第三章
クナトと共に語り合った一夜が明けて以来、シェレアは毎日のように国の政策会議へ積極的に参加するようになった。
参加すると言っても、幼い故の稚拙な知識では理想や理念を持つことはできても、まともな意見を述べられるにはまだ至らない。だが、シェレアにとっては参加すること事態に大きな意義があった。挙げられる議題、交わされる議論をシェレアは一つずつ吸収しては、毎日あの日の夜のように、バルコニーでクナトと二人で意見を交えた。
王族や重臣の固執した考え方とは違い、クナトは柔軟な発想から視点を変えた切り口で政策の良し悪しを指摘していった。
シェレアにとってそれらはとても貴重な経験であり、養われた知識や発想力によって、政策会議の場でも、ときには周りの者を唸らせる事もあった。
そんなシェレアの王女としてのひたむきな努力と、クナトの使用人としての活躍は、周囲の注目を集め、城内はそんな二人に感化されるようにどこか活気づいていくのであった。
シュトレイアス王国では、一ヶ月の内、11日、21日、月末が休日と定められていた。今日は5月21日の休日。シェレアは両親と妹の四人で朝食を摂っていた。
その日は、クナトにとっては城で働くようになってから七日間が過ぎた日でもあった。最初こそは、城に忍び込んだ不届き者として煙たがられていたであろうが、それもほとぼりが冷める頃ではないかとシェレアは考えていた。
クナトの日頃の働きぶりについては、侍女のアイリアから報告させているが、クナトが今現在、城内の者達から実際にどのように思われているのか気になっていた。
今日は休日。稽古や習い事も無く一日自由に過ごせる日であった。クナトについて城内の者達から話を訊き回るのには絶好の一日となる。
シェレアはまず始めに、今、目の前で朝食を摂っている家族にクナトをどのように思っているのか尋ねてみる。
「ああ、クナトという男か。初めは何かしでかすのではないかと内心気が気ではなかったぞ。今のところは特に問題も起こさずにいてくれて、取り敢えずは一安心と言ったところだが」
シェレアの父、シュトレイアス王国の国王ルグレッド・シュトレイアスが答える。書類仕事による運動不足が祟ってか、ここ数年で目に見えて体重が増えている。見方によっては、国王らしい風格が出てきているとも感じられなくも無い。
「お母さんは、最初から何も心配なんてしていないわ。シェレアちゃんが目を付けた相手ですものね」
ルグレッド王に反して、アシェリー女王は余裕の面持ちであった。
「アシェリーは考えが足りないんだ。万が一の事態を想定して対策を立てておくことがどれだけ大切なことか。それをあれこれとケチを付けては却下して、監視役さえ付けないとは」
「あなたは肝が小さいのよ。悪人ではない彼に対して、そのような扱いをすることに反対でしたのよ。あなただって今なら、その考えに賛成でしょう?」
「それは、……まぁ、そうなのだが」
二人の会話はいつもこのようにルグレッド王がアシェリー女王に手玉に取られて終わる。国王としての威厳などは一切感じられず、こうなってはただの太ったオッサンである。
二人のやり取りが一区切りすると、変わって妹のティアナが答える。
「わたくしはまだ、遠くからしかお姿を拝見しておりませんわ。ギル様から、あの男には決して近づいてはいけないと再三釘を刺されてしまっていまして。わたくしとしましては、どのような方なのか一度ゆっくりとお話をしてみたいと思っておりますのに」
このティアナの話に、ルグレット王は笑って答える。
「はっはっは! そんなことを言われては、ギルもティアナが自分より強い男へなびくのではないかと、内心焦っておるのであろう」
「まぁ。もしそのように思われているのでしたら心外ですわ。ギル様よりも聡明な方などいらっしゃらないですのに」
真に受けるティアナを見て、ルグレッド王は冗談を言っただけだと更に大笑いをする。
シェレアはそんな家族の陽気な会話を聞きながら、クナトがどう思われているのか簡単に整理していた。
(フム。物盗りの件は予想通りほとぼりが冷める頃合いのようじゃな。しかし、ギルからは、いや、兵士や騎士からは、あの乱闘騒ぎの一件があっては簡単に受け入れてはもらえんか)
シェレアは食事を終えた後も、後片付けをする侍女達へとクナトについて話を訊き回る。
― 侍女① アイリア・シフォレンの場合 ―
「クナトさんの事についてですか?」
「そうじゃ。色々と報告は聞いていたが、アイリアの目から見て、あやつのことはをどう思っておるのじゃ?」
「わたくしが彼を、どう思っているか、ですか?」
アイリアはクナトのことを思い返しているのか、暫く沈黙する。そして、徐々に身体からなにやら不吉な負のオーラを滲み出し始めていた。
「ど、どうしたのじゃ?」
「……いえ、何でもございません。姫様がクナトさんをお側に置きたいというお気持ち、今なら良く分かります。しかしながら、姫様の筆頭侍女を任されている私の立場から申し上げますと、些か心穏やかではない、と言ったところでしょうか」
「んん? 別に、アイリアに不満があるとか、頼りないとかでは無いのだぞ。決して」
シェレアはアイリアに妙な誤解をさせてしまっているのだろうかと察して、慌てて弁解をする。
「いえ、彼を見ていますと、私も侍女としてまだまだ至らないところがあるとも痛感しております。クナトさんの手際の良さには目を見張るものがあります」
「そうか、良く分かったぞ。それと、一応一言だけ言っておくのじゃが」
シェレアは、少し照れてしまうのを誤魔化すように、わざとらしく咳払いを一つする。
「アイリアも、我のために尽くしてくれていて、本当に感謝しておるのじゃぞ」
「……ッ!? あ、ありがとうございます。そっ、それではこれで、失礼します」
アイリアは、のぼせたように顔を赤く染め上げながら仕事へと戻って行く。
(うーむ。あのアイリアにも、ああまでも言わせるとは大したものじゃな)
― 侍女② ノノン・リーベルの場合 ―
「え? クナトさんですか? え~~と、とっても良い人ですよ」
「うぅんと、だな。それは具体的にどのようなところがじゃ?」
ノノンのあまりにも大雑把すぎる回答に、シェレアは頭を抑えてしまいそうになりながらも、顔をしかめること無く笑顔で訊ね直す。
「そうですね~。例えば今日はですね~、重い荷物を持ってくれたし、階段から転びそうになったら助けてくれたし。花瓶を割って室長に叱られそうになったときも自分がぶつかった所為だって庇ってくれたし、あとは~……」
(ちょい待たんか。さっき『今日は』と言わなかったか? まだ午前中だぞ)
「他にもいろいろですよ~。だからクナトさんはとっても良い人です!」
ノノンは満面の笑みで答える。その背後に佇む恐ろしい人物の存在に気付かないまま。
「ほほ~ぉ。ノノンさん。それはともてともて興味深いお話ですね」
いつの間にか音も無く、室長のミレンダがノノンの背後に忍び寄り話を盗み聞きしていた。
「しっ、室長ぉ!? い、いつからそこに、いらしたんですか~?」
ノノンは怯え切った声で尋ねながら、額からはびっしょりと冷や汗を流していた。
「こちらへ来なさい!! 先輩と言う立場でありながら、新人に甘えるなど言語道断です!! あなたにはまだまだ厳しく指導していかなければいけないようですね!!」
「ヒエ~~。ごめんなさい~。どうかお慈悲を~~」
ノノンはミレンダに首根っこを引っ張られながら、そのままどこかへと連れさらわれてしまった。
(……まぁ、なんじゃ。要するにじゃ、クナトは周囲の者達にも十分に気配りができておるし、侍女達とも上手くやれている、といったところなのじゃろう)
― 侍女③ ユリエ・ノーレンの場合 ―
「なんでもありません! なにもありません!!」
ユリエはシェレアからクナトについて訊ねられると、慌てふためき始める。
「なっ、何じゃいきなり。我はただクナトについてどう思っておるのかを尋ねただけじゃぞ?」
「どうにも思いません! 滅相もございません! 普通です! 至って普通の関係ですっ!」
ユリエはなぜか顔を真っ赤にしながら、必死にそう強く主張する。
そのあまりにも予想外の反応に、シェレアも困惑してしまう。
「いやぁ、そのぉ、だな。その反応はどう見ても普通のこととは……」
「そそそそううですよね。普通じゃありませんよね。普通ってどんなのでしょうか?」
「む? そうじゃな。そう改めて問われると、回答に困る質問じゃな。……って、いや、そうではなくてじゃな」
「ももももっ申し訳ありません! まだ仕事が残っていますので、これで失礼します!」
そう言って、ユリエは逃げるようにどこかへと走り去ってしまった。
(な、なんじゃったのじゃ? 今のは。そんなおかしなことを訊いてしまったのじゃろうか?)
