第二章
クナトが城に雇われることになったその翌朝の六時半。城の使用人専用宿舎の一室、クナトに割り当てられた部屋の扉が叩かれる。その音でクナトは目を覚ました。
クナトが扉を開けると、眼鏡を掛けたメイド姿の女性が一人、扉の前に佇んでいた。
「クナトさんですね。おはようございます。私はミレンダ・カーペントと申します」
ミレンダと名乗った女性の挨拶は、礼儀正しく丁寧な言葉遣であったが、その口調にはどこか棘があり、相手を威圧するような態度が見え隠れしていた。
「どうも、おはようございます」
ミレンダは釣り目の鋭い眼光で、クナトの足元から頭のてっぺんまで舐めるように観察する。
「……あ、あのぉ?」
その視線にたじろぐクナトに、ミレンダは眼鏡を持ち上げながら冷静に話を進めた。
「お話は伺っております。本日より、あなたはこのお城の使用人として働いていただきます。朝の時間は、私達侍女業務の雑務的な仕事を手伝っていただきます。早速ですが、こちらに着替えてすぐに城の三階までいらしてください。宿舎を出て城へ真っ直ぐに進みますと、裏口の階段が見えます。そちらの階段を利用ください。それでは、また後ほど」
クナトに有無を言わせる間も無く、ミレンダは事務処理のように伝達事項だけを伝えると、その場から立ち去って行く。
クナトは手渡された新品の作業服に視線を落とし、感慨深げにため息をついた。
(自業自得とは言え、残された時間は人のためになることをしよう。そう思って出て来たのに、どうしてまた、こうなるのかなぁ。……いや、形はどうあれこれも罪滅ぼしになるかもしれないよな。やるとなったからには、とにかく頑張ってみよう)
クナトは大きく息を吸い、小さく「よしっ」と呟きながら前向きに気持ちを切り替えるのであった。
城の三階。この階はシュトレイアス王家の王族が生活する部屋が並ぶ。その廊下に四人の侍女が、朝礼が始まるまでの時間を雑談しながら待機してした。
「ねぇ、お城に忍び込んだ人が、私達と一緒に働くなんて、冗談でしょ?」
侍女達の話題は、クナトが起こした事件一色であった。気の弱そうな侍女、ユリエ・ノーレンが不安そうに他の侍女達に尋ねる。
「私も、周りが話しているのを聞いただけだし、みんな相当酔ってたから、確かなことは言えなのだけれど」
一番背が高く、四人の中では年長にあたる侍女、キヌエ・トリニアが答える。キヌエは昨晩、遅くまで酒を使用人仲間と飲み交わしていた。その場の話題もやはりクナトに関する一連の騒ぎについてだが、だれがどこから噂を仕入れたのか、男が釈放され使用人として働くことになったという。
「そんなにビビらなくってもきっと大丈夫ですよ~。男手が増えるんならむしろ大歓迎ですよ。どんな人なのかな~。はぁ~、楽しみ~」
背は小さく、明るく陽気な侍女、ノノン・リーベルが緩んだ顔で答える。
「そんなぁ……、お城に忍び込むような人だよ? 私恐いよぉ。ねぇ、アイリアちゃんはその人を見たんでしょ? どんな感じの人だったの?」
「どんなって言われても、私も一瞬しか見えなかったし、そもそもそのときは顔を隠してたから、何も分からないわよ」
他の三人と比べれば、ごくごく普通で至って平凡な見た目をした侍女、アイリア・シフォレンが答える。アイリアはシェレア専属の側室を任された侍女であり、一昨日の夜、クナトにナイフで斬りかかったのが彼女である。
「そうね。でももし、姫様に害を成す輩であれば、……容赦はしないわ」
アイリアの目の奥が獲物を狩る獣のように鋭く光る。
「ア、アイリアちゃん?」
「……いえ、何でもないわ。気にしないで」
「その男の子なら、さっき私、侍女長と事務室へ入っていく途中をすれ違ったわよ」
キヌエがさらりと答えた。
「どうしてそれを早く言ってくれないの!? それで、どんな感じの人だったの? やっぱり、目付きは恐くてガラは悪そうでいかにも人を何人も殺してそうな人だったの!?」
ユリエは危機迫る勢いでキヌエを問い詰める。そんな必死な姿のユリエを見て、ノノンは可笑しそうに賑やかな笑い声をあげる。
「少し落ち着きなさい。別に普通だったわよ」
「ふ、普通?」
「普通」
キヌエは端的かつ簡素に一言で纏める。
「それだけ?」
「え? それだけだけど、私はその人のこと、あまり興味無いし」
「どうしてキヌエちゃんはそう物事に対してそんなに無関心なの!? そこは普通もっと興味を持つでしょ!? 気になるでしょ!? あぁ――も――――!!」
ユリエはキヌエの両肩を掴み揺すりながら、可愛げのある怒り方をする。ノノンは腹を抱えて大笑いし、アイリアはそんな騒がしい三人に呆れながらも、なだめようと努める。
そんな侍女達の元へ、また一人の女性がやって来る。
「はい、みなさん、お静かに!」
パンパンッと手を叩きながら、侍女のミレンダが、朝礼を始めるため彼女らの前に立つ。
「「「「おはようございます。室長」」」」
侍女四人は先程まで騒いでいた様子から一変して、呼吸をピタリと揃え、礼儀正しく挨拶をする。
現在、城には20名以上の侍女が働いている。城内を大きく三区画に区分けをし、それぞれの担当区画として数名の侍女と、その取り纏め役となる室長が割り当てられている。室長であるミレンダが、ここにいる侍女四人の監督をしているのである。
「みなさん、先ほどの様子ですと、既に噂などでご存知の事かと思いますが、本日より、男性の方が一名、私達と一緒に働くこととなりました」
「あのぉ。それって一昨日、城に忍び込んだっていう人のことですか?」
ユリエが恐る恐る質問をする。
「その通りです。不安になる気持ちも分かりますが、心配には及びません。当然そのような人に、王女様達の身の回りのお世話などを任せるわけにはいきません。ですから、みなさんと共に仕事をすることもありませんし、必要以上に関わりを持つ必要もありません。みなさんはこれまで通り、自分の仕事を全うして下さい。ですが、もしその方が少しでも問題を起こしたのなら、即刻私に報告なさい。分かりましたか」
