第一章
「姫様、また騎士様達との夕食会にご出席なされなかったのですか? シルヴィア様がお怒りでしたが、よろしいのですか?」
一人の侍女が、美しい大理石の彫刻が施された壁に囲まれる大浴場の中、少女の金色に輝く美しい髪を洗い流しながら問い掛ける。
「伯母上様の機嫌が悪いのはいつものことじゃろう。気にしていても仕方あるまい」
浴槽の縁に腰掛ける小柄な少女は、少し疲れたように問いに答える。
「出席されていた騎士様も、みな姫様を心配しておりました。せめて挨拶だけでも」
「フンッ。あのような見え透いたご機嫌取りなんぞに、いちいち付き合う気分にもなれんのじゃ! 上っ面ばかりニコニコしおって、内心はどうせ権力だの地位だのと、己のくだらない欲のことしか考えておらんに決まっておる!」
「そのようなことは決して、……いえ、姫様の仰る通りなのかも知れません。その特権を得るために、騎士は日々絶え間ない訓練と王国への忠誠を誓っているのですから」
侍女の主張も間違ってはいない。それは彼女自身も十分に理解している。だからと言って、腹の奥底ではそんな打算的な考えがあると分かっていながら、社交的に接するなど彼女にはできなかった
「ともかくじゃ! 我はああいう手合いはどうにも好きになれんのじゃ!」
「そのようなことを仰らずに。妹君のティアナ様もギルバート様を正式な聖騎士とすることをお決めになられたのです。姫様も騎士様達との交流をもっと図らなければ、相手の良いところ知ることも決してできません」
「そのようなこと! 言われんでも分かっておるわ!」
実の妹を引き合いに出されたことが余程癪に触ってしまったのか、彼女は声を荒げた。
「我の騎士は我自身が決めることじゃ! それを周りからとやかく言われる筋合いはない!」
そのまま彼女は、身体を洗う侍女の手をあしらい湯船へと体を沈める。
「申し訳ありません。過ぎたこと申しておりました」
少女は湯船に口元まで顔を埋め、火照る意識の中でぼやく。
(フンッ、みな好き勝手言いおって。あの〝異国の騎士〟のような、我の目に適う者がおらんのじゃから、仕方がないではないか)
姫という立場ゆえの悩みを抱える若干十五歳の少女、彼女の名は、シェレア・シュトレイアス。ここシュトレイアス王国の第一王女であり、現女王の娘である彼女は、時期王位を継承する最有力候補である。
シュトレイアス王国では、女王が最高権力者となり王国を治め、王位も女王から王女へと継承されるのである。男性ではなく女性が王国を治めるように至った理由はいくつかある。
一つは、シュトレイアス王国を建国した人物が女性であり、女王として王国をまとめ上げたこと。
二つ目に、その女王の子孫である王女のみに受け継がれる特別な力が大きく関係する。その力とは、一人の男性に強力な魔力と魔法を授けることができるといものであった。魔力を授かることを認められるのは王国を守る騎士のみであり、選ばれた騎士は〝聖騎士〟と呼ばれ、剣と魔法で仕える王女と王国を守るのである。王女達のその力は崇められ、王族の血を絶やさないことが、王国の安寧へと繋がっていく。結果として、女王が王国を治める体制が建国以降、絶えることなく続いているのである。
今現在、王位継承権を有する王女は、シェレア以外にも当然存在する。王位の継承は、国民からの支持も考慮された上で、王族達による協議によって決定される。王女の人間性や指導力、知識などが選定対象であるが、特に聖騎士が誰であるかが最も重要視される。なぜならば、聖騎士は同時に王女の伴侶であり、もし、仕える王女が王位を継承し女王となれば、その聖騎士が国王の地位に就くのである。
つまり、シェレアが王位を継承するためには、聖騎士を誰とするかは重大なことであり、シェレア自身、そして今後の王国の行く末を大きく左右しかねない問題なのでもある。
シェレアが入浴を終え、いつもよりかなり遅い夕食を済ませる頃には、夜も更ける時間となっていた。
シェレアは火の灯ったランプを片手にあくびをしながら自室へと戻っていく。自室のドアを開けると、ランプの灯りが見慣れた広い室内を照らし出す。そして、見慣れたはずの部屋の片隅で〝何か〟が駆け抜けるの目の端で捉えた。
「誰じゃ!? 誰かおるのか!?」
シェレアは人と思しき人物へランプの灯りを向ける。ユラリと揺らめくランプの灯りが、とても人の顔とは思えないボロボロの顔を怪しく照らし出した。
まるで妖怪のようなおぞましいモノを見てしまったシェレアは、思わず息を飲み悲鳴をあげるのだが、その悲鳴が口の外へと出ることはなかった。その得体の知れない妖怪に口元を塞ぎ込まれ、身体を押さえつけられたのである。
「ンッ――――!? ンンッ――――!?」
シェレアは必死に振りほどこうと暴れるが、少女のか弱い力では敵わなかった。
「お願いだ。騒がないでいてくれ。危害を加えたりとか、そんなつもりないんだ」
シェレアが聞いたそれは、まだ若い男の声であった。
シェレアは暴れるのを止めて、その人の言葉を話す相手を改めて確かめた。
目の前にいたのは、ぼろい布切れで顔をグルグルに覆い隠した男性であった。顔を覆った布と蝋燭の灯りが相まって妖怪か何かに見えてしまったが、見間違いであったことに気が付いたシェレアは徐々に冷静さを取り戻していく。だが、その人物が不審者であることに変わりがないのも事実であった。
(……なんじゃ? 一体何者なんじゃ? こやつは)
顔を布で覆い隠しているため、シェレアが知る人物であるかどうかも判断ができない。口調や声色からは、男に悪意がさほど無いことは感じ取れたが、決して聞き覚えのある声ではなかった。
男がここで何をしていたのか、シェレアは部屋の様子に視線を向けると、ドレッサーの引き出しやクローゼットなどが荒らされていた。そして、ここ最近城内で起きている窃盗事件に思い当たる。今、城内では宝石や貴金属が盗まれるという事件が度々起きており、城の関係者が犯人ではないかと騒ぎになっているのである。
(こやつが、その犯人というわけじゃな。いったいどこのどいつじゃ!)
シェレアはより注意深く、その男の様子を伺う。危険な武器などを隠し持っているようには見えない。取り押さえられはしたが、それ以上、何か危害を加えようとする様子もない。
男はシェレアが落ち着きを取り戻しつつあるのを感じながらも、ジッと睨み付けられた視線から、自分を警戒する以上に敵意が向けられていると察していた。
「えっと、このまま何もせずに、すぐにここから立ち去るから、見逃してくれない、かな?」
男は出来る限り、相手を刺激しないよう細心の注意を払いながら優しい声でそう弁解する。しかし、その努力も無駄に終わる。むしろ、シェレアの怒りをさらに買ってしまう結果となる。
(『見逃してくれないか?』じゃと? どの口が言うか! この戯けが! 我の部屋に忍び込み、あまつさえこうして我に軽々しく触れておいて、タダで済むと思うでないぞ!)