― 侍女④ キヌエ・トリニアの場合 ―
「私からはクナトさんについて、これと言って私から申し上げることは特にありません」
「また、随分と素っ気無いのぉ。いくらそなたでも何かあるじゃろ? あれは相当な変わり者じゃぞ?」
キヌエの物事に対する無関心な性格に、シェレアはため息をつきたくなる。
「そうですね。彼の作る噂の異国料理になら興味があります。後は、他の侍女達からはかなり人気があるようですね。先日も彼のためにお弁当を作った後輩がいまして、恥ずかしいからと私に持って行ってほしいと頼まれました。どうせなら私に作ってくれれば良いのに。そうして私が持って行きましたら……」
くきゅるるぅ~。と、話す最中にキヌエの腹が鳴る。
「……あの、片づけがまだ残っていますので、この辺でよろしいでしょうか?」
侍女である彼女達は、王族よりも先に食事を決してしないよう指導されている。片づけが終わった後に別室で食事を摂るのである。そして、キヌエにとってこの時間は空腹のピークでもあった。
「う、うむ。手を止めさせてしまってすまなかったの。とても貴重な話であったぞ」
「はい。それではこれで、失礼いたします」
キヌエは礼儀正しく、手のひらを組み、もとい空腹のお腹を押さえながら、頭を下げて仕事へと戻っていく。
(う~む。『侍女達からは人気がある』か。もしかしてあやつは、女性からモテる男なのじゃろうか?)
そんなことを考えていると、シェレアはなぜかやたらと焦りを感じてしまう。万が一にもクナトが他の誰か取られてしまうのではないか、そんな不安が頭をよぎると不愉快極まりないことであった。
(いやいや、落ち着け。みな珍しがったり、面白がっていたりしているだけじゃ。あんな得体の知れん男に、心から好意を抱く物好きなどそうそうおるわけがない)
シェレアは自分にそう言い聞かせつつ、その後も城内の者達からクナトについて訊いて回る。結果として、シェレアの不安は膨らむ一方であった。クナトと共に働く使用人達からの人気が想像以上に高いのである。
「クナトさん? 彼、可愛いですわよね~」
「ムサっ苦しい兵士達なんかより、誠実そうなのが良いですよね」
「ぜひうちの娘の婿に来てほしいものだ。がっはっは!」
――というような感じで、クナトに対して好意を抱く者が少なくないのである。
(一体あやつは、この七日余りでどうやってここまで城の者達への好感度を上げたのじゃ!?)
クナトの人気の高さを知れば知るほど、シェレアはその事実が腹立たしくさえ思えてくる。苦虫を噛み潰したような顔で廊下を歩いていると、従姉妹のリオナの姿を見つける。嫌な予感を感じつつも、シェレアはリオナにも話を訊いて見ることにした。
「ああ。……クナトさんね」
クナトの名を聞くと、いつも陽気なリオナが珍しいことに肩を落とす。
「なんじゃ? なにかあったのか?」
「いやね、正直に白状するとね、クナトさんに私の家来にならないかってホントに誘ってみたのよ」
「はぁ!? なんじゃと!? あれほど抜け駆けをするなと……」
「分かってるわよ。殆ど冗談のつもりだったわよ。でもね、そしたらさ、彼なんて言ってきたと思う?」
「……何と、言ったのじゃ?」(そんなもの、断るに決まっておるではないか)
そんな根拠の無い自信を持ちながらも、リオナの意味深げな口ぶりに、シェレアは期待と不安で胸の鼓動を高鳴らせながら聞き返す。
「『他のお姫様からも同じことを言われて断っている。そのお姫様のこともあるから家来にはなれない』だってさ」
シェレアはクナトがきっぱり断っていたことに安堵する一方で、驚きもあった。『他のお姫様』とは間違いなくシェレアのことを指しているに他ならない。つまりクナトは、シェレアのことを気に掛けた上で断っていたのである。シェレアはそのことが心から嬉しく感じてしまっていた。
そんなシェレアの気持ちなど知りもせず、リオナは両手で自分の首を絞めるジェスチャーをしながら話を最後まで続けた。
「『もしその申し入れを受けでもしたら、きっとそのお姫様に首を絞め殺される~』てな感じだったわけよ」
「…………」
シェレアは半笑いしつつも、その表情は引きつったものであった。
「よかったじゃない。あの様子なら他の王女に取られる心配はなさそうよ」
「いやいやちょっと待たんか! それは要するにじゃ、我が人の首を絞め殺すような、そんな奴だと言われたようなものじゃないのか!?」
「あっはっは。実際、その光景が目に浮かぶわ~。それじゃあ、頑張りなさいよね~」
リオナはケラケラと笑い、手をひらひらとさせながらその場を去って行く。
(ぐぬぅ~、リオナもそうじゃが、クナトも勝手なことを言いおって。一瞬でも喜んだ我が馬鹿らしいではないか! そもそも、こんなことで喜んだりがっかりしたり、どうしたというのじゃ我は!?)