心配の必要はない、そう言われはしたものの、ユリエの表情は晴れなかった。
「私からも一つよろしいでしょうか」
キヌエが挙手をしながら疑問を一つ口にする。
「そのようにあまり信用できない人物だと仰るのでしたら、私達と同じ担当ではない方がよろしいのではないでしょうか?」
ミレンダ達が担当する区画は、アシェリー女王とその直系にあたる親族のお世話、そして、その他周辺の主要施設の管理である。キヌエの疑問は、信用に足りない人物を女王のすぐ側の区画に配属させるのは、万が一を考慮するならば軽率ではないかという意見である。
「キヌエさんの疑問も最もだとは思いますが、できるだけ私と侍女長の目の届く範囲に居てもらうこと。それと、もし他の区画とした場合でも、他の王女様達から苦情を受ける事も考えられます。その点、アシェリー様やシェレアお嬢様は、彼が城で働くことを承諾しているのですから、不要なトラブルは避けられるという判断です」
ミレンダの説明にキヌエも納得したようであった。
「他になにかありますか? 無いのでしたら朝礼は以上です。さぁ、時間が押しています。各自自分の担当業務に取り掛かってください」
ミレンダは侍女達が持ち場へと向かって行くのを見届けてから、事務室へと足を向けた。事務室へ入ると、クナトが侍女長のマイヤから、侍女業務の注意事項を長々と言い付けられているようであった。
「お待たせいたしました。マイヤ侍女長」
ミレンダが入室したところで、マイヤはクナトへの説明を打ち切る。
「それでは、クナトさん。後のことは彼女の指示に従って下さい。ミレンダさんもクナトさんのことをよく見ておくように。それではよろしく頼みましたよ」
マイヤは二人の返事を聞くと事務室を後にする。
それを見届けると、早速クナトの仕事の内容について、ミレンダが詳細の説明を始めた。
「私達の業務は、主に王族の方々の身の回りをお世話することです。ですが、あなたに王族のお世話などを任せる訳には行きません」
「では、俺は何をしたらいいのでしょうか?」
「そうですね。まずあなたには、城内の窓の掃除をしていただきます」
ミレンダは事務室の用具入れからバケツと雑巾を持ち出していたクナトへと手渡す。
(こういう新人には、まず窓拭きをさせるのが一番です。磨かれた窓の美しさや曇り加減よって、その人の性格や侍女業務に対する適性を見る判断材料になります)
「窓掃除、ですか。分かりました」
「通路の窓のみをお願いします。間違っても! 勝手に部屋に入ってはいけませんよ!」
「分かってます。そういった話はさっきまで散々注意されましたから。絶対に勝手に部屋に入ったりはしませんから」
クナトは先ほどまで侍女長のマイヤから同じような注意を延々と聞かされており、耳にタコができる思いであった。
「理解していると仰るのでしたら結構です。では、三階からお願いします。私も業務がありますが、定期的に様子を見に来ますので」
ミレンダは指示を出し終えると、自身の業務に取り掛かるため足早にその場から去って行く。
一人残されたクナトは事務室を出て廊下を見渡す。石造りの壁に、縦に長い窓が数メートル置きに等間隔で並んでいる。窓の上まで磨こうとするなら、手を伸ばすだけでは届かない高さであった。足場となる台が必要になると考えたクナトは、まずは道具を探しに、事務室へと引き返すのであった。
クナトと別れてから二十分ほど過ぎた頃であろうか。ミレンダはクナトのことが心配で気をもむ思いであったが、業務の手が空かないため様子を見に行くことができずにいた。困っているとタイミング良くシーツを抱えたユリエの姿を見つける。
「ユリエさん」
「!? はいぃ! す、すみませんでした!」
ユリエは唐突に呼び止められ、仕事に不手際があったのかと早とちりをして真っ先に謝罪をしてしまう。
「……落ち着きなさい。まだ、何も言っていないでしょう。仕事は十分にできているのですから、あなたはもっと自身を持ちなさい」
「……はい、すみません」
ユリエのこの気弱な性格をミレンダは常々どうにかしたいと考えているが、人の性格はそう簡単に変えられるものでもない。今はいろいろな仕事をこなさせていくことで、少しでも自信がついてくれればと願っていた。
「私は、これからエルマ様に朝食を届けに行かなければならないのですが、例の新人の監視もしなければなりません。ですので、私の代わりにエルマ様に朝食を届けて来て下さい」
「わっ、私がですか!?」
「あなたはエルマ様とも十分に面識がありますでしょう。そう深刻に構える必要はありません。ですが、くれぐれも粗相だけは無いようにお願いしますね」
「えっ、あのっ……」
ユリエの返答を待たずに、ミレンダは足早にクナトのいる場所へと立ち去ってしまう。
「……そんなぁ」
いきなり予期しない仕事を一方的に任されてしまい、ユリエは涙目になる思いであった。
ミレンダはクナトの様子を確認しに戻ってみるが、三階の廊下を見渡しても、クナトの姿がどこにも見当たらない。嫌な予感が脳裏を過りつつ、慌ててクナトの名を叫んでは廊下を急ぎ足で進む。
「クナトさん!? クナトさん!! 聞こえましたら返事をなさい!」
ミレンダの焦る不安を余所に、以外にもあっさりと返事は返って来た。
「はい? どうかしましたか?」
返事はあったのだが、なぜかそれはミレンダのすぐ後ろから聞こえるのである。廊下には誰の姿も見えず、たった今通りすぎたにもかかわらずである。そんな幽霊にでも声をかけられたかのように、ミレンダは驚きながら振り返る。
「な!? あなたは一体、何をなさっているのですか!?」