シェレアは込み上がる怒りを抑えきれず、一発蹴りでも食らわしてくれようかと、そう思い立った矢先であった。
「お姉様? どうかなさいましたか?」
栗色の長い髪の少女が、シェレアの部屋へと入って来た。シェレアより一つ年下の妹、ティアナであった。隣の部屋で就寝前に静かに読書をしていたティアナは、シェレアの部屋から聞こえた不穏な物音が気になり、心配して様子を見に来たのである。そして、そのシェレアが不審な男に取り抑えられている姿を目にしてしまうと、
「きゃぁぁ――――!? 誰か――――!!」
城内中に響き渡る悲鳴をあげた。
シェレアの食事の後片付けを終えて、部屋の近くへと来ていた侍女が、その悲鳴を聞いて真っ先に駆けつける。不審な男を視界に捉えると、目の色を変え、どこに隠し持っていたのか鋭利なナイフを取り出し、なんの躊躇もなく男へと振りかざした。
「姫様から離れろ!」
男はシェレアから手を放して、間一髪でナイフを避ける。そのまま、身を翻して窓から外えと脱兎の如く逃げ出した。
侍女は男の後を追うことよりも、シェレア達二人の安否の確認を優先する。
「お怪我はありませんか!? 姫様!? ティアナ様!?」
「我は大丈夫だ。アイリアはティアナを見てやってくれ」
シェレアは男が逃げ出した窓へと後を追うように身を乗り出す。
窓から垂れ下がる一本のロープを男は器用に伝って滑るように壁を降りていた。
「いったい何事ですか!?」
ティアナの悲鳴で近くの兵士が部屋へ入り、シェレアと同じく窓から男の姿を確認する頃には、男は地面へと着地を終えて城壁の外へと向かい走り出していた。
「侵入者だ――!! 庭園に降りて逃げたぞ――!! 中庭だ!! みな表へ出ろ――!!」
兵士は叫び、自らも男の後を追うために、放置されたままのロープで降りようと試みるのだが、地上40メートルを超える高さに足が竦んでしまっていた。
「待て待て! 無理をするでない!」
見兼ねたシェレアは思わず兵士を止めに入るが、そんな情けない姿の兵士とは対照的に、高い壁を颯爽と滑り降りて行った男の姿に、ついつい関心を寄せてしまっていた。
(あの男、もしかしたら只者ではないのかもしれんな。ふむ、我の興味を少しばかりそそるではないか)
男は城の城壁へと素早く駆け寄ると、進入時に使用したままの状態で垂れ下がっているロープを伝い、壁をよじ登って逃走を図る。
城壁の見張りをする一人の兵士が男の逃走を妨害しようと、すぐに男の真上へと駆けつけ、男へ目がけて弓矢を放った。
だが、男は頭上から飛来する矢を冷静に壁を蹴る反動で横へと回避する。
兵士は咄嗟に機転を利かせ、今度は剣を構えロープを切断する。だが、ロープを切断した腕がなにか強い力に引っ張られるように下へと引きずり込まれる。兵士は塀に身体を打ち付けて剣を落としてしまいながらも、なんとかその場に踏み留まった。
兵士の腕にはいつの間にか男が新たに投げた鉤縄が括りつけられ、男は兵士を体重で下へと引き寄せて自由を奪うと当時に、そのロープで壁を登り続ける。
「大丈夫ですかー? もう少しだけ踏ん張っててくださーい」
「き、キサマッ! ふざけるな――!!」
その騒動を城内の一室から、整えられた小さな口髭が特徴的な初老の騎士が眺めていた。僅かな月明かりしか無い暗闇の中、常人の視力では到底見えるはずもない男の姿を、初老の騎士ははっきりと視界に捉えられていた。
「はっはっはっ! まるで猿ですな。どれ、少々悪戯が過ぎた猿に一つ灸を据えるとしましょう」
初老の騎士は、自室に置いてある愛用の弓矢を手に取る。そこから城壁まではおよそ100 メートルは超えていた。弓矢で標的を狙い撃ちするには、あまりにも距離が離れ過ぎている。しかし、騎士は弓矢を構えると目を閉じ、一呼吸の間を置いて矢を放つ。その放たれた弓矢は、風や重力の影響を一切受けることなく、まるで一本の直線を描くかのように闇夜の空を切った。
男が20メートル近くある城壁を半分ほど登ったあたりであろうか、男の下には兵士達がゾロゾロと集まり始めていた。
男は下からの攻撃にも注意を払って兵士達の動向を警戒する。その時、男のすぐ頭上を風切り音と共に背後から高速で何かが飛来したのを、男は目の端で捉えた。壁には弓矢が突き刺さり、その矢は上の兵士に括りつけられていたロープを貫いていた。損傷したロープは男の体重を支えきれずにブチブチと音を立てて徐々に千切れていく。
(うそ!? やばいっ!)
男はロープが完全に切れる前に、損傷個所より上を掴もうと腕を伸ばすが、それよりも早く、2本目の矢が容赦なく飛来する。わずかに残されたロープの切れ端を見事に射抜き、完全にロープを切断した。
(……ッ!? やられた!)
その弓矢は上からでも下からでもない、背後からまっすぐに飛来していた。信じ難くも暗闇の中、数十メートルも離れた城から弓矢で太さが1センチにも満たないロープを連続で射抜かれたことになる。
そのまま男は、成す統べもなく空中へと放り出され、地面へと落下していく。しかし、地面と衝突する瞬間に身を翻し、転がるように着地することで衝撃を和らげ、高さ10メートル以上からの落下にもかかわらず、男はほぼ無傷のまま立ち上がる。
男の周囲に集まっていた兵士達は、その様子を目の当たりにして驚きの声を漏らす。
「こいつ、あの高さから落ちて平気なのか?」
男は着地に成功したは良いものの、見渡せば何十人もの兵士によって周囲を取り囲まれてしまっていた。
「賊に告げる! キサマの行動は王国への反逆である! 大人しく投降せよ!」
一人の兵士が威勢よく男に警告をする。他の兵士達も男を鋭い眼光で睨みつけていた。
男はそんな状況に置かれながらも、服に付いた砂ぼこりを払い落としながら冷静に周囲を見渡す。背後は高さ20メートルを越える城壁。そして壁を挟んで取り囲むように周囲を百人余りの兵士が武器を手に取り囲んでいる。
男は黙ったまま顔に巻き付けていた布切れを取り始めた。その覆面の下からは、短髪の黒髪にまだ若い男の素顔がさらけ出される。その行動は、投降の意思表示とも見えるが、男の真意は違っていた。男の表情からは、諦めや恐れなどは一切無く、その目には力強い意志が宿っていた。
男はこんな状況に追い込まれながらも、切り抜けるつもりなのである。覆面を取ったのは取り囲まれている状態に対して、少しでも視界を広くするためであった。
(荒っぽいことはしたくないんだけど。ここで捕まる訳にもいかない)
男は前後左右のどちらにも素早く動けるよう、重心を低くした姿勢で兵士達から攻撃に備える。
「えぇい! 引っ捕らえよぉ――!!」
兵士の高らかな掛け声を合図に、兵士達は一斉に男へと襲い掛かった。
現場に向かった兵士達よりも遅れること約5分、銀髪で若くも凛々しい顔立ちの騎士が一人、城内から出てくる。
騎士は遠くからでも賊が多くの兵士に取り囲まれている様子が見て取れた。もはや捕らえたも同然であり、たった一人でどうにかできるはずなど無かった。
しかし、騎士がその場に近づくにつれ、そう容易く事態が収拾していないのを目の当たりにする。男を取り囲んでいる兵士達のそのまた周辺に、うずくまっている兵士や倒れ込んでいる兵士が何人もいるのである。そして、その人数は時間が経つにつれ増えていく一方であった。
騎士の姿に気付いた兵士の一人が、騎士の元へと駆け寄って行く。
「これはギルバート様。わざわざご足労頂けるとは」
「万が一の事を思えば当然の勤めだ。しかし、この状況はどういうことだ。まだ捕まえられていないのか? たかが賊の一人相手になにを手こずっている」
「はっ! 申し訳ありません。ですがこの人数差です。捕まるのも時間の問題でしょう」
兵士の悪びれる様子の無い態度に、ギルバートは声を張り上げる。
「時間を掛けるなと言っているのが分からないのか! これ以上、事を大事にするでない! 取り押さえられないのであれば捕獲網の一つや二つ、早く用意しないか!」
「も、申し訳ありませんっ! 直ちに!」
兵士は捕獲網を取りに武器倉庫へと走り去る。
そうしている間にも、男を取り囲んでいる兵士達の士気は下がりつつあった。次々に倒されていく仲間を目の当たりして、ほとんどの兵士が及び腰になってしまい、攻めに攻められない状態となっていた。
そんな兵士達の情けない有様に、ギルバートは怒りのこもった声を上げる。
「ええい! そこを退けっ!! これ以上怪我人を増やされても面倒だ! 後は私がやる!」
ギルバートは叫びながら男を取り囲む兵士を押し退け、男の前へと歩み出る。
「ギルバート様だ」「おおっ、ギルバート様だ」「これであいつもお終いだ」
騎士であるギルバートの登場に、周囲の兵士達からは小さくも歓喜の声が上がる。
ギルバートは男の前へと立ちはだかる。男の容姿を目にして、想像していた相手と随分と違っていたことに内心、驚いていた。
(ほう。どんな大男が相手なのかと思えば、体格は私と大差無いではないか。その体格でこの人数を相手に捌き切るとは、相当な実戦を積んでいるのか、もしくは勘がよほど良いのであろうな。いや、そんなことは今は問題ではない。相手が何者であろうとも反逆者に情けなど無用! 全身全霊を持って、我が剣で裁くのみ!)
