第四章

 小刻みに揺れる馬車の中で、シェレアは憂鬱な気分に浸る羽目になっていた。

 シェレアと向い合って乗っている妹のティアナと騎士ギルバートは楽しげに会話をしている。

 そんな二人を横目に、シェレアは心の中でボヤいてしまう。

(なぜ我が、こんな肩身の狭い思いをしなければならんのじゃ)

 事の発端は二日前に遡る。ティアナが落ち着きのない様子でシェレアに頼み事をすることから始まる。


「お姉様。折り入ってお願いがあります!」

「なんじゃ? ティアナから頼み事とは珍しいではないか」

 ティアナの切迫した様子から、シェレアは何事かと身構える。

「じつは、ギル様から明後日、湖へ外遊に誘われたのですが、それに付き添ってはいただけないでしょうか!?」

「外遊? あのギルが、ティアナを遊びに誘ったのか?」

「……はい」

 一体何事なのかとシェレアは気を揉んだが、言ってしまえばただのノロケ話ではないかと、落ち着きのないティアナに対してシェレアは悠長に分厚い書物に視線を戻しながら答える。

「折角ギルがお前を誘ったというのに、なぜ我が二人水入らずの外遊に付き添わねばならんのじゃ?」

 ティアナとギルバートは、五日後に行われる初代女王の100歳を祝したパーティの催しの一つとして、ティアナがギルバートを正式な聖騎士とするための『誓いの儀』が執り行われることが決まっていた。

 だが、生真面目な性格のギルバートは騎士としての務めが多忙であったために、ティアナと共に過ごせた時間が少ないことを気に病んでいた。そのため、儀式の前に親睦を深めようと外遊へと誘ったのである。今までの堅物であったギルバートでは、騎士の務めに反するとして決して外遊などすることは無かったのだが、ようやく少しは気が利くようになったかとシェレアは感心するのであった。

「ですが、二人っきりだなんて。わたくし、どうしたらいいのか分からなくなってしまいまして」

「そんなもの、いちいちかしこまらんでも良いであろう。いつも通りでいいのじゃ。いつも通りで」

「そうは言われましても、わたくし、今から緊張してしまって。このままだと折角のギル様のご厚意を台無しにしてしまいます。お願いですお姉様! お姉様がお側にいてくださされば少しは緊張もほぐれると思います!」

 普段はシェレアよりも気品に溢れ大人びた振る舞いをするティアナであるが、まだ15に満たない少女。このように幼い一面も残っている。

 シェレアも妹の頼み事とあっては無碍に断ることもできずに、渋々ながらもその申し入れを了承したのであった。


 そして日付は変わり、今日がその外遊の当日。馬車で湖へと向かっている真っ最中なのである。

「それにいたしましても、なにもこんな大勢で来られなくても。護衛だなんて、ギル様がお側にいてくださされば、それで十分ですのに」

 ティアナは不機嫌そうに文句を言うと、ギルバートがそれを優しくなだめる。

「『誓いの儀』を間近に控えたティアナ様の御身に、万が一のことがあってはなりません。どうか、国王のお気持ちもご理解ください」

 ティアナは三人だけの外遊だと楽しみにしていたのだが、現実は違ってしまっていた。三人が乗る馬車の周囲には20人余りの兵士が護衛として付いているのである。シェレアの父、ルグレッド王が娘二人を心配しての計らいであった。

「兵士達には護衛などと気を張らずに、気晴らしのつもりで構わないと言ってあります。ですから、周りの者達のことはどうかお気になさらずに。それにもし万が一があろうとも、このギルバートが必ずお守り致します」

「まぁ。それは頼もしいですわ」

 二人の仲睦まじいやりとりの中、シェレアは退屈そうに過ごしていた。

 そんなシェレアを気遣ってか、ティアナが提案をする。

「お姉様。よろしければクナト様をここにお呼びいたしませんか? 護衛として付いてきていらしているのでしょう?」

「それは名案です。ティアナ様にも彼を紹介したいと考えていたのです」

 そんな二人の気遣いを、シェレアは軽く手を振りながら遠慮する。

「我に構うことは無い。折角二人のための外遊であろう。我への気遣いなど無用じゃ」

 シェレアは断りながらも、働き詰めとなっているクナトを遊びに連れ出すのも良い考えなのかもしれないと思いふけるのであった。

(もし我が誘ったら、あやつは喜んでくれるじゃろうか?)


 シェレア達を乗せた馬車から後方の離れた位置に、クナトは護衛として周囲の警戒をしていた。周辺をしきりに見渡して危険が無いか確認をする。

 そのクナトに騎士団長のレナードが声を掛ける。

「クナト殿。なにもそんな熱心にならずとも大丈夫です。この辺りは安全なのですから」

「……はい」

 今通っている道は、つい先日にも遠征で通った道であり、そのときは確かに危険と言えるものは無かった。しかし、そのときには感じられなかった僅かな異臭のようなものが、風に乗って漂っていることにクナトは違和感を感じていた。

「すみませんっ。少し辺りを見回ってきます!」

 クナトはそう言い残して、林の中へと馬を走らせた。クナトは胸騒ぎを感じていた。クナトが感じ取った異臭は、紛れもなく血と死臭の匂いであった。


 馬車が目的地の湖へと到着すると、ティアナははしゃぎながらギルバートの手を引っ張って馬車から降りて行く。

 シェレアは馬車の中で一人残るが、この暇な時間を無駄に持て余したりはしない。城の図書館から持ち出した国の財政に関する書物を開いては読み進める。シェレアは国を変えていくと決意した日から、こうして時間があれば書物を読み、政策の勉学に励んでいる。特にここ数日は寝る時間をも惜しむ程であった。しかし、それによる寝不足と心地の良い昼の木漏れ日に、いつの間にかシェレアは眠りに落ちてしまうのであった。


「……一体、どうして? ここで何が?」

 クナトは唖然とする。

 胸騒ぎを感じて隊から離れたクナトが、血の匂いを辿った先で目にした光景は、言葉にできない惨状であった。

 林の木々は鋭利な刃物で切り倒され、そして、何十匹という大型の魔獣がバラバラの死体と成り果てて辺りに散乱し、その一帯を大量の血と肉片で地獄絵図へと染め上げていた。

 そして、もし殺されている魔獣も、人里に迷い込むような低俗な種族ではなかった。肉片と化してはいたが、その魔獣が何者であるのかは一目瞭然であり、事態の深刻さを物語っていた。

(いけない! このままじゃ、お姫さんが危ない!)

 クナトは、この事態に急いで来た道を引き返して、シェレアたちの下へと馬を走らせるのであった。


 ガタンッと、走る馬車の揺れにシェレアは目を覚ます。

(…………いかん。どのくらい眠ってしまっていたのじゃ?)

 馬車の中にはシェレア一人だけであった。一人であるのにもかかわらず、馬車がゆっくりと走っていることにシェレアは疑問を抱く。

「おい! 誰が馬車を動かしておるのじゃ!?」

 シェレアの呼び声に馬車はすぐに止まった。そして、黒の長髪に黒衣の服を纏った騎士が馬車のドアを開けた。

「よく眠っておられましたが、お気分の方はいかがですか? シェレア姫」

「御主であったか、ジル。これはなんのまねじゃ?」

 ジルと呼ばれた騎士、ジルフォード・ソリッド。ギルバートと並ぶ実力を持つ騎士である。そして、シェレアの聖騎士にはジルフォードが相応しいと、囁く王族がいるほど優秀な人物でもある。

 シェレアは何かしらの根端を持って行動しているであろうジルフォードに、疑念を抱き警戒する。

「そんなに睨まないで頂きたい。私はただ、姫様とゆっくりお話をしたいだけですよ」

 ジルフォードはそんなシェレアの疑いの眼差しを意に介さずに、馬車の中へと乗り込む。

「そんなもの。わざわざこのような人気の無い所に連れ出すまでもないであろう」

「いいえ、大声を出されても周りの者達から邪魔が入らないようにしたまでです」

 シェレアはジルフォードのこの不穏な発言に、更に警戒心を強くする。しかし、それは既に手遅れであった。

 ジルフォードは突然、シェレアへと両腕を押さえつけながら押し迫った。

「御主! 何をする!? 離さないか!!」

 シェレアは必死に手を振り解こうとするが、か弱い少女が鍛え上げられた騎士の力には到底敵わない。

「あなたは、自分の立場というものをまるで理解していないのです。あなたは将来、王国の頂点に立たなければならない御方。そして、それに相応しい聖騎士を選ばなければならないのです」

「それが貴様だとでも言いたいのか? 思い上がりも甚だしいぞ! ジルフォード!」

「あのような下賎な輩と悪い噂が囁かれては、あなたの名が汚れてしまいます。だからこそ、そうなる前に周りの者達にも、シェレア姫ご自身にも、誰が聖騎士に相応しいのかを理解していただく必要があります」

 この一方的で歪んだジルフォードの主張を、シェレアはこれ以上聞くに耐えなかった。周囲に助けを求めるために大声をあげる。

「無駄ですよ、姫様。今周りにいる者達は、私の息がかかった兵士達だけです。大声をあげたところで、誰も助けには来ません」

「こんなことをして、ただで済むと思っておるのか!」

「このことは、あなたのお祖母様、シルヴィア様がお望みになられたことでもあるのです」

(そういうことか。この手際の良さは、裏でお祖母様が手引しておるのか。いかにも、お祖母様がやりそう強引な手じゃ)

 権力を得るためならば手段を選ばない性格であるシェレアの祖母シルヴィアが関わっていると知り、事態の深刻さをシェレアは理解する。

「姫様にはその身を以て、誰があなたに相応しいかを自覚していただかねばなりません。たとえ、それによってあなたの心に深い傷を付けることになろうとも、その刻まれた傷跡が、私という存在を永遠に忘れさせなくするのです」

 ジルフォードの顔がゆっくりとシェレアへ近づけられる。シェレアは、顔を背けて目を瞑るが無駄な抵抗に過ぎなかった。

(クナトッ……!!)

