき受け取った分の半分を……」

「アァン!?」

 エルマはドスの利かした声と鋭い眼光で男を睨みつける。

「い、いいいいいえ。ニ割ぃ……、せめて一割だけでも!」

 エルマは舌打ちをしながら一枚の金貨を親指で遥か遠くへ弾き飛ばした。

「あぁあぁあ!? 待って――!! 俺の女の子たち――!!」

 男はそんなことを口走りながら、弾き飛ばされた金貨を追って走り去って行く。

「……あの女ったらしが」

 エルマは唾を吐く様に言い捨て、行きつけのレストランへと入ると、空腹を満たそうとするのであった。


 エルマがレストランで一番値の張るステーキを頬張っていると、慌ただしく男がエルマの下へと戻って来た。

「アネさん! アネさん! 大変です! 一大事です! 大事件です!!」

 入店するや男は興奮しながら大騒ぎする。その男の頬をナイフがかすめながら、壁へと突き刺さった。

「飯を食ってる間くらい静かにできないのか! お前は!」

「……す、すいません。……いやいやいや!? それどころじゃないんですってば!」

「あぁん? ナンラッレイウンライ?(なんだって言うんだい?)」

 エルマは手元のナイフを投げたことで、切り分けることのできなくなった残りのステーキを塊のまま一口に頬張る。

「魔人が、……魔人がアネさんを出せって、街の表に来ているんですよぉ! しかも三人も!」

「ああ? なんだって?」

 エルマは男の話を聞くと、どこか腑に落ちないといった表情を見せるのであった。


「アネさん! 本当に行くつもりなんですか? 三人も相手取るなんていくらアネさんでも無茶ですよぉ!」

「まずは相手の顔を拝んで見るだけさ。本当にやばそうならトンズラするよ」

 エルマはまっすぐに街の入り口へと向かって行くと、男が話していた通り三人の魔人の姿が見えた。

 青い甲冑姿の魔人が一人、大剣を地面へと突き立てエルマを待ち構えている。その左右には、黒いフードを被った小柄な魔人と、銀色の甲冑姿の魔人がいる。

 エルマはその三人の魔人をじっと見つめながらゆっくりと歩みを進める。

(今のところ、危険な感じは全く無し、と。私も案外、実力がついたってことかな)

 そして、エルマはそのまま歩みを止めることなく、魔人達の前へと出向いて行った。

「キサマが『魔人斬り』と呼ばれる剣豪か? なんだ、ただの小娘ではないか」

 青い甲冑の魔人が目の前へとやって来た剣士が女だと分かると、怪訝そうに言い放つ。

「おい! 女だからってあんまし舐めんなよ!」

「フンッ。まあ良い。我らが同胞を倒したのだ。実力があるのは確かなのだろう。我が名は魔人カイザート。貴様にいち剣士として、決闘を挑む!」

 カイザートと名乗った魔人は、大剣の切っ先をエルマへと向け言い放った。

「まさか魔人から決闘の申し出をされるなんてね。ちょっとは俺の名も知れ渡ってきたってことかな? にしても、決闘って言うわりには後ろの二人はなんだい? 多勢に無勢で決闘するのが魔人の流儀だとでも? いや、そもそもそこのちっこい奴はいすっごい弱っちそうだし、そっちのあんたは……、それは足枷か? 腕にも同じ拘束具みたいなのを付けて、そんなんで戦おうっていうのか? 馬鹿馬鹿しい」

 エルマの挑発的な態度に、建物の影に隠れて見守っている男がアワアワと淡くっていた。

「後ろの二人は、見物人のようなものだ。キサマに危害を加えるようなことはない。キサマに用があるのは私だけだ」

「ふ~ん。そうかい。だったら付いて来な。こんな街の真ん前で暴れられて怪我人を出したくない。そっちがいきなり押し掛けて来たんだ。戦う場所くらいはこっちで選ばしてもらうよ」

 エルマは魔人を前にしてもまるで臆する様子がなかった。

 カイザートもエルマの申し出に異を挟まない。

「いいだろう」

 エルマ達はそのまま、鉱山街外れの人気のないところへと向かっていく。

 建物の影から見ていた男は、エルマの無事を祈りながらエルマ達が遠く離れて行くのを見届けるのであった。

(アネさん。どうか無茶なマネだけはしないでくださいよ)


「さてと。ここら辺でいいだろう。それじゃあ、始めようか」

 エルマは街からも十分に離れており、人気の無い開けた場所に来ると、早々に剣を引き抜き構える。

「いざ、参る」

 カイザートもそれに応えるように剣を構えた。速さや手数で攻めるスピード重視のエルマの構えに対して、カイザートは腰を低くし、全体重を両足に乗せる。その大剣の構えからは、一撃必殺の攻撃が繰り出されるのが容易に想像できてしまう。

(うっわ。いかにも強そ~な感じ。……うん、でも、実際は見掛け倒しで全然大したこと無いのか)

 エルマは戦う前からして、この勝負の結末について妙に確信めいたものを持っていた。少なくとも、自分が負けることはまず起こりえないという確信を。

「んじゃ、行くよ!」

 エルマが先に仕掛けようと、相手との間合いを詰める。

「いや、もうよい」

 やる気満々のエルマに対して、魔人はどこか落胆したように構えを解いた。

 その急な態度の変化に、勢い良く飛び出したエルマは出鼻を挫かれて危うくズッコケそうになってしまう。

「なんだいっ!? ここまで来といてっ!!」

「文句を言いたいのこちらの方だ。魔人を倒す剣豪がいると聞いて来てみれば、とんだ興醒めだ。大方、ここの鉱山の鉱物に含まれる微量な魔力をすすりに来るような、弱り果てた魔人を相手にしたのであろう」

「ああん!? なに分けの分からないことを言ってるんだ! 戦ってもいないのに俺の実力が分かったとでも言いたいのか!?」

 カイザートの身勝手な言い分に、エルマは激しく腹を立てる。

「帰るぞ。時間を無駄にした」

 カイザートは腹を立てるエルマを無視して、踵を返しその場を立ち去ろうとする。

「ええはい、そうですか。ではさようなら。……って、そんなわけないろうが!!」

 エルマは背を向けた相手にもお構いなしに、背後から攻撃を仕掛ける。狙うは首の付根にある甲冑の僅かな隙間。首を跳ねようと剣を水平に振りかざす。

 しかし、カイザートはその攻撃が届くよりも素早く、翻すように身体を反転させながら大剣を振るった。

「ぬうぅん!!」

 互いの剣が激しくぶつかり合う。そして、カイザートの大剣と豪腕によって、エルマの剣は粉々に砕け散ってしまった。

(え?)

 カイザートは振り切った大剣に反動をつけ、二の太刀を振るう。

 刃が迫る刹那、エルマは時がゆっくりと流れていく感覚に陥る。

(……うそ。……俺、死ぬのか? こんな、ところで?)

 その時間の最中、迫り来る死の現実をエルマは受け入れることができなかった。

 しかし、その一太刀がエルマに届くことはなかった。激しい金属音を響かせながら、その大剣は寸前のところで止められていた。何者かが二人の間に割って入り、大剣を防いだのである。

 その人物は、カイザートと共にいた銀色の甲冑姿の魔人であった。銀色の魔人はカイザートの所業を強く咎める。

「なにも命を奪うことはないでしょう。最初の一撃、剣を砕いた時点で勝負はついていました」

 その銀色の魔人は人間を庇おうとしていた。

「それを言うのであれば、剣を構えた時点で実力の差は歴然、既に雌雄は決していた。そんなことも分からないで、攻撃を仕掛けるような奴を助けたところで意味など無い」

 カイザートの反論に対して、銀色の魔人は無言の圧力で返す。

「……フンッ。好きにするが良い。キサマのその人間に肩入れする酔狂になど付き合っておれん」

 カイザートは大剣を鞘へと収めると踵を返す。

「用はもう済んだ。城へ帰るぞ」

「先に戻っていてください。俺は彼女と話をしてから戻ります」

 銀色の魔人は腰を抜かしたようにへたり込むエルマを心配そうに見つめる。

 カイザートも呆れて果てた様子であった。

「勝手にするが良い。クロウス、我々だけで先に戻るぞ」

「かしこまりました。それでは、クナト様、後ほどまたお迎えにあがります」

 クロウスと呼ばれたフード姿の魔人が最後にそう言い残すと、黒い異空間を生み出し、カイザートを連れて、異空間と共にその場から姿を消した。

 残されたクナトと呼ばれた魔人は、エルマへと優しく手を差し伸べる。

「君、どこも怪我はしてないかい?」

「…………」

 死線を垣間見てしまったためなのか、エルマの意識は虚ろであった。

「あの? 大丈夫ですか?」

 クナトの呼び掛けに、エルマはどうにか声のする方へと視線を泳がす。そして、魔人を目にすると、助けてくれた相手に対して聞き違いではないかと疑われてもおかしくない言葉を口にした。

「……あんたの所為だ」

「はい? え?」

「あんたが俺を助けようなんてするから! 危うく死ぬとこだったじゃないか!」

 エルマは興奮が治まらないまま、命の恩人であるはずのクナトを睨みつけて食って掛かる。そして、その言い分はあまりにも理解に苦しむ言い掛かりであった。

「えっ?、ええぇ!?」

 クナトもまさか助けた相手から怒られるとは思いもよらずに、その受け答えに戸惑ってしまう。

「ちょっと待って待って! その言い分は絶対に何か間違ってるよ」

「間違ってない! あんたが全部悪いんだ!!」

(えええぇぇ!?)