「えっと、言われた通りに窓拭きをしているのですけれど……」
ミレンダが驚いたのは、クナトが窓の外側から顔だけを覗かせていたからである。よく見ると、クナトの体にはロープが括り付けられており、壁の外側からロープに吊るされた状態で窓拭きを行っていたのである。
「私が聞きたいのはそういうことではありません! そのような危険なことをしなさいと指示した覚えはありません!」
「いえ、大丈夫ですよ。かなり丈夫なロープを二重に巻いていますし、それにほら、こうした方が手早く窓の外側の隅々まで磨けますから」
「例え大丈夫なのだとしても……、ん? んん!?」
ミレンダの視界にクナトの磨いた窓ガラスが映る。そして、その一遍の曇りも無い見事なまでに磨き上げられたガラスの美しさに目を奪われてしまう。新品同然にまでに磨き上げられたそれは、両面の隅々まで磨いたからという理由のみでは決してない。卓越された技術がそこに注ぎ込まれていることをミレンダは自身の経験から感じ取る。ミレンダは暫くの間その美しい窓ガラスもさることながら、それ以上にその技術に見惚れてしまっていた。
「……あの、何か至らないところがありますか?」
「!? いいいいいえっ!? ……オホンッ。特に問題はありません。この調子で続けていただいて結構です。ですが、決して怪我のなさらないよう注意だけは怠らないでください!」
「はい。分かりました。お気遣いありがとうございます」
屈託の無い笑顔でクナトは答える。そのまま下の階へとロープを伝って下りながら、作業へと戻るのであった。
(『ありがとう』って、話に聞いていた印象とは随分と違うようですね)
美しく磨き上げられた曇り一つない窓ガラスを見つめながら、ミレンダはクナトが盗みをした悪人だとはとても信じられなかった。
城の最上階にある部屋を前に、ユリエは一人分の朝食を持って、大きく深呼吸をしていた。カチャカチャと手に持つ食器から音が立つほど、ユリエは緊張で手が震えていた。ぎこちない動きでトレイを持ち替えながら扉をノックする。
ユリエがここまで緊張しているのには理由がある。それは、今食事を運んでいる相手、エルマ・シュトレイアスという女性は、99歳という高齢の老婆であると同時に、シュトレイアス王国を建国した初代女王なのである。この王国において、最も偉大な人物だと言っても過言ではない。
侍女長のマイヤの孫であるユリエは、侍女の見習いであった頃にマイヤの補佐としてエルマの世話をしたことがあり、面識が無いわけではなかった。とは言え、それはもう三年以上も前のことであり、かなりの人見知りであったユリエは、挨拶をした程度のみでまともな会話もしたことも無いのである。こうして、二人きりになることも当然初めてであり、今は寝たきりに近いエルマを一人で介護できるかどうか不安な気持ちで胸が一杯であった。それでも、ユリエは意を決して部屋へと入る。
「おはようございます。エルマ様。お食事をお持ちいたしました」
ユリエは大きな室内へ入ると、カーテン付きの高級ベットへと近づく。まだ眠っているのだろうか、閉められたカーテンの中からは返事がない。ユリエは、朝食を近くのテーブルへと置き、そっとカーテンを開ける。
「あれ?」
ユリエはすこし間の抜けた声を発してしまう。ベットに寝たきりであるはずのエルマの姿がそこになかったのである。ユリエは少し考えた後、車椅子の有無を確認する。寝たきりの状態とは言え、ときには車椅子で誰かと部屋から出られることもある。もし、車椅子が無いのであれば、部屋から外出しているのだと判断できる。
しかし、ユリエがベットを回り込んだ奥で見つけたのは横転した車椅子と、そのすぐ横でぐったりと床に倒れ込んでいたエルマの姿であった。
それを目にしてしまったユリエは驚き、甲高い悲鳴を上げる。そして、倒れているエルマから生気を感じられない姿に、ショックのあまり意識が遠のき力なくへたり込んでしまった。
ユリエの悲鳴を聞きつけて、いち早くその場へ駆けつけたのはクナトであった。城の壁の外で仕事をしていたために、階段や通路を通る必要なく、壁をロープ伝いに最短で現場に辿り着けたのである。
クナトはへたり込んでいるユリエへと駆け寄る。
「大丈夫ですか? 何があったのですか?」
「エルマ……様、……が」
半泣きになりながら、震えた声でユリエは答える。
クナトはユリエの指差す先に視線を向けると、老婆が倒れ込んでいることに気づく。すぐに駆け寄り、躊躇することなく迅速かつ的確に容態を確かめる。
その処置をユリエはただ祈るような思いで見守る。
だが、そんなユリエの心配とは裏腹に、真剣な眼差しであったクナトの表情に安堵の笑みがこぼれる。
「……おばあさん。ゆっくり、起こしますよ」
クナトは、エルマに話しかけながら抱き上げるとベットへと優しく横たえさせた。
そのクナトの落ち着いた様子に、ユリエは呆気に取られる。
「え? あの、動かして大丈夫なんですか?」
この疑問に対して、クナトは笑顔で答える。
「意識もはっきりしているし、これと言って怪我もしていない。だから何も心配はいらないですよ」
クナトの言うことが正しいのを証明するかのようにエルマも口を開く。
「まぁ~たく、ちょっと椅子からコケたじゃけじゃわい。自力で起き上がるのもしんどいから、誰かが来るのを待っとっただけじゃて。それを勝手に大騒ぎしおって。……ああ、お前さんも起こしてくれてありがとのぉ」
エルマの声は高齢のため擦れてはいたが、まだまだ元気そうであった。そして、視力の落ちた目でクナトの顔を覗き込む。
「んん~? お前さんは~、はて? 誰じゃったかのぉ? 年を取ると物忘れが激しくて敵わんわい」
「はじめまして、クナトっていいます」
「……クナ、ト?」
エルマは『クナト』という名を聞くと、クナトを見つめたまま少しの間、黙り込んでしまう。