 シェレアは心の奥底で強くクナトの名を叫んだ。途端、ジルフォードの動きがピタリと止まる。

「……また、あの男のことですか!」

 シェレアの口からごく僅かであったが、クナトの名を呼ぶ声が漏れていた。そして、シェレアも我に返ると困惑してしまう。

 それは無意識のことであった。無我夢中で助けを求めていた。でも、どうして真っ先に頭を過ぎったのがクナトであったのか、シェレアにはその理由が分からなかった。

 だが、ジルフォードはそのシェレアの心の底を見抜いてなのか、嫉妬するように奥歯を噛みしめる。

「姫様。あなたはやはり、あの男に……っ」

 ジルフォードが言いかけた矢先、突然馬車が大きく揺れる。馬が取り乱したように暴れ始めたのである。

「くっ!? こんなときに何だというのだ!?」

 シェレアは気を取られたジルフォードの隙を見て、拘束を振り解いて離れる。身の危険から脱せられたことで少しだけ胸を撫で下ろすが、それも束の間の事であった。突然に取り乱した馬は必死に何かから逃れようと、旗手のいないまま勝手に馬車を引っ張り走り出してしまう。しかし、道の悪い林道では、馬車はすぐにバランスを崩して横転してしまった。

 それは激しい衝撃であったが、幸いにも馬車の中にいたシェレアに怪我は無かった。

 ジルフォードがその身を挺してシェレアを庇ったのである。しかし、庇った代償として、ジルフォードは割れたガラスで頭部を切り、頭から鮮血が流れていた。更に利き腕を骨折したのか、痛みで顔をしかめる。

 決して気の許せる相手ではないが、その身を挺して庇ってくれたジルフォードに、どう声を掛けていいのか、シェレアは戸惑ってしまう。

 しかし、そんな何かを言いたげなシェレアの口元をジルフォードはそっと手で抑える。

「どうかお静かに。……何かが、近くにいます」

 ジルフォードは痛みを押し殺しながら立ち上がると、横転し空へと向いた馬車の扉を開けて這い上がる。警戒するように周囲に意識を向けると、気配を感じて頭上へと視線を向ける。そして、上空に広がる異様な光景に、ゾクリと背筋が凍った。

 遥か上空を無数の紅い魔獣が甲高い咆哮を上げながら飛び交っていた。その殆どは、人間よりも一回りか二回り大きい程度であるが、その中でも一際巨大な一匹の魔獣にジルフォードは目を奪われる。巨大な翼に赤黒い鱗、鋭い爪と牙。それは魔界の地に生息すると言い伝えられるドラゴンの姿そのものであった。

 まるでこちらの様子を伺っているかのように、ドラゴンの群れは馬車を中心に旋回を続けている。そして、ジルフォードの姿を捉えてなのか、何匹かのドラゴンがこちらに向かって降下を始めた。

「どうしたのじゃ? ジルフォード、外に何がおるというのじゃ?」

「姫様、どうかこの中で隠れていてください」

 ジルフォードは馬車から離れ、ドラゴンを迎え撃つために剣を構えようとする。しかし、利き腕の怪我の痛みによって、剣を握る手に力が入らない。

 そうしている間にも、ドラゴンがジルフォードのすぐ真上を飛び交う。すぐに襲いかかることはせずに、ゆっくりとジルフォードの隙を伺うように旋回を続ける。

 それならばと、ジルフォードは剣を地面に突き立て、仁王立ちのまま目を閉じ、ドラゴンへの警戒心までも解いてしまう。不意討ちや騙し討ちを得意とするジルフォートは、敢て隙を見せながらも、周囲の音と空気の動きのみに全神経を研ぎ澄ませ、反撃に徹する戦術をとる。

 そして、それに誘われるように、ドラゴンの一匹がジルフォードに喰らいつこうと背後から襲いかる。

 ジルフォードは紙一重でその攻撃を避け、すれ違いざまにドラゴンの片翼を切り落とした。

 片翼となったドラゴンは、地面へと転がるように落下し、痛みにもがき苦しむ。

 ジルフォードも負傷した腕の痛みで苦悶の表情を浮かべる。回避行動も一歩間違えれば間違いなく噛み殺される死の瀬戸際の中、たった一匹を倒すのにも神経を削る思いであった。

 ドラゴンの群れは、一匹が倒されようとも怯む気配はまるで無い。二匹、三匹と立て続けにジルフォードへと襲いかかる。

 ジルフォードも利き腕がまともに使えない状況では、その絶え間ない攻撃を捌き切ることは不可能であった。ドラゴンの突進をまともに喰らい、倒れた身体の上半身を踏みつけるようにのしかかられると、身動きが取れなくなってしまう。

 そして、ドラゴンはまるで人間の弱点を熟知しているかのように、鋭い爪でジルフォードの両目を抉るように切り裂いた。

「ぐっ、があぁぁ――――!!」

 ジルフォードは激痛に悶絶し、もがき苦しむ。決死の思いでドラゴンへ剣を突き立てようとするが、ドラゴンは致命的な一撃を喰らわせると、すぐにジルフォードから離れ、上空を飛んでいた。

 ドラゴンはすぐに殺そうとはしていない。まるでもがき苦しむさまを楽しんでいるかのようでもあった。

 視力を失ったジルフォードはもはや絶望的な状況であった。次のドラゴンの攻撃を避けることはもう適わない。ジルフォードは覚悟を決めた。

 だが、状況は大きく変化する。辺りの様子が突然に騒がしくなり始めたことをジルフォードも感じ取った。

「ジルフォード様! ご無事ですか!?」

 仲間の兵士の声であった。仲間の兵士達が助けに駆けつけたのである。

「遅いぞ。一体何をしていた」

 ジルフォードは自分の配下の兵士を二人、馬車の近くに待機させていたが、その兵士二人は、ドラゴンの姿を見るとジルフォードのように立ち向かうことなどできず、すぐさま助けを呼びにその場から撤退していた。

 馬に乗ったレナードが弓を構えながら叫ぶ。

「ジルフォード殿! シェレア姫はどこにおられますか!?」

 レナードの放つ矢は、次々にドラゴンの急所を的確に射抜いていく。

「そうだ! 俺のことはいい! 姫様をお助けしろ! 姫様は馬車の中に隠れて……」

 ジルフォードの声を遮るように、その場を強烈な突風が吹き荒れる。

 遥か上空を飛んでいた巨大なドラゴンが急降下し、その巨大な翼で人さえも簡単に吹き飛ばす勢いの風を舞い起こしていた。他のドラゴンとは比較にならないその全長は、ゆうに20メートルをも超えていた。

 その圧倒的な存在感に兵士達は誰もがたじろいでしまう。

 レナードは巨大なドラゴンへと弓矢の狙いを定めて放つが、その軌道を他のドラゴンが割り込み、庇うようにその身で弓矢を受ける。そして、レナードが次の矢を構える隙を与えることなく、周囲のドラゴンが一斉にレナードへと群がるように襲いかかる。

 レナードはその攻撃を凌ぐために、林の間を縫うように馬を走らせながら、迫り来るドラゴンに限りある弓矢を消耗させていく。

 巨大なドラゴンは兵士達には目もくれずに、長い首を動かし、横転した馬車の中を覗きこむ。

 馬車の中では、一人取り残されたシェレアが異常な騒ぎに震えていた。そして、窓の隙間から巨大なドラゴンの瞳に睨まれると、恐怖で悲鳴をあげる。

 巨大なドラゴンはシェレアの存在を確認すると、足の鉤爪で馬車を鷲掴み、飛び去ろうと大きな翼を大きく羽ばたかせる。それはまるで、シェレアを連れ去ろうとしているようであった。

 周囲の兵士達では、それを阻止しようにもどうすることもできない。

 レナードもドラゴンの群れに肝心な弓矢を既に切らしてしまっていた。できることはシェレアの名を叫ぶことだけであった。

「シェレア姫――――!!」

 そのレナードのすぐ横をすれ違うように馬が駆け抜ける。ドラゴンの群れを掻い潜りながら、馬の騎手は上空へと持ち上げられている馬車の車軸へと鉤縄を投げつけ、括り付けることに成功する。

 それと同時に、巨大なドラゴンは遥か上空へと一気に飛び立つ。

 鉤縄を強く握っていた騎手も、それに引き上げられるように上空へと舞い上がる。

 空の彼方へと舞い上がった騎手の姿を、レナードはっきりと捉える。そして、その騎手の名を叫ぶのであった。

「クナト殿――――!!」

 瞬く間に遥か遠くへと飛び去って行くドラゴンを追うことは困難であった。レナード達はクナトを信じて、すべてを託す他に術は無かった。


 ドラゴンに連れられ空を飛ぶ馬車の中、シェレアは膝を抱え死の恐怖に泣きながら震えていた。このままドラゴンに食い殺されてしまうのか、それとも、馬車ごと地面へと落とされてしまうのか。そんないつ訪れるとも分からない自分の末路を想像してしまうと、恐怖で胸が押し潰されそうになる。

 シェレアは絶望しながらも、すがる思いで弱々しく囁き続ける。

「……クナトォ、…………クナトォォ」

 何度クナトの名を呼んだところで、遥か空の彼方では助けなどありはしない。そうであると分かっていても、今のシェレアにはただ奇跡を祈ることしかできなかった。

 そして、激しく風を切る音にかき消されてしまいそうなほどの僅かな声が、シェレアには聞こえた気がした。幻聴などでは決してない。

「――――っ!! ――――さーんっ!!」

 間違いなくシェレアを呼ぶ声であった。

「――姫さーん!! お姫さ―――ん!!」

 そしてそれは紛れもない、クナトの声であった。

 クナトは強風に激しく煽られる中、ロープを手繰り寄せながらシェレアを大声で呼び続けていた。

 クナトの声が届いたシェレアは、必死の思いでクナトの名を叫び返した。

「クナト!! クナト―――!! クナトォォ―――!!」

 そして、シェレアの思いが届いたのか、歪んだ馬車の扉が開け放たれる。

見間違えるはずがない。そこには、クナトの姿があった。

「お姫さんっ!!」

「クナト、……クナトォ~~!!」

 シェレアはクナトの姿を目にすると、一目散にクナトへと走り抱きついた。

 クナトも無事なシェレアの姿に安堵する。そして、一人孤独で不安であったであろうシェレアを少しでも安心させるために、クナトはその小さい頭を両腕で包むように優しく撫でる。