ギルバートは剣を抜き、男へと対峙する。
「王国に対しての数々の反逆行為、手足の一本二本は切り落とされても文句はあるまい!」
そして、他の兵士達とは比較にならない速さで、男との間合いを一気に詰め攻撃を繰り出す。ギルバートの閃光のような剣戟が男を襲うのであった。
「シェレアお嬢様。どちらへ向かわれるのですか?」
城内の階段を駆け下りるシェレアの姿を見つけ、眼鏡を掛けた老女が呼び止める。
シェレアは面倒な相手に見つかってしまったと肩を落とした。
マイヤ・ノーレン。シュトレイアス王国に50年以上も古くから侍女として仕え、歴代の女王の身の回りのお世話を任されてきた人物である。今は侍女長を務め、シェレアの教育係も担っているため、シェレアが騒動を起こさないよう常に目を光らせている。
「うむ。不届き者の顔を見てみようと思ってな。捕まったのじゃろう? 様子はどうなのじゃ?」
マイヤはシェレアの軽率な行動を叱咤する。
「なりません! あのような野蛮な輩にシェレアお嬢様を会わせる訳にはいきません!」
「我はあやつの被害者じゃぞ。文句の一つや二つは言ってやらねば気が収まらん」
「はぁ。ダメと申し上げても、聞き入れてはもらえないのでしょうね」
マイヤは強情なシェレアの性格を熟知した上で諦めのため息をつく。
「例の侵入者でしたら、地下牢へ連れて行かれました。どうしても会いに行かれるのでしたら、私も同行させていただきます」
「よかろう。ならば案内を頼む」
シェレアは地下牢へと向かう道中、何人もの兵士が応急手当をされているのを目にする。
「なかなか大暴れしてくれたようじゃな。これをあやつが一人でやったのか?」
「はい。負傷した兵士は50名を超えます。ですが、どの兵士も打撲や捻挫、気絶させられるだけなど軽症で大事には至ってないようなのですが……、そのぉ……」
マイヤは何かを言いかけようとして躊躇する。
「何じゃ? 話してみよ」
「ギルバート様のことなのですが……」
ギルバート・レイアス。騎士の称号を持つ王国兵団屈指の実力者である。城には王国兵団という百人以上の兵士による軍が組織されている。その中でも、実力や人望、王国への功績が高い兵士には騎士の称号が与えられる。さらにギルバートはシェレアの妹ティアナの聖騎士となることが周知の事実となっていた。実直な男であり、騎士道精神を重んじては誰よりも王国のために忠義を尽くしてきた人物である。
「ギルがどうかしたのか?」
「はい、あまり大きな声では言えないのですが、ギルバート様も倒されてしまったと」
男へ威勢よく対峙したギルバートであったが、その結果は騎士の面目無くあっさりと返り討ちにされていたのであった。その後間も無く、捕獲網によって男の動きの自由を奪ってから十数人がかりでようやく取り押さえるのに至ったのであった。
「なっはっはっ!。ギルのことじゃ、きっと大見えを切って挑んだのじゃろうな。それで逆にのされる姿は、さぞかし滑稽だったに違いない。是非、我もこの目にしたかったものじゃな」
シェレアは、陽気に笑い声を上げる。
「シェレアお嬢様、声が大き過ぎます」
ギルバートを聖騎士にするほど慕っている妹とは違い、シェレアはギルバートの騎士道バカとも言える故の王族を崇拝する態度がどうしても好きにはなれなかった。それでも、妹の聖騎士の相手として、これ以上に信頼できる騎士もいないとも心から思っている。
(しかし、ギルも油断するような性格ではないはず。ましてや、不届き者相手に、手を抜くはずがない。そのギルを負かすとなると、ますますもってその男、興味が湧いてくるではないか)
シェレアはその男に対して、期待に胸を膨らませながら不敵な笑みを浮かべるのであった。
城の地下牢。その部屋の一つには拷問室があり、尋問や拷問を行うための器具が一式揃えられている。男はそこで、鎖の付いた手枷を嵌められ、宙吊りの状態で尋問が行われていた。
そこへ、シェレアは足早に拷問室へと入って行く。
「おや、これはシェレア姫。見物ですかな? このようなものをご覧になられてもあまり面白いものではありませんよ」
シェレアが拷問室に入ると、一人の騎士が出迎えた。
「アレックスか。尋問は御主が担当じゃったか」
「こういう汚れ仕事は何かと私に回されて来るのですよ。やれやれ、嫌にもなります」
アレックスは堅い椅子にダラリと腰掛けながら愚痴をこぼす。
この覇気が殆ど感じられない騎士の名はアレックス・シュトレイアス。シェレアの叔母にあたる王女の聖騎士である。槍の腕前は騎士の中でも随一であったのだが、聖騎士へ任命されてからは、何かと危険な任務を避けるようになり、今ではその騎士としての面影は無くなってしまっていた。そういう意味では、こんな役回りをやらされるのも自業自得だとシェレアは内心で突っ込みを入れる。
「この男は何かしゃべったか?」
「いいえ。それがずっとだんまりでして、困ったものです」
「いかが致しましょう? 拷問にかけますか?」
痺れを切らした兵士の一人が提案する。
「う~ん、そういうのはあまり気乗りしないのだがなぁ。ただの物取りであろう? どこかのスパイでもあるまいし。君も拷問なんてされたくはないであろう? だからせめて名前くらい教えてもらえないだろうか?」
なんとも気の抜けた尋問である。男も態度を変えることなく押し黙ったまま何も喋ろうとはしない。
「ふむ。この状況でも何も話さないか。なかなかに強情なやつじゃな」
シェレアはその男の顔を覗き込む、じっくりと観察する。
(ふむふむ。若く顔立ちもそう悪くないのぉ。むしろ、人畜無害そうな顔をしておるではないか。本当にこやつが騒ぎの犯人なのか?)
腑に落ちないといった表情をするシェレアだが、そんなシェレアの姿を見て男はようやく口を開く。
「やぁ。お姫様だったんだ。さっきは驚かせて悪かったよ。ごめん」
それは、シェレアへの謝罪の言葉であった。その声、その発言からシェレアはこの人物が事件の当事者であることを確信する。
「はんっ。今更謝ったところでもう遅いわ」
シェレアは手近にあった拷問用の鞭を手に取り、わざとらしく不適に笑ってみせる。
「キサマはこれから拷問を受けるのじゃ。この鞭で打たれればきっと痛かろうなぁ。爪は剥がされ、熱湯には入れられ、苦痛だけの生き地獄の日々じゃ。それこそ、死んだ方がマシじゃと思いたくなるに違いないぞ」
シェレアは男を脅すように言葉を並べた。いかにも王女らしからぬ言動に、周りの者も面食らってしまっていた。しかし、シェレアにはある魂胆があっての行動であった。
(さぁ。とっとと『許してください』とでも言って、こうべを垂れるのじゃ)
シェレアはこうして脅してやれば、間違いなく男は助けを請うだろうと想像していた。
「……安全な城の中」
しかし、そんなシェレアの思惑は大きく外れてしまう。
「……大事に愛でられ育てられて、死ぬ恐怖なんて知りもしないお姫さんに、死んだ方がマシだなんて、そんなこと分かるはずもないさ」
男にとっては、その言葉に深い意味など無かったのかもしれない。性格の悪い幼い少女に対して、少しだけ皮肉を混じえた言い返しをしただけなのかもしれない。
もしそうであっても、シェレアにとってその言葉の意味するところは大きかった。それは言い返すことのできない事実であり、その事実から目を背けてしまっている自分の愚かしさを思い知らされる言葉であった。
シェレアは次期王女候補の立場として、王国をより豊かに、平和にしたいとずっと幼い頃から夢を抱いていた。しかし同時に、その心の奥底では違和感を拭えないでいた。その夢に対して、実感や現実味が伴わない。それは単に自分が幼い子供だからであり、時間が解決するものと思っていた。しかし、本当の理由は違っているのだといつからか気づいてしまう。幸福である者が、貧困に苦しむ者の気持ちを心から分かり合えるはずがない。そんな者が平和などと口々に語ったとしても、その願いは所詮空虚なのである。
対して、男の一言はつまらない皮肉などではなく、真に迫る思いが確かに込められていた。それは死の恐怖を知っている者だからこそ、発せられた言葉に違いないとシェレアは痛感させられた。
「……こやつを降ろしてやれ」
「は?」
シェレアが口にした思いがけない命令に対して、兵士は思わず聞き返してしまった。
「こやつをすぐに降ろせと言っておるのじゃ!」
シェレアは強い口調で兵士へ命令する。
「王女様のご命令だ。降ろしてやれ」
戸惑う兵士にアレックスがやむなしと指示を出す。
男に繋がれていた手錠が外さる。しかし、男は降ろされても逃げられないようすぐに兵士に取り押さえられてしまう。