 エルマは頑なにクナトが悪いと言い張り続け、クナトはただただ面食らってしまうのであった。


 どれくらいの時間を揉めたのだろうか。クナトはエルマをなだめつつ理由を聞いていた。そして、エルマのな説明からどうにか事情を理解するに至った。

 大まかにまとめると、エルマは魔術師の素質があり、いわゆる予知能力者であった。予知と言ってもそれは限定的なものであり、自分の身に迫る危険や死の危機を事前に予感できるというものであった。一般的な予知と違い、はっきりと未来やその光景が見えるわけではない。予知能力と言うよりは優れた第六感と言い換えた方が適切かもしれない。

 エルマはこの能力で、戦う相手を選んだり、より危険の無い戦法を取ることで勝利してきた。

 そして、クナトへの言い掛かりもつまりは、エルマがどのような危険な状況になろうとも必ずクナトが助けようとしていたために危険が無いという予知になってしまい、その所為で危険を予知できなかったのだと言うのである。なんとも正確であり、不確実な予知能力である。

「まあ、ともあれこれに懲りたら、魔人に喧嘩を売るなんてバカな真似はもう止めることだね」

 エルマの言い分が理解できたところで、クナトはここに残った本来の目的を果たそうとする。クナトは魔人退治をやめるようエルマを説得したかったのである。魔人に目を付けられれば、今日のようなことがこれからも十分に起こりえるからである。

「嫌だね」

 だが、エルマはクナトの親切心ある忠告をバッサリと切り捨てる。

「今まで君が無事でいられたのは運が良かっただけで、こんなことを続けていたら、きっといつか取り返しのつかないことになる」

「絶対に嫌だ! 魔人にそんな忠告される筋合いなんかない!」

 エルマは命を落としかけたにもかかわらず、全く懲りていない様子であった。

 クナトは魔人に恨みや目の敵にするような、きっと余程な理由があるのだろうと考えた。

「俺達魔人を憎んでのことなら、本当に済まないと思う。でも……」

「別に、あんたに謝ってもらう必要は無いだろ。そもそも魔人を特別憎んでいるってわけでもない」

「だったらどうして?」

「なんであんたに、そんなことを説明しなきゃいけないんだ! 俺に構うことなんてなんて無いだろう! ほっといてくれ!」

 エルマは魔人であるクナトを毛嫌いして突き放す態度をあからさまに示す。

 だが、クナトはそんなことを気に留めはしない。ただ心の底から思っている本心を口にする。

「それは、……君を助けたいから。君の力になりたいから。それが理由じゃあ、ダメかな?」

 この言葉には、さすがのエルマも驚かされる。そして、エルマはこの魔人が他の魔人とは全く違うのだと初めて理解する。

「あんた、変な奴だな。だったら一つ尋ねるが、どうしてあんたは、そうも人の力になりたがるんだ?」

「人のため、とも言えるんだろうけれども、結局は自分のためかな。俺は、自分が魔人として犯した罪を人として償いをしたいんだ。少なくても、もう人を殺すことはしないし、見殺しなんてこともできない」

 人助けをするこの魔人にも、それなりの事情があってのことなのかと、エルマには共感するところがあった。エルマも魔人退治によって人助けをしてはいるが、それは結果の一つに過ぎず、本当の目的はエルマ自身の目指す夢のためであり、他人のためを思っての行動とは決して言えなかった。

 エルマは遠く高い空を見上げた。そして、人にはあまり言えたものではない魔人退治の理由を、魔人相手になら話してもいいかと、そんな気持ちにさせられた。

「俺が、魔人退治をする理由はな、この世界に俺が生きていた証を刻むためだ」

「生きてた証?」

「ああ、人一人の存在なんてちっぽけなもんさ。誰がいつどこでくたばろうと世界は回り続ける。そして死んでった奴等のことなんて、すぐに人からも忘れ去られる。俺はそんなのはゴメンだ。俺は俺がこの世界に生きていたという証みたいなものを残したいんだ。それにはきっと、世界を救ってやるぐらいのでっかいことをやり遂げる必要がある」

「……それが、魔人退治?」

「ああ、そうさ! 大陸中の魔人や魔王を倒して、英雄にでもなれば……」

 エルマは夢を熱く語るが、クナトは冷静であった。

「無理だよ。そんなこと」

「無理じゃない! さっきの魔人にだってそりゃ今日は負けだったさ。悔しいけど認めるよ。でも、もっと鍛えて強くなれば、きっとできる」

 エルマの意思は固かった。

 クナトもエルマが見上げた空を仰いで考える。エルマの語った、この世界で生きた証を残したいという考えを共感できるとは言えなかった。それでも、エルマの成し遂げたい夢は理解できた。魔人退治が本当の目的ではない、それは手段の一つに過ぎない。

「……そういうことならさ、もっといい、もっとはっきりとした形で残せる方法があるよ」

「なにさ。魔人を倒して英雄になる以上に、いい方法なんてあるもんか」

「自分の国を創ればいい。そして、王様にでも女王様になって、どの国よりも大きく、どこよりも平和な国を創ればいい。国があり続ける限り、それは君が生きていたことを証明する立派な証だよ」

 クナトは真顔で答える。

 そして、その話をエルマは、腹を抱えながら盛大に笑い飛ばした。

「ぷっ。……ぷっくっくっく、あーはっはっはっはっ! そんなことできるわけないっての。あーバカバカしい」

「そんなに馬鹿な話かな? 真面目に考えているつもりだけど」

 クナトは決して冗談のつもりなどでは言っていない。

 エルマも本気で語るクナトの態度を見て聞き返す。

「……本気? 国を創るだなんて言われたって、何をどーすればいいのか、全く検討もつかないんだけど」

「できることから始めればいいじゃないのかな?」

「できることって、例えば、なにさ?」

「う~ん。……なら、やっぱり国の名前を決めることからじゃないかな」

「国名? 国の名前? 名前、……名前ねぇ」

 エルマは下らない与太話だと思いつつも、ついついその話に付き合ってしまう。

「自分の名前だと『エルマ王国』? いや、それだといくらなんでも恥ずかしいな。なら、『シトレア王国』? う~ん? もっと長くてかっこいいのがいいかな? あんたはどんなのがいいと思う?」

「え~っと。話を振っておいてあれだけど、改めて考えてみると、国の名前ってどうやって決めているんだろう? 人物の名前とかが由来になっていたりするのかなとは思うけれど。じゃあ、名前を文字って長くかっこよくしてみるとかどう?」

「そうねぇ。シトレア王国……、シュトレア、シュトレアス……」

 エルマは名前をもじった言葉をぶつぶつと口にする。そして、一つの名前に行き当たる。「……シュトレイアス、『シュトレイアス王国』?」

「うん! とってもいいと思うよ。『シュトレイアス王国』」

「……シュトレイアス王国。王国、……俺の国、か」

 バカバカしい。くだらない。初めこそエルマはそう思っていたが、自分が創る自分の国の光景を想像すると、充実感のような心地の良い感覚がエルマの心を満たしつつあった。

「ちょっとはやる気が湧いてきたみたいかな?」

「ああ、そうだね。国を創るってのも、悪くないのかもしれないな」

「それは良かった」

 クナトはこれでエルマが魔人退治を止めることを心の内で願う。

 話が纏まろうとするタイミングでフード姿の魔人が再び黒い空間と共に現れた。

「クナト様。お迎えに上がりました。魔王様が食事はまだかと騒いでおります故、どうかお早く」

「分かった。今戻るよ。それじゃあ、俺は行くよ。国創り、陰ながら応援してるから」

 それだけを言い残して、クナトは立ち上がりフード姿の魔人へ歩みを進める。

「待て! あんた、名は『クナト』っていうのか?」

「そうだけど?」

「俺をその気にさせたんだ。その責任はクナト、お前に取ってもらうぞ!」

「責任!?」

「そうだ! もし俺が国を創ることに成功したら、お前が一生その国を守っていくんだ! 折角創った俺の国が滅ぼされでもしたら元も子もないからな! いいか! 約束だからな!」