「もう大丈夫だよ。必ず、必ず助けるから」

 クナトが来てくれただけでも、シェレアにとっては十分に救われた気持ちであった。

 しかし、絶望的な状況であることに変わりはなかった。ここが空の彼方である限り、逃げることも、ましてやドラゴンと戦うことなどできはしない。

 それでも、クナトには全く諦めるような様子は無かった。

「お姫さん。目を瞑って、しっかりと俺に掴まっていてくれ」

 シェレアは何も聞き返さずに、クナトをただ信じる。言われたままに目を閉じて力一杯にしがみ付いた。

 クナトはシェレアを抱えたまま、馬車の外側から上へとよじ登る。そして、ドラゴンの巨大な鉤爪の足を力強く掴んだ。

 目を閉じていたシェレアには、その後にクナトがなにをしたのかは分からなかった。

 ただ突然、ドラゴンは苦しそうに咆哮を上げると地上へと急降下を始めた。ドラゴンが自らの意思で降下しているのではない。何かに引きずり降ろされるかのように暴れながら落ちているようであった。

 このままでは振り落とされるか、ドラゴンと一緒に地面へと落下しまうのではないか。そんな不安がシェレアの頭を過ぎる中、クナトがシェレアの耳元で大きく叫ぶ。

「湖へと飛び込むよ! 大きく息を吸って!!」

 言われた次の瞬間、ドラゴンから離れ重力に引き寄せられるままに二人は空中を落下する。

 シェレアは落ちる恐怖に悲鳴をあげながら、湖の水面に落下すると激しい水しぶきを上げた。

 シェレアは水中を無我夢中で泳ぎ、なんとか水面へと浮き上がることができた。息を切らしながら辺りを見渡す。

 巨大なドラゴンは、遠くへと離れるように飛び去っていた。もうシェレア達を襲う気配はない。

 岸辺も見え、今のシェレアでも十分に泳いで辿り着ける距離であった。シェレアはこれで助かったのだと、心の底から安堵した。

 岸辺に向かい泳ぎ始めようとしたとき、あることに気が付く。辺りを見渡しても、その湖の水面にはシェレア一人だけであった。

「クナト? どこにおるのじゃ? おい、クナト!? ……クナトォ!!」


 クナトは湖の中をゆっくりと沈んでいた。

(……ああ。体が重くて、まったく動かないや。やっぱり、無茶しすぎたかな。でも、いいか。最後に、たった一人でも、女の子を救えたんだから)

 クナトは意識が薄れゆく中、ゆっくりと目を閉じるのであった。


 一人の幼い少年が、泣いていた。

 そこはとある国の貧民街。木の板を骨組みに布を巻いただけの家と呼ぶにはあまりに粗末でみすぼらしい小屋の中で、少年は泣いていた。

 そんな少年を、母親が見つけると優しくなだめる。

「どうしたの? また、いじめられたの?」

 少年は頷く。

 母親は床に腰かけて、少年の顔を抱きしめる。少年が母親の膝の上に顔をうずめてぐずりながら何があったのか説明するのを母親は静かに聴く。

 貧しい少年は、街のゴミを漁っては汚れた服や布、貴金属などを集めて、街道の橋の下にある水路でそれらをきれいに磨いては、路上の片隅でそれらを売る。はした金にしかならないが、それでも幼い少年が金を稼ぐには、それくらいの方法しか無かった。

 今日もまた、橋の下の水路で拾ってきたものをきれいに磨いていた。そうしていると、橋の上からゴロゴロとリンゴが三つ落ちてきた。誰かが橋の上から落としたのである。

 少年は、すぐにそのリンゴを拾い上げて、服の下へと咄嗟に隠してしまう。しかし、すぐに橋の上から少年は呼び止められる。

「きみ、今ここにリンゴが落ちて来なかったかい?」

 知らない。そう答えれば、このリンゴが手に入るかもしれない。今日は空腹に苦しむことはなくなる。そんなことを考えながら、少年はおずおずと三つすべてのリンゴを服から出して差し出した。

「おお、今取りに行くから待っててくれ」

 男性がそう答えると、男の妻であろうか、女性がそれを止める。

「ちょっと、もういいわよ。あんなもの。あんな子なんかに関わらないで」

 そして、その夫婦はそのままその場から離れていなくなってしまった。

 このリンゴはもういらない。あの人達はそう言った。

 少年はそのリンゴを持ってすぐに家へと帰ろうとする。しかし、また別の人物が少年に向かって叫んだ。

「ドロボウだ! ドロボウだ!」「いい子ちゃんぶってた奴がとうとうやりやがった!」

 少年よりも年上の貧民街に住む悪ガキ二人組であった。

「そのリンゴ。俺らが返して来てやるよ」

 その悪ガキは、少年からリンゴを無理やりに奪おうとする。

「おら! とっととよこせよ! このドロボウ野郎が!」

 悪ガキどもは、必死にリンゴを守ろうとする少年の顔や腹を何度も殴り付けた。だが、そんな暴力はいつものことであった。

 悪ガキどもは、決して殴り返さない少年をいいことに、暴力を振るっては少年の物を奪っていく。

 そうして傷だらけにされ、リンゴも取られてしまった少年は、家で泣いていたのであった。

 事情を聴いた母親は、少年を優しく抱きしめる。

「そう。正直にリンゴを持ち主に返そうとしたのね。とっても偉いわ。暴力だけは絶対にしてはいけないって言い付けもちゃんと守っているのね。あなたは私の自慢の子よ。お母さん、そのことがとっても嬉しいわ」

 母親は、膝元で泣く少年を優しい言葉であやしていく。

「痛くて辛かったわね、でも、もう大丈夫よ。頭を空っぽにして、目を閉じて、ひと眠りしなさい。眠れるまで、こうしていてあげるから」

 貧しく、飢えに苦しみ、凍える寒さに耐える日々の中、母親に優しく抱きしめられ、優しさに包まれるこのひとときが、少年にとって唯一幸せを感じる瞬間であった。

 どうして、母親はこんなにも優しく微笑むことができたのであろうか。少年と同じで、貧しく、苦しい生活であったはずなのに。その理由を知る術は、もう無かった。その理由を知ることができなかったのが、ずっと心残りであった。


 クナトが次に目を覚ましたとき、そこは天国でも地獄でもなかった。肺に入った水を咳き込みながら吐き出す。呼吸が元に戻ると、まだ生きているのだと少しずつ実感する。

 クナトが意識を取り戻したのは湖の岸辺、シェレアの膝の上であった。

 湖の底深くで死を受け入れたクナトであったが、なぜかこうして生き長らえていた。

 そして、クナトのすぐ側では、シェレアが大粒の涙を流しながら、睨みつけていた。

「この、戯けが! ずっと目を覚まさないから、もう、死んでしまったのじゃと、よかった。生きてて、くれて、……うぅ、うあぁあぁあぁ!」

 シェレア大粒の涙を流し続ける。

「そうか、お姫さんが助けてくれたのか。……ありがとう」

「あたり、まえじゃ。グズッ。本当に、死んだのかと、思ったのじゃぞ。この、大バカ者がぁ」

「うん、ごめん。ごめんね」

 泣き続けるシェレアをクナトはなだめるように、優しく頭を撫でるのであった。

 

 その後、二人はレナードの魔法による探索によって運良く発見され、日が落ちる前に無事に城への帰路に就く。

 レナードと共に馬に乗るシェレアは、道行く途中でレナードに事の詳細を尋ねる。

「今回の一件、被害はどれほどだったのじゃ?」

「……死者は、一名になります。負傷者もかなりの人数となりました。特に、ジルフォード殿は重症であり、失明は免れないかと」

 レナードの口は重たかった。理由はドラゴンの被害によるものだけではなかった。レナードはジルフォードの名前を口にすると、ジルフォードの愚行についても、シェレアに謝罪をする。

「ジルフォード殿の件、シルヴィア様のご命令とは言え、申し訳ありませんでした。やはり止めさせるべきでした」

 シェレアは、ジルフォードに押し迫られたことを思い出す。レナードになら事前に話が通っていてもおかしくはない。そして、立場上シルヴィアに逆らえないこともシェレアは十分に理解していた。

「その件についてはもう良い。ジルフォードも大きすぎる報いを受けたのじゃ。いまさら、我がとやかく言うつもりにはとてもなれん」

 そのシェレアの言葉を聞いても、レナードの思いつめた表情が晴れることは無かった。レナードには、もう一つ重大な問題を抱えていた。

 それは、クナトがシェレアを救出しているその一方で、レナードはドラゴンの群れから逃げているときに起こっていた。

 レナードは矢を撃ち尽くした状態でドラゴンの群れから逃げるように、林の中へと馬を走らせていた。レナードは逃げながらも、木々の枝をへし折って手に持つと、枝を勢いよく真正面へと投げナイフのように放つ。その尖った枝先は軌道を大きく変え、レナードの後方上空を飛ぶドラゴンの眼球へと突き刺さった。

 ドラゴンは堪らずに、その場に落下する。

(よし、あと一匹)

 レナードが次の枝へと手を伸ばそうとしたとき、馬が木の根に足を取られて落馬してしまう。

 レナードはすぐに起き上がるが、残った一匹のドラゴンに追いつかれ、鋭い爪による攻撃が頬をかすめる。剣を巧みに使いドラゴンの攻撃をどうにか凌ぐが、それも時間の問題であった。老いによる衰えた身体では、レナードの攻撃はドラゴンの硬い皮膚に弾かれ刃が通らない。もはやこれまでかとレナードは覚悟を決めた。

 だが次の瞬間、ドラゴンは体中から血しぶきを吹き上げ、バラバラに斬り裂かれた。

 レナードは突然の出来事にただ呆然と立ち尽くしてしまう。そして、背後から声が発せられた。

「いやぁ。なかなかに興味深いものを見せていただきました」

 レナードは声のする方向へと振り返る。そこには、赤い甲冑姿の騎士がいた。いや、その甲冑は鉄や鋼などでできてはいない。生物としての身体の一部、硬く分厚い甲殻がまるで皮膚のように全身を覆っていた。