「構わん。離してやれ」
「え!? ですが……」
「離してやれ、逃げられないことは十分に分かっているだろう」
アレックスの合意を得て、ようやく男の身体は自由となる。男も場と立場をわきまえてなのか、抵抗する素振りも無く大人しくその場に座り込んだ。そして、シェレアの自分に対する扱いの変わりようを疑問に思いながら、シェレアの様子を伺った。
シェレアが男の拘束を解いたのは、この男とは腹を割って対等な立場で話をしたい、話をしなければならない、そう思えたからであった。そして、シェレアは真剣な眼差しで男に問い掛ける。
「盗人紛いな真似をしたのは、金が無かったからか? 飢えに苦しんだ故のことか?」
「そんなんじゃないさ」
だんまりであった男も、シェレアの問いに今度は潔く口を開いた。
「ならばなに故じゃ? 訳を話せ。理由によっては譲歩の余地もあるぞ」
シェレアは窃盗の理由について訊きたいのもあるが、それ以上に、男の心の内が知りたかった。
「訳は言えない。迷惑を掛けたことについては悪いと思っているし、それなりの罰なら受ける。でも、俺にとっては必要なことだったんだ」
ようやく男は口を開くようになったが、結局、肝心な理由については話そうとはしなかった。
「シェレア姫。そのようなことを聞いても無駄ですよ。金を盗む理由なんて一つに決まっています」
アレックスが呆れたように口を挟む。
そんなアレックスの横やりを、シェレアは無視して話を続けた。
「では、盗んだ物はどうしたのじゃ? それも言えぬのか?」
「換金して、街の貧しい人々に全部渡した」
「街の者に金を配った? しかも全部じゃと? なにゆえ自分の物にせんかったのじゃ?」
「そんなのは俺の自由だろ。だいたい、あなた達に返すよりも、貧しさに苦しんでる人達を助ける方がいいに決まっている」
この男の主張に、シェレアはどこか違和感を感じて首を傾げたが、アレックスは男の行動と主義主張を理解したとばかりに説明をする。
「ああ、なるほど。これは義賊と言うやつですよ。民衆のために我々権力者から金を盗み、貧しい人々に金を恵む。ご大層なことではありませんか」
そして、そのまま男に対して、アレックスは講釈を垂れ始めた。
「だがな青年。それが今の王国の在り方なのだよ。国民には誰しも労働が課せられる。そうして自ら知恵を絞り汗水を流して、その努力の結果として平穏な生活が得られるのだ。そして、そうやって努力をする国民がいるからこそ、王国はこれからもより発展を続けていく。確かに努力が報われずに貧しくなる者もいるだろう。だがそれは、当人たちの問題でもあるのだよ」
シェレアは、このアレックスの考え方も分からなくはなかった。しかしそれは、貧しい人々は自業自得だと、ただ突き放しているようでもあることが気に入らなかった。そのシェレアの考えを代弁するかのように、男はアレックスに言い返す。
「だったらせめて、あなた達裕福になれた人達が、ほんの少しだけ貧しい人々に手を差し伸べることだってできるはずだ」
この意見にアレックスは言葉尻を濁す。
「う~ん、そんなことをすれば、貧しい者からの要求はどんどんエスカレートするか、努力を怠る者もきっと出てくるだろう。人間は欲深い生き物なのだよ」
「アレックス。我の目からすれば、そんな考えをする御主の方がよほど意地汚く見えるぞ」
今度はシェレアが呆れるように言い返した。
アレックスはシェレアからも反感を買ってしまったことに気付くと、これ以上、言葉を返すことはしなかった。
シェレアは男へと向き直る。その表情はどこか嬉しそうであった。そして、男の目をジッと見つめ、一つの結論を出す。
「うむっ。窃盗の件は許そう」
「お嬢様!? そのようなことを勝手に決められても困ります!」
驚いたマイヤに口をはさまれると、シェレアも思わずハッとする。うっかり男の境遇に心を打たれてしまい、本来の目的を忘れてしまっていたのである。
「ただし、それには一つ条件がある」
シェレアは慌てて言葉を付け足し、咳ばらいをしながら一呼吸の間を置く。一見、取って付けたかのように交換条件を持ちかけているようでもあるが、シェレアの当初の目的は男にとある条件を飲ませることであった。初めは、男を脅して助けを求めてきたところに交換条件とすることで、承諾せざる負えなくする算段であったが、男の予想外の受け答えに段取りが大きく狂ってしまっていた。
重苦しい真剣な表情から、元の高飛車なお姫様の態度へと戻ったシェレアは、当初の目的を果たすべく、その条件の内容を男に提示する。
「我の家来となれ。そして我の下で国のために尽くすのじゃ。御主をこうして間近で見て確信した。御主には見込みがある。我の人を見る目に間違いは無い」
シェレアの目論み、それは男を家来として迎え入れ、国の発展に役立ってもらうことであった。
だが、このシェレアの身勝手な考えを聞いたマイヤは猛反対する。
「いきなり何を仰いますか! このような得体の知れない男を家来にするなどと!」
「誰を我の家来にしようと、我の自由であろう」
シェレアは反対されることなど百も承知していた。だからこそ、少々強引でも譲るつもりは無いとばかりに強い態度で意思を示す。
しかし、またしてもシェレアの思惑通りに事は運ばなかった。
「悪いけれどその話、遠慮するよ」
シェレアの交換条件を、男はいともあっさりと断ったのである。
「な、なぁぁ!? 悪い条件ではないであろう! このままじゃと独房送りになるのが良いところじゃ! そこからいつ出られるのかも分かったものではないのじゃぞ!? 家来になれば、城で今までよりもずっと良い暮らしだって……」
「俺は、そんなことを求めてなんていない。ましてや、家来だとか下僕だとか犬だとか、そういう扱いを受けるなんてのはもう御免なんだ」
「下僕? 犬!? そんなことは言っておらんじゃろう!?」
「いいや、信用できない。お姫さんからは俺の知ってるワガママな女の子と似た雰囲気を感じる」
「はぁぁ――!? 何を訳の分からんことを言っておる!! いいから大人しく我の家来になればよいのじゃ!」
「絶対にお断りだ! 拷問でも独房送りでも、何でも気の済むようにすればいいだろう」
話がどんどんとおかしな方向へと転がっていく。周りにいる者達は、すっかり話しの流れから置いて行かれてしまっていた。
まったくもって理解できないのは、なぜシェレアがこの男にそこまで執着するのか、そして、この男もなぜこんな条件の良い話を頑として受け入れないのか。ただただ二人の押し問答を誰もが黙って見ていることしかできなかった。
そして二人がいがみ合う中、新たな人物がまた一人地下牢へとやって来る。
「これは一体、何の騒ぎですかな?」
頭部が剥げたその初老は、国の政治に関わる大臣の一人であった。
「大臣まで、こんなところにどうされたと言うのですか?」
「いえ、この男の裁判の議長を私が務めることになりましたので、少し話でも伺おうと思ったのですが、シェレアお嬢様が来ていらしたとは驚きました」
「それがですね大臣。シェレア姫がこの男を家来にすると言い出しまして、ほとほと困っていたのですよ」
また小うるさそうな相手に、躊躇いなく報告するアレックスをシェレアは睨みつける。
「そういう事でしたか。残念ですが、シェレアお嬢様。彼は神と法の下で裁きを受け、その罪を償わなければなりません。いくらシェレアお嬢様の意向があったとしても、それは覆してはならないことなのです。どうかご理解ください」
「……了解じゃ」
シェレアもこう言われてしまっては、今は渋々ながらも引き下がる他に無かった。
「折角の助かるチャンスを不意にしたのぉ。死刑になったとしても、我は知らんからな!」
シェレアはそんな捨て台詞を言いながら、フンッと踵を返して拷問室を出ていく。
「やれやれ、相変わらず我が道を行く姫様だ。大臣もわざわざ来て頂いて恐縮ですが、今日はここまでといたしましょう。調書などは私の部下に書かせて明日にでもお渡しします」
「ええ、分かりました。ではお願いします」
「さて、悪いが聞いての通りだ。今日のところはまた拘束して、牢屋に入ってもらうぞ。私ももう眠たいのでな。続きはまた明日にしようじゃないか」
男は大人しくその指示に従い、牢屋へと監禁されるのであった。
翌日。シェレアは男のことが気がかりとなり、ずっともどかしさで悶々としていた。
そして、夕食を終えたとき、側近の侍女からあまりにも唐突な話を聞かされる。それは、男の死刑が決まり、明日にでも処刑されるという内容であった。
(あの戯けが! 本当に死刑なんぞになりおって!)