 エルマはかなり一方的に約束を押し付ける。

 だが、意外にもあっさいりとクナトはその約束を承諾した。

「わかった。約束するよ」

「絶対だからな! 忘れたなんて、認めないからな!!」

「ああ、だから、誰もが幸せ暮らせる、そんな立派な国にしてくれよな。これも約束だからな」

 それだけを言い残して、クナトはフード姿の魔人と共に消えてしまった。

 一人になったエルマは今の出来事を思い返すと、可笑しくて笑ってしまう。魔人に自分の生きる道を示されるとは、夢にも思っていなかった。

「あんな変な魔人もいるんだな。世界は広いよ」

 エルマは一人で思いふけていると、付き人の男の声がどこからか聞こえてくる。

「アネさ~ん? アネさ~ん? どこですか~?」

 一向に戻って来ないエルマを心配して探しに来たのである。

「アネさん! こんなところに。 大丈夫ですか? 魔人達はどうなったんですか? まさか、足はまだちゃんと付いていますよね?」

 男があれこれと訊いてくる質問をエルマは全部無視して、男に話しかける。

「……なぁ」

「はい?」

「あんた、俺の国の王様にしてやるよ」

 エルマの突拍子もない話に、男はエルマが頭でも打って変になったのではないかと心配する。

「は、はい? アネさん? 大丈夫ですか?」

「ただし! 一番偉いのは俺だからな! あんたは二番目!」

「……あのぉ~。話がさっぱり見えないのですが?」

 エルマは話についていけない男のために、順序立てて説明するなどということは一切せずに、話を進めようとする。

「あんた、王様ってものに興味無いのか?」

「いえいえいえいえ、とんでもない。もし王様にでもなれでもしたのなら、そりゃ一日中大勢の女の子達に囲まれながらウハウハな日々を過ごせるんでしょうねぇ。きっと」

「そうなりたかったら、あんたにもきっちりと働いてもらうからね」

 男はエルマの話がどうにも理解できなかった。きっと良くないことを考えているのだろうと勝手に想像を膨らませてしまう。

「アネさん。……もしかして、……どっかの国の王様を殺してすり替わろうなんて考えているんじゃ……」

「違うわ! このバカタレが!!」

 男は今日二度目の鉄拳を脳天に喰らい、悲鳴をあげながら頭を抑えてのたうち回るのであった。

 そして、それから僅か数ヶ月後には、小さな農村でシュトレイアス王国という旗が掲げられるのであった。


「……これが、わしがこの国を興すきっかけとなった、ずうっと昔の、本当にあった話じゃ」

 エルマは医務室にいる者達全員に真実を語った。

 誰もがそれを静かに聴き入っていた。多くの者達は、騎士にエルマが命を救われたこと、そして国を興すように、騎士によって導かれたことを話として聞いたことがあった。しかし、その騎士は『異国の騎士』として、人間として語られていた。

「初めは、今のように事実を語っておった。じゃが、誰もまともに信じてくれんかった。いつからじゃろうか、『魔界の騎士』ではなく『異国の騎士』として、若い者達が騎士という存在に夢や憧れを抱いてほしいと思い、事実とは違う話を語るようになってしまったのじゃ。だから、……クナトは、確かに魔人じゃが、クナトのことを……」

 エルマは激しく咳き込む。長い時間を語り続けたことにより、呼吸はもう切れ切れとなり、乾いた咳にはとうとう血が混じり始めていた。

「お祖母様!? もう十分です。これ以上はお体に触ります」

 アシェリー女王が無理をするエルマの容態を気遣う。もう十分にエルマが伝えたかったことはここにいる全員に伝わっていた。クナトがいたからこそ、今のこの王国があり、自分たちがいるのだという事実を。例え、魔人であろうとも、クナトが憎むべき相手では決してないのだと。

「これが、……わしがクナトへしてやれる、……わしからの……」

 エルマは語る途中でさらに激しく咳き込む。その咳には大量の血が混じり、命の危険を感じさせるものであった。

「お祖母様!? お祖母様!」

 エルマは力果てるように意識が遠退く。そして、そのまま昏睡状態へと陥ってしまうのであった。


「ニルキス。クナトがここにいるのは、本当でしょうねぇ?」

「はい。間違いございません。魔王様」

 魔王と呼ばれる少女は王座の間でクルクルと小躍りするように回る。

「二ヶ月以上も戻ってこないと思ったら、こんなところにいたなんて。ああ、今度はどんな面白いものをみせてくれるのかしら?」

 クナトと再会できることがよほど嬉しいのか、魔王は子供のように無邪気にはしゃいでいた。

 そして、王座の間へと一人の男が弱り切った身体を引きずるようにして現れる。

「……魔王、様」

「クナト? ……クナト! ああ、会いたかったのよ!」

 魔王はクナトの姿を見つけると、すぐに走りだし、飛び込むように抱きついた。あまり嬉しさに目には涙さえ浮かべていた。

「心配していたいたのよ。ずっと戻ってこないんだもの。クロウスに訊いても、用事に時間が掛かっているとしか言わないのよ」

 クナトはフードを被った魔人になにかを言いたげな様子で視線を向ける。

 クロウスと呼ばれる魔人は、慌ててその視線から目を逸らした。

「ああ、こんなに弱り果ててしまって、魔力が尽きかけてるのね。今、回復させてあげるわ」

 魔王がクナトの胸へと手を伸ばそうとすると、クナトはその手を優しく拒んだ。

「魔王様。言付けは残していたのですが、どうやら正しく伝わっていないようです。俺は城から、魔王様の下から去ったのです。もう、魔王様の城へ戻るつもりはありません」

 このクナトの告白に魔王の表情が凍りつく。

「……何を、言っているの?」

「俺は城には戻りません。俺のことはどうかお忘れください。そして、どうかこのまま、お城にお戻りください」

「……嫌よ。……そんなの、……そんな、絶対に許さない! 許さないから!!」


 シェレアはクナトの後を追って、王座の間に通じる通路を走っていた。

(謝らなければ! クナトに酷いことを言って傷つけてしまったことを、早く謝らなければ!)

 シェレアの心にもう迷いは無かった。ただ今は、クナトを信じることができなかったことを謝りたかった。そして伝えたかった。今の自分のこの気持ちを。誰でもない、人や魔人など関係ない、ずっとそばにいてほしいのだと。

 シェレアは息を切らしながら王座の間へと駆け込む。そして、そこで目にしたあまりにも無残で非情な光景に絶句する。

 クナトが抵抗なく一人の少女に剣でめった刺しにされ、おびただしい量の血を流し、惨たらしい姿となっていた。

「どうして!? どうして私の言うことが、……聞けないのよ!?」

 魔王は声を荒げながら、大剣を一振り、そしてまた一振りと、クナトの身体を斬りつけていく。

「魔王様! これ以上は本当にクナトが死んでしまいます!」

 青い甲冑の魔人カイザートが己の大剣を奪い振るう魔王を止めに入る。

 クナトは普通の人間であれば、とうに死んでいても不思議でないほどズタズタに傷つけられていた。それでも、クナトは意思を曲げようとはしない。

「……気は、済みましたか? ……俺は、もう人を平気で殺すような仲間とは、一緒にいられません。だから、……戻ることはできません」

「ふざけないでよ! そんな言葉、私は聞きたくなんてない!」

 魔王はカイザートの抑える手を振り払い、大剣を高く振り上げた。

「止めてくれぇ!!」

 その魔王の前にシェレアが飛び込む。恐怖で身体を震わせながらも、その身を挺してクナトを守るように立ち塞がった。

 人間の少女が、突然間に割って入られたことで魔王の手は止まる。

「どうして来たんだ!? お姫さん!」

「この戯けが! お前を一人になどしておけるものか! また、こんな無茶を勝手にしおって!!」

 その二人を見て魔王は更に怒りを込み上げる。主君であるはずの自分の前からいなくなったかと思えば、人間と慣れ親しんでいた。しかも、その相手の背丈や容姿が自分そっくりであることが最も許せなかった。

