きみが生きてることは知ってた

 二十四歳になったいま、むかしの恋人と呼べるひとはきみのほかに三人いる。だけど、きみなんていう二人称で思い出すのはやっぱりきみのことだけで、淡い初恋なんて言葉では片づかないなにかがある気がしていた。

 キスくらいしとけば良かったなぁって思うのは、未練っていうよりパラレルワールドへの興味みたいなもの。なんにしてもあのころは親の目が気になったし、恋人ごっこの恥ずかしさもあったし、遠くに遊びにいくときに手をつなぐくらいがやっとだった。度胸があればね、なんて言ったってしかたないか。


 わたしたちが初めて会ったのは小学校の教室だった。ただのクラスメイトから関係が変わったのは三年生、わたしたちの母がそろってバザー委員になったときだ。

 母たちはどういうわけか意気投合し、互いの家を行き来するようになった。きみのお母さんはお洒落な人で、古ぼけた私の家には似合わない素敵な洋菓子をよく持ってきてくれた。フィナンシェ、サブレ、マカロン。わたしはリボンのかかった箱から、お菓子の名前をたくさん知った。

 きみはお母さんにぜんぜん似ていなかった。わたしが知るかぎり、似ていたときなんて一度もない。

 わたしはきみに手を引かれて公園を駆け回った。ぶらんこの立ち漕ぎも木登りもきみに教わった。きみはいつも日焼けしていて、男子のなかではヒーローだったけど女子にはちょっとばかにされていて、服を汚しては怒られ、ビオトープの池に落ち、毎日一回は先生に怒鳴られていた。

 そんなきみが高学年になったら塾に行き、名門といわれる中高一貫の学校に進んだのは、お母さんの影響なのかな。それとも、お医者さんだっていうお父さんの希望だったのかな。

 わたしたちは違う時間に家を出て、違う学校に通うようになった。母たちは相変わらず互いの家に上がりこんで喋りまくっていたけれど、きみはついてこなくなった。わたしも、めったに行かなかった。

 わたしにとってきみは、たまに挨拶をするだけの相手になった。小学校を卒業してから二センチしか背が伸びなかったわたしと違って、きみは若木のように育っていった。かしこそうな男の子にになっていくのが、すこし寂しかったのを覚えている。

 そうしてわたしたちはそれぞれおとなに近づいて、たぶん同時に、恋の味を知りたくなった。


 高校生になった年、梅雨明けの、燃えさかるような夕暮れどきに、わたしはきみに呼び止められた。

 きみが最初になんて言ったかは忘れた。懐かしかった気持ちだけを覚えている。わたしたちは子どものいなくなった公園でたわいもない話をして、真っ暗になる直前に、きみがわたしに好きだと言った。わたしも、きみと付き合いたいって言った。

 わたしときみが遊びにいけば、母たちには簡単にわかってしまう。だから友達みたいなふりをして、親が安心しそうな、まじめな場所にばかり行った。図書館、博物館、オープンキャンパス。でも、きみは第一志望を最後まで言わなかったね。


 きみは遠くの大学に行った。進学先をきいたのはわたしの卒業式の日で、わたしは隠されていたことに怒ってきみをふった。言い返してもらえると思ってたのに、きみはだまったままだった。

 わたしたちは他人になって、きみがなにをしているかなんてもう知りようがない。帰省してくるきみを見かけることも、わたしが短大を出てひとり暮らしを始めてからはずいぶん減った。きみにも、違う恋人がいたことはあるのかな。わたしは三回告白されて三回ふられたよ。恋って難しいね。


 元気にしてるかなって思うことはときどきあって、だけど母には訊きづらくて。さすがに死んだら連絡来るよねって納得して、同じ空の下のどこかできみが生きているんだろうなって想像していた。それで、たまにきみの出てくる夢をみた。


 だからかな。告白された日とおなじ、世界の終わりみたいに燃える夕焼けのなかにきみを見つけても、現実だとは思えない。


 大人の顔したきみがわたしを見る。なにごともなかったみたいに挨拶をする。こたえられない。雪どけのように過去があふれた。図書館での耳打ち、電車で二時間かかる博物館でつないだ手。想うと、熱くて甘くて痛い。


 きみが首をかしげて、わたしの名前を呼んだ。

 想像のなかのきみじゃなくて、わたしの知らない時間を生きてきた、ほんもののきみ。

 あぁ、だめだ。ただの友達みたいな顔をつくるまで、ちょっとだけ待って。

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