それを知ったシェレアは、ギリリッと奥歯を軋ませる。
(なんとかせねば! みすみす見殺しにしてしまうには実に惜しい!)
シェレアは侍女の目を盗んで、まず真っ先に死刑の判決を下した大臣のもとへと向かった。もはや四の五の言っていられる状況ではなかった。判決を取り下げさせるよう怒鳴りこむ、もとい直接抗議する他に手立ては無かった。
シェレアが勢いよく会議室の扉を開けると、議長を務める大臣が一人で資料の整理をしていた。
「これはシェレアお嬢様。いかがなさいましたか?」
「昨日城に忍び込んだ男を、明日死刑するという話は本当か?」
「ええ、先ほど男の処罰については、裁決されましたが、それがいかがなさいましたか?」
「なぜ死刑なのじゃ!? たかだか盗みを働いただけじゃろう! それにあの男の話では、それは貧しい者のためにやったことなのじゃ。それを簡単に死刑にするなど納得できん!」
シェレアは高ぶった感情を抑えられずに、大臣の机を叩きながら激しい剣幕で迫った。
「何を仰るのかと思いましたら、彼の犯した罪は明白です。度重なる王室への侵入と窃盗、そして先日の兵士達への暴行による反逆行為、どれも十分な大罪です」
(ぐぬっ)
「窃盗の動機についてもあいまいな証言も多く、とても信用に足るものではありませんでした」
(ぐぬぬっ)
「それと、男が盗んだと証言した金品と、被害届として出されていた盗品がほぼ一致することを確認しました。ここ数週間に起きた窃盗事件の犯人が彼であることの裏付けとしては十分な証明になります」
大臣はシェレアの目の前に二つの資料を差し出した。一つは男が盗んだと証言した盗品が一覧に纏められた資料。もう一つは被害届として出されている盗品が一覧に纏められた資料であった。
シェレアはその二つの資料を手に取り見比べる。
(ぐぬぬぬぬぬっ)
大臣が説明した通り、その二つの資料は被害の日付、盗まれた金品の内容がはほぼ一致していた。
死刑を取り下げるよう説得するはずが、男が窃盗の犯人であるという証拠と、客観的な裁決において男の死刑の正当性を説明され、それらを反論する余地の無いシェレアは、それ以上、言い返す言葉が見つからなかった。
「あやつに、死刑が決まったことはもう伝えたのか?」
「はい、私から直接、判決を言い渡しました」
「そのとき、そやつは何か言わなかったのか?」
「いいえ、ただ大人しく死刑を、自分の罪を受け入れている様子でした」
「……そうか。いきなり怒鳴り込んでしまってすまなかった」
シェレアは冷静ながらも力の抜けた声でそう答えると、うつろな足取りで大臣の部屋を後にする。
(なんということじゃ。まさか、こうも早く事態が進んでしまうとは。しばらく牢屋にでも閉じ込められれば、男の気も少しは変わるだろうと期待していたのじゃが、本当に死刑になってしまっては元も子もないではないか。今更、決まってしまった死刑を覆すのも容易なことではない。……いや、何か、何かいい策は無いものか。なんでもよいのじゃ。何か……)
シェレアは頭の中でぐるぐると思考を巡らせながら、腕を組み廊下を歩く。しかし、打開策が閃くことはなかった。
(やはり無理か。あやつのことは残念じゃが、もう忘れるしかないのか)
シェレアは肩を落としながら自室へと向かう。その道中、自分よりも背が小さく年齢も大して違わないとても若い侍女が遅くまでせっせと働いている横を通る。
侍女は新品の綺麗な壺を慎重に磨いていた。
そんな侍女の姿を横目にしながら、シェレアはすれ違いに一言声を掛ける。
「今度は割るでないぞ」
そう侍女に言葉を投げかけて、シェレアの足はピタリと止まる。
(……ん?)
シェレアの頭の中で、何かが引っかかった。それはちょっとした違和感に近いものであった。振り向くとそこには「シ―ッ。お嬢様、シ―ッですよ」と困り顔の侍女の姿と、そして新品の壺がそこに置かれていた。
(壺、じゃと?)
シェレアは侍女とその新しく用意された壺を見て、ある出来事を思い出す。一週間程前のことだったか、侍女が壺を割ってしまったところにシェレアが偶然にも居合わせ、このままでは室長に殺されてしまうと絶望で魂が抜けかける侍女の姿に見兼ねたシェレアは「ならば黙っておれ、壺も盗まれたことにすればよい」と、そう助言した。
この件で、表向きは壺は盗まれた事として処理されていた。
シェレアは必死に10分前の記憶を呼び起こす。男が証言した盗品の中に、壺があったかどうか。実際には壺は盗まれてなどいないのだから、男が壺を盗んだなどと証言する筈がない。だが、ほぼはっきりとシェレアの記憶には壺の文字が残されていた。
(これは? 一体どういうことなのじゃ? なぜあやつは盗んでもいない壺を盗んだなどと証言するのじゃ?)
シェレアの頭の中で様々な考えが渦巻く。そして、一つの推理に行き当たる。
(窃盗の犯人は他にもいて、仮にそのような人物がいたと仮定して、その者が窃盗の罪のもろもろ全部を、あの男に被せようとしているのではないのか? 男の証言から作られたというあの資料は、それが事実であるかのように周りを騙すための材料とし、でっち上げられたとものと考えれば、辻褄は合う)
突拍子も無い憶測だとはシェレアも自覚していた。しかし、絶対にあり得ない話ではなかった。むしろ、そう考えなければ腑に落ちない点も存在した。
窃盗は、幾度にも渡って行われており、ときには一つ二つ程度の金品しか盗まれていない日も多くあった。だが、それだけ何度も城に忍び込むリスクを犯すことなど、常識的に考えればおかしい話であった。だからこそ、事件当初は誰もが犯人は城内の関係者であると考えていたはずであった。
(迂闊じゃ。どうして、そんな重要なことを失念しておったのじゃ)
シェレアは落ち着いて考えを整理する。その推理はただの考え過ぎなのかもしれないし、資料に「壺」の記載があったかどうか、記憶違いをしているのかもしれない。よくよく考えれば、実は別の壺を本当に盗んでいたなどということもあり得る話である。だが、いづれにせよ事実を確かめなければ、シェレアのこの疑念は収まらなかった。
(もう一度、あやつと話をするしかあるまい。もし罪が軽くなるなら死刑を逃れるやもし
れん。少なくとも、本当に犯人が他にいるのならば絶対に許せん! もう時間も残されてはおらん。すぐに行動あるのみじゃ!)