「? おばあちゃん?」
そして、何かを思い出したかのように唐突に、エルマはクナトへと話し掛け始める。
「おお~! クナトなのかい。何十年振りじゃろうなぁ」
「へ?」
その口振りは、まるでエルマはクナトをずっと昔から知っているかのようであった。
クナトとユリエは、その反応に驚いてしまう。
「え? お知り合い? なんですか?」
「いや、そんなはずは無いと思うんだけれどぉ。おばあちゃん。俺はここに来たのは初めて、なんですけれども」
「そうそう。お前さんとした約束はぁ~、ん~~、なんじゃったかのぉ? 何かとても大切なぁ~」
エルマはクナトの話を聞かずに、一人で思い出に浸っているようであった。
そこへユリエの悲鳴を聞いて、ようやくミレンダが大慌てで部屋へと入って来る。
「先程の悲鳴は一体何事ですか!?」
そして、ミレンダはクナトの姿を見るや怒りをあらわにする。
「クナトさん!! あなたという方は、あれほど、……あれほど部屋に入ってはいけませんと言いつけましたのに、よりにもよってエルマ様のお部屋に」
「えっ!? いやっ、これは違うんですよ!?」
クナトはミレンダがこの状況を見て、どのような解釈をしたのかを察してか、それが誤解であることを弁解しようとするも、ミレンダは全くクナトの言葉など耳にしなかった。
「言い訳など無用です!! 即刻あなたをクビに、いえ、牢獄に放り込みます!!」
ミレンダは頭に角を生やしたかのように激怒する。
そんなミレンダの腕をユリエは掴みながら大きく首を左右に振った。
「室長! 違うんです! 私が悪いんです!」
「え? ユリエさん? 一体どういう事なのですか?」
ユリエのしどろもどろな説明を聞き、ミレンダは事の成り行きを大まかにではあるが飲み込めた。
「そういう事でしたか。話は大体分かりました。しかし、それならばユリエさん。あなたもあなたです。エルマ様の一大事だというのに、動転して動けないなどとあってはなりません。いつどのような事態が起きても、毅然と対応できるように常に気を引き締めていなさい」
「はい、すみませんでした」
ユリエは、反省すると同時に、顔を伏せ深く落ち込んでいるようであった。
「えっと、いやでも、ほら、いきなり人が倒れていたら、驚くのも無理はないじゃなかぁって、思ったりも……」
「クナトさん! あなたも早く出て行きなさい! ここをどこだと思っているのですか!」
クナトは落ち込むユリエに気を使ってフォローしようとするのだが、逆にミレンダの怒りを刺激する結果となってしまった。
「はいっ! 失礼しましたぁ!」
クナトは自分がここにいてもミレンダの機嫌を更に損ねかねないと判断し、その場からすぐに退散した。
「ユリエさんも、ここはもういいですから。あなたも自分の持ち場に戻りなさい」
「……はい」
ユリエは落ち込みながらゆっくりと部屋から出ていく。
「エルマ様、騒がしくしてしまい申し訳ありません。お加減はいかがですか?」
「……はて? 何かを大事な事を思い出したのじゃが、んん~~? 何じゃったかのぉ?」
「きっと大したことではありません。すぐに朝食にいたしましょう」
ミレンダは高齢のエルマの言動に慣れた様子で対応するのであった。
ユリエは、部屋から出てすぐにその場でしゃがみ込み、膝を抱えるようにして落ち込む。
「は~~~~。また、失敗しちゃったよぉ」
「失敗が決して悪いことだとは、俺は思わないけれど」
「へ?」
ユリエは全く周りが見えていなかったのか、クナトがすぐ近くにいたことにすら気がついていなかった。そして、素で落ち込んでいる姿を見られてしまったことに対する気恥ずかしさでパニクってしまう。
「あっ、あの、あのあの……、さっきは、その……」
クナトへは一番にエルマを助けてくれたことへのお礼を言わなければいけないと考えつつも、ユリエは頭が混乱してうまく言葉に出せない。
「ああ、ごめんよ。励ますつもりだったんだけど。驚かせたよね?」
「……いっ、いえ、大丈夫です。気を遣っていただいてありがとうございます。エルマ様のことも、本当にありがとうございました」
ユリエは呼吸を整え、どうにか少しだけ落ち着きを取り戻した。
「挨拶が遅くなったけど、俺はクナトって言います。今日からここでお世話になります」
クナトが軽く頭を下げて、挨拶をする。
ユリエも挨拶を返すため、慌てて立ち上がろうとするのだが、よろけて思わずクナトへともたれかかってしまった。
「おっと、大丈夫?」
「ご、ごめんさいっ! すみませんっ! あのっ、えとっ、わ、私はユリエ・ノーレンです。その、……よろしくお願いします」
ユリエの何度も頭を下げたり、おろおろとするその慌てっぷりな仕草にクナトは思わず笑ってしまった。
ユリエも気恥ずかしくなりながらも、そんなクナトのどこか砕けたような接し方に、少しだけ笑顔を見せるのであった。
「それじゃあ、俺は仕事に戻るよ。あんまり気を落としちゃダメだよ。それと、そこの彼女も、これからよろしくお願いします」
クナトはユリエ以外に誰も見えない廊下の曲がり角に向かって声を掛けた。そして、クナトが窓からロープを伝って外へと出て行くと、入れ替わるようにその廊下の影からアイリアが姿を見せる。
「まさか、私に気付いてたなんて」
「アイリアちゃん。いたの? ……えっと、それは何をしているの?」
アイリアは、手帳を手にしてなにやら色々とメモを取っているようであった。
「これは、姫様にとってとても重要なことよ」
ユリエは何をしているのかはよくは分からなかったが、深く追求するつもりも無かった。
逆にアイリアが質問を返す。
「彼と会話してみて、何か感じた?」
「え? どうなんだろう? どこか不思議な感じな人だけど、とっても良い人そうだった、のかな」