 そして、レナードはその異形めいた姿の相手が何者であるのか、一つの憶測が頭を過る。

「魔人、……なのですか?」

「はい。どうもお初にお目にかかります、ご老人。私はニルキスと申します。ご察しの通り、魔人でございます」

 ニルキスと名乗った魔人は、相手に敬意を払うように手のひらを胸に当てながら、頭を下げて見せる。

「一つ、お尋ねしたいことがあるのですが、よろしいでしょうか?」

 レナードは何も答えずに剣を構えるが、その魔人からは戦う素振りや、意志などは全く感じられなかった。

「あの馬車の中には、一体どのような人物が乗っていたのですか?」

 レナードは表情一つ変えることなく、口を開くことはしない。

「ドラゴンに連れさらわれた方ですよ。あの馬車の中には誰かが乗っていたはずです。どのような人物が乗って……」

 魔人が質問をする途中、一人の兵士がレナードのいる周辺へと馬で駆け付けていた。

「レナード団長! どちらにおられるのですか!?」

 それは、レナードを慕う兵士であった。ドラゴンから逃げるレナードの後を追って来たのである。

「近づいてはなりませんっ! 早く離れるのですっ!」

 レナードは兵士に向かって叫ぶが、その願いは届かなかった。

「レナード団長! 良かったご無事なので……」

 兵士はレナードの姿を見つけると、魔人の存在に気づかないまま、その場へと近づいてしまう。そして、なんの前触れもなく、兵士の身体から首の上が跳ね飛ばされる。それは、まばたきのような一瞬の出来事であった。

「私が話をしている最中です。静かにしていてもらえませんか?」

 魔人の指先、爪の先から赤く細い糸状のなにかが伸びていた。レナードはそれが鞭のようにしなり、刃物のように兵士の首が切断されたのを魔法の視界によって捉えていた。そして、それがこの魔人特有の能力なのだと理解する。

 仲間の兵士を殺されたことにレナードは怒りで身体を震わせるが、その圧倒的な殺傷力の高い能力を前に、身動き一つできなかった。

「さて、質問に戻らせていただきましょうか。あの馬車の中にいたのは誰なのでしょうか?」

 レナードにとって、その問いを答えるわけにはいかなかった。魔人の質問の意図が全く分からない状況で、もしシェレアの名を口に出した場合に、シェレアや他の王女の身にどんな危険が及ぶのか想像もつかなかった。

「どうして、私がそのようなことを尋ねるのか? そんな顔をしておりますね。では、少しこちらの事情をお話しましょう。我々魔人は、魔力が命の源であり、生きるためには魔力を供給し続けなければなりません。私は魔力を得るために、高い魔力を有するドラゴンを数匹ばかり狩ったのですが、最後の一匹が仲間を呼び寄せていたようでして、あのようなドラゴンの大群に追われる羽目になってしまったのです。殺しても殺しても切りがなく困っていたのですが、どうしてなのか、ドラゴンはあの馬車を襲ったのです。これは大変に興味深い。ドラゴンは、魔力を感じ取れる数少ない種族なのですが、あの馬車の中には、私と同等か、私を凌ぐ魔力の持ち主がいたために襲われた可能性があります。ドラゴンもまた、魔力を持った魔獣などを餌としていますから」

「何を言っているのやら、私にはさっぱりわかりませんな」

「……まぁ、答えるつもりがないのでしたら、それでも構いません。おおよその検討はついています」

 ヒュルヒュルと、赤い糸の鞭が蠢く。

 レナードはその糸で兵士やドラゴンと同じように、自分の身体も切り裂かれる末路を想像し、死を覚悟する。

 しかし、魔人がレナードを攻撃することは無かった。

「あなたも、少しは魔力を有しているようですが、長生きはするものですねぇ。私は老いた老人の血に興味などありませんから」

 赤い糸はドラゴンの死体へと伸びる。そして、血だまりから糸を通して魔人の体内へと吸い上げているようであった。

「そうそう、ドラゴンに連れ去られた方ですが、もしかしたら助かっているかもしれませんよ」

「!? なぜ、そんなことが分かる!?」

「いえいえ、助けに行った方ですが、もし私の見間違いでなければ、の話ですよ」

(この魔人が言っているのは、クナト殿のことなのですか? この魔人はクナト殿を知っていると? もしそうでしたら、クナト殿は一体)

 クナトとの関係を尋ねるべきか、レナードが迷っているとニルキスは踵を返す。

「では、私はこれで失礼いたします。機会があれば、またお会いすることもありましょう」

 ニルキスはそんな不穏な言葉を残しながら、林の中へと静かに去って行く。


「レナードよ。どうしたのじゃ。じっと考え事をして」

 黙り込むレナードをシェレアが声を掛ける。

「いえ、なんでもございません」

 レナードは胸騒ぎを感じていた。シェレアの身に、また危険が及ぶのではないかと。

 そう感じているのはレナードだけではない。クナトもまた同じように危惧していた。クナトが目にした無残なドラゴンの無数の死体。ドラゴンを殺した何者かがいるのは明白であった。そして、そんなことができるのは魔人しかいないと確信していた。

 今、国のすぐ近くに魔人が潜んでいるかもしれない。

 その拭い切れない不安を抱えたまま、二人は城へと戻るのであった。


 ドラゴン襲撃の一件から三日間が過ぎていた。

 その一件以来、クナトはシェレアと会っていなかった。クナトはいつもと変わらずにバルコニーへと足を運んだのだが、そこにシェレアが現れることは無かった。あの一件で、シェレアに何かあったのかとクナトは心配していたが、侍女達からの話では、シェレアに変わった様子はないとのことであった。実際クナトも、いつも以上に城中をせわしなく移動するシェレアの姿を何度も見かけていた。あれほどの危険な目に会いながらも、その立ち直りの速さは流石お姫さんだと、クナトは感心してしまう。

 そして、忙しそうにしているのはシェレアだけではない。城内は今、誰もが慌ただしく働いていた。事件の不安や重たい空気を払拭するかのように、パーティの準備が進められているのである。

 今日は初代女王エルマが100歳を迎えるという記念すべき日。この偉業を城の関係者が総出で祝福するのである。

 時刻は14時。玉座の間にほぼ全ての王族と騎士が集まっていた。パーティの日取りに合わせ、ティアナ王女が騎士ギルバートを正式な聖騎士とするための『誓いの儀』と呼ばれる儀式が執り行われようとしていた。

 玉座にアシェリー女王が座り、その左右の椅子にはシェレアとティアナが座る。

 騎士団長のレナードが時刻を見計らい、儀式を始める挨拶をする。

「これより、ティアナ・シュトレイアス王女と騎士ギルバート・レイアスの『誓いの儀』を行う」

 ティアナは椅子から立ち上がり、毅然と、それでいて美しい声を響かせる。

「騎士ギルバートよ。前へ出なさい」

「はっ」

 白い正装に身を包んだギルバートが、ティアナの前へと赴き跪く。

「ギルバート・レイアス。汝は我が剣となり戦い、また我が盾としてこの身を守ると、誓いますか」

「はっ。この命に代えましても、必ずお守りすると誓います」

「その身が朽ち果てるまでの生涯を、我が聖騎士として捧げると誓いますか」

「はい。我が身、我が魂のすべてをティアナ様に捧げます」

「それならば、ギルバート・レイアス。汝をシュトレイアス王家の眷属として認め、シュトレイアス王家の名、そして聖騎士の称号と力を授けます」

 ティアナは、ゆるやかな階段を悠然と降りる。

『誓いの儀』は、騎士が王女へ誓いを立てることから始まる。その誓いにより、騎士は王家の一族として認められ、そして、力となる魔力と魔法を授かるのである。

 ティアナが階段を降りると、レナードもティアナの下へと赴き、シュトレイアス王家の紋章が彫られた小さい短剣を掲げるように差し出す。

 ティアナはその短剣を手に取り鞘から抜く。

「王家の紋章が刻まれたこの短剣と、我が身に流れる王家の血をもってして、誓いの証とする」

 短剣の鋭い刃を、ティアナは自らの左手の甲へと向ける。そして、手の甲に小さな十字傷を刻み、傷口からは血が滲み流れる。短剣を鞘へ収め、その短剣と手の甲の十字傷をギルバートへと差し出した。

 ギルバートはまず、短剣を両手で受け取る。そして、血の流れるティアナの手の甲に静かに口づけをした。

 ギルバートがティアナの正式な聖騎士となった瞬間であった。周囲からは祝福の拍手があがる。

『誓いの儀』と銘打たれたこの儀式めいた行いは、これは単なる形式美の意味合いが大きい。本来、王女が魔力を授ける方法は、互いに深い絆で結ばれた男性へ自らの血を与えることで成立する。王女の血を体内に宿すことによって、男性は魔力と魔法をその身に宿すのである。

 儀式を終えた途端、ティアナは緊張の糸が切れたのか、よろけて倒れそうになるのをギルバートが両腕で受け止める。

「大丈夫ですか? ティアナ様」

 ティアナは堂々と振る舞ってこそいたが、観衆の注目の中、心臓が破裂しそうなほどの緊張を表情に出すこと無く押し殺していた。更には、自らの手を短剣で傷をつけるという行為も幼い少女にとっては相当な覚悟が求めらた。