そう思った矢先、側近の侍女がシェレアを見つけ駆け寄って来る。
「姫様。どちらに行かれていたのですか。昨日のようなことがあったのですから、どこかに行かれるときは、必ず一言申してください」
(ぐっ。こんなときに)
シェレアは冷静を装いつつ、どうにかして侍女を遠ざけようと試みる。
「なに、ちょっとお手洗いに行っておっただけじゃ。おおっと、いかん、これから大事な用があるのじゃった。アイリアは今日はもう休んで……」
「さぁ。早く自室に戻りましょう。今日はお供します」
侍女はシェレアのわざとらしい嘘を見抜いてなのか、シェレアの腕をがっつりと掴んで自室へと突き進む。
(むー、この際、事情をすべて話してしまうか? いや、我とて半信半疑なのじゃ。下手なことを言えば、逆に我が勝手なことをできないように、厳重に監視されてしまうかもしれん。今は自室に戻るまでの辛抱じゃ。そこからタイミングを見計らって抜け出せさえすれば……)
シェレアは密かに男に会うための算段を立てていると、まるでそれすらも見透かされているかのように、国王であるシェレアの父からの指示であると伝言を伝え始める。
「先日のことがありましたから、しばらくは部屋の前に見張りの兵士を配備いたします。どうか安心してお休みください。もし可能であれば、わたくしがお傍にいたいのですが……」
(おのれ父上め、余計なことを。それでは抜け出せぬではないか。……こうなっては仕方あるまい。もうあれをやるしかない)
シェレアは一旦、大人しく自室へと戻り、皆が寝静まる時間を待った。
そして日付も変わった真夜中、シェレアは行動を開始する。部屋の前には兵士が見張りとして待機しているため、ドアから外に出ることはできない。
そこでシェレアはベットの下へと手を伸ばすと、一本のロープを取り出した。それは、先日男がこの部屋の侵入に使用したロープであり、シェレアは放置されていたそれをこっそりとベットの下に隠していたのであった。
(抜け出すときに使えるかもしれんと隠しておったが、まさかこんなに早く使うことになるとはのう)
シェレアは窓の淵に鍵爪を引っ掛けロープを外の地面へと垂らす。美しい満月の月明りに照らされ、夜でも手元や石作りの壁の足掛かりとなりそうな足場は十分に見ることができる。問題は寒さであった。とてもレースとフリルであしらわれたネグリジェでは冷たい風から身を守ることはできない。シェレアは、急いで外出用の服に着替え、上から真っ赤でゆったりとした革のコートを羽織り、いよいよ意を決して窓の外へと身を乗り出した。
(怖くない、怖くない)
シェレアは最初こそ慎重であったが、すぐにロープを伝って降りるコツを掴み始める。
(なんじゃ、思ったよりも大したこと無いではないか)
自分の運動神経の高さに気を良くしたシェレアは、地面まで数メートルの位置で勢いよくロープを手放して飛び降りる。だが、地面までの高さを見誤り、着地でバランスを崩して危うく転びそうになる。
「のぉ!? とっとぉ!」(あ、危なかった。こんなことでもし怪我でもしたら、マイヤから何を言われるか分かったものじゃない。さて、地下牢は、……あっちじゃったか)
シェレアは急いで、男のもとへと駆け出していく。
そして、シェレアの声が聞こえたのか、そんなシェレアの後姿を夜の遅い時間にもかかわらずに会議室の窓から覗き見る一人の人物がいるのであった。
真夜中、男はまる一日、狭い牢屋に閉じ込められていた。地面に腰を下ろすことはできるが、両手には手枷が嵌められ、鎖で壁と繋がれているために両腕はずっと頭の上に吊り上げられている状態であった。まともな食事も与えられず、地下牢の独特な異臭と冷たく冷え切った空気の中、男は一睡もできないでいた。眠ろうとしても、空腹と寒さが、男の脳裏に過去の記憶を呼び起させる。
飢えと寒さに耐える生活。明日はどう生き抜くかを考える毎日。そして、そんな日々に終わりが訪れる瞬間、その最後の光景は、銀色の甲冑を身に纏ったような人の姿に似た化け物に殺されるというものであった。それらの記憶が男の頭の中で永遠と繰り返されていた。
(なに、やってるんだろうな、俺。こんなところで。残された時間は、罪滅ぼしをするって決めたのに。いや、そんなことで許されようだなんて思ったから、罰が当たったのかもしれないな)
男の頭の中で、何人もの、何十人もの悲鳴と断末魔がこだましていた。
(みんな、俺が、殺したんだ。俺が)
その断末魔は男を呪う怨嗟の叫び声となって、男の精神を切り刻むように苦しめる。
(くそっ。やばい。本気で気が狂いそうだ)
男が心の苦痛に耐える中、そこへ足音が近づいて来る。
(誰、だ?)
シェレアは男に会うために、地下牢に続く真っ暗な階段を慎重に下りていた。そして、階段下にうっすらと明かりが灯っていることに気付く。
(しまった。見張りか? いや、もうここまで来たのじゃ。事情を話すしかないじゃろうが、正直、どうなるか賭けじゃな)
まずは見張りの様子を伺おうとシェレアはそっと近づいて行く。そして、そこにいる者達の話し声が聞こえてくる。
「お、なんだ起きてんのか? 運が悪いな。眠っていれば苦しまずに済んだものを」
そのどうにも不穏な会話の内容に、シェレアは思わず足を止める。見つからないように息を殺しながらそっと壁の陰から奥を覗き込むと、そこには兵士が二人、正確には騎士が一人と兵士が一人、男の牢屋の前に立っていた。
兵士は牢獄の鍵を手に、扉を開けていた。
(見張りなのか? いや、どうにも様子が変じゃ。あの者達は何をしておるのじゃ?)
「悪いが命令でね。今ここで死んでもらう。なぁに、どうせ明日には死刑になるんだ。大した違いじゃない」
(なっ!? なんじゃと!?)
そのあまりにも唐突な話の内容に、シェレアは後先のことを一切考えることなく飛び出していた。
「ちょっと待つのじゃ!」
いきなりのシェレアの登場に、兵士は驚き動揺していた。
「シェレア姫? どうしてこのような場所に?」
騎士は平静を装ってはいるが、その表情はどこか固い。
「今の話はなんじゃ! その男を殺すつもりか!?」
シェレアに見聞きされたことが余程都合が悪いのか、兵士はあからさまに戸惑っている。騎士も不味いことになったと顔色にはっきりと表れていた。
「早まったことをするでない! 窃盗の事件はそやつがすべての犯人でない可能性があるのじゃ! 犯人は他にもきっとおる。そしてそやつに罪をすべて被せようとしているかもしれないのじゃ! 少なくとも、我はそやつから詳しい話を聴いて、それが事実であるかどうか確認せねばならんのじゃ!」
このシェレアの主張を聞いて、騎士の表情はさらに陰りを増す。そして、シェレアをじっと睨みながら、黙って何かを考えている様子であった。
(変じゃ。絶対にこやつらは何かを隠しておる。まさか、こやつらが窃盗の犯人か?)
シェレアはそんな可能性を考慮して警戒をしていると、そこへまた一人、階段を下りてくる人物が現れた。
「今のお話、詳しく聴かせていただいてもよろしいですかな? シェレアお嬢様」
その人物は、男に死刑の判決を下した大臣であった。
「もし、本当に他に犯人がいるのでしたら、それは一大事ですが。どうして、そのようにお考えになられたのですか?」
既に話が聞こえていたのか、大臣はシェレアに最も重要な点を問い質した。
「資料じゃ。男が盗んだという金品の一覧の中に、男が盗んだとは思えない物があったのじゃ」
「ほぉ。それは確かなことなのですか?」
「いや、それについては、まだ確証があるわけではないのじゃが」
「では、部屋でじっくりをお話を伺いましょう。何かの間違いや勘違いということもありましょう。ですがもし、それが本当ならば、彼の死刑は改めて考え直さなければなりません。さぁ、どうぞこちらへ」
大臣は、シェレアに地下牢の階段を上がるように促す。
シェレアも、大臣がシェレアの意見を聞き入れ、応じてくれる態度を示してくれたことで、思わず足が大臣の促す方向へと向いてしまう。
「付いて行っちゃダメだ。お姫さん」
牢獄の中で、ずっと黙ったまま様子を伺っていた男が、突然口を開いた。
「そ、そうじゃ。今、ここを離れるわけにはいかん。あの者達が、男を殺そうと……」
「違うよ、お姫さん。そうじゃないんだ。その大臣の人の言うことを聞いちゃいけない」
「これはまた、あなたに死刑を宣告したのは確かに私ですが、随分と恨まれてしまったようですね」
(恨まれて? いや、違う。これはそんなんでは決してない!)