「言っておくけれども、彼が例の姫様の部屋に忍び込んだ盗賊よ。あなたももっと警戒した方が良いわよ」
「うん。……そう、だね」
ユリエは遠くをポーッと見つめながら、心ここにあらずと言った様子で答える。
アイリアは先の出来事を思い返しながら、手帳に書き綴られている内容から『危険人物要注意』の一文を二重線で消した。そして、ユリエの表情を横目で観察すると『女ったらし要注意』と手帳に書き加えられるのであった。
その日の夜、シェレアは妹のティアナと夕食のために大食堂へ向かっていた。金髪のシェレアと違い、父の血を濃く引いたティアナは、栗色のロングヘアーをしたおしとやかな王女である。二人が並んで歩けば、その立ち振る舞い一つ取ってもティアナの方が上品で優雅である。
シェレアの夕食はいつも両親が忙しいため、ティアナと二人で過ごすことが多い。しかし、その日は大食堂へ向かう途中で、シェレアと同い年程度の若い娘が声を掛けた。
「シェ~レア~。これから夕食でしょ~?」
どこかおどけた態度にブロンズのくせっ毛あるショートヘアーをした女の子、リオナ・シュトレイアス。シェレアと同い年で従兄弟であり、将来、王位継承を争うことになるかもしれない相手であるが、今はそれ以上に、シェレアにとって気兼ね無く接することができる友人でもある。
「今度こそ、話を聞かせてもらうからね~」
「分かったから。そうはしゃぐでない。食事をしながらでもゆっくり話してやる」
リオナが聞きたい話とは、クナトに関する一連の騒動についてである。一昨日、尋問役であった聖騎士アレックスの娘であるリオナは、シェレアが盗賊なんかを家来にしようとしていることを知り、当の本人から何を企んでいるのか訊かずにはいられなかった。今日も一日中、シェレアと共に一般教養や帝王学を学ぶ最中でもしつこく尋ねるが、教育係を担当する侍女長のマイヤに咎められてしまったために、この夕食時を狙って来たのである。
皆が席に着くと、すぐに侍女達が料理をテーブルへと並べていく。鴨肉のローストにウサギ肉のシチュー、高級品な小麦でつくられた真っ白いパンによってテーブルクロスの上が彩られていく。最後にミルクが銀のコップへと注がれる。
「アイリア。今日、エルマお婆様が倒れられたと聞いたが、その後も変わりはないか?」
シェレアは今朝の騒動を耳にしており、大事に至らなかったことも聞き及んでいたが、改めて確認する。
「心配には及びません。食事が終わった後にでも、顔を見に行かれたらいかがですか?」
「いや、大事無いならばそれで良い。わざわざ、就寝前に行っても迷惑なだけじゃろう」
シェレアは、夜も遅くなってしまうことを考慮して日を改めることにした。
「あんたって、ホントにエルマお婆様の事が大好きよね~」
リオナは好物のウサギ肉を頬張りながら、お婆ちゃん子であるシェレアを茶化す。
「何じゃ、悪いか? これでもエルマお婆様には幼い頃から色々な話を聞かせてもらったり、面倒を見てもらったのじゃ。そんな相手が倒れたとも聞けば、心配するのは当然じゃろう」
シェレアはミルクをグイッと飲み干すと鴨肉に手をつけ始める。
「エルマお婆様から聴かされたお話と言えば、お姉様は特に、『異国の騎士』の話が好きでいつも熱心に聴いておりましたわね」
ティアナはパンを小さくちぎっては、シチューにつけながら上品に口に運ぶ。
「年寄りの昔話なんて真に受けてるんじゃないわよ。『異国の騎士』の話って、あれでしょ? エルマ様が昔、魔人を退治していたっていう。魔人に人間が敵うわけないじゃない」
〝魔人〟とは、全身を甲冑で纏ったような人間の姿をした不死の魔族であるとされている。強大な魔力を持ってして残虐非道の限りを尽くし、幾つもの国を滅ぼしたのだと言い伝えられている。
シェレアが幼い頃に聴いた『異国の騎士』の話では、エルマがシュトレイアス王国を建国する以前、大陸中を渡り歩きながら人々のために魔人退治をしていたある時、魔人に敗れ、絶体絶命の危機を救ったのが異国の騎士であった。その騎士は、たった一人の女性を助けるためだけに勇敢に魔人と戦い、卓越した剣技によって魔人を倒してしまったのである。その姿、立ち振る舞いはまさに、騎士としての理想像であるかのように、エルマは熱く語っていた。そして、その騎士と出会ったことで、エルマは王国を建国するきっかけと助言を得て、今のシュトレイアス王国の誕生に至る物語であった。
「そんなの幼かったあんたを、退屈させないための作り話でしょ」
リオナの考えは、そもそもそのような魔人などという魔族の存在さえ疑っており、エルマの話を全く信じていなかった。
「それはそうかもしれんが、建国を成し遂げるまでの話はとてもためになるものじゃったし、我が淋しくないよう面倒を見てくれたことには違いなかろう」
「はいはい。とにかく無事だったのなら良いじゃない。それよりも私が訊きたいのは、クナトって人のことよ。あんた、家来にするって本気なの?」
リオナはパンを手に取り、大きくちぎってはティアナと同様にシチューにつけながら、話題をクナトのことへと変える。
「本気じゃ。じゃが、まだアヤツのことについては分からんことも多いから、色々と探りを入れているところじゃ」
シェレアは上機嫌な顔をしながら大きくカットした鴨肉を頬張る。
「探り?」
シェレアが何を企てているのかリオナが頭上に疑問符を浮かべると、シェレアは後ろに立つ侍女のアイリアを手招きするように呼びつける。
呼ばれたアイリアは近づきながら手帳を手に開いた。
「ご命令の通り、クナトさんの一日の動向を監視いたしました」
「あんた、自分の筆頭侍女に何をやらせてるのよ。だいたい、あんたが一日中働き詰めにしてるそうじゃない」
リオナの呆れ顔での突っ込みに、シェレアは鴨肉を飲み込むと、不敵な笑みを浮かべながら答える。
