第3話 悪夢の森
――おかしい。
セシリアは足場の悪い山道を、息を切らして走っていた。背後にはぴったりと距離を離さず追いかけてくる魔獣の気配がある。
ちらと横目に見た限り、グール……食人鬼と言われる人型の化物だった。
この山の向こうにある巨大な川を境に、人間と魔獣の領域に分かれている。だから、普段ならはぐれの魔獣が紛れ込む程度はあれど、群れが居座ることなど無いはずだった。
だからこそ、セシリアのような少女一人でも薪集めが出来たのだ。
「はぁ、はぁ……早く逃げないと……」
セシリアが目指している場所は山頂にある騎士団の詰所だ。国境を警備する騎士たちが、数十人は詰めている筈だ。幾ら群れと言っても、本格的な装備をした騎士たちに掛かれば一たまりもない。詰所にいる騎士は、その任務の重要性から屈強な者が選ばれるのである。
ようやく、詰所の建物が見えてきたとき、セシリアの鼻に嫌な臭いが突き刺さった。
肉が焼ける臭い。
セシリアは、この臭いを知っている。
(あ……お父さんと、お母さん……)
焼ける村。貪られる人骨。曇天。煙。迫る爪。忘れていた記憶が鮮明に蘇り、セシリアに吐き気を催させる。
山頂に着いたセシリアが見たのは、尖った鼻と耳を持ったグールが、猫背で座りながら四肢を千切られた人間の頭部に齧りついている光景だった。騎士のような恰好をしていたが、鎧は壊されていた。
「あ――ああ……」
ふと、足から力が抜ける。
ああ、そうだ。
あの時も、こうして無力なまま、殺される順番を待っていたんだ。
両目から涙が溢れてくる。顎が細かく震える。下半身が暖かいモノで濡れる。
後ろから、深い爪が地面を突き刺し、一歩ずつ歩いてくる音がする。グールたちが生存を放棄した獲物を前に、舌なめずりしていた。
……グールが獲物を食べるのには、一定のルールがある。まず、グールは四匹で一つの小さい群れを成しており、その群れで獲物を狩る。そして獲物が生きたまま、右手、左手、右脚、左足の順番に千切り、その四肢を獲物に見せつけながら食べるのだ。そして、今度は達磨になった身体を本能のままに食らい尽くす。
グールは、とことんまで人間を食べることを楽しむ……そんな魔獣だった。
かつて本で読んだ知識が、セシリアに自分の末路を教えてしまった。
「やだ……やだやだ、そんな死に方したくないよぉ……」
グールに身体を掴まれる。
「いやぁ‼ は、放して……お願い、許して……」
腕に深く爪が食い込む。セシリアは半狂乱になりながら、首を振った。
グールは嗤う。
口が開き、右腕にかぶりつこうとして――その目を、炎を纏った矢が貫いた。
「……え?」
グールが顔を上げる。先ほどの矢は、急激にターンすると別の個体の喉に突き刺さり、そのまま貫通した。
矢は止まらない。
そのままぐるぐると飛び回り、残った二匹のグールは成す術もなく貫き殺された。
「セシリア! よかった、無事だったのだな」
木の上から、弓を構えたエリーゼが飛び降りて来た。指先は赤い炎で燃えている。
「エリーゼさん……」
「詰所が壊滅しているな……。あの中はもう地獄だろう。脱出するぞ、セシリア」
「でも……私、もう動けない……」
「大丈夫だ。舌を噛まないように口を閉じておけ!」
エリーゼはセシリアを軽く抱えると、来た道を引き返した。
一瞬の出来事であったが、詰所のグールたちがそれを見逃すはずがない。すぐに追っ手が来ていることは、後ろを見ていたセシリアには良く分かった。
「エリーゼさん……! どうしよう……ごめんなさい、私のせいで……」
「口を閉じておけと言った! それと、耳も塞いでおけ!」
エリーゼは足元で小さな爆発を起こした。そして、その力で自分の肉体を高く飛翔させた。炎の魔法は、エリーゼが最も得意とする属性だった。水、土、風も一通りは使えるが、やはり炎が性に合っている。
「貫け、〈地獄の猟犬(ヘレ・ヴァハフント)〉!」
一瞬だけ後ろを向いたエリーゼが、そのままの姿勢で矢を放つ。普通に考えれば、不安定で狙いも付けられない状態での発射など、馬鹿げた芸でしかない。
しかし、その矢は吸い込まれるように戦闘のグールの頭部に突き刺さった。
短い断末魔。
〈地獄の猟犬〉は矢全体を炎で包み、その軌道を自在にコントロールする魔術だ。エリーゼはコントロールのみならず加速もさせているため、その速度は騎士の最新鋭装備である『蒸気銃』にも勝るとも劣らないものにまで至っている。
着地すると、その一撃をみたセシリアの瞳に希望が戻り始めたのが分かった。
「この通り、逃げる一辺倒じゃない!」
エリーゼ勇ましく笑いながらこんな芸当を見せたのも、セシリアを安心させたかったからである。
(騎士なら……もしも私が憧れた騎士なら、か弱い女の子を不安がらせたりしない。やってみせろ、エリーゼ。今この瞬間だけは、騎士になれ……!)