「はい。すみません。折角の晴れ舞台だといいますのに」

「いいえ。とても凛々しいお姿でした」

「そう言っていただけて、とても光栄、です」

 シェレアがギルバートに落ち着いた様子で指示を出す。

「ギル。ティアナを部屋に連れて行って休ませてやれ」

 式典が始まる前、ティアナの切迫した様子を見ていたシェレアは、こうなることは大方想像がついていた。

「はい。かしこまりました。女王陛下、式典の最中で申し訳ありませんが、席を外させていただきます」

 ギルバートはシェレアの指示に従い、ティアナを抱き上げ会場を後にする。

 シェレアは二人を見届けると式典を続ける。

「さて、では次なのじゃが」

 この時間に行われるのは『誓いの儀』のみの予定であったのだが、急遽もう一つ式事が行われることが急遽決まっていた。

「クナトはまだここに来てはおらんか?」

 シェレアが会場内に向けて呼び掛ける。

 それに答えたのは、ギルバートと入れ替わるように、会場へと入って来た侍女のアイリアであった。

「お待たせいたしました。こちらにお連れしております」

「な!? なんですかいきなり!? 俺はまだまだやることが……」

 クナトは祝祭の準備で料理の仕込みをしていたのだが、突然に現れたアイリアに襟首を掴まれ、無理やりに連れ出されていた。

 そして、そんなクナトの言葉など全く聞かずに、アイリアはクナトの襟首をつかんだままズルズルと会場の中央まで引きずって行く。

「いいですから。黙ってここに跪いてください」

「えっとぉ、あの、状況がよく飲み込めてないのですが」

 説明を求めるクナトに対して、アイリアはそれ以上有無を言わさずに、クナトの膝関節に蹴りを入れクナトをねじ伏せた、もとい跪かせた。

「大人しくそのままでいてください。もし姫様に恥をかかせるようなことをしましたら、……覚悟しておいてくださいね」

 アイリアはこれ以上のない微笑みを向ける。その笑顔の裏に秘められた殺気もいつもの五割増しであった。そんなアイリアに、クナトはまさに蛇に睨まれた蛙のように萎縮する。

「……は、はい」

 アイリアは女王陛下達へ一礼をすると、その場から離れて行く。

 取り残されてしまったクナトは、未だに自分が置かされている状況が分からずに辺りをキョロキョロとしていると、シェレアが一喝する。

「頭が高――い!!」

「えっ!? あ、はっ、はい!」

 クナトは慌てて頭を伏せる。

 先ほどまでの格式や赴きのある雰囲気と比べて、この二人からは緊張感というものがまるで感じられなかった。そんな様子に、周りからは微かな笑いが聞こえる。

「なに、すぐに終わることじゃ。事前に伝えると御主はきっと断るだろうと思って、黙っておったのじゃ」

 シェレアは段差を降りて、クナトの前へと歩み寄った。

「顔を上げよ。クナトよ」

 クナトがシェレアへと向き合う。

 シェレアはレナードが差し出す箱から貴金属の装飾品を取り出した。

「クナトよ。危険を顧みず、その身を挺して我の命を救ってくれたこと、誠に大儀であった。その功績を称え……」

 シェレアが手にしていたのは勲章であった。そして、それは普通の勲章ではない。

「そなたに、騎士の称号を与える」

「……え? ええ!?」

 クナトが突然のことに困惑する中、騎士達からは温かい拍手が送られる。そして、シェレア自らによってクナトの胸元へと勲章が付けられた。

「騎士? 俺が?」

「ああ、そうじゃ。騎士の名に恥じぬ活躍を期待しておるぞ!」

 拍手が鳴り止まない。それだけ多くの者が、王女であるシェレアをドラゴンから救った功績を心から称えていた。

 しかし、クナトの表情はどこか複雑そうであった。

「どうしたのじゃ? 名誉あることなのじゃぞ。もっと胸を張らんか」

「うん。うれしいよ。でも、俺としてはお姫さんがこうして無事でいてくれたことの方が、ずっとうれしいんだ。それだけで、俺は十分に満足なんだよ」

 それは屈託の無い優しい顔であった。その言葉に嘘偽りなど微塵もありはしない。クナトは地位や名誉、そんな見返りは一切求めてなどいない。

 そのクナトの言葉が、シェレアの心の中で大きく響いた。今まで、同じように優しく微笑みかける人物は大勢いた。しかし、それはシェレア自身に向けられたものでなく、王女としての自分に向けられたものであった。そしてシェレアはいつからか、それらの笑顔はまるで蝋で塗り固められたような偽りのものに見えて、相手を心から信じることができなかった。

 だが、クナトは違った。シェレアが王女であることなど関係無い。シェレアが何者であろうとも、きっと同じ笑顔を向ける。それは、クナトを心から信頼するのに十分な理由であった。

 そして、シェレアは決意する。

「……決めた」

 ポツリと、シェレア小さく呟いた。そして、会場にいる全員に向けて、シェレアはその思いをぶつけた。

「みなの者! どうか聞いてほしい!」

 シェレアの熱の篭った声が会場全体に響き渡る。

「今日、我の妹であるティアナはギルバートを聖騎士とした! しかし、我は未だに聖騎士を誰とするか、決めあぐそれらの言葉

ねておる! それを見かねて裏で画策する者まで出てくる始末じゃ! だから、我は今ここで宣言しよう! ここにいる騎士クナトを……」

 シェレアは、意を決するように大きく息を吸い込む。

「我の聖騎士とする!!」

 それはあまりにも突然のことであった。そのシェレアの発言に会場内はどよめきかえる。

 本来ならば、身分の無いクナトに騎士の称号が与えられることでさえ、異例のことであった。だがそれは、それに見合うだけの功績をクナトが成し遂げたからでもある。

 しかし、聖騎士となれば問題は大きく違う。それが第一王女であるシェレアの聖騎士となれば尚の事である。もし、シェレアが次期女王となったとき、シェレアの聖騎士がシュトレイアス王国の国王となるのである。

 つまり、シェレアは次期国王をクナトにすると言っているも同然なのであった。素性も定かでない者を国王にするなど、認められるはずもない。

 シェレアの叔母であるシルヴィア王女が一番にシェレアの身勝手な発言を罵る。

「なんて馬鹿げたことを! シェレア、あなたは自分が何を言っているのか分かっているのですか! 家来や騎士にするのなら酔狂で済まされるものを、まさかその男を聖騎士にするなんて!」

 シルヴィア王女だけではない。会場からは、シェレアの発言を快く思わない者達の批判と非難が飛び交う。

 だが、シェレアも自分の意思を曲げるつもりなど毛頭無い。むしろ、未だにクナトに対して偏見を抱く者達に憤りさえ感じていた。

「ここにいる誰もが、クナトでは聖騎士に相応しくないと、そう思っておるのか!? 確かにクナトには、貴族や騎士としての気品も地位も持ってなどはおらん! だが、それが何だというのじゃ!! 我はクナトとこれからの国の在り方を散々語り合った! 我の抱えていた悩みも、本気で応えてくれた。こやつだけじゃ。このクナトだけが、いつも我に対しても、国に対しても、真剣に向き合っておった! そして我は、クナトならば聖騎士に、将来国王にだって相応しいと、誰よりもその素質があるのだと確信したのじゃ! 我はなにも考え無しに、ましてや酔狂などで言っておるわけでは、決して無いぞ!!」

 迫真であった。それらの言葉一つひとつに、シェレアの熱い思いが込められていた。

 会場が静まり返る中、最初に口を開いたのはクナトであった。

「……お姫さん。聞いてほしいんだ」

 今までに見た事が無いほど、クナトは深刻で悲しい表情をしていた。

「お姫さんの気持ちは、痛いほど伝わってきたよ。……でも、ダメなんだ。俺には、そんな資格は無いんだ」

「ダメだ!! 認めんぞ! 国を変えていくには御主の、クナトの力が必要なのじゃ! 御主がいてくれなければ、我はここまで自分と向き合うことなどできなかった。我には、御主が必要なのじゃ」

「俺は、お姫さんが思ってくれているような、人間じゃないんだ。だって俺は……」

 そのとき突然、クナトの言葉を遮るように会場に美声が響き渡った。

「すばらしい!! なんて素晴らしいのでしょうか!」

 その美声は、観衆の視線を集めるのに十分であった。いつからそこにいたのか、会場の扉の前に一人の男性が佇んでいた。

「なんて、なんて無垢で一途な愛! とても健気で、美しいではありませんか!」

 その場にいる誰もが見知らぬ男であった。たった一人、クナトを除いて。

「……ニルキス、どうして? どうしてお前がここにいる!?」

 クナトは顔を引きつらせ声を荒げる。こんなにも取り乱したクナトを誰も見たことが無かった。

「これはこれは、やはりあなたでしたか、クナトさん。魔王様の下からいなくなったかとと思えば、このような所におられたとは。あなたも魔人でありながら、つくづく人間と馴れ合うのがお好きのようですね」

 会場内にどよめきが走る。その男は〝魔王〟という言葉を口にし、そしてクナトが魔人であると、はっきりとそう言ったのである。

「おやぁ? もしかしてクナトさん。あなたは自分が魔族であることを正直に言っておられないのですか? 隠し事をなさるとは、あなたも存外、性格が悪い」

 どこの誰とも分からない突然の来訪者の言葉に、誰もが自分の耳を疑った。

「ああ、これは申し遅れました。わたくしはニルキスと申します。そして、あなた方人間が、『魔人』と称する魔族でございます」

 ニルキスは敬意を払うように手のひらを胸に当てながら頭を下げ、そして、魔人であると名乗った。

 その口調とその仕草、そしてその名をレナードは忘れられるはずがない。しかし、その男はどこからどう見ても普通の人間の姿であった。

 シェレアは、その男の言葉の真偽をクナトへと問いかける。

「クナトよ。あやつは、あの者は一体何を言っておるのじゃ? あの者が言っていることは、……どういう意味なのじゃ?」

 シェレアもクナトが魔族であるなどという話を信じられるはずがない。しかし、シェレアの問い掛けに何も言い返してくれないクナトに、異様な不安が強まるのも確かであった。

「なんとか言うのじゃ! あんなのは何かの間違いじゃと! 何もかもただのでまかせなのじゃと言ってくれ!」

 クナトは、シェレアと向き合うことをしない。思いつめるように険しい表情で、返すべき言葉を模索していた。

 そして、クナトの口から発せられたのは、たった一言だけであった。

「…………ごめん」

 それは、とても辛く悲しい声であった。そのたった一言が、すべての事実を物語っていた。

「……嘘じゃ、そんなの、絶対に嘘じゃ」

 激しく動揺するシェレアを見て、ニルキスは愉悦感に浸りながら、追い打ちをかけるように語りかける。

「信じられませんか? まぁ、それも無理はありません。我々魔人はこの姿で人間の前に出ることなど滅多にありませんから。信じられないのであれば、証拠をお見せいたしましょう」

 ニルキスは不敵な笑みを浮かべた顔を伏せ、身悶えするように両腕を丸くすると、ニルキスの身体から赤い霧状の煙がにじみ出る。そして、皮膚がメリメリと鈍い音を立てながら赤い甲冑へと変貌していき、みるみるうちに全身を覆っていった。人が人でない化け物へと変わりゆく異常な光景を目にした者は、言葉を失い、恐怖に心を浸食される。

 そして、人間の形から変わり果てたその姿を見たレナードは確信に至る。

「みなさん! 女王様達をすぐに安全な場所へ!」

 叫びながら、レナードは最悪なタイミングであることを嘆く。今、会場にいる騎士は武器を所持していない。『誓いの儀』では、聖騎士となるギルバート以外は、武装を禁じられていた。当然、式典会場の周囲には警備の兵士が配備されていたが、レナードが魔法で周辺に視線を走らせると、警備の兵士達はみな、血を流して殺されていた。

 レナードは、自責の念に駆られながら拳を握りこむ。この魔人に対しては、厳重に警戒するべきだと分かっていたのにもかかわらず、この事態を回避できなかった醜態を後悔する。

(とにかく、今は姫様達を一刻も早くこの場から逃がさなければ!)