「誰なのよ!? あなたは!? クナトの、なんなのよ!?」

「我は、……シュトレイアス王国第一王女、シェレア・シュトレイアスじゃ! そして、こやつは、我の……、我の……」

 シェレアはクナトとの関係を問われ、咄嗟に相応しい言葉が見つからない。一度はクナトを拒み、そして、クナトの気持ちを確かめないまま、勝手なことを口にはできなかった。

「目障りなのよ! 関係無い人間が、邪魔をしないでよ! そこを退きなさい!」

「絶対に退かん! クナトは我にとって、かけがえのない……」

 この言葉で、魔王の目の色が一変する。そして、 バチィンッと痛々しい音が響いた。魔王がシェレアの頬を強く素手で引っ叩いていた。

 叩かれた衝撃でシェレアはよろけながら、地面へと倒れそうになる。

「お姫さん!?」

 クナトが血だらけの腕でシェレアを受け止める。そして、クナトはほとんど無意識に、魔王の頬を同じように平手打ちをしていた。それはまるで、駄々をこねる子供を叱る父親のようでもあった。

 魔王は今まで手を上げられたことなど一切無かった。なにより、自分に一番優しかったクナトに叩かれたことによるショックは大きかった。魔王はジンジンと痛む頬を抑えながら、涙を浮かべて呆然と立ち尽くしてしまう。

「お姫さん!? お姫さん!!」

 クナトはそんな魔王のことよりも、シェレアを気遣う。

「取り乱すでない。口を少し切ったようじゃが、御主の怪我に比べれば大したことなど無い」

 頬を赤く腫らし、唇からは僅かに血を流していたが、シェレアは笑って答える。

「それよりも、クナト、ちょっと耳を貸すのじゃ」

 クナトは言われるままに、耳をシェレアの顔へと近づける。

 シェレアはクナトの頬に手を回すと自分へと顔を向けさせた。そして、そのまま強引に唇を重ねた。

 そのあまりにも唐突なシェレアの行動に、クナトは面食らってしまう。

「……っ!? な、なに!?」

「クナト。御主は我の聖騎士になるのじゃ。だから、我の許可無く勝手に死ぬことなど許さん。……いや、違う。こんなことを伝えたいのではないのじゃ。我はただ、御主と共にありたい。ずっとこれから先を、御主と共に歩みたいのじゃ。だから、我の傍に、いてくれ」

「……お姫さん、どうして、そこまで」

 シェレアの言葉は、クナトの胸に響いていた。魔人だと知ってもなお、自分を受け入れてくれているシェレアの告白に、心を奪われてしまっていた。そこはもう、二人だけの世界であった。

 魔王は、すっかり蚊帳の外へと追いやられている状態であった。しかも、呆けてしまっている間に、心を寄せるクナトの唇を人間の女に奪われてしまったとなれば、とても平常心を保つことなどできなかった。

「…………許さない。……許さない、許さない許さない許さない!!」

 魔王は激しいヒステリックを起こし、あらん限りの声を上げる。

「魔王様!? 落ち着いてください!」

「カイザート!! クナトも、この目障りな人間の女も、殺して!! 今すぐ殺して!!」

 魔王は完全に冷静さを失っていた。

「ですが……」

 カイザートは複雑な心境であった。魔王の命令は絶対である。しかし、仲間であり、付き合いの長かったクナトを手にかけることは躊躇ってしまっていた。

 別の魔人がカイザートを見兼ねて名乗りを上げる。

「お前が殺らないってなら、俺が潰してやるよ」

 黒い甲冑に兜からはまるで牛のような二本の角を生やし、斧を手にした巨漢の魔人であった。

「待て! オクトロス! 今の魔王様は取り乱して、まともではない。それに、お前はクナトのことを何もしらない!」

「はぁ? あんな死にかけのやつに、俺がやられるわけないだろう? 最近、暴れたくてうずうずしていたんだ」

 魔人オクトロスは両足に魔力を溜める。

「あのクナトって奴もろとも殺しちまうが、いいだよなぁ? 魔王様よぉ?」

「構わないから、早く殺して!」

 オクトロスはメキメキと黒い霧と共に、下半身を甲冑の纏った馬の姿へと変貌させる。その姿はまさに、甲冑をまとったケンタウルであった。

 オクトロスはクナトへと狙いを定め、地面の感触を確かめるように蹴る。オクトロスの攻撃手段はただ相手に全力で突進をするという単純明快なものであった。しかし、その破壊力は分厚い岩の壁すらも容易くぶち破ってしまう。

 そんな臨戦態勢の相手を前に、クナトは落ち着いていた。シェレアを抱えたまま静かに立ち上がる。

 その顔には一つの決心があった。

 魔人である自分が人に対して何ができるのか、どうすれば罪を償えるのか、クナトはずっと答えを見つけられずにいた。

 ただ、人のために尽くそうと、人を助けようと努力した。だが、それは結果としてシェレアの気持ちを裏切ってしまった。自分の願いは叶わないのだと、諦めてしまっていた。

 そんな心境のときだからこそ、シェレアのくれた言葉は、クナトにとって救い以外のなにものでもなかった。

「ありがとう。お姫さん。俺を信じてくれて、俺に立ちあがる力をくれて。だから俺も、お姫さんの力になるよ。それが、俺の今の願いだ」

 その場の空気が一変する。クナトの全身に魔力が宿り、満たされつつあった。クナトの傷はたちまちに癒え、そして、全身を鈍く光る銀の甲冑が覆った。

 甲冑だけではない。その姿は異様でもあった。両腕には見るからにズッシリと重そうな鉄の塊の手枷がはめられ、両足から伸びる数十センチの鎖の先には大きな鉄球が取り付けられていた。その姿はさながら奴隷や囚人のようであった。

 枷を付けたクナトの姿を見て、オクトロスはバカにするように笑う。

「はっはっはっ! おいおいなんだよそれはよぉ? やる気を出したのかと思えば、そんなもんを付けて戦えるのかぁ?」

「これは、俺が犯した罪の代償のようなもの。二度と過ちを犯さないという決意だよ」

 魔人は誰しもが、何らかしらの魔力による能力を身に付ける。クナトの場合は、人を殺した罪の意識から『枷』の魔法を発現させ、その魔法で自らの両手足の自由を奪ったのであった。

「はっ、くだらねぇ。それで俺の攻撃を避けられるって言うのなら、避けてみやがれぇ!」

 オクトロスはクナトが魔王の下から去った後に生み出された魔人であった。そのために、クナトの能力については、何も知り得なかった。

 逆に、クナトを良く知るカイザートは、クナトの完全な姿に動揺する。

「待て! オクトロス! 今のやつに近づいてはならん!」

 カイザートはオクトロスの早計な行動を止めさせようと必死に命令をする。

 だが、オクトロスはカイザートの命令を無視して、その自慢の脚力でクナトへと突進を仕掛ける。分厚い岩の壁さえも砕く破壊力がクナトの眼前へと迫り来る。

 対して、クナトはその場から一歩も動かなかい。オクトロスの突進を一切避けようとする気配がない。

 シェレアは、迫る恐怖にクナトを強く抱きしめる。

「大丈夫だよ。今度は、ちゃんと見てほしいんだ。俺の本当の姿を」

 シェレアを抱えたまま、片腕一つで真正面からオクトロスの突進を受け止めようと構える。

 オクトロスは斧を手に、クナトを真っ二つにしようと突進の勢いと共に振りかぶる。そして、その攻撃が繰り出される直前、オクトロスは駆ける軌道を大きく変えた。それは左右のどちらでもない。真上であった。

(油断したなぁ!)

 オクトロスの能力は、下半身を馬の姿に変えるだけではない。その足爪の蹄鉄は、空を大地のように駆けることが可能であった。

「死ねぇ!」

 オクトロスは、クナトの頭上から斧を振り下ろす。

 さすがのクナトも、真正面からの単調な攻撃と思わせての、この攻撃には意表を突かれていた。鈍い轟音と共に、クナトに斧は命中する。

 しかし、クナトはこれを片腕の、しかも、指先の力だけで掴むように受け止めていた。

「なっ!? んだとぉ!? ば、バカな!?」

 オクトロスは、その巨漢と馬の下半身の全体重を斧の一点に乗せて振り下ろしていた。その重さは、1トンにも達していた。

「何故だぁ!? この攻撃を受け止められるはずが、ぬ!? このぉ、離せぇ!」

 クナトに止められた斧は、オクトロスがどんなに力を入れても、そのままビクともしない。

「意表を突いての上からの攻撃は、悪くなかったですよ」

 クナトは、斧を掴んだまま振りかぶる。そして、斧を握っていたオクトロスごと地面に叩き付けた。まるでオクトロスの体重などものともしていなかった。

 地面へと叩きつけられたオクトロスの身体はぐちゃぐちゃに潰れかけていた。

(おの、れぇ……、いったい、どんな能力を使ったんだ?)