「ふふん。早朝からは侍女の業務、昼は大忙しの厨房に、その後は過酷な肉体労働の建築作業を夜までとハードなスケジュールを割り振ってやったぞ。あやつも一日目にしてさぞ根を上げていることじゃろうな。な――っはっはっはっ!」
「『探り』と仰いましたが、その方の働きぶりでも調べようとしているのですか?」
ティアナも興味を持ったのか、会話に参加する。
「少し違うな。あやつも所詮はどこの馬の骨とも分からぬ田舎者。城の仕事など到底できるわけがない。失敗の連続で落ち込んだところを我が優しく手を差し伸べて、貸しを作ってやろうという算段だ」
シェレアが自慢げに語っていると、アイリアはどこか目を伏せた様子で静かに口を開いた
「それが、姫様……」
「どうした? 早くあやつの情けない働きっぷりを報告するがよい」
「はい。クナトさんは、すべての業務で一切の問題を起こすことも無く、ほぼ完璧に近い形で業務を完遂されました」
「んなぁあ!? なんじゃとぉ!? それはどういうことじゃ!?」
シェレアの予想とはまるで正反対となるアイリアの報告に、シェレアは思わず大声をあげて驚いてしまう。
アイリアは更に詳細な内容を報告する。
「侍女業務は、多少心配させられる場面はありましたが、仕事の成果事態は室長からとても高い評価を得ています。エルマ様が倒れられた時も、誰よりも早く駆け付け、迅速に適切な処置を施したのもクナトさんです。その後の厨房では料理の腕前も一流のシェフ顔負けであり、異国の料理を披露しては、料理長からも太鼓判が押されているほどでした」
この予想だにしていなかった報告の数々に、シェレアは苦悶するように額を手で押さえてしまう。
「おのれぇ~。田舎者と侮っておったが、まさかあやつがそこまで家事全般に対して素養があったとは。それならば建築業務はどうじゃ? あんな細い体であの重労働では、いくらなんでも体力が持つまいじゃろう?」
「いえ、建築業務に至っても、筋肉粒々な男達に勝るほどの力と体力を見せています。それだけでなく、建築に関する知識や技術も豊富で、棟梁も『これで安心して引退できる』などと笑っておられました」
「そんな、バカな……」
一縷の望みも消え、またもや計画が破綻したシェレアはガックリとうなだれるしかなかった。
そんな意気消沈しているシェレアを横目に、ティアナとリオナはそのあらゆる仕事を完璧にこなしてしまうクナトという人物が、一体何者なのかを疑問に思わずにはいられなかった。
「そのクナトって人は、一体何者なのよ?」
「話を聞く限りですと、その方は少し、いえあまりにも出来過ぎているように思えますわ」
「……それは、我が知りたいわ」
欠点という欠点が何一つ見当たらないクナトの正体についてへと、三人の議論は続く。
「直接本人に聞いてみるのが早いのではありませんか?」
パンとシチューを食べ終えたティアナは、ナイフとフォークを器用に使い、音を立てること無く鴨肉を切っては口に運ぶ。
「いや、どうにもあやつは素性を隠したがっている節があるようじゃ。おそらくそう簡単に自分の事を話したりはせんじゃろう」
むしゃくしゃしているシェレアは、パンを丸かじりしては咀嚼し、シチューやミルクで流し込む。
「そうねぇ~。私の予想としては、どっかよその国の高貴な貴族とか。もしくは貴族に仕えていた優秀な執事と見たわ。そう考えれば、知識や経験が豊富なことにも説明がつくじゃない」
リオナは鴨肉を大きく切りつけられている状態のまま、旨そうに頬張る。
「う~~む。あやつにそのような教養や、貴族の気品のようなものは一切感じらんし。どうにも、そうとは思えんぞ」
シェレアが唸る中、リオナが唐突に突拍子もないことを口にする。
「そのクナトって人、……私の家来にしちゃダメ?」
「な!? バカを言え! 先に目を付けたのは我じゃぞ! 横取りなど許さん!」
「あら、そういうお話でしたら私もそそられるものがありますわね」
「ティアナまで何を言い出すのじゃ!?」
「そうよ。ティアナにはもうギルがいるでしょうが」
「聖騎士と家来は違いましてよ。でも、私の場合はあくまでもお姉様が諦めた時の話ですけれども」
「そもそも、その人はどうして王族の家来になるなんて、超おいしい話を断わっているのよ?」
王族の家来になれば、生活する場所や食事はすべて城から提供され、一般の国民の暮らしよりも裕福な生活が約束される。しかし、家来となるためには、国の発展や経済などの知識に精通し、君主の代わりに王国の政策を思案するなどの重役を担えるだけの長けた才能が求められる。当然、どの貴族たちもその才能ある者を家来とするのだが、誰を家来とするかは、その貴族当人の自由であり決まりはない。
シェレアも今のクナトに政治や経済に関する知識を期待しているわけではなく、長い目で見て十分な教育を施し、身に付けさせて行けばよいと考えている。なにより、シェレアがクナトに期待しているのは強い信頼感であった。己の欲や願望のためでなく、他者のために尽力する、そんな絶対に他人を裏切ったりなどしない優れた人材をシェレアは求めているのである。
「そうですわね、どうして断られているのか、その理由を改善しなければなりませんわね」
「なぜ、と言われてものぉ。……いや、そういえば」
ふと、シェレアは一昨日のクナトと押し問答となったやり取りを思い返し、どうにも不可解であった点を思い出す。
「下僕だの犬だの、そんなのは御免などと、そのようなことを言っておったな」
「犬? 何の話ですか?」
「我とよく似た者に、そういう扱いを受けておったのか、どうもそのような感じの口ぶりじゃったが」
その話を聞いてリオナは確信する。
「なによ。それって決定的じゃない。そのクナトって人は、元はどっかの国のお姫様に仕えていて、その姫の横暴で傲慢な扱いに耐えかねて逃げてきた。そして、シェレアがそのお姫様にそっくりなもんだから、家来になるのを嫌がってるのよ。うんうん、これで謎はすべて解決ね」