シェレアは苛立つ気持ちを抑えつつ、深く深呼吸をして心を落ち着ける。感情的になっても良いアイデアなど出てはこない。冷静に得られた情報を分析する。
(……じゃが、クナトについて、また一つ見えてきたぞ。あやつはきっと、相当なまでに律儀な男なのじゃ。盗品を弁償するための無賃労働も、無賃であるのにもかかわらず仕事に対して決して手を抜かない誠意も、我を気遣いリオナの家来の申し入れを断ったのも、その律儀な性格ゆえなのじゃろう)
シェレアはそのクナトのその性格を踏まえて、更に思考を巡らしていく。
(ならば恩を売るという作戦の狙いは悪くない。きっとあやつのその性格ならば、断るに断れなくなるじゃろう。問題はどうやって恩を売るかじゃが)
家来になってもらうに見合うだけの恩は、おそらく一つ二つ程度では不十分の可能性が高い。だからといってクナトの現状の人気を考えれば、悠長に構えている時間があるとも限らない。
(まず、今思いつくこととしては、兵士達とのわだかまりを取ってやることじゃろうな。そうなると)
シェレアはその目的達成のために、鍵となるであろう人物が一人だけ思い当たる。その人物を尋ねるため、シェレアは進む方向を変えるのであった。
通路を行く途中で、偶然にもシェレアは探していた人物が会議室へ入ろうとしているところに出くわした。
「レナード。丁度良いところに」
レナード・シュトレイアス。口元に整えられた小さな髭が特徴の初老の聖騎士である。そして、王国兵団の騎士団長を務める人物でもある。性格は温厚であり、クナトと兵士達との仲裁役として、これ以上に無い適任者である。
「少々相談したい事があるのじゃが……」
シェレアが本題を切り出すよりも早く、レナードもシェレアの姿を見ると、レナードから逆に話が持ちかけられる。
「これはシェレア姫。丁度良いところに。これから急遽、緊急会議が行われることになったのですが、これは是非シェレア姫のお考えもお聞かせ願いたく存じます」
「緊急会議、じゃと?」
休日に会議が行われるということは、よほど重要かつ緊急を要する案件であることが伺える。しかし、そこまで重要な案件ともなればシェレアの意見が参考になるのか疑問でもあったが、ともあれ、シェレアとしては会議に参加しないわけにもいかず、クナトの件は一旦後回しにして会議に集中することにした。
シェレアが会議室に入ると、そこには予想外な顔ぶれが並んでいた。
困り顔の父、ルグレット王はさて置き、侍女の室長であるミレンダ。兵士や使用人達が利用する食堂の料理長を務める太ったおばちゃんに、城の改築改修工事に携わる棟梁補佐の髭ヅラのおっさん。そんな風変わりな面々が、険悪な雰囲気で議論を交わしていた。
「クナト殿は、我々の専属として預かる! クナトが来てからどれだけ業務の効率が向上したことか!」
「冗談じゃないよ! あんたらの腹を満たしてるのは誰だと思ってるんだい!? クナトはうちで面倒を見るよ!」
「飯なんて腹に入れば同じだろうが!」
「旨い旨い言って平らげていたのはどこの誰だったかねぇ!?」
「お二人とも何を勘違いなされているのですか。私達は常に王家の方々の生活を第一に考えなければなりません。それならば、クナトさんには侍女業務の専属になっていただくのが当然の判断です」
料理長と棟梁補佐の二人が怒鳴り合い、ミレンダは冷静を装いながらも強く主張する。
「初めにクナト殿を一番毛嫌いしていたのはお前だろう!」
「あれは、女王様の身の安否を考えれば致し方ないこと。クナトさんが真っ当な方だと分かれば話は別です!」
「そんな都合の良い理屈が通ると思ってるのかい! あんたは!」
シェレアは目の前で白熱するその論争に唖然とする。
「これは、どういう状況なのじゃ? レナードよ?」
シェレアは事態の把握が追いつかず、レナードに状況の説明を求めた。
「お聞きになられた通りでございます。城の使用人達がクナト殿をどの役職の専属とするかで争っているのです」
事の発端は実はルグレッド王であった。突き詰めて言ってしまえばシェレアが原因でもあった。
今朝方、シェレアは家族との朝食の会話でクナトについての話題が出たことで、グレット王もシェレアと同様に、主要な使用人達からクナトの働きについて訊き回っていたのであった。
そして、使用人の誰もが口々にしたのは、是非クナトを専属として働いてもらいたいという意見であった。その話が使用人達の互いの耳に入ってしまい、このような緊急会議などという有り様に至ったのである。
「国王! 是非我々にクナト殿を!」
「いんや、うちのところにクナトを!」
ルグレッド王は、皆から威圧されるように押し迫られるとたじろいでしまっていた。これでも、他国との戦争では知将として、小国でありながらも勝利に導いたことから英雄と讃えられたのだが、戦ごと以外となるとからっきし決断力が無いのである。これでは、議論の決着がいつになるのか分かったものではない。
シェレアは緊急会議であると聞いて、気を引き締めて臨んでしまったことがバカバカしく思ってしまっていた。
「何をくだらないことで言い争っておるのじゃ!」
「くだらないとは何だ!」「くだらないとは何だい!」「くだらないとは何ですか!」
一斉に三人から凄まれ、シェレアは思わず後退りしてしまう。
「シェレアお嬢様ではありませんか。これは大変失礼いたしました」
議論が白熱していたためか、シェレアの存在に四人は全く気付いていなかった。
「そうだ、姫さんに決めてもらおう。姫さん。あんたはどう思う?」
シェレアは、脱力するよう大きくため息をつく。
「クナトのシフトの件は、初めに皆が納得して決めたであろう。言い争うくらいならば、それを変えるつもりは無い。各々が決められた時間内で最大限に働かせれば良いであろう」
シェレアの公平な意見に、三人は渋々であったがそれを承諾するのであった。
これでこの会議も終わりになる。シェレアがそう思った矢先、思いもよらないところから新たな議題が挙げられた。
「折角の機会です。私からも一つ、意見を述べさせて頂いてよろしいでしょうか?」
軽く挙手をしながら、議題を口にしたのはレナードであった。
「クナト殿を兵団への入団を推薦したいのですが、いかがでしょうか?」
(…………は?)
シェレアはレナードの突然の申し入れに面食らってしまう。それはつまり、クナトを城の兵士にするということであった。
「ちょっとちょっと団長さん。今までの話を聞いていたんでしょう? クナト殿はこれまで通り、使用人として働いてもらう。そう決まったところではないですか」
「はい。承知しております。ですから、日々の訓練には参加していただかなくて結構です。ただ、有事の際の遠征などに、お力添えをお願いしたく存じます。ここ最近の兵士達の実力低下は軽視できない状況でもあり、クナト殿に入団していただければ、他の兵士達への良い刺激になるのではないかと考えております」
レナードの意見に、皆は眉をひそめる。
「クナトは、そういう争い事とかには関わりたくないじゃないのかい?」
クナトを良く知る使用人達は、クナトはきっと入団を希望しないと口々にする。
「そうかもしれません。そのときは、本人の意思を尊重いたしましょう。しかし、今の兵士の役目を一度しっかりと理解して頂いた上で、クナト殿には考えて頂きたいのです」
ルグレッド王は、少しうなりながら問題点を洗い出す。
「確かに、ギルバートを倒したという報告からも、実力は相当なものがあるかもしれんが、やはりその一件以来、兵達からは敬遠されているのだろう? それに、貴族観念が根付い者達からすれば、身分が無いクナトでは、やはり受け入れ難いのではないのか?」
シェレアはこの話の流れから、嫌な予感を察しつつあった。
「私も最初こそはそう思ってもおりましたが、ここ数日間のクナト殿の様子を拝見した限りでは、おそらく問題無いでしょう。クナト殿には何か人を惹きつけるような不思議な魅力が感じられます。兵達ともきっと上手くやれることでしょう」