 例え魔人であろうとも、クナトの肉体的な力はあり得なかった。しかし、それは正真正銘、クナトの肉体による力であった。

 その力に至ったのは、クナトの嵌めている枷によるものであった。この枷は、手足合わせて10トンを超えていた。初めはただの数キロ程度であったが、その重さに慣れる度に加重を繰り返していた。結果、長い年月の間に、この重ささえも扱えるほどにまで、肉体が強化されていた。

 オクトロスは上半身を起こすのが、やっとの状態であった。

 そんなオクトロスを、クナトはただ黙って見下ろしていた。

「ま、待てっ。俺の負けだ! 参った!」

 オクトロスは、その圧倒的な力の前に降参の意志を示すが、その言葉の直後、斧をクナトに向けて振るっていた。

 しかし、そんなオクトロスの攻撃よりもずっと早く、クナトはオクトロスの上半身へと拳を振り上げていた。

 その拳は、オクトロスの身体を甲冑もろとも粉々に粉砕し、馬の下半身は十数メートルも宙を舞った。

 クナトが放つその拳には、怪力と2トンにも及ぶ質量が乗せられ、その破壊力は計り知れないものとなっていた。その威力は自身の身体さえも壊してしまう程である。

「クナト!? 御主、腕が……」

 シェレアは血が滴るクナトの潰れた腕を見て、不安そうに声をかける。

 対して、クナトは平然としていた。

「ああ、この程度だったらもう問題無いよ」

 その言葉通り、砕けた右手はすぐに元の形へと回復していく。魔人は魔力が尽きない限り、身体を何度でも復元させることが可能である。だが、当然その回復力を有するのはオクトロスも同じことであった。

「くそぉ。なんて衝撃なんだ」

 オクトロスは既に肉体の再生を終え、首をさすりながらゆっくりと立ち上がる。

「オクトロス! なにを遊んでいるの!?」

 手こずるオクトロスに向かって、魔王は怒鳴るように命令する。

「へいへい。だ、そうだがよぉ? お前も分かっているんだろう? 魔人同士が戦ったところで、死なない、殺せないじゃ意味が無いことぐらいよぉ。いいやぁ、どんな方法を使ったのか知らんが、お前の魔力は、またすぐに尽きるんじゃないのか? だからよぉ。とっとと諦めてくたばっちまえよぉ!」

 魔王がいる限り、オクトロスの魔力が尽きることは無かった。不死身の肉体だからこそ、

 オクトロスはクナトの攻撃を恐れることなく、再び突進を仕掛けようと駆け出す。

「ええ。もうこんな無意味な戦いは、終わりにしましょう」

「まるで、自分が勝つような言い方だな! どうやって……っ!?」

 突進をするオクトロスは、突然右足を何かに掴まれるように動かなくなる。そして、足を取られて地面へと倒れ込んだ。

「くぅ……っ! なんだ? いきなり足が……」

 オクトロスは自分の足へと視線を向ける。

「これは!? なぜこんなものが俺の足に!?」

 オクトロスの右足には、いつの間にかクナトと同じ鉄球の足枷が嵌められていた。

「くそぉ! こんなものぉ!!」

 オクトロスは必死に鎖を断ち切ろうと斧を振るうが、魔法で生み出されたそれは、鉄や鋼よりも遥かに強固なものであった。強引に引きずろうと試みても、その重さは1トンにも及び、走ることなど到底敵わず、動くことさえ困難な状態であった。

「流石ですねぇ。噂に違わぬ素晴らしい能力です」

 その戦いを称賛するのはニルキスであった。オクトロスが戦闘不能となったのを見て、今度はニルキスがクナトの前へと出る。

「あなたの魔法は、自信を縛るのみでなく、攻撃を喰らわした相手であれば、同様の枷を嵌ることもできる。相手を無力化するのにこれほど適した能力は他に無いでしょう。力を求めずして、それほどまでの優れた能力、そして同時に肉体までも手にしてしまうとは、実に面白いですねぇ」

 ニルキスはクナトの能力を高く評価するが、その口調や態度からは余裕が見て取れた。

「ですが、所詮は近接戦闘に特化した能力。私の敵ではありません」

 ニルキスの指先全てから、十本の細い血管の糸が伸びる。クナトにその糸を見る術は無い。

「お姫様を抱え守りながら、私のこの攻撃を避け続けられますか? ましてや、攻撃を掻い潜り、私に近づくことなど不可能! さぁ! また以前のようにあなたを、ゆっくりとなぶり殺してあげましょう」

「…………………」

「…………………」

 ニルキスが意気揚々と口上を垂れ終えると、その場に沈黙が流れる。

 クナトは表情一つ変えずに、ただ黙ったままでいた。

 何かしらの反応を期待してしまっていたニルキスは、そのクナトの無反応な態度が腑に落ちない。

「…………なにか、言ったらどうですか?」

「ああ、話は終わりましたか?」

 クナトはニルキスの長口上に対して、間の抜けたような受け答えで返す。とても命のやり取りをしているとは思えない程に。

「あたなのそのどこまで本気なのか、掴みどころの無い性格は相変わらずですねぇ。命乞いの一つでもしたらどうなのですか?」

「いえ。もうあなたは、敵ではありませんから」

「ほおぉ? これはまた、随分と強気できますねぇ。あなたからの攻撃を一切受けなければ、私が負けることなど……」

『あり得ない』そう、ニルキスは口にしようとして止める。その脳裏には、嫌な予感があった。

「気付きましたか? あなたはもう、敵ではありません」

 この言葉に、ニルキスは既に手遅れであるという事実を自覚すると同時に、ニルキスの両腕が地面へと叩きつけられた。両腕には、クナトと同じ1トンもの手枷が嵌められていた。

「くぅぅ!? そういうことですか。既に受けていたあの攻撃も有効だとなるのですね」

 ニルキスは迂闊であったと、なぜもっと早くに気づけなかったのかと己を呪った。しかし、これで勝負が決したわけではなかった。

(たとえ身動き一つ取れないとしても、指先一つ動かせるのであれば、勝機はあります)

 ニルキスは、血管の糸を操ろうとする。しかし、その糸は散り散りに霧散して消滅してしまう。

「……ッ!? なぜ!? どうして魔力のコントロールできないのですか!?」

 このニルキスの悲痛な叫びに対して、カイザートがだの悪足掻きでしかないのだと諭すように理由を説明する。

「無駄だ、ニルキス。その枷は、ただ重いだけというものではない。魔法によって造られたそれは、対象者の魔力すら拘束するのだ。一度取り付けられれば、再生以外の魔力をまともに扱うことはできない」

「そんな!? 能力さえも封じる魔法だとでもいうのですか!? そんなことが!?」

 身動きを拘束され、魔力を封じられては、ニルキスとオクトロスにもう戦う術など残されていなかった。

 そんな魔人たちの戦いを、最も近い所から目の当たりにしていたシェレアは、ただただ驚きの連続であった。

 なにより驚いているのは、魔人を二人も相手にしながら、クナトがそれを容易くあしらってしまっていることであった。

「クナト、御主にはいつもいつも、驚かされることばかりじゃ」

「そうかなぁ? でも、こんな争い事なんて本当はしたくないよ。相手が人であろうと、魔人であろうと」

「何を言うのじゃ! 御主は今、我を守るために立派に戦ってくれておる! それを何も悲観することなど無い!」

「……ありがとう」

 シェレアがクナトのすべてを受け入れたことで、二人の信頼関係が一層深まってた。

 その一方で、魔王は地団駄を踏む。

「このぉ、役立たず!」

 魔王が不甲斐ない魔人二人に腹を立てる。怒りが収まる気配など全くありはしない。

「カイザート! 何をボサッとしているのよ!? 早くあなたも……」

 カイザートは命令されるよりも早く、魔王の前に跪いた。

「恐れ多くも魔王様。今の我々では、クナトには決して敵いませぬ。どうかここは一度お引きくださいませ」

 カイザートはクナトと戦う前からして、戦いを放棄していた。

「カイザート、本気で言っているの? 私の城で最も強いのはあなたでしょう!?」

「クナトの強さは、ご覧になられた通りです。クナトは決して戦いを好みません。ですが、その実力は我々を圧倒的に凌駕しているのです。今の私では到底敵いませぬ。どうか、ここは一度お引きください」

