あじさい記念日

 妻はゆったりとミュシャの画集をめくっている。居間のスピーカーからは『愛の挨拶』がエンドレスで流れていて、いくらなんでも狙いすぎではないか。

 震えそうになる手を抑えて絞り袋を操る。ブルーベリーで色をつけたクリームがチーズムースのドームを紫陽花に変えていく。食べ物で遊んではならないとはいうが、料理も製菓も突き詰めればアートになってしまう。そんな謎は置いておいて、妻から「食べるのもったいなーい!」を頂戴すべく微妙に色合いを変えたクリームを手に取る。こちらはブルーベリーに加えて少しラズベリーを入れた。ほんの僅かの差が立体感を生むのだからバカにできない。

 さて、紫陽花が咲いた。二つあるのは自分が食べたいわけではなく、手が滑ったとき用の予備だ。どのみち妻と一緒に食べることになるのだから言い訳じみてはいるが。

 最後にゼラチンで雨露を落とす。ぷっくりと膨らんだ雫がキッチンの光を集めてきらめく。いったん冷蔵庫に入れて道具を洗った。


七美ななみ、紅茶とコーヒーどっちがいい」

 問えば妻は満点の笑みで振り向く。

「今日はなんのケーキ?」

「チーズムース。ベリーソース入り」

「んんー、悩むなぁ。でも紅茶で! ストレートがいいな」

「了解」


 カップとソーサー、ティーポットを揃える。我が家ではどんなケーキにも合うように、お茶の時間用の食器は白で統一してある。

 ダージリンの缶を出してこちらも休憩とした。程よく冷えるまではお預けだ。

 ソファで小説の続きを読む。会話のないまま空気を共有できる時間は好きだった。干渉はないけれど繋がっていられる。


 章の区切りまで来たところで紅茶を淹れる。ポットはきちんと温めてからだ。熱々のお湯をたっぷりと注ぐ。ケーキを冷蔵庫から出して、金のふちどりのあるお皿に乗せた。

「さ、出来たよ」

 妻は音楽を止める。静かになったテーブルにティーセットと二つの紫陽花が並ぶ。紅茶は鮮やかに湯気を立てた。

「アジサイかぁ。なつかしいね。露まで飾っちゃって」

 にやりとして妻が言う。何を隠そう、私は視界を埋める紫陽花の中で七美に告白したのだった。お世辞にも上手い口説き方とは言えなかったが、しとしと降る雨と相合傘、重たげに咲く紫陽花は雰囲気として最高だった。

「初めての結婚記念日だからさ、初心を思い出そうってことで」

「ある意味はじまりの日だったもんね。家族へ至る道のきっかけ」

「そういうこと」

 妻が銀のフォークを手に取る。神妙に。

「では、頂戴します! もったいないけど!」

 言いつつも動きに躊躇はない。こちらとしても冷たいうちに食べてもらった方が嬉しいので文句もない。同じようにフォークを取る。


 クリームの花飾りの下は空気をたっぷりと含んだムースだ。クリームチーズを使っても軽くなるように仕上げた。これなら上のベリークリームが負けない。土台にはタルト生地を敷いて香ばしさと食感を足してある。

「さっすが……夫婦だろうがなんだろうがお金払いたくなりますって」

 頬が落ちるとでも言わんばかりに左手で押さえてみせる。実際、表情はとろんとして今にも溶けてしまいそうだ。これだからやめられない。妻のフォークが中心部に至り、白いムースから濃い紫のソースが現れる。

「あ、ソースに到達した。良い色よねこれも。ラスベリー? ブルーベリー? クランベリー?」

「ラズベリーとブルーベリー。合わせてある」

「これが黄金比ってやつでしょうかね……」

 ため息と共に紅茶を含む。こっちは妻の可愛さで溶けそうなのだが。


 あっさりと完食して、妻はフォークを持ったまま手を合わせた。

「ごちそうさま! 今年もよろしく!」

「新年かよ」

「だってそうじゃん」

「そうなんですが」


 妻はごきげんに立ち上がり、お皿を洗ってくれた。その水音の中で何気なく口が開かれる。

「そういえばね」

「どうかした?」

「二年目にしてさっそくなのですが、家族が増えるみたいですよ」

「……え、それって」

「うん。赤ちゃん」

 皿を拭こうと持ったフキンを取り落とす。

「そういうことはもっと早く言ってよ。あるじゃん、気を付けること。アルコールとかさぁ」

「だってわたしが一滴も飲めないの知ってるじゃん。使うわけないじゃん」

「スパイスとかさぁ」

「いつもそんなに使わないじゃん」


 信頼されているというか色々読まれているというか、結局強いのは妻なのだった。手からお皿を取り上げる。

「なら身体は大事にしなきゃな。座ってなさい」

 負け惜しみ気味に居間へと追い払った。プレゼント勝負は負けもいいところだ。


 それでも楽しげにまた画集を開く背中を愛しく思う。今日からは、二人分なのだし。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る