そして、レナードはルグレッド王を説得するために最後にこう締め括った。
「無論、私もクナト殿が兵達との友好関係を築けるように、最大限取り計らうつもりでおります」
レナードが口にしたそれは、シェレアがレナードへと相談を持ちかけた上で、行動して貰おうと企てていた計画そのものであった。表立ってレナードに動いてもらうのは同じなのだが、レナードへ事情を説明した上で、それとなくシェレアの気遣いをアピールしてもらうよう協力を取り付けるつもりでいた。影からクナトの手助けをしているという構図は、きっとクナトには効果的であり、良い作戦だとシェレアは自負していたのだが、まさか、レナードが自発的にクナトを兵士にしようなどとは思いもよらなかった。
クナトと深く関わりのある主要人物達を前にして、レナードが自ら進んで行動すると公言されてしまった後では、シェレアが影で手助けをしているという事実をつくることは、もう困難となってしまった。シェレアの思惑は行動に移す前に破綻し、またも実らなかったのである。
「分かった。ならばこの件はお前に一任するぞ」
そして、ルグレッド王も説得され、レナードの提案を承諾してしまう。
「はい。ありがとうございます。……シェレア姫? いかがなされましたかな?」
シェレアは壁にもたれかかるように片腕を付きながら、どんよりと肩を落としていた。
「いや、なんでもない。気にするでない」
シェレアは肩を落としたまま会議室を後にする。
そんなシェレアの様子に、レナードはただただ首を傾げるだけであった。
昼を過ぎた時間。クナトは朝の侍女業務を終えると、休日のため午後は仕事も無く、クナトにとっては自由に過ごせる貴重な時間であった。クナトはこの時間を利用して、自分の部屋に家具が足りていないことから、城の倉庫にある使われなくなった家具からまだ使えそうな物を見繕っていた。期待した通り、カーテンや絨毯、テーブルなど綺麗にすればまだ使えそうなものが目に留まる。他にも何かないかと倉庫の奥を整理していると、騎士団長のレナードがクナトを訪ねにやって来た。
「クナト殿。少々お時間のほどよろしいですかな?」
「はい? 構いませんが、どうかされましたか?」
「いえ、以前からクナト殿とはゆっくりとお話をしたいと思っておりまして。もし都合がよろしければ、年寄りの娯楽に付き合ってはいただけませんかな?」
「娯楽? ですか? はい、構いませんけれども」
特に断る理由も無かったクナトは、二つ返事でレナードの誘いを承諾した。
城から馬を出して二十分とかからない山の麓にある綺麗な川辺へと、クナトはレナードと二人、釣り竿を手にやって来ていた。
レナードの言う娯楽とは川釣りのことであった。
「おおっと」
釣りを始めてから三十分と経たない間に、レナードは既に三匹もの魚を釣り上げる。
その腕前にクナトは感心する。
「見事なものですね」
「なんのなんの。魚がたむろうポイントを熟知しているだけですとも。クナト殿もかなり筋はよろしいのですから、すぐにでも釣れますよ」
レナードは馴れた手付きで、遠くの対岸の木の根元の茂みになっている小さな場所へと狙いを定めて釣針を放り入れる。
そのあまりにも正確な手捌きに、クナトは思ったことをそのまま口にする。
「……レナードさんのその正確なコントロールは、魔法によるものですか?」
「はっはっはっ! 魔法など使わなくとも、この程度のことでしたら練習を積み重ねれば誰にでもできるようになりますとも」
レナードは陽気に笑ってみせる。
この世界には魔法、そして魔術師や魔法使いと呼ばれる者達がごく少数ではあるが確かに実在する。しかし、魔法に関して解明されていないことは多々あり、決して万能な代物ではない。国や地域によっては危険な存在、または異端な力として忌み嫌われることさえもある。
クナトはレナードがその魔法使いであると、なにか確信めいたものを持っているようであった。
「それでも、魔法は扱えるのではないのですか?」
「どうして、そのように? それは、私が聖騎士であると知っているからですかな?」
シュトレイアス王家の王女に代々受け継がれる魔法、そして魔法による聖騎士の成り立ちについては、クナトはシェレアから話を聞かされていた。
「はい。聖騎士は、王女から魔法を授けられると聞きました。それと以前に、人間技とはとても思えない正確な弓術で痛い目に遭わされたことがありました。あれはとても普通の人間が成せるものではなく、魔法によるものとしか思えません。レナードさんは聖騎士であり、弓の扱いに長けていることで有名でしたから、多分そうなのではないかと」
クナトの言う痛い目とは、城に忍び込み脱走を試みたとき、城壁に吊るされたロープを弓矢で切断されたときの話である。それをやってのけたのはレナードではないかと、クナトは予想していた。そして、その推測は正しかった。
「バレてしまっておりましたか。仰る通り、あのときロープを射抜いたのは私です。そして、あれは確かに魔法によって成せた技です」
「弓の魔法、ですか」
「いえ、魔法の性質で言えば違います。私の魔法は、言わば三つ目の〝目〟があるのです。その目は、遥か遠くであろうとも、暗闇であろうとも、例えばこの川の水中深くであろうとも、自在に操りどのような場所、モノでも視界に捉えることができます」
「いわゆる千里眼ですね。あっ、もしかして、ずっと俺のことを見ていましたか?」
「なんと。まさか私の視線に気づいておられたのですか。いや、黙って覗き見するような真似をしてしまい申し訳ありません。ルグレット王から密かに監視するように命令されていたものでして」
「あ、いえいえ。それは構いません、全然。少し気になってはいたので、理由が分かってスッキリしました」(アイリアさんの視線だけじゃないと思ってたけれど、そういうことだったのか)
レナードのモノを見通す能力は理解できたが、それだけではまだ、正確な弓術の種明かしには不十分であった。レナードは釣針を一旦手元へと引き上げながら、説明を続ける。
「千里眼も一つの能力と言えます。私も、自分の魔法の力が理解できていなかったときは、それが能力のすべてだとも思っておりました。ですが、私の場合それだけではありませんでした」
レナードは釣針をつまんで竿を構えると、目を閉じて水面の一点に意識を集中させた。一呼吸の後に最小限の動きで風切音がするほど素早く釣針を放つ。1グラムにも満たないその釣針は、空気抵抗を一切感じさせることなく、まるで弓矢のように水面へと一直線に突き刺さり、そして、レナードは一瞬の間を置くことも無く、竿のしなりの反動を利用してすぐに釣針を引き上げる。すると、水面からは一匹の魚が飛び出し、その魚のエラには、外側から釣針が突き刺さっていた。つまり、レナードは釣針で魚を射抜いて見せたのである。練習などできるような芸当では決して無い。
レナードは謙遜混じりに苦笑いをしながら説明する。
「と、ご覧のように第三の目で捉えた標的に向けて弓矢などの物体を正確に誘導できるのです。他の聖騎士達との魔法と比べれば、随分と地味ではありますが」
「いいえ、戦場においてこれ以上にない能力だと思います。きっとレナードさんは戦争で活躍されたのでしょう」
クナトはレナードを褒め称える。口振りでは称賛をしているが、クナトのその表情には、どこかもの悲しさが見え隠れしていた。
人は、魔族に対する武力を保持する一方で、人間同士の争いも絶えず起きている。レナードも自国の為とは言え、その魔法で多くの人を殺したのもまた事実なのである。
「いや、いけませんな。つい余計な話が長くなってしまいました。実はクナト殿にはもっと大切なお話が、折り入ってお願いしたいことがあるのです」
レナードはクナトの表情を見て、余計な話をしてしまったと、唐突に話を切り出した。
「クナト殿には、城の兵団に加わっていただきたいのです」
「すみません。俺は戦争や争い事には、もう関わりたくは……」