しかし、例え群れが死のうが、グールの狩りは全滅するまで終わらない。それどころかグールは強い獲物の肉を貪り、その強さを自身に取り込むことを至上の喜びとしている。
逃走劇は、まだ始まったばかりだ。
エリーゼは、騎士学校時代に習った山岳での戦闘をよく思い出していた。
(多対一での戦闘……それも、こちらはセシリアを背負っているから戦闘に専念は出来ない。必要なのは足止めであり、必殺ではない。それなら……)
エリーゼは地面の小石を蹴り、掴む。そしてぎゅっと握り、強く炎を籠める。
そして、グールのいる方向に投げつけると同時に、〈地獄の猟犬〉で撃ち抜いた。
「爆ぜ散れ、〈星の十字架(シュテルン・クロイツ)〉!」
すると、グールたちの真ん中で小石が細かく爆発した。無数の棘が突き刺さり、多くがそのまま転んで行動不能になった。
〈星の十字架〉は宝石などの魔力を籠めやすい石を使う魔術である。。
今回はそのような用意は無かったため、足元に落ちていた小石を使ったが、それでもグールの群れを二つほど足止めする程度の威力はあった。
――エリーゼの目算では、あと、4匹。それぞれの群れの生き残りが、バラバラに追いかけて来ていた。このまま逃げ切ることができるか、どうか……。
「エリーゼさん、来てる!」
セシリアの絹を裂くような声と同時に、木の影から一匹のグールが襲い掛かって来た。
「SHARRR‼」
「くっ……!」
咄嗟に身体を捻ることで、直撃は避けた。しかし、矢筒が壊され、中身が全て地面に落ちてしまった。
一々拾っている余裕はなかった。幾らエリーゼが魔術に長けていても、身軽に動けても、魔獣の膂力には絶対に敵わない。捕まってしまえば、それで終わりだ。
仕留め損ねたグールは、笑い声を溢した。これでお前も終わりだ、とでも言いたげであった。
「舐めるな! 矢が無くても、弓がある!」
エリーゼはよくしなる弓を撫で、炎を纏わせた。それを剣のように扱って、グールに斬り掛かった。
エリーゼの不意打ちによって、グールは右腕を失って一度身を引いた。矢があれば追撃をして確実に仕留められたかもしれないが、無くなった物を嘆いても意味がない。
「え、エリーゼさん……これ……」
セシリアが、握り締めた矢を渡してくる。
「さっき、落ちる時に拾ったの。役に立つかな……?」
「ありがとう、セシリア!」
一本の矢。
残り三匹のグールと、死体同然の死に損ないを足止めする自信はあった。
この一本の矢を、どう使うか。
自分たちの命だけを優先するなら、矢でグールたちを足止めし、その間に逃げることも出来る。こちらに殺意を向けている魔獣を殺せるほどの余裕は無くても、逃げるだけなら可能だ。
だが……。
(マズい……街に近付きすぎた。私たちが無事に逃げおおせても、街の人がグールの犠牲になる)
騎士なら、どう行動するべきなのか……。エリーゼは己の誇りに問いかけ、決断を下した。
真上に向けて、矢を放つ。炎を纏った矢は木を超えて街に見える高さで、派手に爆発した。
「セシリア、動けるか?」
「え……うん、多分」
「すぐに街へ走って、騎士を呼んできてくれ。ここから五分も掛からないはずだ」
「え、エリーゼさんは……?」
「私はここで食い止める。奴らを街に入れさせるわけにはいかない」
「そんなの危ないよ!」
胸の中が暖かくなる感覚がした。たった一日一緒に過ごしただけの少女が、こうして自分の身を案じてくれている。なんと優しく、尊い少女だろう。