「勝手に終わらすでない! 我のどこが横暴じゃと言うのじゃ!」
シェレアの反論を無視して、リオナは一人でニヤリと不敵な笑みを浮かべる。
「ふふ~ん。そう、やっぱりそういうことなら」
「何度も言うが、先に目を付けたのは我なのじゃからな!」
「そんなの、クナトさん次第じゃない。横暴なシェレアはダメでも、私なら即OKかもよ~?」
「リオナお姉様も、大差無いのではないかと思いますけれども」
ティアナは食後の紅茶を優雅に飲みながら冷静に指摘する。
「あんた、聖騎士を決めたからって、随分と言うようになったじゃないの」
「そうですか? しかし、そういうことでしたらやはり、一番おしとやかな私が最も相応しいのかもしれませんわね」
「ええい! もう勝手にするが良い! この話はこれで終いじゃ!」
シェレアは苛立ちを募らせながら席を立つ。そして、大食堂の出口とは反対方向へと足を向ける。
「お姉様? どちらへ?」
「少し夜風にあたるだけじゃ!」
シェレアはそう言って、大食堂の外にあるバルコニーへと出て行ってしまう。
「少々、からかいが過ぎましたでしょうか?」
「悪巧みをして失敗するなんていつものことじゃない。ほっといて、私達は先に戻るとしましょ。面白い話も聞けたことだし」
そのまま二人は、シェレアを残して席を立つのであった。
シェレアはバルコニーで一人たそがれていた。シェレアは時折、こうしてバルコニーで街を見下ろしながら物思いにふける日がある。はじめは侍女達も気を使っていたのだが、一人にしてほしいというシェレアの希望から、周囲の者達はそれをそっとしておくようにしている。
食事の終えた時間、日は沈み、けれども街には多くの光が灯る。このバルコニーからは、そんな街の風景が良く見渡せた。そして、シェレアにとっては自分がいつか背負うことになるであろう国の大きさや、そこで生きる人々の存在を一番実感できる光景でもあった。その光景を目にしながら、シェレアはいつも自分が成すべきことを考え込む。ここでこうして考えたところで正解と言える答えが出ることはない。それでも、守らなければならないものを忘れないよう、目に焼き付けておきたいのである。
そうして、シェレアはバルコニーで暫しの時間を過ごしていると、背後から声を掛けられた。
「今日は随分と元気が無いんだね」
シェレアは少し驚きながら後ろを振り向くが、そこには誰もいない。
「一人でたそがれているなんて、お姫さんらしくないよ?」
後ろの、けれどもその少し上の方角から聞き覚えのある声がする。シェレアは視線を上げると、バルコニーの屋根にクナトが腰掛けていた。
「こんばんは。お姫さん」
シェレアに向かってクナトが笑顔で手を振る。その表情からは一日中働き詰めであったはずなのに、疲れた顔色一つ見せてはいなかった。
「別に、たそがれていた訳ではないぞ。クナトこそ、そんなところで何をしておるのじゃ。また目立ったことをするとあらぬ誤解を生むぞ」
「うん。星が綺麗だし、折角大きなお城にいるんだから少しでも近くから見ようと思って、城の一番上から眺めていたら、お姫さんの姿が目に入ったから気になって」
「星? 星なんぞ見たところで、なんの役に立つと言うのじゃ」
「そうかな?、『今日も一日頑張った!』『明日もまた頑張ろう!』ってやる気が出てきたりとか、しない?」
「御主は、恐ろしまでに前向きじゃのぉ」
シェレアは、疲れ切ったように長いため息を吐く。
「なら、お姫さんはどうしてこんなところに一人でいるのさ?」
「我はただ、ここから街並みを眺めていただけじゃ。たそがれているように見えたのならば、それはただの御主の見間違いじゃ」
「街並みかぁ。確かにここからこうして眺める街並みも良いものだね。暫く見ない間に随分と発展したのがよく分かるよ。うん」
クナトはしみじみと感慨深く頷く。
「はんっ。何を年寄りじみたことを言っておるのじゃ。まぁ、御主の言うようにここ数年の発展は目まぐるしいものじゃったが」
そう言って、シェレアはどこか悲しそうな目で街並みを見つめる。
「やっぱり、何か悩みでもあるじゃないの?」
「家来でも何でもない御主に話すことなど何もない」
「うぅ~ん。そんなにそこを根に持たれてもなぁ。話し相手くらいにならなるって言ったと思うけれど」
ムスッとした表情でシェレアは黙り込む。
クナトもシェレアの強情な性格を理解した上で、どう話を切り出したものかと暫し考える。
「あ~、悩み事を溜め込むと、……えっとぉ~……」
クナトの何やら言いたげそうな様子に、シェレアは無視をする態度をとりながらも気になって聞き耳を立ててしまう。
「悩み事を溜め込むと、胸の中で腐って、最後は心をダメにするんだよ。だから、何が言いたいかっていうと、悩み事は吐き出した方が良いんだ、よ。きっと、たぶん」
シェレアはこのどこかさまにならない台詞にどう返して良いのか分からずに、相手を蔑むような表情のまま固まる。
その薄目の冷やかな視線に晒され、口にした本人であるクナトも気恥ずかしさに耐えられなくなり慌てて言い訳を始める。
「いやっ、今のはそのっ、子供の頃に母の受け売りみたいなもので、あ~~でも俺には無理、こういうの。なんかごめんよ。話したくない事だったら無理に聞かないから」
このクナトの必死な言い訳に対して、シェレアは顔を伏せながら静かに笑ってしまっていた。
クナトもこんなに恥ずかしい思いをするくらいなら言わなければ良かったと、少しだけ後悔する。
「……御主は」
そして、シェレアは笑いが落ち着くとクナトの気遣いにほだされたのか、静かに口を開く。
「……もし、御主が、この国を背負うことになるような、例えば国王の立場になったとしたら、御主ならこの国をどうする?」