クナトは検討の間もなく辞退の意思を示そうとする。その即答の速さは、川釣りがただの世間話などのためではないと察し、レナードの意図をあらかじめ予想していたとしか思えないものであった。
レナードもクナトの即答に慌てて事情の説明を付け加える。
「いえいえ! お待ちください。クナト殿が仰りたいことも十分に理解しているつもりです。ですが、まずは事情を聞いて頂きたい。国同士が争っていたのはもう昔の話。今では周辺国とは友好関係にあります。決して、人同士で血を流すことはありません。ですが……」
シュトレイアス王国は、建国後わずか40年余りで急成長を遂げた。しかし、それは周辺国からの侵略対象となる大きな要因にもなってしまった。智将と謳われた、当時騎士のルグレッド王と聖騎士レナードの活躍によって、三年以上にも続いた戦争はシュトレイアス王国の勝利で幕を閉じた。そして、アシェリー女王は二度と戦争が起こらないように他国との和睦に力を尽くしたのである。
しかし、戦争が終わったことで、必ずしも王国が平和になったというわけではない。
「世界には魔獣や魔人といった魔族が存在します。今の我々兵士の責務は、その魔族の脅威から王国を守ることにあります」
歴史上、魔族によって滅ぼされたとされる国や街は数多く存在する。その魔族に対抗する力は備えなければならない。
だが、戦争が終わって以降、兵士達の実力は下がる一方であった。それは、魔族の存在は遠い大陸からの伝承上の存在だけであり、どの兵士も本当に実在するのかどうか半信半疑なのである。そして、騎士団長のレナードの温厚な性格ゆえに、そんな兵士達に対して厳しい指導ができていないことも原因の一つとして挙げられる。
「クナト殿には、これまで通り使用人としての仕事を優先していただいて構いません。ただ、クナト殿には兵士としての素質も十分にあります。それを見込んで、遠征や有事の際には、そのお力を貸していただきたいのです。そして、クナト殿が兵団に加わっていただければ、他の兵士達にも刺激になるはずなのです。ルグレッド王やシェレア姫には、事前に話は通しております。あとは、クナト殿のお考え次第であります」
クナトはジッと黙り考え込んでいた。レナードが危惧するところは、クナトにも十分に理解できる内容であった。そして、クナトは魔族が脅威であることをその身を持って知っていた。その上で、クナトは一つの疑問を抱いた。自分がただ兵士として加わることが、この問題に対する本当に最善の解決策なのであろうかと。そして、クナトは一つの妙案を導き出す。
「詳しい事情は分かりました。兵団への参加、是非協力させてください。ですが、協力には一つ、条件を出したいのですが」
クナトの意外な切り返しに、レナードは意表を突かれてしまう。
「条件、とはどのような?」
クナトがその条件を口にすると、そのあまりにも大胆な考えにレナードは更に驚かされた。
「お待ちくだされ! クナト殿! それは流石に不味いのではないかと」
「無茶な頼みかもしれませんが、ここまでしなければ、おそらく意味はありません」
レナードはクナトを説得することは難しくないと考えていた。それよりもその後、他の兵士達をどうやってクナトの入団を説得させるかのほうが、厄介な問題になるであろうと懸念していた。理由は、今の兵士達には、騎士や貴族、その血縁者という確かな地位と身分を持っている者が多く、それらの身分による序列の意識が根付いているために、身分がなく、素性も分からないクナトの入団に反発する者もいると考えられるためである。
クナトが出した条件は、そんな兵士達から間違いなく反感を買ってしまうことは火を見るより明らかであり、レナードとしては、とても了承できる条件ではなかった。
クナトもレナードが簡単に承諾できる条件でないとは自覚していた。そこで、クナトはさらに提案を持ちかける。
「では、賭けをしましょう」
クナトはよくやく一匹目の魚を釣り上げながら、賭けの内容を説明する。
「今から日の暮れるまでの約二時間の間に、もしレナードさんよりも俺が魚を多く釣り上げられたなら、条件を飲んで頂くというのはどうでしょう? 流石にさっきのような魔法を使うのは無しですよ。公平に勝負しましょう」
レナードからしてみれば、公平どころか圧倒的に自分に有利な条件の勝負であった。経験の差からして負けることなどまず考えられない。それならばなにも問題は無いと、レナードはその賭けを快く受けてしまうのであった。
翌日の太陽が昇る昼過ぎ。レナードが午後の訓練を始めようとする兵士達に集合をかける。
兵士達の日々の訓練は、午前は基礎体力作り、午後は組手や模擬戦、様々な状況を想定した実戦的な演習が行われる。その訓練を真剣に精進する者がごく小数いる一方で、そうでない者が大半を占めてしまっているのが現状であった。あからさまに手を抜いたり、堂々とサボっているわけではないのだが、それは兵士として食べていくための表向きの努力であり、王国のため王家のために尽くしているわけではなかった。結果として、兵士達の実力は低下の一途をたどっている。
集められた兵士達は、レナードの片隅にいる人物の存在に怪訝な顔をする。
「おい、なんであいつがいるんだ?」
兵士達の視線の先には、大きなホットドックを頬張るクナトの姿があった。クナトにとって本来この時間は、厨房業務と建設業務の合間の休憩時間であるのだが、今日は兵士達の訓練場へと足を運んでいた。
そんな兵士達の疑念の視線の中、レナードは事情を説明しようとするのだが、上手く言葉にできないでいた。
「今日は、皆に知らせたいことがある。……のだが、なんと伝えればいいものなのか。ええっと、ですねぇ」
「レナードさん。俺から伝えます」
ホットドックを食べ終えたクナトが、レナードの前へと出る。
「みなさん。訓練お疲れ様です! 突然のことで恐縮ではあるのですが、この度、皆さんの指導教官になりましたクナトです。よろしくお願いします!」
クナトが深々と頭を下げて挨拶する中、場は沈黙に静まり返ってしまっていた。
クナトが兵士達の指導教官となること。それが、先日クナトがレナードに提示した条件であった。クナトは、自分が兵士の一員となるだけでは、兵士達の問題の解決には至らない判断し、兵士達を直接鍛え上げようと考えたのである。
しかし、兵士達がこれを素直に受け入れられるはずもなく、レナードも容易に飲める条件ではなかった。
(あんな賭けを、受けるべきではありませんでした)
勝負の最中、レナードがずっと釣り上げられなかった巨大な川の主を、目の前でクナトに釣り上げられてしまっては、負けを認めざる他なかったのであった。
そして案の定、クナトの突拍子もない台詞は、兵士達には冗談にしか聞こえていないようであり、からかい始める者が出てくる。
「ここでバイトの募集なんてしていないぞ」
クナトを小馬鹿にするように笑い声があがる。
だが、クナトはそれを特に気に止めることもなく淡々と話を続けた。
「はっきりと言わせていただきます。皆さんは兵士として、あまりにも弱すぎます。とても国の平和を任せることはできません。ですから、俺が皆さんを一から鍛え上げ直したいと思います!」
このクナトの躊躇いのないストレートな物言いに、レナードは後ろで頭を抱えていた。
『弱い』などとはっきりと言われれば、兵士達もそれが冗談であれ本気であれ、黙ってはいられない。たちまち野次や罵声がクナトへと浴びせられる。
クナトはこれに対して、大きく息を吸い込み、力一杯に声を張り上げる。
「あなた達は兵士である以上、その肩には大勢の命が預けられているのです! そのことを腹の底から自覚できている人がどれだけいますか!」
このクナトの言葉に、兵士たちは一瞬、反論に詰まる。しかし、すぐにもっともらしい主張が返される。
「馬鹿にしているのか!」「そんなの自覚しているのに決まっているだろう!」「俺達兵士をなんだと思っているんだ!」