「大丈夫だ。私は強い。あんな奴らに負けはしない。さあ、手遅れになる前に早く!」
「っ……。絶対、絶対、帰ってきてね! 今日のご飯は、とっておきのフルーツが出るんだから!」
セシリアは、唇を噛んで必死に街へと走って行った。
グールたちは足を止め向き直ったエリーゼを警戒し、それぞれが木の影に隠れた。魔獣でありながら知能の高いグールは、エリーゼが今までのどの獲物よりも手強い相手であることを理解していたのだ。
だが、エリーゼの手元にあるのはぼろぼろの弓だけだ。
先程の格闘戦で、弓としての機能も棍棒としての機能も果たせなくなってしまっていた。
「どうした? 私が怖いのか?」
その程度では、臆するに値しない。
今のエリーゼの目的は、セシリアを無事に逃がし、街をグールから守る事。自分自身の命など既に考慮していなかった。
「私は、誇り高き騎士……エリーゼ・ルクスブルクだ‼」
弓に炎を纏わせ、エリーゼは疾走する。気の影から僅かに見えたグールの影に、思い切り炎の弓を叩き付けた。
「GYAAAA‼」
炎の剣と言っても差支えないほどの威力を持った一撃は、大木ごとグールの身体を両断する。
「次ッ‼」
壊れた弓のもう半分に再び炎を纏わせる。
ふと、視界が一段と暗くなった気がした。時刻のせいではない。急激に魔力を使ったせいで、身体が悲鳴を上げているのだ。
魔力とは即ち、生命力である。今までの炎は、エリーゼの命そのものだったのだ。
その様子を見たグールが、チャンスと思い木の影から飛び出してきた。
「がぁっ……!」
鉄よりも硬い爪を受け、エリーゼの身体が吹き飛ばされる。左腕から大量に流れた血が、足元に溜まりを作っている。
痛かった。泣きたかった。逃げたかった。倒れてうずくまり、みっともなく命乞いをして、苦しまずに死にたかった。
「どうした……やっと一撃か? この程度で……私を仕留められると思ったのか……?」
エリーゼは己を奮い立たせ、不敵な笑みを浮かべる。虚勢でグールたちが攻撃を躊躇い、一秒でも時間を稼げるなら、それでよかった。
エリーゼとの戦いで三匹まで数を減らしてしまったグールたちも、ぼろぼろの身体から血を流してなお膝を折らない彼女の異様な眼光に、恐怖を覚えた。
「やってみろ……殺してみせろ、私を……‼」
一歩ずつ、歩む。
もはや完全に弓は壊れ、攻撃をかわす力もないだろう。
グールは恐れを押し殺し、エリーゼに爪を突き立てる。死が、目の前まで迫っていた。
(ああ……怖いな……死にたくないな……。騎士に……なれたかな、私は)
その爪が、彼女の頭部に突き刺さる――その、刹那。
真上から降って来た刃が、その腕を斬り落とす。
「よくぞ耐えてくれた。エリーゼ殿に感謝と尊敬を」
その剣を握っているのは、煌びやかな軍服を纏ったルドルフであった。
ルドルフはグールの首を掴み、そのまま握り潰した。人間とは比べ物にならない力を持ち魔獣の喉を、片手で潰したのだ。
「そして……お前たちに静寂を送ろう」
エリーゼの視界に映ったのは、音速に等しい剣戟で一瞬の内にばらばら解体される、グールたちの姿であった。
その技、立ち振る舞い、全てがエリーゼの憧れる騎士そのものだった。
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