 ニルキスへと木製の椅子が投げつけられる。椅子は粉々に砕けるが、ニルキスはまるで微動だにしていなかった。

「やっぱり、こんなんじゃびくともしないか」

 聖騎士のアレックスが離れた場所から、牽制として椅子を投げつけるが、全くの効き目の無さに顔をしかめる。

「アレックス殿! 迂闊な攻撃は危険です! 今は王女様達を逃がすことを優先するのです」

「ええ、こんなヤバそうな相手、言われなくても退散させていただきますよ! リオナ、早くこっちへ」

 アレックスは娘のリオナの手を引いて会場から逃げ出す。

 レナードも、アシェリー女王を出口へと誘導する。

「やれやれ、この姿を見ただけでこの取り乱しようですか。まだショーは終わっていないというのに。ギャラリーが減ってしまいましたが、メインゲストに残っていただけるだけ、光栄と考えましょう」

 全身を甲殻で覆い、その甲冑の仮面の下でニルキスは不敵な笑みを浮かべながらシェレアを見つめているようであった。

「お姫さんに、何をするつもりだ! ニルキス!」

 クナトはニルキスの視線を遮るように、右腕でシェレアを庇う姿勢をとる。

 しかし、ニルキスが指先を軽く振るうと同時に、クナトの右腕からは鋭利な刃物で切り付けられたかのように鮮血が飛び散った。そして、右肘から先、腕は切り落とされていた。

「ぐぅっ!? ぁぁぁぁっ!」

 クナトは痛みで膝を付き、小さく呻き声を上げる。

 その場から動けずにいたシェレアには、クナトの身体に何が起きたのか理解できない。

 ニルキスの攻撃は、常人の目で捉えることはまずできない。ニルキスが操る赤い糸の正体は血の糸、正確には、指先の毛細血管を体外へと露出させていた。毛細血管は蜘蛛の糸のように細く、ニルキスはそれを鋼のように硬化し、鞭のように操ることで、触れる物すべてを切り裂く見えない斬撃と化していた。

「クナトォ!」

 誰もが逃げ惑う混乱の中、シェレアだけはクナトの重傷を心配して、側へと駆け寄る。

「お姫さん。ダメだ。離れて、いてくれ」

 気が動転して冷静さを失いつつあったシェレアは、さらに衝撃的な光景を目にしてしまう。

 切り落とされたクナトの腕が、まるで透明な煙にでもなったかのように消失する。そして、クナトの右腕の傷口からも覆うように銀色の霧が発生し、徐々に腕が再生するように形成されていく。しかし、そうして再生したその腕は、元の人間のものとは似ても似つかない、ニルキスという赤い魔人と同種の、銀色の光沢を放つ甲冑に覆われた魔族の腕であった。

 もう疑う余地などない。クナトは人間ではなかった。

「そん、な……嘘じゃ」

 シェレアはクナトから二歩、三歩と離れるように後退りする。そして、放心するように力なくその場でへたり込んでしまった。

「ふ、ふふっ、ふはははっはっは。素晴らしい! とても素晴らしい! 絶望に打ちひしがれるその表情、堪りません!」

 信頼を裏切られ、絶望するシェレアの姿を見て、ニルキスは高らかに嘲笑う。

「さぁ、これでご理解いただけたでしょう。我々は限りなく人間と等しい姿に偽ることはできても、魔王さまの魔力によって生み出された魔族であり、あなた方人間とは全く違う異質の存在なのです」

「ニルキス、お前が何を企んでいるのかは知らないが、まずはその口を、閉じろ!」

 クナトは苦しそうに声を絞り上げる。明らかにクナトの様子はおかしかった。呼吸は乱れ、立ち上がることさえ困難なほどに疲弊し、衰退しているようであった。

「企むなどとは人聞きの悪い。クナトさんも、その消耗してしまった魔力を回復するために、そこのお姫様へと近づいたのでしょう?」

「なんの、ことだ?」

「とぼけないでいただきたい。あなたもこの王家に受け継がれる強力な魔力が目当てだったのでしょう。魔力が尽きてこの世から消滅する前に、ここまで上手く人間に取り入るなど、私には到底真似できません。私ができるとすれば殺して奪い取るのみですから。そして、今の彼女のように醜い人間を殺すことが、私の復讐でもあるのです」

 ニルキスの指先が、シェレアへと向けられる。

「やめろぉぉぉお!!」

 クナトの背中で、おびただしい量の鮮血が飛散する。

 しかし、その血はシェレアのものではなかった。寸前のところで侍女のアイリアが飛び込み、シェレアの盾となるように抱きしめて庇ったのである。

 ニルキスの攻撃の身代わりとなったアイリアは、肩から背中を深く切り裂かれていた。

「アイ、リア? ……アイリア!?」

「……姫、様。お逃げ、くだ、さぃ」

 大量の出血によって、アイリアは意識を失う。

「美しいですねぇ、自分の命を顧みないその行為。誰かを救うための自己犠牲。本当に美しくて、その愚かさに虫酸が走ります」

 アイリアの決死の行動も一時凌ぎに過ぎなかった。ニルキスは、無慈悲にも再び指先を構える。

「ニルキスゥゥ――――!!」

 クナトは怒り、叫ぶ。だが、衰弱し切った身体は立ちあがることさえできない。今のクナトにシェレアを守るだけの力は残されていなかった。

 だが次の瞬間、攻撃を繰り出そうとしたニルキスの腕が身体から離れて宙を舞った。

「なぁっ!?」

 それは、まるで電光石火の一撃。目にも止まらない素早い剣撃であった。

 その斬撃によって、ニルキスの腕が斬り飛ばされたのである。

「次から次へと、邪魔が多くて嫌になりますねぇ」

 怒りで声を震わせるニルキスの視線の先、そこには一人の騎士がニルキスへと対峙していた。

「らしくないな。クナト。守るべきものは命懸けで守れと俺に説いたのは、お前だろう」

 剣を片手にシェレアの危機を救ったのは騎士、いや、聖騎士ギルバートであった。

「ここは、俺が引き受ける。クナト、お前はシェレア様を連れて逃げろ」

「だけど……」

「心配するな。俺は、お前をかけがえのない友だと思っている。お前が何者であろうとも、それだけは変わらない。早く行け!」

「……無理だけは、しないでくれ」

 クナトはよろけながらも残された力を振り絞り、シェレアとアイリアを抱えながら、会場の外へと避難する。

 ニルキスはそれをただ黙って見逃していた。逃げる者よりも、目の前に突如として現れた騎士のみに警戒を強めていた。先ほど受けた一撃、常人の速さではない斬撃であり、そしてただ斬られただけではなかった。斬られると同時に強烈な電撃が全身を襲っていた。

 それら初撃から得られた情報を基に、ニルキスは相手の能力を分析する。

(電気、を操っているわけですか。しかも、電撃を与えるだけではありませんね。おそらく、筋肉へと送られる電気信号にも作用し、自身の肉体を強制的に操ることで身体能力以上の神速を可能としているのでしょう。そして、何より厄介なのは……)

 ギルバートは態勢を整える。その動きで身に纏った鎧が接触するたびに、パチパチと電気が弾けていた。

「ティアナ様より授かったこの力。キサマで試させてもらうぞ!」

 ニルキスは片腕を失ったことにより、自ら攻めはせずに相手の出方を見るに徹する。

 対して、ギルバートは攻め主体の剣技を得意とする。相手が警戒し防御に徹すると見れば、臆さずに先手を取りに出る。その踏み込み、斬撃の速さは常人のものをはるかに凌いでいた。

 ニルキスも防御に専念していなければ避けられる攻撃ではない。素早い踏み込みの剣撃を仰け反るように紙一重で回避する。同時に反撃を狙うのだが、剣先から放たれる高圧の雷撃がニルキスの身体を撃つ。そして、電撃によって身体が硬直したところに今度は剣撃によって、胸を深々と斬り裂かれる。

「がはぁっ!」

 ただ剣先を避けるだけでは、ギルバートの攻撃を回避したことにはならない。接近戦において、ギルバートは圧倒的な速さと、必中と言える技を会得していた。

 ニルキスは攻撃を受けた反動で、倒れそうによろめきながらも踏み留まる。そして、身体の痺れが無くなると同時に指先を振るった。

 しかし、ニルキスの血管の糸は、ギルバートの身体に触れる瞬間、帯電する電気によって、バチンッ と弾かれ、ちりぢりとなって消滅する。

(やはり、こうなりますか。電気を纏われた状態では、私の攻撃は弾かれてしまう。雷撃を放った直後が、反撃する唯一のチャンスなのでしょう。あとは、いかにして電撃を受けずに、攻撃を回避するかですが)

「どうした? 打つ手無しか?」

 ギルバートはニルキスに攻める手段が無く、ダメージの色が明らかに濃いことを見抜くと、攻撃の手を緩めない。

(このまま押し切る!)