その場の空気はもう収拾がつかないほど、殺伐としたものになってしまっていた。
「威勢がいいのは分かりましたが、ですが、とてもほんの数日前にどっかの盗人一人に負けた人達の台詞とはとても思えないです」
そしてこの場において、一番言ってはならないことを、一番言ってはいけない人物がさらりと言い放った。
「てめぇ! ぶっとばされてぇのか!」
「はい、一向に構いません。もし自分の顔に一発でも攻撃を当てることができるのでしたら、教官の件は取り下げます」
クナトはゆっくりと、それでいて毅然とした振る舞いで兵士達の前へと歩み出る。
「ですが、今のあなた達の実力では、絶対に俺には敵いません。それ間違いだと言いたいのでしたら、俺をぶっ飛ばしてでも、その実力を示してください!」
その挑発同然のクナトの発言によって、怒りの沸点に達した兵士が一斉に本当にクナトへと襲い掛かった。
しかし、そんな兵士達の怒りに身を任せた攻撃は虚しいまでに空を切り、そして気付けば次々と放り投げられていた。それはまさにあの夜の再現であった。
無策で挑む兵士達の影で、黒い衣服に身を包んだ一人の騎士が、そのクナトの動きをじっくりと探っていた。
(なかなかに良い動きをする。体術か何かの類なのだろうな。だが、真っ直ぐな性格が動きにもそのまま現れてしまっている。あの手の者ならば、私が倒すことなど造作も無い)
その騎士は戦いにおいて、相手の動きの先読み、そこからのフェイントや騙し討ちなど、相手の裏を突く戦術を得意としていた。そして、クナトの戦い方はまさに、恰好の餌食としていた。
黒衣の騎士は、十分な勝算を持った上で、クナトの前へ出ようと歩みを進める。しかし、一歩先に他の騎士がクナトへと対峙していた。
(そうですね。この場はあなたに譲りましょう。ギルバート)
クナトと対峙するギルバートは、鞘に収められた剣をクナトへ投げ渡した。
「貴様には大きな借りがある。だからこそ、騎士の誇りとこの命を賭けて、今一度貴様に決闘を挑む! さぁ! 剣を抜け! こんな茶番ではなく本気で私と戦え!!」
ギルバートは騎士である名誉を誰よりも誇りとしていた。だからこそ、クナトに負けてしまったことに対する不甲斐無い自分自身へのケジメを付けたいのである。
だが、クナトはそんなギルバートの胸中を察しながらも、その意志を汲むことはしなかった。
「これは、お返しします」
クナトは剣を抜くこと無く、そのままギルバートへと放るように投げ返した。
「なっ!? キサマ! 逃げるな!」
「そういった武器は得意ではありませんし、万が一にも大怪我をさせてしまうかもしれません。剣を使わないからといって手を抜いているつもりもありません。ですが、あなたが好きに武器を使うのは一向に構いません」
「ふざけるなっ!! 騎士として、剣を持たぬ者に刃を向けられるものか!」
クナトはあからさまに呆れた態度を取ってみせる。
「騎士の誇りだのと、本気でそんな下らないことに、命を賭けるだけの価値があると思っているのですか?」
「下らない、だと?」
このクナトの言葉が、騎士として忠義を尽くしてきたギルバートの逆鱗に触れる。
「騎士でもないキサマに、騎士道の何たるかが分かるものか!!」
ギルバートは叫び、拳を構えるとクナトへと一気に距離を詰める。ギルバートは感情を昂ぶらせながらも冷静さを失ってはいない。クナトの体術が、相手の攻撃の力を利用して反撃に転じているのだと分析していた。大技を仕掛けようとしても、その攻撃のダメージは己自身に跳ね返ってくるだけである。そのため、ギルバートは間合いを詰めると小さく手数で攻め立てた。
クナトはその攻撃を耐えるようにガードを固めて凌ぐのだが、そのガードの隙間を突くように、ギルバートの拳が下からクナトの顎を跳ね上げた。
その初めてクナトに攻撃が浴びせられたことにより、周りからは歓声が上がる。
しかし、ギルバートの拳には殴った手ごたえが全く無かった。
(なんだ、今の感触は? 威力を受け流された? 器用なマネをする。ならば、もっとスピードを上げるまでだ!)
ギルバートはさらに素早い連打でクナトを攻める。
しかし、そのギルバートの動きに順応するかのように、クナトは戦い方を切り替える。
投げ技主体であった体捌きから一変して、軽快にステップを踏み、上半身を激しく左右へと振り始める。その軽快な足捌きと身のこなしによってギルバートの連打はすべて避けられ空を切る。そして、連打の一瞬の隙を突くように、ギルバートの頬にクナトの拳が僅かにかすめる。今まで投げ技のみであったクナトが、初めて見せた拳での攻撃であった。
攻撃を受けはしなかったが、ギルバートは一度、大きく距離を取る。その顔からは血の気が引いていた。
(なんだ、今のこいつのパンチは!? 殺気? いいや、この男からは、そこまでの気迫は感じられん。だが、さっきの拳にはなにか、得体の知れない異様なプレッシャーが纏わり付いていた)
ギルバートはかすめた頬を手で拭う。ほんの少しかすめただけで、ダメージは無いに等しい。
(落ち着け。得体は知れないが、その動き自体は腰の入っていない素人同然のパンチだった。それよりも、こっちの攻撃がまるで当たらないことが問題だ。今は攻撃を当てることだけに集中しろ)
ギルバートは呼吸を整えると、クナトの動きに追随する。接近すると同時に、クナトに肩をぶつけて態勢を崩したところに、渾身の力でクナトの脇腹に拳を叩き込んだ。全体重を乗せ、力の限りを込めた一撃。効かないはずがない。だが、苦悶の表情で後退りをしたのはギルバートであった。まるで大木でも殴ったかのような強靭なクナトの身体に、ギルバートの拳が逆に砕けそうになっていた。ギルバートは動揺し、有効打となる攻め手が思いつかないまま動きが止まってしまう。
そして今度は、ギルバートの右脇腹へお返しとばかりにクナトの拳が深々と抉っていた。
「がっはぁっ!?」
その見た目以上のとてつもない破壊力に、ギルバートの身体はくの字に折れ、内臓は悲鳴をあげる。そして、悶絶しながら片膝をついてしまう。
ギルバートはそのまま立ち上がることさえできない。ダメージによるものだけではない。たったその一撃で、戦意を根こそぎ失ってしまっていた。実力の差は歴然であり、拳一つの差し合いにおいても、圧倒的に技量が違っていた。これ以上勝負を続けたところで、恥の上塗りにしかならないことを悟ってしまっていた。
そんな力なくうつむくギルバートに、クナトは落胆混じりに言い放つ。
「あなたは、思い違いをしているんです」
「……なんだと?」
「騎士の誇りなんていう、曖昧で目にも見えないもののために、命を賭けるなんてことができるはずない。もし本当に命懸けでこの勝負に挑んでいるなら、この程度のことで膝を屈したりなんかしません」
ギルバートに言い返す言葉はなかった。
「もし、本当に命を賭けるのに値するとすれば、それは自分に取ってかけがえの無い、大切な誰かを守るときだけです! そんなことも分かっていないあなた達に、人の命を背負う資格はありません!」
ギルバートは奥歯を噛みしめる。王女のティアナを守る聖騎士となるギルバートにとって、クナトの言葉はその役目を全否定されたも同然であった。
「……ティアナ様を、ティアナ様をお守りするのは、この私だ!」
「いいえ、今のあなたでは、誰一人として、守ることなんてできません」
「黙れ!! ティアナ様だけは、なにがあろうとも、私が!!」
ギルバートは力の限りを振り絞って立ち上がり、残された懇親の力を拳に込める。その拳をクナトの顔面へ向けて突き出した。
しかし、ギルバートの決死の攻撃をクナトは無情なまでに迎え撃つ。ギルバートの攻撃にクナトはカウンターを合わせるように拳を放つ。ギルバートの意識を刈り取るには十分な一撃が顔面へと撃ち込まれる。
しかし、ギルバートの気迫と信念が、そのまま倒されることを、負けることを許さなかった。
(負けられない! ティアナ様のためにも、負けられないんだ――!!)