シェレアは、男が人を恨むような、そんな人間ではないと感じていた。だからこそ、男には何か思うところが、何かに勘付いているのだと直感的に理解する。
「お主は、何かに気づいておるのか?」
「この兵士さん達は、さっき『命令された』って言っていた。そして、お姫さんが現れたときは明かに動揺したのに対して、なぜか大臣の人が来たときは、安堵の表情を見せんだ……」
この男の話を聴き、大臣は咄嗟に騎士に視線を送る。
騎士も大臣の意図を察したのか、それを受けて兵士へすぐに命令を出した。
「構わん! その男をすぐに殺せ!」
「待てっ! それだけは待ってくれ!」
シェレアは必死に静止を呼び掛けるが、兵士の行動は止まらない。剣を鞘から抜き、牢獄の中へと押し入る。シェレアの位置からでは、牢獄の中は死角となり状況を見ることはできない。それでも、男が殺されそうになっていることは疑いの余地も無い。
男はそんな状況の中でも、淡々と推測を口にし続けていた。
「……つまり、この騒ぎの黒幕、窃盗の犯人も、俺を今殺すように命令したのも全部、あんたなんだろ? 大臣さん」
男のその言葉と同時に、兵士は男の胸に向かって剣を突き立てるようにまっすぐに振り下ろす。
「やめてくれ――!!」
シェレアの叫び声と共に、乾いた金属音が鳴り響いた。
そして、男の語る声は何事もなかったように途切れくことなく続けられてた。
「別に、俺の他に窃盗犯がいようが、そんなことは正直どうだっていい……」
男は動くともままならない無防備な状態で、どうやって兵士の剣戟から逃れられたのか、見えていない者達には見当もつかない。
だが、兵士だけは、その一瞬の出来事に驚きの声を漏らしていた。
「こいつ!? 鎖を……!?」
男は両腕を吊り上げていた太い鎖を引き千切り、両手首に嵌められた鉄の手枷で突き立てられた剣の切っ先を受け止めていた。
「……俺が殺されるのだって構わない。それだけの罪を犯したことに、違いは無いんだから……」
「おのれぇ!」
兵士は剣を一度引くと、今度は大きく振りかぶり、男の頭を叩き割る勢いで刃先を振るう。
しかし、男はこれに対して身体を横に反らしながら容易く回避すると同時に、兵士の手首を掴むと手前へと引っ張り込む。その反動の力で男は立ち上がり、一方でバランスを崩した兵士は壁へと顔面を強打した。
痛みでうずくまる兵士の襟首を男は掴むと、騎士が立つ牢屋の扉の外へと向かって放り投げる。
そして自らも、牢屋から出ようと歩みを進める。
このとき騎士は、まるで猛獣を相手にしているのではないかと、錯覚しいていた。相手は両腕を固定され、片足には数キロの鉄球が付いた足枷をされている状態であっても、その悠然とした立ち姿に、気圧されてしまっていた。
(これが、ギルバートを素手で倒したという男。何かの間違いではないかとも思ったが、なんなのだ? この男が放つ、この異様な威圧感は)
男は鉄球の付いた足枷をゴリゴリと引きずりながら牢屋の外へと姿を現す。そして、シェレアの姿を見つけると、指を差しながら言葉を続けた。
「……でも、俺が殺された後、そこのお姫さんはどうなる? 犯人は他にもいると気付いて、俺が殺されそうになっている現場を見てしまったお姫さんを、あんたたちはがどうするのか、そんなことを考えたら、今ここで大人しく殺されるわけにはいかない。そうしないと、死んでも死にきれない」
この男の言葉を聞いて、騎士も大臣へと振り向き激しく問い質した。
「大臣! まさか、シェレア様にも手を出すおつもりですか!?」
大臣はこの問いに間を置いて、しかし躊躇なく答える。
「ここまで知られてしまったのだ。何らかしらの手を打つしかあるまい。キサマとて、もう後には引けんのだぞ。だが安心しろ。この件が表沙汰にならなければ、キサマを聖騎士にするという約束も守ってやる。今は早く、その男を殺せ! そしてこの小娘も始末するのだ!」
この大臣の言葉に、騎士は奥歯を強く噛みしめながら、剣を抜く。しかし、その剣を構えることなく地面へと捨てると、倒れた兵士に肩を貸すように担ぎ上げ、大臣のいる出口へと歩き出した。
「き、キサマ!? 私の命令を無視して、タダで済むと思うで……」
騎士は、そんな言葉を吐く大臣の顔面を殴り飛ばした。
大臣は地面に倒され、折れた鼻の頭を押さえながら、痛みで呻き声を上げる。
「覚悟なら、もうできていますよ。シェレア様、このお咎めは必ず後で受けます」
そう言い残して、騎士は兵士を連れて地下牢の階段を上がって去っていく。
「おのれ! おのれぇぇ!」
手駒を失った大臣は、地団太を踏む思いであった。
そして、シェレアは男が殺される危険が去ったことで安堵の表情を浮かべる。
「御主、どこもケガはしておらんじゃろうな?」
シェレアは男のへと駆け寄ろうとするのだが、その行く手を阻止するように、大臣はシェレアの腕を掴むと、人質を取るように押さえつけた。
「何をするのじゃ!?」
「黙れぇっ!!」
大臣は息切れするほどの大声を張り上げた。そして、見張り番が使う机の上に散乱したブドウ酒のビンを手に取り、叩き割るとそのガラスの切っ先をシェレアの喉元に突き付けた。
シェレアもそこでようやく自分の置かれてしまった状況を理解する。下手なことをすれば、殺されるかもしれないという恐怖がシェレアの身体を縛り、身動きを奪った。
「大臣さん。今更そんなことをして、なんになるっていうんだ。あの騎士があなたを見限った時点で、もう結果は見えている」
「まだだ! あんな騎士の言うことなど、いくらでも握りつぶせる! それにこんな小娘を私が直接殺せないとでも思ったか!」
「俺が、それを黙って見過ごすとでも?」
冷静な男の態度に、大臣は苦悶の表情を浮かべる。
「ああ、そうだ。ならばキサマをここから逃がしてやる。その手足の枷の鍵もここにある。城からの抜け道も私は知っているぞ。この女も、何もしゃべらないと約束さえしてくれれば、手出しはしない。どうだ?」
(何を馬鹿げたことを。そんな約束、嘘に決まっておるではないか)
シェレアは恐怖で、振るえる身体を抑えられずに、まるでおびえる小動物のような眼差しで男に助けを求める。
「分かった。逃がしてくれるって言うなら、あんたの言うことを聞くよ」
しかし、そんなシェレアの願いは届かず、男はあっさりと大臣の条件を飲んでしまう。
(この、戯けが~!)
大臣もこの男の言葉にほんの一瞬、気を緩めてしまう。そして次の瞬間には、大臣の顔面へ目がけて、一本の剣がグルグルと激しく横に回転しながら大臣を強襲していた。
男は大臣の一瞬の隙を見逃すことなく、騎士が捨てていった剣を素早く拾い上げると、大臣へと投げつけていた。
「ひぃゃぁ!?」
大臣は突然目の前に迫り来る剣から逃れるために、頭を抱えて後ろへ倒れるように伏せる。
剣は誰も傷つけることなく、壁にぶつかり激しい音をまき散らしながら、地面へと転がる。
そして、大臣が伏せた頭を起こそうとすると同時に、男に首を絞めあげられながら持ち上げられ、壁へと叩きつけられた。
「くっ、苦し、い。ゆるして、ゆるして、くだ、さい」
「お姫さんに、また手を出してみろ。今度は、容赦しない」
男は、大臣が気絶する前に、首から手を放して地面へと投げ捨てる。
大臣は弱弱しく呻き声をあげながら、逃げるようにその場から去っていった。
その間、シェレアはずっと放心したように一歩も動けずにいた。
そんなシェレアの頭を男はポンッと優しく撫でる。
「大丈夫だった? すごい顔してるよ? 俺がお姫さんを見捨てるなんてことあると思った? ごめんよ。ああでも言わないと、隙ができないと思ったから」
今のシェレアには、男の言葉がほとんど耳に入っていない様子であった。
男はそれ以上、何かをするとこもなく、牢屋へと戻ろうとする。
そんな男の行動を見て、シェレアはようやく口を開いた。
「御主、どこに行くつもりだ?」
「どこって、どこにも行くつもりはないよ。牢屋に大人しく戻るだけさ」
シェレアは、男の後を追って牢屋の前へと立つと言葉通り、男は元居た場所へと戻って座り込んでいた。
「ここから逃げたいとは、思わんのか? 御主の罪がすべて消えたわけではない。もしかしたら死刑になるのかもしれんのだぞ? 御主には、何か目的があったのではないのか?」
「そのことなら、もういいんだ。それはただの、俺の身勝手なわがままだったんだ」
「我には、御主がどんな重荷を背負っているのか、想像もできん。じゃが、御主は我を助けてくれたではないか。少なくても、我は御主の味方じゃ。もし、望みがあるのなら力になってやれるかもしれん」
「それじゃあ、そのコートを一晩、貸してくれないかな」
「なんじゃと?」
「この寒さは、実は結構しんどくて。せめて、最後の夜くらい悪夢を見ることなくゆっくりと眠りたい」
男は肩をすくめて、身体を寒さで震わせていた。
シェレアは黙って赤いコートを脱ぐと、男の頭に覆い被せるように放り投げる。そして、胡坐をかいて座る男の上へと強引に腰掛けた
「お、お姫さん!?」