 しかし、このときギルバートは疑問にも思っていなかった。もし、会場から退出することなく最初からその場に居合わせ、事の一部始終を見ていたのならば、疑問に思い警戒できたかもしれない。

 クナトが腕を切り落とされたとき、クナトはすぐにその腕を再生させていた。それに対して、ニルキスは腕の再生をしていなかった。

 ニルキスは、ギルバートが電気を操っているのだと直感した瞬間に、再生を止めていたのであった。

 ニルキスはギルバートの攻撃が届かない距離まで下がって逃げようとするが、ギルバートの俊足から逃れることはできない。

 しかし、このときニルキスは甲冑の面の裏では不敵に微笑んでいた。ニルキスは血管の糸を操る。狙いは、ギルバートへの攻撃ではない。ニルキスは逃げると見せかけ、切り落とされていた腕に近づいていた。そして、血管の糸を落ちている腕に巻き付けると、それを自身の目の前へと引き寄せ、ギルバートの雷撃の軌道上に放ったのである。

 ニルキスを襲うはずであった電撃は、その腕へと逸れ、防がれてしまう。同時に、僅か一瞬であるが、ギルバートを纏っていた電気は失われていた。

(さあ、チェックメイトです)

 ニルキスの指先から、血管の糸が鞭のようにしなった。


「……離してくれ」

 フラフラなクナトの脇に抱えられた状態のまま、シェレアが弱々しく呟く。

「ダメだ。……今は早く、……ここから離れないと」

「離せと、言っておるのじゃ!」

 シェレアは暴れて、強引にクナトの腕から離れる。そして、強い口調でクナトに問い詰める。

「騙しておったのか!? 我をずっと謀っておったのか!?」

「……お姫さん。話を聞いてくれ」

「黙れ! 黙れぇ!! この、戯け者が、…………もう、我を、……我を惑わすでない」

 シェレアの瞳からは涙が溢れていた。

 シェレアのその姿に、クナトはなんて言い訳をして良いのか分からない。

「……姫……さま」

 シェレアの声にアイリアが意識を取り戻す。意識が戻ったというよりは、朦朧とする意識の中、うわ言のようにシェレアの名を呼んでいた。

「アイリアさんの傷がかなり深い。早く、医務室に連れて行かないと」

 クナトはシェレアの手を掴み、一緒に連れて行こうとする。

 しかし、シェレアはその手を振り解いて拒む。

「我に触れるな! アイリアも離せ! 医務室になら我が連れて行く!」

 シェレアは悔しさで胸が締め付けられる。クナトなら自分を裏切るような真似だけは絶対にしないと信じていた。心から信頼を寄せていた。だからこそ、クナトが魔人であった事実は誰よりも深く、シェレアの心を傷つけていた。

「キサマはあの魔人の仲間じゃ! 人を殺すことを何とも思わない、魔族の仲間じゃ!!」

 そして、シェレアのこの言葉もまた、クナトの心に深く突き刺さる。

「ああ、その通りだ、お姫さん。俺は、魔族として生まれたとき、何人も、何百人もの人を、たった一夜で殺した。殺してしまったんだ、この手で」

「そのような話、聞きとうない! 早く、早く我の目の前から、消えてくれ!」

 突然、拍手が通路に鳴り響く。ニルキスが二人へ拍手を送りながらゆっくりと歩みを進めていた。

「人間は本当に醜い生き物ですねぇ。利用する価値が無くなればゴミのように捨て、自分と相容れないと分かれば、ただ一方的に相手を蔑み、敵意を向ける。軽蔑に値します」

 ニルキスは二人から僅か数メートルの距離まで近づき、歩みを止めた。そこに、ギルバートの姿はない。

「クナトさん。これであなたも身を持って理解したのではないのですか? いくら人間に肩入れしたところで、我々が魔族である限り人間と相容れることなど決して叶わないのですよ」

 クナトは担ぎ上げていたアイリアをシェレアへと預ける。

「早く、アイリアさんを医務室へ」

 そのクナトの瞳はあまりにも儚かった。そして、クナトはニルキスの前へと立ちはだかる。二人を命懸けで守ろうとしていた。

 シェレアはその場から動けない。感情的になりクナトを激しく突き放しても、クナトの側から離れることができなかった。離れたくなかった。そんな矛盾だらけでグチャグチャな自分の気持ちさえも理解できないまま、ただ立ち尽くしてしまう。

 ニルキスはクナトの行動を見て呆れ果てる。

「理解できませんね。どうしてあのような醜い人間のために、命を投げ捨てるのですか?」

「人は、確かに差別し合い、そして争い合う。俺の中にも、貧しい人々が抱く憎しみの感情がひしめき合っている。でも、それだけじゃない。妬みも憎しみも全部忘れて、ただただ愛情を注ぐことができる人がいるんだと、知ってもいるんだ」

「ええ、例えば、そこで死にかけている彼女も、そんな人の一人でしょう。私はそんな人々を美しいと称賛いたします。ですが、それで何かを得られるのですか? 自身の幸せをまるで顧みないそんな人々を、私は同時に愚かであると嘆き悲しむのですよ」

「それでも、俺の知る限りあの人は、誰よりも幸せそうに微笑んでいたんだ。俺がこうしているのは、彼女を、大勢の人を殺してしまった罪を償うためでもある。でももし、俺に叶えたい願いがあるとすれば、俺は、優しい心を持った人間になりたいんだ、あの母親のように。そうすれば、あの人がどんな気持ちで微笑んでいたのか、分かるかもしれない」

 ニルキスはこのクナトの想いを聞くと、嘲笑った。

「そう願った結果が、そのザマですか? あなたのその想いはまるで彼女に届いてないではありませんか。あなたの願いは彼女に、醜い人間によって無残に裏切られたのですよ。ああ、叶えられなかった夢を抱いたまま死ぬというのは、一体どのような気持ちなのでしょうか? それを聞けないのは非常に惜しいですが、いい加減、終わりにいたしましょうか」

 ニルキスがクナトへ攻撃を仕掛けようと腕を構える。

 瞬間、背後からニルキスの胸を深々と剣が貫いた。

「がはぁあっ!? これは、一体!?」

 ニルキスの身体を剣で貫いたのはギルバートであった。俊足を活かし、背後からニルキスの隙を突いたのである。

「人を、見くびるなよ!」

 ギルバートは剣を引き抜くと、そのまま力なく倒れこむ。

 ニルキスは傷口からは大量の血を吹き出しながら、肩で壁にもたれかかる。

「馬鹿な。あの深傷でなぜ動けるのです!? なぜ出血死していないのですか!?」

 ギルバートの腹部には深く切り裂かれた傷口があった。それはニルキスによって、負わされた傷であり、即死でなくとも動くことのできないまま、大量の出血で命を落とすはずであった。

「気が失うほどの激痛の中、針の穴に、糸を通す思いだったさ」

 そのニルキスが負わせた傷口は黒く焼き塞がれていた。

「自らの電撃で、傷口を焼き塞いだと言うのですか!? どうしてです? 何故そのような命を顧みない無茶ができるのですか!?」

 そのニルキスの問いを答えたのは、クナトであった。

「守りたい人がいる。その優しさこそが、人を強くするんだ!!」

 銀の甲冑で全身を纏ったクナトが、右拳を大きく引いていた。

「しまっ……!?」

 攻撃を構えるクナトの動作は重く鈍かった。

 しかし、ギルバートの剣撃と電撃によって深いダメージを負わされていたニルキスの身体は、その攻撃を回避することができない。

 クナトの強烈な右ストレートがニルキスの顔面を抉る。その破壊力は圧倒的であり、分厚い城の壁ごと粉砕しながら、ニルキスを遥か遠くの城の外へと弾き飛ばした。

 ニルキスの上半身はバラバラの肉片に砕け散り、下半身だけが城の中庭へと転がっていく。

 その一撃を放ったクナトの身体は、皮膚が剥がれるように銀の甲冑が崩れ落ちる。ニルキスを殴り飛ばした強い衝撃で、自らの右腕も砕けて損失し、先ほどとは違って、その怪我も復元されなかった。クナトは魔人の寿命とも言える魔力のほとんどを使い果たしてしまっていた。そんな満身創痍な状態で、クナトはシェレアへと振り返る。無事な姿のシェレアに悲しい笑みを向けながら、クナトは気絶するように倒れた。

「…………クナ、ト? ……なぁ、クナト? ……アイリア? ……ギル?」

 誰もシェレアの呼びかけに答えられる者はいない。シェレアだけを残して、三人は完全に気を失っていた。

 城の壁が破壊された轟音により、間もなく兵士達が駆けつけてくる。そして、三人は医務室へと運ばれて行くのであった。


 城の中庭で、重症のニルキスが地面を這いつくばっていた。胴体と頭の再生はできたが、魔力が尽き果て、両腕の再生が不完全な状態であった。

「身体が、治らない! 魔力が足りないぃ! そんな、このままでは、このままでは死んでしまう、消えて、しまう」

 ニルキスは苦しみながら唸り声を上げる。魔力が命の源である魔人にとって、魔力の枯渇は自身の消滅、つまり死を意味していた。

 そんなニルキスの姿を木の上から一羽のカラスが見下ろしていた。カラスはニルキスの目の前まで降り立つと、呻き声を上げながら身体を大きく膨張させ、黒い球体状の異空間を形成した。そして、その異空間の中から、黒いドレスを着た一人の少女が現れる。

「あらぁ。ずいぶんと苦しそうねぇ。ニルキス」

 その少女を前にして、ニルキスは激しく動揺する。

「まっ、魔王様!? どうして、ここに!?」

 一見、その何の変哲も無い少女をニルキスは魔王と呼んだ。その少女こそが正真正銘、魔界に君臨する魔王の一人であった。

 異空間の中からは、さらに三人の魔人が現れる。クナトやニルキスを含め、それら魔人はすべて、この魔王である少女によって生み出しされた魔族である。

「あなた、ドラゴンを殺して魔力を奪っていたのでしょう? ドラゴンの群れが人間の地に移動していれば、大方の察しが付くにきまっているじゃない。あとは、見つけるなんて簡単」

「魔王様! どうか私に、魔力を、魔力をお与えください!」

 ニルキスは今にも息絶えてしまいそうな悲痛な叫びで懇願する。

「なにを勘違いしているの? 私があなたを助けに来たとでも? 飼い主から逃げた犬に罰を与えに来ただけよ。でも、その必要も無くなったわね。そのまま惨めに消えてしまいなさい。ニルキス」