ギルバートは、身体ごと首を自ら大きく後ろへねじり、攻撃の威力を受け流した。それはクナトが戦いの中でやって見せた、攻撃を受け流す技を咄嗟に実践したのである。だが、死に物狂いの拙い動きで受け流せたのは、せいぜい威力の二割か三割程度であり、深刻なダメージを回避するには至らなかった。
(……ティアナ、様……)
ギルバートは意識を失いかける最中、それでもなお踏みとどまる。そして、次の瞬間、握りしめた拳をクナトの頬へと全力で叩き込んでいた。
攻撃をまとも食らったクナトは仰向けになるようにぶっ飛ばされ、ギルバートも意識を失って、そのまま身を投げるように倒れ込んだ。
周囲の兵士達はその圧倒される展開に暫くの間、呆然としてしまう。そして、二人が一向に意識を取り戻す気配が無いことに気づくと、慌てて駆け寄って行く。
「おい、大変だ! 医務室だ! 二人を医務室に運ぶぞ!」
医務室のベットの上でギルバートは目を覚ました。
「ギル様!? ギル様! 大丈夫ですか!? どこか痛いところは? お気分はどうですか?」
「ティアナ、様?」
ギルバートは辺りを見渡す。すぐにここが医務室であることを理解する。窓からは赤い夕陽の光が指していた。長い時間、気を失っていたようであった。そして、ティアナが涙ぐみながらギルバートの手を握っていた。
「ティアナ様。まさかずっとわたくしめのお側に、いてくださったのですか?」
「当然です。何時間も目をお覚ましになられないので、わたくし、心配で……」
「ご心配をお掛けして申し訳ありません」
ギルバートは上半身を起こすと、ズキリと脇腹が痛んだ。顔も酷く腫れてしまっていた。
「このような醜態、お恥ずかしい限りです。しかも、同じ相手に二度も惨敗を喫してしまうとは、騎士失格です」
完膚無きまでにクナトに叩きのめされたことを、ギルバートははっきりと覚えていた。しかし、以前のような悔しさは無く、むしろ清々しい気分であった。
「情けないことなどありません! 兵士の方々が言っておりましたわ。ギル様の最後の一撃は素晴らしかったと。決して負けてはいなかったと」
「私が、負けていない?」
ギルバートには、ティアナの言葉の意味するところが理解できなかった。最後にクナトからの反撃を見事に喰らい、こうして気を失って倒れているのは自分であった。だからと言って、ティアナが嘘を言うとも考え難かった。
ギルバートは記憶を思い起こすが、カウンターを食らった直後で記憶が途絶えていた。だが、右手には僅かに感触が残っていた。記憶には無くても、その手は確かにクナトを殴り飛ばしたときの感覚を覚えていた。
(そうか、私の最後の一撃は、私の思いは、届いていたのですね)
一度は騎士としての信念を砕かれ、完全に戦意を失ったはずであった。それでも立ち上がり、そして、最後の一撃へと実を結んだものが何なのか、ギルバートは理解すると、可笑しそうに笑い声をあげた。
その滅多に見られないギルバートの緩んだ表情に、ティアナはキョトンと目を丸くする。
「ギルバート、様?」
「いえ、申し訳ありません。今日は大切な何かに気付かされました。わたしは騎士としての在り方に固執し、目に見えない亡霊のようなものに取り憑かれていたのかもしれません。ですが、今はっきりと目が覚めました」
ギルバートは自分の手を握ってくれていたティアナの手を、両手で握り返す。
「改めて申し上げます。ティアナ様、あなただけは何があろうとも、必ずお守り致します。この命に代えても」
「……はい。わたくしはもう既に、この命はギル様に委ねているつもりです。あなたはわたくしの、聖騎士なのですから」
ギルバートはそのティアナの言葉を聞いて、心から救われた思いであった。
(気づけるのが、儀式の前で良かった。騎士だ王女だのと、そのような大義名分のためではない。こうして私を心配して、私のためを思っていてくださるティアナ様をお守りする。そのために、必ず強くなってみせます。……あいつには、クナトという男には、感謝せねばならないな)
そんな思いを胸に秘めつつ、そのクナト本人はその後どうなったのか、ギルバートはティアナに尋ねる。
「クナトさんですか? ええっと、ですねぇ。ここに運ばれてからすぐに目を覚ましますと『いけない!』と飛び起きて、慌てながら仕事に戻って行かれたそうですわ」
ティアナからその話を聞くと、ギルバートはまた大笑いをする。クナトには到底敵わないなと、その大物っぷりに笑いが止まらなかった。
「よーし。今日のところはこれで終めぇだ」
「「「うーっす」」」
棟梁の掛け声で、大柄な男どもが一斉に資材の片付けを始める。
クナトも一日の仕事がようやく終わり、大きく背伸びをする。
そんなクナトの下へと、ぞろぞろと十数人ばかりの若い兵士達が駆け寄って来た。
「クナト教官! お勤めご苦労さまです!」
「……はい?」
その兵士達は、深々とクナトへ頭を下げた。周囲からも何事だと注目を浴びる。
クナトも突然のことに面食らいながら、事情の説明を求めた。
「なに? 一体どうしたって言うんですか?」
「今日のクナト教官の激を聞いて、自分達が間違っていることに気づきました! どうか我々にご指導をお願いします!」
兵士達はクナトの言葉に感銘を受け、兵士としての役目を全うするために、クナトの指導の下で鍛え直したいと考えを改めていた。
だが、クナトとしては複雑な立場であった。
「いやぁ、でも、あんな偉そうなことを言っておいて、あっさり倒されたのに、今更教官面ってわけにもいかなくて……」
「いいえっ、自分達はクナト教官に指導をして頂きたいのです! どうか自分達を鍛え直してください!! お願いします!」
「「「お願いします!」」」
兵士達は深々と頭を下げたまま、クナトの返答を待った。
クナトもその熱意に答えないわけにはいかない。
「分かりました。今日はもう遅いので明日に備えて身体を休ませてください。俺が教官を任せられる以上、明日からの訓練はずっと厳しくなります」
「はい! どこまででも教官について行きます!」
熱い掛け声とともに去って行く兵士達を見送りながら、クナトはまた大きく背伸びをする。
(さて、明日からはまた忙しくなるぞ)
クナトにしてみれば、今までの使用人としての仕事に加え、兵士の指導教官、そして兵士の一員として遠征への参加と、より忙しい日々が始まろうとしていた。だが、クナトはそんな目まぐるしいまでの忙しさにめげること無く、むしろやる気に満ち溢れていた。
「おっし! まだまだ張り切っていこうか!」
クナトが城の兵士になってからの五日目の夜。シェレアは大食堂前のバルコニーで珍しく一人であった。ここ十日間はいつもクナトと二人で過ごしていたが、クナトは一昨日から三日間の遠征に参加しており、まだ戻って来ていないのである。
シェレアは、少しだけ寂しさを感じつつ、物思いに耽っていた。
侍女のアイリアや妹のティアナからの話を聞く限りでは、クナトと兵士達とのわだかまりは解消されたようであり、ギルバートに至っては人が変わったかのように、クナトと打ち解けているという。
それは決して悪いことではないのだが、シェレアとしては、ますますもってクナトに恩を売る口実が無くなってしまっていた。他に良い手立ても思いつかず、途方に暮れたようにため息をつく。そうしていると下から声が聞こえた。
「おーい。お姫さん」
下へと視線を向けると、シェレアに向かってクナトが手を振っていた。遠征を終え、まっすぐシェレアのところへとやって来たのである。
クナトは軽く助走をつけると、壁を蹴り駆け上がる。二階のバルコニーの手すりへ掴まると、そのまま軽快に柵を飛び越えて着地した。
「よっ、と。ごめん。お待たせ」
クナトは、いつもよりも遅れて来てしまったことを真っ先に謝罪する。別段、二人はここで会う約束を交わしてなどいない。ただ自然に、この時間この場所で会うことが習慣になっていた。
シェレアはクナトが来てくれたことに嬉しさ感じながらも、それを誤魔化すかのように素っ気ない態度をとる。
「戯け。別に待ってなどおらんわ。わざわざ今日のような日にまで、律儀に来ることも無いであろう」