「……嫌よ、そんなの。ふざけないでよ。……どうして、……どうして、みんな私の、言うことを、……………う、うう、……うわぁ~~~~ん!」

 魔王は怒り狂っていたかと思えば、突然目に涙を溜めて大泣きしてしまう。その姿は普通の幼い子供と大差など無い。

 カイザートも泣き始めてしまう魔王に対して、どうしたものかとたじろいでしまうばかりであった。

「あ、あれがホントに魔王、なのか? 我にはただの子供にしか見えんぞ」

 シェレアは自分が想像していた魔王とは似ても似つかず、ましてや、自分と同じか、それよりも幼い容姿に、いまだにあれが魔王だとは信じられずにいた。

 クナトは何も言わずに抱えていたシェレアを地面へと降ろした。

「クナト?」

「もう心配無いから、少しだけ待ってて」

 クナトはゆっくりと魔王の側へと近づくと、しゃがみ片膝をついた。

「魔王様。俺はもう魔王様の傍には戻れません」

 クナトは優しく魔王に語り掛ける。

「……私は、私はただ、……クナトに戻って来て欲しかっただけよ。……グスッ。だって、カイザートの作るご料理は美味しくないし、クロウスの話はつまらないし、オクトロスはすぐ物を壊すのよ。グスンッ。……クナトがいない間はいつも大変な思いばっかりで、うあ~~~~ん!?」

 魔王は泣きじゃくりながら思いの丈をぶちまける。

 そんな魔王を傍目に、シェレアはクナトに対しての謎がまた一つ解けていた。

(我の家来を断っていたのは、あの魔王とやらにずっとこき使われていたせいというわけか? そう考えれば、分からなくも無いが)

 魔人にとって、魔王の命令は絶対であった。そして、魔王の身の回りの世話は、すべてクナトが受け持つようになっていった。そうして、おおよそ500年の歳月の中、クナトはありとあらゆる特技を身に付けたのである。

「魔王様。俺はもう戻らないと決めたのです。どうか城へお戻りください。もしこれ以上わがままを言って迷惑をかけるのでしたら、本気で、その、怒ります」

 それはまるで、子供をしつける親のようであった。

「うぅ、クナトの気持ちは分かった、……でも」

 こんな説得では、そう簡単に諦めてはくれないかと、クナトは頭を悩ます。

 しかし、次に魔王が口にしたその一言で、あっけない幕切れとなる。

「……でも、折角人間の街に来たんだから、せめて観光してから帰る」

 その場にいた誰もが態度を表に出さなかったが、内心ではガクリッとコケていた。

 そして、シェレアだけが冷静な突っ込みを入れる。

「いや、待て待て! 魔族を街に彷徨かせるなど、ダメに決まっておるだろう!」

「多分大丈夫だよ。こんな風にしょげた時の魔王様は、大人しいから」

「ええ!? いや、ええと、じゃな、……そういう、問題なのか? それでよいのか?」

 シェレアは自分の考えが間違っているのだろうかと首を傾げてしまう。

「では、カイザートさん。後のことはお任せします」

「それは構わない。だが、今はこれで良いのかもしれんが、魔王様は簡単にこれで諦めるような方ではおらんぞ。おそらくまた近い内に……」

「分かっています」

「そうか。貴様と戦うことだけは、遠慮したいものだ」

 そして、魔王はカイザートに連れられスゴスゴと城から去っていく。

 他の魔人達も、クロウスの魔法によって、黒い霧に包まれると姿を消した。

 こうして、魔王襲来の騒動は幕を閉じるのであった。

「……終わったのじゃな?」

 シェレアは力なくへたり込む。まるで嵐のような出来事であった。そして、あまりにも想像とかけ離れていた魔王には、鳩に豆鉄砲でも食らったような気分であった。

「大丈夫? お姫さん?」

 クナトがへたり込むシェレアに手を差し伸べる。その手も姿もいつもの人間のクナトに戻っていた。だが、シェレアはその手を取らない。

「……御主、なぜ魔人であったことを隠しておったのじゃ」

「え!? そのぉ、黙っていたのは、本当に悪かったと思っている。……ごめん。……幻滅、したよね?」

 シェレアのその言及は、クナトの心に重く突き刺さる。もし、初めから魔人だと正体を明かせば、人間が魔人を受け入れるなどまず有り得ない。人間と関わりを持つためには、魔人であることを隠す他に術が無かった。

 しかし、それは人々を騙し、裏切る行為であった。クナトは自分の非を自覚すると、差し出した手を引っ込めようとする。

 しかし、シェレアはその手を掴んだ。そしてそのまま、手を引き寄せて自分の体を起こすと、クナトの身体へともたれるように寄り添った。

「クナト、御主が例え魔人であろうとも。御主は我の騎士でもあるのじゃ。それを、忘れるでないぞ」

 シェレアは涙ぐんでいた。

「いつもいつも、無茶ばかりしおって、もう勝っては許さんぞ」

「ごめん。いや、……ありがとう。シェレア」

 クナトは自分のことを想って泣いてくれているシェレアに、心から感謝する。

「……おお! そうじゃ!」

 シェレアが突然、なにかを思い出したかのように声をあげる。

「クナト、御主に合わせたい人がおるのじゃ!」

「合わせたい人?」

「エルマお祖母様じぁ。御主は覚えておらんのかもしれないが、昔御主は、エルマお祖母様に会っているのじゃ。王国を創れと、御主が言ったはずじゃ」

「俺が、王国を……?」

 クナトの頭の中で一つの記憶が蘇る。『国を創ればいい』と確かにそんなことを一人の女性に言った覚えがある。しかも、なにか重要な約束をしたこともはっきりではないが思い出しつつあった。

「姫様!!」

 そのとき、シェレアを呼ぶ声が部屋に響く。

「アイリア!?」

 シェレアを呼んだのはアイリアであった。アイリアは意識が戻ると真っ先にシェレアのことを心配し、どこにも姿が見えないと、重症である身体を引きずって一人で後を追って来たのである。

「姫様! 良かった。ご無事なのですね」

「ばか者! 無事でないのはアイリアの方であろう! 動いて平気なのか? もう傷は大丈夫なのか?」

「はい。こんな怪我は大したことありません。ギルバート様も命に別状はありません」

「では、みな無事なのじゃな。そうか、安心したぞ」

 胸を撫で下ろすシェレアに対して、アイリアの表情に僅かに影がかかるのをクナトは見逃さなかった。

「アイリアさん。なにかあったのですか?」

 アイリアの顔から明らかな動揺が見て取れた。

「なんじゃ? なにかあったのか?」

「……エルマお祖母様の容態が急変しました。もう、持ち堪えられないと」

「なんじゃと」


 シェレアはエルマの容態が悪化した知らせを聞き、医務室へと駆け込んだ。

 部屋の中にいた王族達は、シェレアの無事な姿を見るとみな安堵した。

「シェレアちゃん。無事だったのね。勝手にいなくなるから、心配したわ」

 アシェリー女王が、シェレアを優しく抱きしめる。

「我は問題ない。魔王も魔人もクナトが追っ払ったぞ。もう心配は無用じゃ」

 危険が去ったという朗報を聞いた者達は互いに喜びを分かち合う。

「そんなことよりも、今はエルマお祖母様じゃ! エルマお祖母様になにがあったのじゃ!?」

 シェレアの口からエルマの名前が出ると、急にみな押し黙ってしまう。

「シェレアちゃん。エルマお婆様が、あなたにお話があるそうよ」

 シェレアはベットに横たわるエルマへと急いで駆け寄る。苦しそうに呼吸をするその姿は、もう長くないことを物語っていた。

「エルマお婆様。我はここじゃ。ここにおるぞ。分かるか?」

 シェレアは枯れ枝のように細いエルマの手を握りながら呼びかける。

「ああ。聞こえるよ。……クナトとは……、仲直り……、できたかい?」

「ああ、お婆様のお陰じゃ。クナトもすぐにここに来る。いっぱい話したい事もあるじゃろう?」

「そうか……、なら……、最後に、街を見ながら……、二人と話が……、したい」

 このエルマのたっての希望を医師は反対する。今の状態のエルマを動かし、体力を消耗させることは、あまりにも危険であった。

 シェレアがエルマの願いと医師の意見に揺れていると、クナトがアイリアに肩を貸しながら遅れて医務室へと入る。

「ええとぉ。どうも、お騒がせしました」

 クナトはその場の者達と、どう接して良いのか戸惑うのだが、みなはクナトを暖かく迎える。アイリアをベットへと腰掛けさせると、すぐにクナトもシェレアとエルマに近づいて行く。

