午前三時、宿の入り口の広間には、橙色の常夜灯だけが点いている。昼に満ちていた管弦の音色とひとびとのざわめきは絶え、硝子がらす製の豪奢ごうしゃな照明も眠りのなかだ。わずかな光に濡れる大理石の床を静かに踏む。父のいびきと母の歯ぎしりから解放された耳に冷えた夜気がやさしい。あれでも両親は、この旅行をわたしの気晴らしのためだと信じているのだ。もう二年早く生まれていれば何もかもが違っただろうにと唇を噛む。

 誰もいないという予想に反して、布張りの長椅子にうつむく人影があった。それなりに若そうで、でも十分に大人だと思われる女性だった。わたしと違ってひとりですべてを決められる年齢。波打つ髪が胸にかかっている。飾り気のない服装。だが乏しいあかりのもとでも高価な品とわかる。

 彼女がわたしに気付く。物思いの海から上がるように、ゆるやかに顔がこちらを向く。磨きあげられた大理石よりも彼女の瞳のほうが強く光った。

「あなたも眠れずにいらっしゃるの?」

「そんなところです」

 肩をすぼめてみせると淡いほほえみを返された。

「ここはとても平和ですのに。どうしてかしら」

「だからこそ、ではないですか」

 眠れない夜を身ひとつで出歩ける。通りと硝子一枚で隔てられた広間で、物盗りにも強姦にも遭わず、命あるまま夜明けを迎えられると信じられる。世界がどうあれわたしの周囲では日常が続いていた。わたしもささいな喜びを感じ、相も変わらずつまらないことに腹を立てる。

 ここは、とても平和だ。けれど国境をいくつか越えれば、もう違う。

「その通りね。渦中にあれば無力を嘆く暇もないでしょう」

「……また、激しい戦闘があったようですね」

「えぇ。聞いたわ。どうして人はこうなのかしら。悲しむことしかできないわたくしという人間も、おなじように悲しい」

「悲しいですか、お優しいんですね」

「あなたは違いますのね」

「わたしは、怒りを感じます。かの国の暴挙にも、指をくわえて見ているだけのわたし自身にも。成人さえしていればこんなところで呆けてなどいなかったのに。微力でいいから世界を正す力になりたかったんです。親が許してくれませんが、本当は今すぐにでも戦場に飛んでいきたいくらいで」

「勇ましいわ。正しさを信じてらっしゃるのね。でも、銃をとる者はみな、おのれの正義を信じていますのよ」

「非道を許せというのですか」

「いいえ。けっして」

「ではどうせよと」

「答えがあるならば、わたくしこそ知りたいわ」

 彼女は服の裾をつまんで、片足をわたしに見せた。折れそうに細い足首にまろやかな甲。履いているのは皮革工芸のすいとでも呼べそうな、技巧をこらした靴だった。

「わたくしには、特別お気に入りの靴がありますの。雪のように白い絹を張って、銀の糸で草花模様を施して、それはそれは美しいのです。汚してしまうのがこわくて一度も外で履いたことがないのですけれど、手に入れた晩には抱いて眠ったほど、愛しく思っていたわ。それを作ったのは、あの……今は名を出すこともはばかられる、あの国の職人たちなのです。会ったことがあるのは型をとりに来たひとりだけなのだけど、彼は暮らす村の話をよくしてくれました。豊かな自然、日々の暮らし、愛する人々……いつか訪れたいと思うほど、魅力的でしたのよ。戦争のことを耳にして、真っ先に浮かんだのは靴のこと、そして彼の顔と声だったわ」

 彼女が服から手を離す。裾はかすかな音をたてて落ちた。

「わたくしが知っているのはたった一足の靴。されど、憎しみを叫ばれるたびにその記憶が軋んで痛むの。ねぇあなた、わたくしにも罪があるとお思いになる?」

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