「寒いのであろう? こうした方がいくらかはマシであろう」
「いや、そんなことまでしてもらわなくても」
「我がここまでしてやっておるじゃ! 遠慮することなどない!」
シェレアは気丈に振舞ってはいるが、その身体は震えていた。それは寒さによってのものではない。自分の身に迫った死の恐怖が消えることなく、シェレアの心を震え上がらせていた。
そんなシェレアを男は優しく抱きしめる。
「大丈夫だよ。お姫さん。もう何も怖くない。頭を空っぽにして、目を閉じて、ひと眠りすれば、少しは楽になるから」
シェレアは男の言う通りにそっと目を閉じる。男の優しい言葉が、シェレアの不安を和らげる。
男も、自分が過去にそうされたのと同じように、シェレアを抱きしめていた。それは、男の苦しい日々の記憶の中に、ほんの僅かに残された愛情を注がれ、幸せを感じていた思い出であった。男は、そんなひと時の幸せの記憶を思い出しながら、そっと目を閉じる。
二人はそのまま、互いに身体を寄せ合いながら、深い眠りへと落ちるのであった。
「……ろ。……おきろ。……起きろぉ!!」
何者かの叫び声で、シェレアと男は目を覚ます。
二人の目の前には、男の尋問をした聖騎士のアレックスが剣先を二人に向けて、叫んでいた。
「シェレア姫! ご無事ですか!? その男に何かされたのですか!? 一体、この状況はどういうことなのですか?」
アレックスからして見れば、シェレアが男に囚われ人質にされていると思われても仕方ないかもしれない。だが、二人が穏やかに牢屋で眠りこけている状況が、まるで理解できないでいた。
「……これ、どう説明するのさ? お姫さん」
「なに、ありのままを説明するだけじゃ」
シェレアはそう言って、立ち上がり赤いコートを羽織る。ひと眠りしたことで、シェレアはいつもの調子を取り戻していた。
「アレックス。人を集めてくれ。昨晩起きた事を一通り説明する」
「いいえ、まずはわたくし達だけに、話を聴かせてちょうだい。シェレアちゃん」
地下牢には決して似つかわしくない高貴な衣装を身に纏い、人の心をも魅了してしまいそうな程の美しい金色の長い髪をした女性が現われる。
「!? こっ、これは女王陛下様!? このような場所に如何なされましたか!?」
アレックスは突然の来訪者に驚きながらも慌てて姿勢を正し、右拳を己の胸へと当て敬礼する。
この女性の名は、アシェリー・シュトレイアス。シュトレイアス王国三代目の現女王であり、シェレアの実の母である。
そのアシェリー女王の後ろには、大臣の命令で男を襲ったあの騎士の姿があった。
「大体の事情はもう聞いて知っているのだけれども、改めて、シェレアちゃんからも話を聞きたいわ。そうね。こんな息苦しいところじゃなんですから、表へ出ましょうか。当然、彼もいっしょに。手足の枷も外してあげましょうか」
「女王陛下! それはできません! 危険です!」
「危険? 彼にその気が無いのは、この状況を見れば分かることでしょう」
「……もしもの時は、私の判断で対処いたします。それでよろしいのであれば」
「ええ。構わなくってよ」
シェレア達が地上へと出ると、まだ早朝の時間であり、朝日のほのかな光が周囲の景色をうっすらと照らしていた。
そして、シェレアは事件のすべてをアシェリー女王とアレックスに説明した。
「まさか、あの大臣がそのようなことを」
アレックスは、まだ話が信じられないといった様子であった。
「大臣の部屋には、すぐに尋ねに行ったのだけれども、既にもぬけの殻だったわ。今頃はもう、国の外に逃げていてもおかしくないでしょうね。大臣には、懸賞金を懸けて手配書を周辺国に出すとしましょう」
大臣の処罰について話す中、大臣に加担していた騎士が重々しく口を開く。
「私も、どのような罰でもお受けいたします」
「まぁ、待つのじゃ。御主のことは許そうと思うておる。大臣に良いように利用されていたのは、見ておれば分かる」
「そうよねぇ。騎士の尊厳を損なわないためにも、彼は今回、この件に関わっていない。そういうことでいいんじゃないかしら。それより、問題なのは……」
皆の視線が男に集まる。
「この男の処遇についてはもう決まっておる。無罪放免、すべて水に流して我の家来とする」
「あらあら、シェレアちゃん。また随分と面白いことを言うのね」
「シェレア姫、まだそのようなことを」
そんな会話の中、男はおずおずと口を挟む。
「いや、なりませんよ? 俺」
「はっはっはっ。照れることはないのだぞ。これも何かの縁じゃ」
「これとそれとは話が別だよ。家来なんてのはお断りだって!」
「またこの流れですか」
アレックスは見たことのある光景に頭を押さえる。
「まぁまぁ、落ち着いてシェレアちゃん」
アシェリー女王は娘であるシェレアをなだめながらにっこりと微笑む。
「シェレアちゃんは随分と彼のことを気に入っているみたいね。彼もシェレアちゃんを助けてくれたのですし、このまま、独房で監禁するのも心苦しいわ。だからと言って、彼の行いに対して、お咎め無しとすることも当然できない。そこでこれよ」
アシェリー女王は一枚の紙を取り出した。そこには物品名と多額の金額が書き記されており、男が盗んだと自白した本物の資料であった。
「これは、私からの提案なのだけれど、あなたが盗んだこの金額をすべてお城で働いて返済するっていうのはどうかしら? 数か月の間、住み込みで働けば返せる額のはずよ。今は丁度、お城の働き手も不足していることですし、落としどころとしては良いアイデアじゃないかしら」
アシェリー女王の提案は、男が盗品分の金額を返済するまで、城で雇い入れるというものであった。実際、城内には侍女をはじめ、料理人や白の改築工事を請け負う建築士など多様な人材を雇っている。しかし、人を雇うには当然それなりの人件費も掛かるため、ギリギリの経費と人材でやりくりしているのが実情であった。もし、無償で働き手が増えるのならば、城にとっても有難い話であった。
「もちろん。他の使用人達と同じように、住み込みのための部屋も食事も提供するわ。どうかしら?」
アシェリー女王のこの提案をアレックスが反対する。
「女王陛下。私は賛同しかねます。このような男を城内にうろつかせるなど。何かあってからでは遅いのですよ」
「……分かりました。それで今回の騒ぎの釣り合いが取れるのでしたら」
アレックスが反対しているにもかかわらず、男はその条件を承諾する。
「な!? 待て待て待て! 私は認めんぞ!」
「アレックス。私は彼を信頼して、償いの機会を与えているのです。相手を信頼しなければ、決して相手も誠意を持って応えてはくれないでしょう」
アシェリー女王は、女王足り得るだけの寛容さを持ち合わせていた。そして、最後に微笑みながらあどけなく付け加える。
「もし何か起きても、それはそのときにでも考えましょう」
アレックスは呆れながらも、その美しいまでのアシェリー女王の微笑みに言い返す気力を失う。
「……わかりました。女王陛下がそう仰るのでしたら」
「はい、決まり。シェレアちゃんも、焦らずにゆっくりと彼のことを知っていくといいわ」
シェレアは上手いこと母のアシェリー女王に話を纏められてしまい、腑に落ちないという顔をしながらも、この意見に賛同することにする。アシェリー女王の言うように、時間をかけて男のことをもっと知ってからでも遅くはないはずである。よくよく考えてみれば、シェレアはまだ、男の名前さえ知らないのである。シェレアは改めて男へと向き直る。
「まだ、御主にはちゃんとした形で名乗っておらんかったな。我の名はシェレア・シュトレイアス。この王国の王女だ。御主の名は、なんというのじゃ?」
「……クナト。良い所の出身じゃないから、ただのクナト」
「クナト、じゃな。よし覚えたぞ。もしこの城で働く上で困ったことがあれば、我を頼るといい。何かと不便な思いもするじゃろうが、我が力になろう」
シェレアは和解の意味を込めて、握手を求めるように右手を差し出す。
「なら、お言葉に甘えて。と言いたいところけど、下手に借りをつくると後で何を言われるか分からないからなぁ」
男は、そんなことを言いながら、シェレアの好意的な態度を警戒する素振りを見せる。
「あっはっはっ! 口の減らん奴じゃな。だが、我は嫌いではないぞ」
素っ気無くあしらわれながらも、シェレアは笑って言い返す。差し出した手は引かないままであった。
「俺も、こんなに信頼されたことは無かった。家来にはなってあげられないけれど、話し相手くらいにならなれるよ」
クナトはようやく差し出されたシェレアの手を握り返す。握手をする反対の手では、シェレアの頭をポンポンッと撫でるおまけ付きであった。
「暫くの間、ヨロシク頼むよ。お姫さん」
シェレアは子供扱いされるように頭を撫でられるのだが、親しみが感じられたからなのか、不思議と嫌な気分にはならなかった。
「うむ、ヨロシク頼むぞ。クナト」
第一章 「箱入り姫と囚われの咎人」-終-
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