「クナトか。……シェレアが、世話をかけたな」

 クナトはそれだけを聞き、エルマの容態の悪さを察すると、すぐに抱き抱え上げた。

「クナト?」

「ここから一番街を見渡せる場所はどこになる?」

 クナトはエルマの最後の願いを知りはしない。しかし、クナトもエルマと全く同じことを考えていた。

「それならばあそこじゃ。御主もよく知っておる場所であろう」

 クナトは医師の忠告を無視して、エルマを抱えたまま部屋の外へと向かう。

 シェレアもその後をすぐに追って出て行ってしまった。

「女王様。よろしいのでしょうか? 本当に命の保証はありません」

「……だからこそです。エルマ様は、最後に二人に伝えなければならないことがあるのでしょう」


 クナト達は大食堂のバルコニーへと向かっていた。

 ここは街を良く見渡せる場所であり、クナトとシェレアにとっても特別な場所でもあった。

 シェレアが椅子を一つバルコニーへと運び 、クナトがエルマを腰掛けさせた。

 真っ赤な夕暮れの太陽が、街を赤と黒で鮮やかに染めていた。

 エルマは感慨深く、その光景を目に焼き付けていた。そして、大きく深呼吸をしながら誇らしげにゆっくりと口を開く。

「クナトよ。立派な国であろう?」

「……ああ、まさかあの無鉄砲な女性が、本当にこんな短い間にここまでの国を創るなんて思いもよらなかった。あのときはただ、別の目標を与えれば、無茶な事はしなくなるだろうと、そう考えていただけだったのに」

「はっはっ。わしを甘く見たな。……別れ際にした約束は、覚えておるじゃろうなぁ?」

 エルマはまるで勝ち誇ったかのような笑顔を浮かべる。

 クナトは観念するしかなかった。そして、エルマの右横で跪いて見せた。

「80年前に交わした約束、忘れはしません。あなたの創ったこの国と、あなたが生きた証は守り続けます」

 その振る舞いは、まさに忠誠を誓う騎士の姿であった。

 それを目にするシェレアの心中は少し複雑であった。今日の一件でクナトは自分の騎士になったのだ嬉しく思っていたが、クナトは既にエルマの創ったこの王国を守る騎士でもあった。

「そうか、覚えていてくれたか」

 エルマはクナトの言葉を聞いて安心したように微笑む。

「……シェレアよ」

「はい、お婆様」

 シェレアはエルマの左手を強く握り締める。

「わしがいなくなった後、国を任せることになるのは、お前じゃ。……だから、小さい頃から多くの事を教えてきた。じゃが、重荷を背負わせて、しまったのかもしれん。……こんな国一つに捉われず、もっと自由に生きても良い。もっと、外の世界を見て知るのも、良いじゃろうて」

 シェレアは思わず目に涙がこみ上げそうになる。しかし、それを堪えて、平静さを装い堂々と答える。

「そんな心配は不要じゃ。お婆様の意思は我が受け継ぐ。この国をもっと素晴らしいものにするのが、今の我の夢じゃ」

「そうか、本当に、自慢の子に育ってくれたのぅ。……そうか、そうか。……ならば、この先は、二人に託すことに、……しよう。……今ま、で不毛に長生きをしてしまったが、これでもう、安心じゃのぉ」

 エルマの魔法は迫る死の予知であった。それは、死期を知ることも、またそれを回避することも可能であった。それ故に、エルマは100年という長寿を実現できたのである。

 しかし、それももう限界であった。エルマにははっきりと分かっていた。今日、今のこのとき、自分の命が尽き果てることを。

「最後に、二人に会えて、本当に良かった。……これで、本当に心残りはないのぉ。……ああ、今日はとても良い夢が見れそうじゃ。…………懐かしい、昔の……、夢を……」

 エルマはとても幸せそうに微笑みながら、静かに息を引き取った。夕日が沈み辺りが徐々に暗くなるのに合わせるかのように、エルマの体温が冷たくなっていく。

 クナトは静かに、シェレアは泣きながら、いつもまでも傍に寄り添っていた。


 時間を少し遡っての夕暮れ時、魔王はごきげんな様子で街を散策していた。

「カイザート、あれがなにか分かる?」

 魔王は店に並ぶ商品の一つを指さし、カイザートに尋ねる。背丈が高く、たくましい人間へと姿を変えたカイザートは、自分も見たことのない物であるために、答えられず困ってしまう。

「どのようなものですか?」

 二人の後ろを付いていた長髪の青年が尋ねる。両目を包帯で覆っているため、魔王が知りたいものについて詳細を尋ねる。

「不思議な形をしているのよ。木でできていて。五本の糸がピンと張ってあるわ」

「ああ、それはきっとフィドルですね。音楽を奏でる楽器です」

「へぇー。こんな物から音が出たりするのね。貴様は、これが演奏できたりするの?」

「はい。多少の心得ならあります。この目と腕が治れば、ですけれども」

 それを聞いて、魔王は更にご機嫌になる。

「そう、なら一つ買っていきましょう。今日は本当に珍しいものが見つかったわ。まさか魔族の仲間になりたい人間がいるなんてね。あなた、名前はなんて言ったかしら?」

 男は魔王に敬意を払う様に頭を下げながら名乗る。

「ジルフォードです。ジルフォード・ソリッド。ジルとお呼びいただいてかまいません」

「ジル、ね。あなたのその目と腕、きっと治してあげるわ」

 ジルフォードの口元から笑みがこぼれる。ジルフォードは、失明の重症によって騎士として絶望的であった。だが、魔族ならばこの身体を治す手段があるのではないかと賭けに出ていた。そして、その賭けにジルフォードは勝ったのであった。

(姫様。あなたの騎士に相応しいのはこの私なのです。例え魔族に、この身体と魂を売ろうとも、貴方に私の忠誠の全てを捧げるためです)


 エルマの死から翌日、エルマの葬儀が行われた。クナトのたっての希望により、礼拝堂へと安置する前に、国をぐるりと周ることとなった。それは、エルマに自身が築き上げた国や人々を最後に見せてあげたいという想いと、エルマという偉大な人物を国民に覚えておいてほしいというクナトの願いからである。

 国民にとっても、エルマが亡くなったという知らせは唐突なものであった。しかし、ほとんどの国民がその葬儀へと参列した。多くの国民が一輪の花を手にして、エルマの棺桶へと添えていく。半日かけて国を周り終える頃には、大きな棺桶は花で満たされていた。そして、エルマの遺体は礼拝堂へと安置された。

 葬儀が終わると緊張の糸が切れたのか、シェレアは精根尽き果てるように倒れてしまった。この数日間、シェレアにとっては騒動の連続であり、怒涛のような日々であった。その溜めに溜まった疲れが一気に吹き出してしまったのである。そのまま、シェレアは一晩中、深い眠りへと落ちていくのであった。


 翌日、まだ日が出て間もない早朝の時間。クナトは礼拝堂の前でエルマの参拝をしていた。その傍らには荷物が纏められたリュックが置かれてあった。

「やっぱり、黙って出て行くのね」

 クナトに声を掛けたのはアシェリー女王であった。アシェリーはクナトのすぐ横に並ぶと、十字を切りながら祈りを捧げる。

「はい。お姫さんに行かないでくれ、なんて言われたら俺も辛いですから。……今までお世話になりました。それと迷惑を掛けてしまったこと、本当にすみませんでした」

 クナトはアシェリー女王へ深々と頭を下げた。この言葉からも分かるように、クナトは城を出て行くことを決意していた。

「いいのよ。シェレアちゃんのことも、エルマ様のことも、あなたには本当に心から感謝しているわ。むしろ、あなたの力になってあげられないことを、申し訳なく思うくらいよ」

「俺が出て行くことは、お姫さん、シェレアには、女王様からうまく伝えてください」

 そして、クナトはその場を立ち去ろうと踵を返す。

「お待ちになって。最後に一つ、私からのお願いを聞いてもらえないかしら」

 アシェリー女王は、いつもと変わらない微笑みをクナトへと向けていた。


「姫様! 姫様!」

 扉を強くノックされる音と、大声によって熟睡していたシェレアは目を覚ます。

(……そうか、我はあの後、ずっと眠ってしまっていたのか)

 シェレアは部屋のドアを開けると、侍女のユリエが血相を変えて扉の前にいた。

「今度は、なんの騒ぎなのじゃ?」

「……クナトさんが、クナトさんが部屋に居ないんです! 荷物も無くなっていまして、もしかしたら、お城を出て行ってしまわれたのかも、しれません」

 その知らせを聞かされたシェレアは、それ以上の詳しい話を聞くこともせずに、一目散に城の外へと向かい走りだしていた。

 クナトは纏めた荷物を手に、城の城壁の門を潜ろうとしてた。そこでクナトは大声で呼び止められる。

「待て! どこに行くつもりなのじゃ!?」

「……お姫さん」

 クナトが振り返ると、薄い肌着にボサボサな髪のまま、飛び出して来たシェレアが息を切らしていた。

「ここを、出て行くつもりなのか? エルマお祖母様に約束したではないか! ここを、この王国をずっと守っていくと!」

「俺は魔人だ。人と一緒にはいられない」

「そんなこと関係あるものか! 我がいる! 我がお前の居場所をつくって見せる。だから、どこにも行くな!!」

 シェレアはクナトをどこにも行かせまいと、無我夢中でクナトの右手首を強く握りしめた。

 クナトも辛い思いを押し殺しながら、やさしく、そしてシェレアを説得するためにも厳しい口調で言う。

「女王になるんだろう? この国をもっと良い国にしていくのだろう? 俺が傍にいると、きっとその夢を叶える邪魔になる」

「その程度のことで、我が夢を叶えられぬとでも思うのか!? 我を見くびるでない!」

「また俺を連れ戻そうと、魔王様がやって来ることだって十分に考えられるんだ。次はもっと大きな被害が出るかもしれない。俺は、俺の所為で人が傷つくのを見たくない。俺がここに居ていい理由なんて、何一つ無いんだよ」