 魔王はニルキスを見捨てるように踵を返す。

「お待ちください! お伝えしたいことが! クナトを、クナトを見つけいたしました!」

 そのニルキスの言葉に、魔王の足がピタリと止まる。不気味に目の色を変えながら、ニルキスへと向き直る。

「それ、本当なんでしょうね?」

 助かりたいがための嘘の可能性も考えられた。しかし、すぐにバレる嘘に意味は無い。詳しい話を聞き出すためにも、魔王はニルキスの命乞いを受け入れた。

「その手柄に免じて、今だけは許してあげるわ。でも、もしまた逃げ出すようなら、次は絶対に許さないわよ。さぁ、教えなさい! クナトは今、どこにいるの?」


 明かりの無い暗闇の中、幼い少年は母親に抱きしめられながら、ボロボロの小屋の隅で声を殺して震えていた。

 外では、貧民街の人々が逃げ惑う声が絶えなかった。一人、また一人と泣き叫ぶ人の声が鈍い音を立てて途絶えていく。

 そして、人々を殺し回るその化け物は、獲物を探すように二人へと徐々に近づく。

 幼い少年は、怯えながら母親にしがみ付く。化け物の足音は二人のすぐそばで止まる。少年は恐怖で気がおかしくなりそうだった。

 母親も、そんな少年を少しでも安心させるために、必死に恐怖を押し殺していた。

「大丈夫よ、クナト。助かる、きっと助かるから」

 小屋の壁の外から、化け物の腕は壁を突き破って母親の肩を掴むと、そのまま外へ放りだした。

 その化け物は、人の形をし、騎士のような甲冑を全身に纏い、理性を失った獣のような姿であった。

 化け物は、母親に目掛けて腕を振り上げる。

「やめろぉぉぉぉ!」

 少年は、母親を助けたい一心で、化け物へと突っ込む。

 だが、化け物が少年へ拳を振るうと、少年の腸を貫いた。そのまま、腕を引き抜かれると、少年は滝のように血を流しながら倒れる。

 化け物が拳を振り下ろす瞬間の光景を最後に、少年の意識は一度途絶える。

 少年は、すぐに意識を取り戻した。だが、既に少年は少年ではなくなっていた。少年の意識は化け物の中へと取り込まれ、そこは、何人もの貧民街で生きていた人々の記憶と意識がひしめき合っていた。少年の記憶と意識は、その一部に過ぎなかった。そうして、何人もの記憶と意識が混じり合い、継ぎはぎだらけの新たな自我が化け物の中で芽生え、形成されていた。

 化け物は、自分の自我が芽生えると同時に、今自分が両手に持っているモノがなんであるのか、認識する。

 それは、少年の母親であった。首から上を、その手で捻じり切っていた。

 そして、化け物として、大勢の人々を無残に殺した記憶が押し寄せるように雪崩れ込む。

「ああああああああぁぁぁぁ――――っ!?」

 自身が、人ではない化け物となってしまった絶望と、知り合いを、友人を、家族を、その手で殺した罪の重圧に、その銀の甲冑の魔人はいつまでも狂ったように泣き叫ぶのであった。


 城の地下の医務室では、医師達が慌ただしく動いていた。ギルバートとアイリアは重症。そしてクナトも右腕を損失するというひどい外傷を負い、そしてそれ以上に、衰弱が激しかった。

 王族達はみな、医務室の隅で見守ることしかできなかった。

「だから私は反対したのです! あの男を城で雇うなどと!」

 クナトの尋問を担当した聖騎士アレックスが声を荒らげる。

「今日のこの騒ぎも、全て奴が元凶に違いありません!」

 怒りの感情をあらわにするアレックスをアシェリー女王がたしなめる。

「憶測で物事を決めつけてはなりません。アレックス。まずは、クナトさん本人から話を伺う必要があります。彼をどうするか、決めるのはそれからです」

「女王陛下! まだそのような悠長なことを! もう私は我慢の限界です!」

 アレックスはクナトが眠るベットへと歩みを進める。そして、剣を鞘から引き抜いた。

「魔人を、これ以上生かしておくことなどあってはなりません!」

 アレックスは抜いた剣をクナトへ目掛けて突き立てようとする。

「お止めなさい! アレックス!」

 アシェリー女王の命令に、アレックスの手が止まる。アレックス自身も、クナトをその手で殺すことに躊躇していた。

「くそっ、くそぉっ!」

 そして、アレックスが意を決した瞬間、クナトはむくりと上半身を起こした。

 その顔は、何かに絶望するかのように、思いつめた表情をしていた。そのまま、ベットから起き上がると、アレックスの脇をただ黙ったまま通り過ぎる。

「待て! どこへ行くつもりだ!?」

「……魔王様が、ここに来ています。おそらく、魔人も何人か連れているはずです」

「魔王、だと?」

 魔人だけでなく『魔王』という言葉に、その場に居たものはみな戸惑いを隠せない。

「このままでは、みんな殺されてしまう。ここにいる人達に、もう犠牲は出したくありません。だから、行かせてください」

「……尚の事、おめおめとキサマを仲間のところに行かせられるものか!」

「お行きなさい」

 アシェリー女王が凛とした声で言った。

「女王陛下!? ご冗談でしょう!?」

 アシェリー女王は、さらにクナトに頭を下げた。

「魔人を相手では、私達人間では到底太刀打ちできません。ですから、どうかお願いします。私達をお救いください。そして、あなたに頼ることしかできない私達を、お許し下さい」

 女王陛下が頭を下げるという行為に、その場にいた者達は誰も口を出せなかった。

「ありがとう、ございます」

 クナトは静かに医務室を後にした。


 クナトは医務室から出ると、そのすぐ外の通路では膝を抱えてうずくまるシェレアの姿があった。

 シェレアはそこで一人静かに泣いていた。

 クナトは今まで何度もそうしていたように、その小さく儚い少女の頭を優しく撫でようと手を伸ばす。しかし、できなかった。声を掛けることさえ叶わない。魔人である自分に、今ここでシェレアのためにできることは何も無かった。

 クナトは、ただ黙ったままシェレアの前から立ち去って行く。

 そして、一人残されるシェレアは、悔しさと孤独感に泣き続けた。

 そんなシェレアに近づき、声を掛ける人物がいた。

「クナトは、行ってしまったのかえ?」

 その年老いてかすれた声は、初代女王エルマであった。

「ユリエちゃん。ありがとう。シェレアと二人だけで話があるから、ちょっと中で待っててくれるかえ」

 城で一番安全な地下の隠し部屋へと侍女のユリエと共に避難していたのだが、シェレアに話があるとユリエに頼み、ここまで車椅子で連れて来てもらったのである。

 その場にシェレアとエルマの二人きりになると、エルマはシェレアへと語り掛ける。

「シェレア、魔人は憎いか?」

 シェレアは膝を抱えたまま静かに頷く。

「そうじゃろうなぁ。……なら、クナトはどうじゃ? やはり憎いか?」

 この問いに、シェレアは頷くことも、首を振ることもしなかった。

「わしも昔、魔人に人々が殺されるところを何度も見てきた。だから、魔人を倒して世界を救うことで、名をあげようともした。そんなわしの昔話を、シェレアは幼かった頃にいくつも聴かされたのじゃ。魔人を憎いと思うのも当然じゃ。なあシェレア、覚えておるか? そんなわしの昔話で、一番シェレアが好きで何度も聴かせてくれとせがまれた話があったじゃろう。わしが一人の騎士に命を助けられ、国を興すきっかけになった話じゃ」

 エルマが言っているのは、『異国の騎士』の話で間違いなかった。

 そして、その物語に登場するエルマを救った異国の騎士は、シェレアにとって憧れの騎士であった。

「シェレアにはもっと早くに、本当の事を教えても良かったのかもしれんのぉ。その騎士は、魔人じゃったのじゃ。そして、それは紛れも無い、あのクナトなのじゃ」

 シェレアは抱えている膝から顔を上げ、エルマへと視線を向ける。涙で真っ赤に腫らした目を驚きで丸くしていた。

「信じられんか? まぁ、信じずとも良い。年寄りの言うことなんぞ、真に受けるものでもないさね。なにが本当に正しいことなのかは、自分のその目で見て、その耳で聞いて、自身で答えを見つけるべきではないのか? そしてシェレアは、その答えを出すのに十分過ぎる時間をクナトと共に過ごしたのじゃろう? それこそ、わしなんかよりもずっとずっと長い時間じゃ」

 シェレアはただ黙って、エルマの話を聴いていた。そして、思い返していた。クナトが一体どんな人間だったのかを、クナトはどんな魔人なのかを。一つの答えを出すのに時間は要らなかった。クナトは人間よりも優しい心を持った魔人なのだと。

 シェレアは立ち上がると、すぐにクナトの後を追って駆け出していた。

 エルマはシェレアを見届けると、車椅子を動かす。

(さて、次はこっちかのぉ)

 持っている杖で医務室の扉を叩く。出てきたユリエに車椅子を押してもらいながら、医務室の中へと入る。

 エルマの容態をアシェリー女王は心配する。

「エルマお婆様。このようなところにいては危険です」

「大丈夫じゃよ。少なくとも、もう、ここにいて殺される心配はないさね」

「それは、一体どういう事なのでしょうか?」

「なに、あの二人に任せておけば、まぁ、何とかなるじゃろうて」

 エルマはシワシワな顔で明るく笑ってみせる。

 だが、医務室にいる者達は神妙な面持ちであった。クナトの語ったことが本当ならば、魔王によってこの国は滅ぼされるのだと、諦めてしまっていた。

「揃いも揃って、なんて顔しているんだい。誰か、勇敢に戦おうと思う者はおらんのか? まぁ、今のわし等が出て行ったところで、クナトの足手纏いにしかならんじゃろうがの。今はクナトを信じて待とうじゃないか」

 このエルマの発言にアレックスは耳を疑った。

「クナトを信じる? エルマ様。奴は魔人だったのですよ」

「バカタレが。人間だの魔人だのと、何をつまらないことに拘っておる。今のこの国があるのも、お前達がこうしてここにおるのも、それらは全部、クナトのおかげなのじゃぞ」

「エルマ様、仰っている意味が解りません。一体奴は、何者なのですか?」

 アレックスだけではない。誰もが、エルマの言葉を疑っていた。

 エルマは暫し呼吸を整える。こうして悠長に語ってはいるが100歳を迎えた老婆の体力は衰え、会話をするだけでも、身体は疲れた様に呼吸が苦しくなっていく。だが、エルマは力強く語り始める。

「そうじゃな。事実を、本当にあった昔話をしようかのう。わしが国を興すきっかけとなったときの話。一人の異国の騎士……、いや、一人の『魔界の騎士』の物語じゃ」


第四章 「悲嘆の姫と心優しき魔人」-終-

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