「でも、お姫さんは俺のことをいろいろ気遣ってくれているみたいだし、俺がお姫さんにしてあげられることって、こうして話を聞いてあげることぐらいだからさ」
「は? 気遣う? 我が? なんのことを言っておるのじゃ?」
シェレアには、クナトが言っていることの心当たりが全く無かった。実際、今もこうしてクナトに家来になってもらうために恩を売ることはできないかと苦悩しているのだから、お礼を言われるようなことをした覚えなどあるはずもなかった。
「みんな言ってるよ。お姫さんが俺のことを気にかけていたよって」
シェレアはクナトのこの台詞からどういうことか考え、大方の見当をつける。クナトのことを多くの人物に尋ね回ったことが、傍から見れば気にかけているように見えたのかもしれない。そしてそのことが、クナトの耳にも入ったのであろう。
「だから、そのお礼、かな」
クナトの澄み切った笑顔にシェレアは心が痛む。本当はクナトを我がものとするにはどうすればいいか、それだけを考えての行動であったが、クナトはそれを善意によるものだと疑うこともせず勝手に勘違いをし、あまつさえ心から感謝の気持ちを向けてくるのである。罪悪感を感じないほうがどうかしている。
だからこそ、シェレアはここで『ならば家来になれ』などと、言い出す気にはとてもなれなかった。
シェレアはまた、ついついため息をついてしまう。そしてすぐに、『しまった!』と内心でハッと思い、クナトの反応をそっと伺う。
案の定、クナトは心配そうにシェレアを見つめていた。
「またなにか悩み事?」
(ほら、来た)
クナトのお節介過ぎるほどの世話焼きな性格に、シェレアは関心を通り越して呆れてしまう。今抱えている悩みをまさかクナト本人に話せるわけもなく、だからと言って、ヘタにはぐらかそうとしても面倒なだけであった。シェレアはここは何か別の悩みの話でも振ってその場を誤魔化そうと考える。
「六日後にパーティが行われることは知っておるか? エルマお祖母様の100歳を祝う祝祭じゃ」
「ああ、話は聞いているけれど。100歳まで生きるなんて正直信じられないな。でも、それが悩み? 喜ばしいことだと思うけれど?」
「パーティなんぞ、我にとっては鬱陶しいことこの上ないのじゃ。我の聖騎士になりたい連中がしつこくアプローチをしてくるのでな」
「あー、お姫様の性格からして、その気持ちも分からなくはないけど。パーティはそういう社交の場も兼ねているんだから、そのくらい我慢しないと。少し愛想笑いして、ダンスのお相手でもするくらいじゃないか」
このクナトの台詞に、シェレアは僅かであるがギクリッと反応を示してしまう。そのシェレアの表情はどこか硬かった。
シェレアのその反応からして何かあるのだろうかと、クナトは勘ぐってしまう。全く確証のないまま、とりあえず思いついたことをクナトは当てずっぽうに口にしてみた。
「もしかして、ダンスが苦手? とか?」
シェレアの表情はさらにこわばる。動揺を悟られないよう必死に努力しているのだろうが、無駄な抵抗であった。
「ダンスなんて、誰かに教わってたりしていないの?」
どうしてこうも鈍感のようで、変なところで鋭いのだろうかと、シェレアはクナトを目の端で睨むが、単に自分の隠し事が下手なだけなのかもしれないとクナトを責めるのは止めにする。感づかれてしまった以上、あきらめて正直に白状するしかなかった。
「アイリアはダンスなんて全く踊れないし、他の侍女に相談すれば、あっという間に噂が広まってしまう。マイヤでは厳しくしごかれるだろうし、両親は多忙、ティアナに頼むなど姉としての立つ瀬がないのじゃ!」
(変なところで見栄っ張りというか、プライドが高いなぁ)
シェレアにとっては難儀な悩みかもしれないが、クナトにはそれを簡単に解決する方法を知っていた。正確には、その心得があると言える。
「それでしたならば姫。一つお手をどうぞ」
「その手は一体どういうつもりじゃ?」
クナトはいつもとは少し違う口調で、相手に敬意を示すかのように頭を少し下げ腰を低くしながら、シェレアの前に左手を差し出していた。
「俺でよかったら教えられるよ。ダンス」
「はぁ? 御主が、ダンスじゃと?」
クナトのあまりにも似つかわしくないその特技に、シェレアは訝しむようにクナトを睨む。
「なにもそこまで疑わなくても、基本的なことを教えるくらいだったら問題ないよ」
シェレアは複雑な心境で差し出された手をジッと見つめる。素直に教えてくださいとは、どうしてもシェレアのプライドが許さなかった。
「これは、だな。間違っても御主に教えを請うている訳ではないぞ! 御主が本当に、どれほどダンスができるのか、少し興味があるだけじゃ!」
シェレアは意地を張りながらも、クナトの手をとる。
「うん。分かってるって。俺もお姫さんにダンスができることを見せたいだけってことで。……ほらもっと近くに寄って」
ダンスの練習のためとはいえ、クナトの身体が目の前へと迫ると、シェレアは異常なほど胸の鼓動が早まるのを感じる。そして、クナトに背中へ手を回され密着するほど抱き寄せられると、気恥ずかしさで顔が真っ赤に熱を帯びてしまう。とてもクナトと視線を合わせられない。
「あ! ごめん! もしかして、いろいろ不味かったりする?」
耳まで真っ赤にして恥ずかしそうにうつむくシェレアの乙女らしい反応を見て、クナトはシェレアが女の子であり、王女であることを思い出すと慌てて確認をする。王女の身体に気安く触ることなど、普通に考えれば許されることではない。
「御主の場合、もう今更でもあろう。御主ならば構わぬ。やましい気持ちなど無いことぐらい分かっておるわ。それで、こ、この次はどうすればいいのじゃ?」
シェレアは顔を真っ赤にしながらも、普段と変わらない態度で接しようと努力する。
「ああ、ええっと。基本は男性の動きに合わせるようにすればいいんだけど。まずはゆっくり右に一歩動こうか」
シェレアは向かい合った状態で『右』と言われ、自分から見ての右なのか、相手から見ての右なのか混乱して、足がもつれてしまう。
「焦らずに、最初はワンテンポ遅れてもいいよ。それと、もっと腰に回している俺の腕に体重を乗せて。そうすれば、男性のリードが感じ取りやすくなるはずだよ」
クナトはシェレアの動きを見ながら適切なアドバイスをする。
「う、うむ。こんな感じか?」
「そうそう。その調子」
クナトの懇切丁寧な指導によって、シェレアは少しずつ動きを合わせられるようになっていく。
「うむ。だいぶコツが掴めてきた気がするぞ」
「うん。いい感じだよ。パーティまで毎日練習を続ければ、立派に踊れるようになるよ、きっと。俺も最後までとことん付き合うよ」
クナトはシェレアが喜ぶものだと思ったのだが、シェレアはどこか複雑そうな表情を見せる。
「どうかしたの?」
「……我は、御主のために何一つとして、してやれることが無い。御主にはこうも多くのことで迷惑をかけているというのに、何一つ返してやるができない」
クナトに恩を売るどころか、逆にクナトから多くのことで助けられてしまっている自分に、シェレアは自分が情けないと気を落としてしまっていた。
「俺は、こうしてお姫さんと一緒に過ごしていると、すごく楽しいよ。だから、お礼だとか感謝なんてものは求めていないよ。俺が好きで勝手にやっていることなんだから。この練習だって、パーティで楽しく上手に踊るお姫さんの姿を俺が見てみたいだけだよ」
クナトはシェレアに気を使って嘘を言っているわけではない。ただ、本心を正直に口に出しているだけであった。
そしてシェレアも、クナトがそういう性格の人間であると理解できてしまう。
「……そうか、……御主はそういうやつなのじゃな。……分かった。ならば我が優雅に踊る姿を堪能させてやろうではないか。さぁ、練習の続きじゃ!」
月明かりに照らされるバルコニーで、二人だけの平穏で特別なひとときがゆっくりと流れていくのであった。
第三章 「心惹かれる姫と頼もしき新兵」-終-
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