「ダメだ! そんなこと、我は絶対に認めんぞ!」

 涙ぐむシェレアに、クナトは心が揺れそうになる。

「一生の別れにするつもりは無いよ。二年か、三年したら必ずまた顔を見に戻ってくるからさ」

「…………約束、じゃぞ。必ず、二年したら帰ってくるのじゃぞ」

「ああ、分かった。約束する、って説得力が無いのかもしれないけれど、二年後にはまた必ず帰ってくる。俺だって、お姫さんの成長を見届けたいんだから」

 クナトの手首を強く握っていたシェレアの手の力が緩む。

「それまで、少しの間だけさよならだ」

「…………」

 シェレアは黙ったままゆっくりと頷き、握っていた手をそっと離した。

 その腕でクナトはシェレアのクシャクシャな髪の頭を優しく撫でる。

「そじゃあ。元気でな」

 シェレアの頭からクナトの手が離れていく。その瞬間、シェレアの心の中で大切ななにかが抜け落ちたかのような錯覚を覚える。

 クナトの姿が遠く小さくなり、見えなくなってしまうと、シェレアは涙が止まらなかった。何度拭っても、上を向いても。涙は溢れ続けた。

(どうしてじゃ? どうしてこんなにも胸が熱くなるのじゃ? こんなに心が苦しくなるのじゃ?)

 さまざまな感情がシェレアの中でぐちゃぐちゃになっていた。一人残されてしまったことの寂しさ。引き止めることができない未熟な自分への怒り。クナトに対して、結局最後までなにもしてやれなかったことの後悔。

 シェレアは、一つずつそれらの気持ちに整理をつける。

 約束をした。二年後にまた帰って来てくれると。それまでの少しの時間を辛抱すればいい。待てない時間ではない。それまでに、クナトがここにずっと居られるよう皆を説得できるだけ成長すればいい、きっとできる。そして、ありったけの恩返しをすればいい。

(なにも、なにも問題など無い。寂しく思う必要も、悔しく思う必要もないのじゃ)

 そうやって答えを出し、気持ちを整理しているにもかかわらず、涙はどうしても止まらない。理屈などではない。もっと根本的ななにかがシェレアの心を締め付けていた。

(…………ああ、今、ようやくわかったぞ。我は、クナトと一秒たりとももう離れたくないのじゃな。ただ側にいてほしくて、仕方が無いのじゃな)

 クナトと離れたくない。その想いだけはもうどうしようもなかった。涙が枯れるまで泣き尽そうとシェレアは諦める。もうクナトはここには居ないのだからと。

 シェレアは泣き続けた。クナトと過ごした日々をずっと思い返しながら。本当にいろいろなことがあった。地下牢ではいがみ合い、バルコニーではこれからの国造りを語り合った。ダンスの特訓も二人だけの秘密であった。ドラゴンや魔人からは命懸けで守ってくれた。最後には……。

 思い出をたどる中、シェレアは最後にエルマと過ごしたときの記憶が蘇る。エルマが最後、シェレアへと言ってくれた言葉はなんであっただろうか。

 その言葉をシェレアは鮮明に覚えていた。そして、一つの考えがシェレアの頭を過る。途端にシェレアの涙はピタリと止まっていた。


 クナトは当面の旅の身支度をするために、街を巡っていた。当面必要となるものを一通り揃える頃には、すっかり日は高く昇っていた。

 街を発つため、町の外へと続く道を進む。そして、街の出入口に一人の小さい人影がクナトの目に入る。近づくクナトに気付いたのか、クナトに向かって手を大きく振っていた。

(……あれは、まさか)

 クナトはその見覚えのある背丈に悪い予感しかしなかったが、引き返すわけにも、無視するわけにもいかなかった。

「遅いぞ! まさか待たされるとは思っても見なかったぞ」

「ええっとぉ。……どうしてこんなところにいるのですか? お姫さんは」

 正門で待っていたのはシェレアであった。最後の別れの挨拶をしに来たといった様子ではない。身軽な衣服に、色々と詰め込まれているであろう大きなカバンを重そうに持っている。

「……まさかとは思いますけれど、一緒について来るつもりですか?」

「うむ! そのまさかじゃ!」

 見慣れたシェレアの迷いのない堂々とした表情に、クナトは頭を押さえる。

 シェレアがこの結論に至った理由は難しいものではない。クナトが立ち去った後、城の前で泣いていたシェレアは、エルマと最後に過ごしたバルコニーでのやり取りを思い返していた。そして、エルマが最後にシェレアに言った言葉を思い出したのだった。

 『外の世界を見て知るのも良い』――と。

 言われたそのときは、シェレアにとって王国が一番であり、国から出て行くなどと微塵も考えられなかった。しかし今、その言葉を思い出したとき、クナトと一緒に外の世界を見てみたいと心から思ってしまったのである。

「御主は反対するじゃろうが無駄じゃ! 我はもう決めたのじゃ! 何と言われようとも絶対に着いて……」

「いいよ。一緒に行こう」

「…………へ?」

 シェレアはクナトのこの返答に呆気にとられる。無茶なこと言っていることはシェレア自身が良く分かっていた。だから、絶対に反対されると思っていたし、どんなに反対されようとも、絶対に引かないと意気込んでいたからこそ、クナトがあっさり了承してしまったことにシェレアは拍子抜けしてしまう。こんなにもあっさりと了承されるとは夢にも思っていなかった。

「反対、しないのか?」

「反対してほしかったの?」

「いや、そんなことは決してないぞ! だが、いきなりこんな無茶なことを反対しないなんておかしいじゃろう!」

 外の世界には魔獣や魔人がいて、危険があることはシェレアも十分に思い知らされている。恐く無いなどと言えば嘘になる。だからこそ、クナトが反対をしない理由が分からなかった。

「まぁ、事情を話すと、交換条件みたいな感じで頼まれていたんだよ。女王様から」

「お母様から?」

「もし、お姫さんが一緒に行くと言い出したら、連れて行ってほしい。そして必ず無事に二人で戻って来てほしいって。城を出発する前に、女王様から事前にそう言われていたんだよ」

「そう、じゃったのか」

 アシェリー女王は、シェレアの考えそうなことを事前に予想していた。あくまでも可能性の一つに過ぎなかったのだが、もしも、今のシェレアの考えに至った場合は、シェレアの気持ちを汲んで、シェレアの自由にさせてあげようと、先に手を打っていたのであった。

 アシェリー女王には、最後まで二人とも頭が上がらなかった。

「一応、最後に念を押しておくけれど、旅は楽じゃない。大変なことも辛いこともきっとある。それでも来るかい?」

「当然じゃ! 御主と一緒なら何も怖いものなど無い!」

「わかったよ。それじゃあ出発……」「うりゃっ!」

 クナトが歩みを進めようとすると、シェレアはクナトの背中へとおぶさるように飛びついた。

「……お姫さん? これは、いきなりどういうつもりですか?」

「クナトに追いつくために、大急ぎでここまで走ってきて疲れているのじゃ。少しの間、我を背負って行くのじゃ」

「まさか、旅の間ずっと都合の良いようにこき使うつもりなんじゃ?」

「……違う、そうではない。クナトとは、これからは王女だとか、身分だとか関係なしに対等にいたい。だから、これは命令でもなんでもない。、駄目なら駄目と、そう言ってくれて構わない」

 シェレアはもっと言いたいことがあるのに、その素直な気持ちを上手く言葉にできないでいた。

「それと、じゃな。だから、我のことを『お姫さん』などと呼ぶでない。対等に名前で、呼ぶのじゃ。……呼んで、ほしい」

 シェレアはクナトの背中で少しだけ顔を赤らめる。

 クナトはそんなシェレアの気持ちを知ってか知らずか。困ったような、それでいて少しだけ嬉しそうな、そんな表情を見せる。

「……ハァ。……疲れが取れるまでの間だけ、だからな。……シェレア」

「うむ! 了解したぞ! ではいざ、外の世界へと出発じゃ!」


第五章 「旅立つ姫と魔界の騎士」-終-

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