若鮎

 真夏の京都は雅やかなんてものじゃなく、せいぜい文化豊かな鉄板ってところだった。白川沿いの柳も晴天のもとでは褪せて見える。浅くたおやかな川は、常識的な気温であれば風流なのだろう。今は涼を感じるにもいくぶん足りない。デートなら中心部でお茶でもしていれば良かったのに、せっかくだからと寺巡りを始めてしまうのが観光客の悲しさである。

 僕も彼女も汗を気にする余裕なんてなかった。むしろこの状況で汗が出なくなったら死を危惧するレベルの熱中症だ。ペットボトルからぬるい水を喉に流し込む。


「あ、ナオくん。和菓子屋さんがあるよ」


 オアシスでも見つけたように彼女が叫んだ。古い木造の建物は影のように暗い色をしていて、いかにも気温が低そうだった。水ようかんと書かれた旗がのんびりと揺れている。

 逃げ込むように引き戸を開けたものの、思ったほど涼しくはなかった。クーラーはほとんど効いていない。昭和生まれであろうオンボロの扇風機が首を振り振り空気をかき混ぜていた。店内にはショウウィンドウがひとつあるきりだ。上生菓子が三種類と羊羹その他の贈答品がいくつか。それから赤飯が並んでいる。洒落た店であればガラス越しに工房が見えたりもするのだろうが、店の奥には藍染の暖簾が引っかかっているだけだ。

 とりたてて珍しいものもない。出づらくなる前にと戸を振り向くと、彼女は出口近くに設えられた籠をじっと見つめていた。透明フィルムに包まれているのは細長い魚をかたどった菓子だ。どら焼きのような質感の表面に、あっさりとした表情の目と胸びれが焼きごてで描かれている。

「買う?」

「うん、そうしようかな」

 正直な所、僕はその菓子に大した魅力は感じなかった。暑すぎてかき氷以外には興味が持てなかったともいえるけれど。



<゜)))彡


 やっと冷静になれたのは、ホテルの部屋に帰ってからだった。買い直した冷たいミネラルウォーターを各々一本ずつ空ける。それから早めのシャワーを浴びた。さらに備え付けの緑茶を淹れたところでようやく、彼女の鞄の中にいた魚型の菓子が日の目をみた。丈夫なのか大事に運んだためか、魚の顔はゆがんでいなかった。


「ところでこれ、何?」

若鮎わかあゆ。わたしも食べるのは二回目。でも素敵な名前じゃない?」

「へぇ、これ鮎なんだ」

「だから夏しか食べられないの」


 包装をはがして表面に触れる。しっとりとした肌はやはりどら焼きに似ていた。


「中身はあんこ?」

「ううん、たぶん求肥だと思う。地域によってはあんこの場合もあるらしいけど。京都のは確か求肥」

「あんみつとかに入ってるもちもちしたのだっけ、求肥。合うの?」

「質問ばっかりしてないで食べたらいいじゃない」


 彼女は鮎をつまみあげる。僕もならった。以外にも密度があるらしく、想像よりもずっしりと感じる。彼女はしっぽから、僕は頭からかじった。皮はふわりと、中はもっちりと歯ごたえがある。焼目の香ばしさに続いて卵の入った生地の優しい甘さが広がった。求肥は噛むほどに甘く、最後まで食感を楽しめる。シンプルで無駄がない。求肥のつるっとした質感のせいか涼やかさもあった。素朴な菓子が好きな彼女らしい選択といえる。


「んー、懐かしいなぁ」

「前に食べたの、いつ?」

「家族旅行かな。大昔だよ。中学生とか」

「優雅じゃん、家族で京都とか」

「そうでもないよ。妹と父親がお寺の境内で走ってお坊さんに怒られたり、雨だからってマンガミュージアムに一日中いたり。最高だったのは電車で琵琶湖まで行ったことかな。完全に海だと思った。地元の人ばっかりのバスで移動して、鮎のつかみ取りをしたんだ。捕まえちゃったら全部買い取りなの。で、父親が五匹も捕まえて母親に怒られてた」

「最高」

「ね。明日の行先、さ」


 どちらから言うでもなく、翌日の予定は決まった。



<゜)))彡


 京都駅でビーチサンダルと安い短パンを買った。琵琶湖線に長々と揺られ、バスに乗り換える。昭和が強く匂うその施設は、炎暑にも関わらず家族連れでにぎわっていた。幼い子どもが多い中で僕らは浮いている。上流と下流を網で仕切った鮎つかみ用の水路は浅く、日差しがコンクリートと丸石で整えられた川底に水紋を映す。ペラペラのビーチサンダルに履き替えて水に入った。

 彼女は眩しく白い脚を惜しげもなく晒してしぶきを上げる。もともと運動神経は悪くないはずだ。子どもたちの全力の動きと比べても遜色はない。やがて隅の方へ追いやった鮎を掴みあげた。滴がきらきらと水面へ落ちる。子どもみたいに歯を見せて、自慢のように僕へ掲げてみせる。


「ナオくん、ほら、つかまえた!」

「すごいなぁ、僕は全然だよ」

「鮎ってスイカの匂いがするんだって」

「本当に?」


 彼女は両手で握った鮎の腹に鼻を近づける。目を丸くして、頷きながらこちらにも押し付けてきた。ぬるりとした魚の肌があまりに近い。意を決して息を吸い込む。かすかに瓜のような爽やかな香りがした。ちょうどキュウリとスイカの間のような。


「あ……するね」

「ん? もしかしてナオくん、魚苦手?」

「ばれたか。魚屋で売ってるのならなんとかなんだけど、生きてるのはちょっと怖い」

「じゃぁ、わたしがもう一匹とってくるね。一緒に塩焼き頼もう」


 あまりに頼もしくて頬が緩んでしまう。また水をざぶざぶと踏み分けていくのを眺める。次の鮎のしっぽを彼女が掴むまで、長くはかからなかった。


「さーて、次はお楽しみの塩焼きだね」

「僕は全く活躍できなかったなぁ」

「いいじゃん、魚はわたし担当で」

「ありがたく頂戴しますよ」


 焼くのは施設職員の役割だ。テーブルの並ぶ広場で運ばれてくるのを待つ。子どもたちの声が賑やかだった。


「家族で来たら楽しいだろうな。将来さ、あっ。いや」

「え、何々」

「いや駄目だって」

「もしかしてー? もしかしてプ……から始まるアレですかぁ?」

「やめろ、それだけは勘弁してくれ!」


 茶化す彼女の前に、鮎の皿が置かれた。僕の方にも。


「ほら、来たし。話やめて食べなよ」


 パリパリになった皮には程よく振られた塩の結晶が残り、身はふんわりほろりと旨味にあふれる。それどころじゃない気持ちはいったん脇に置いておいて、まずは彼女の戦利品を味わった。

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