「えぇ? いやいや、そんな唐突に例え話を持ち出されても、俺に答えられるわけ……」
「真面目に考えるのじゃ!」
口調は荒っぽくも真剣な眼差しのシェレアに、クナトも時間を掛けて問いの答えを熟考する。
「…………ごめん。やっぱり俺なんかが答えられる質問じゃないよ。お姫さんは、この国をこれからどうしていけば良いのか、悩んでいるってこと?」
クナトは、頭の中ではいくつかの回答を導き出してはいたが、それを口にすることはしなかった。そうしたのは、シェレアが抱える悩みがどのようなものなのか、それを知らないまま安易な考えを述べても、シェレアの求める答えには至らないと判断したからである。
「我はまだまだ子供じゃ。政策とか政治のことなんかは、ほとんど分かってなどおらん。それでも、平和で争いなど無い、誰もが幸せでいられる国にしたいと、ただそれだけを願っておる。いや、そう願っておったはずなのじゃ。じゃが実際、我はなにも見えておらんかったのじゃ。そのことを、御主に会って痛感させられたのじゃ」
「俺!? 俺が何かした?」
「御主は、貧しい者達の力になっておったのじゃろう? そしてそれは御主自身も、同じような経験をしていたからなのじゃろう? 我は、貧しい暮らしがどれだけ過酷なのか、凍えるような寒さと飢えるような空腹に耐えることが、どれだけつらいことなのか、見ようともせんかった。御主にはそのことを気付かされた。そして、このまま国が発展を続けるならば、貧困に苦しむ国民はもっと増え続けるじゃろう。その者達を救うには、きっと大きく大胆な改革を講じなければならんのじゃと、改めて考えさせられた」
シェレアは一度、感情を整理するように間を置いた。そして、声を微かに震えさせながら胸の内に溜め込んでいたものを吐き出す。
「……しかし、我はこの身で初めて、死があんなに恐ろしいものだと思い知らされ、我は、怖くなってしまったのじゃ。もし、我が誤った改革をしてしまったなら、それはより一層、国民を苦しめることになる。最悪の場合、何人もの国民の命を我が奪うことになるかもしれんのじゃ。そんなことを考えてしまうと、我は恐くて、足が竦み何もできなくなってしまいそうなんじゃ。あんな辛い思いを、我は誰にもさせとうない。大勢の人の命が、我一人には、重たすぎるのじゃ」
シェレアはクナトから見えないように顔を伏せる。
だが、クナトにはシェレアが感情を抑えきれずに泣いているのだと、見えずとも分かってしまう。
「うまくは言えないけれど、お姫さんが成し遂げようとしている事は……」
クナトはそんなシェレアの頭にやさしく手を乗せる。
「きっとまだ誰もが辿り着けていないずっと空高くにある理想なんだと思う。だから、誰だって正しい道のりなんてものは知らないし、間違いや失敗だって一度や二度なんてものじゃきっと済まない。その結果、お姫さんの言うように大勢の国民が苦しむことになるかもしれないし、命もたくさん奪うことになるかもしれない」
クナトは、それがシェレアにとって辛く厳しいことであると分かっていても、それが避けられない現実であるからこそ、誤魔化すことも慰めることもしなかった。クナトはシェレアにその事実を受け止めた上で、それらとまっすぐに向き合ってほしかった。
「でも、もしそうだとしても、お姫さんの描く理想は多くの犠牲が払われたとしても、叶えるだけの価値がある。いや、いつかは誰かが成し遂げなくちゃいけないんだ」
「……我に、それができると思うか? 成し遂げられると思うか?」
「お姫さんの国民を苦しめたくないって気持ちも痛いほど分かるよ。むしろ、そういう信念を胸の奥深くに持ってなければ、大勢の国民を幸せにするなんてこと絶対にできない。そして、試行錯誤の過程で多くの犠牲を出してしまうことがどんなに辛くて苦しくても、最後まで挫けてはいけないのだと覚悟を決めた者でなければ、絶対に成し遂げられなんかしない。後は、お姫さんがその覚悟を決められるかどうか。それが理想への、最初の第一歩なんだと、俺は思う」
「……覚悟を決める、……か」
クナトの考えを聞いて、シェレアは真剣な表情でそうつぶやいた。
「なんだか、随分と偉そうなことを言ったけど、別に今すぐじゃなくても」
クナトはまだ15歳の少女に対して、とても酷な話をしてしまったのではないかと、少し後悔する。せめて最後に、何か優しい言葉を掛けてあげないとと、必死に言葉を探す。
そんな頭をグルグルと回すクナトを見つめながら、シェレアはクナトには聞こえないように静かにつぶやく。
「クナト。ありがとう」
「え? 今、なにか言った?」
「悠長になどしておれん! そう言ったのじゃ!」
シェレアは大きく息を吸い込んで、唐突に声を荒げた。
クナトはシェレアに厳しいことを言い過ぎたために、ヤケを起こして自暴自棄にでもなったのかと内心焦ったが、そうではなかった。
「いいや! 今までの我の考えが甘かったのじゃ! なんの覚悟も無しに一国の女王が勤まるわけがないのじゃ!!」
シェレアのその瞳の眼差しはとても力強く、良い意味で迷いが吹っ切れたのであった。
先ほどまで落ち込んでいたかと思えば、このシェレアの切り替えの早さに、クナトは思わず苦笑してしった。
「……ム? なんじゃ?」
「ううん、なんでもないよ。お姫さんにならきっと叶えられる。そう、思わされただけ」
「うむ! 我にやってできぬ事など無いのじゃ! 御主を家来にすることも、まだ我は諦めてはおらぬからな!」
「あー。それは勘弁してほしいかなぁ」
諦めの悪いシェレアに、クナトはうな垂れるように脱力して答える。
そして、シェレアはその夜で一番の笑顔で笑うのであった。
第二章 「半人前な姫と有能な使用人」-終-
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