魂魄資源の保護にご協力ください! 再使用の基準に満たないものは洗浄後、リサイクル用として回収します。焼却は汚れが落ちない場合のみの受付です。
個室のドアが閉まる音を背後に聞きながら、固くざらついた蛇口をひねる。陶製の古いシンクが青白い蛍光ランプを鈍く映している。廊下の避難誘導灯が足元のタイルを緑に染めていた。キンと冷えた水が手の甲を転がるように流れていく。違和感。
濡れたままの指で髪を梳いて正面を向いた。少女がいた。長く伸ばした黒髪をざらりと冬物のセーラー服の肩に落とし、虚ろな目でこちらを見ている。
心臓に掴まれるような痛みを感じたのは一瞬。何のことはない。鏡に映った自分、血の気のない顔を怯えで曇らせた私だった。指を頬に走らせる。すべらかな肌がやはり気になってしまう。
私、わたし。不満こそあれずっと付き合ってきた己の容姿。何がこんなに引っかかるのか。
ふいに子供の笑い声がした。あざけるみたいな、耳に触る声だった。
「愉快ね、早速ご自身を見失っているのね」
「誰」
「あたしはしがないリサイクル業者。ちなみに容姿はあなたの記憶の中の要素から合成させてもらってる。気にくわないならご自分の人生を悔いることね」
薄暗い廊下に女の子が立っていた。猫っ毛をポニーテールに纏め、ピアノの発表会にでも行きそうなパールホワイトのドレスを着ている。迷子だろうか。
「ごめんね、私よくわからない。誰か他の大人のひとにきいてくれる?」
「色々飛んでるみたいね。手数が減って大助かりだわ。とはいえ説明はめんどくさいなァ」
女の子はやけに年寄臭い動作で首をすくめた。
「率直に申し上げると、あなたってもう死んでるの。しかもね、七十近くまで生きたあとに。その様子を見ると全部忘れたみたいだけど。舞台設定だけはあなたの死んだ病院なの、可笑しいわ」
「回りくどく言われるとイライラする。ちゃんと説明した方が面倒じゃないでしょ」
「そういうところ、嫌いじゃないんだけどね。わかったわ。でも、歩きながら話す。時間は限られているの」
果ての見えない廊下の先へ、彼女は歩き出す。小走りに追いつつ訊く。
「名前。なんて呼べばいい?」
「変なこときくのね。ハコでいいわ。葉っぱの葉に、子供の子。意味はこれで合ってる」
「ハコちゃんは私に何をしてほしいの?」
「ちゃんは要らない。本当にしてほしかったことは、もう断られちゃったの。
「魂魄って、たましいのことでしょう? そんなの同意する人いるの?」
「本来ならみんなする。製造段階でプログラムされているから。サインが必要なのは生きている間に破損した魂魄を弾くため。瑕疵がある場合は洗浄したのちリサイクルに出されるわ。よほど酷いものは記憶が落ち切らなくて焼却になる。資源が不足している昨今のこと、可能であれば避けたいけれど」
「自分がなくなるのって、怖いよ。生きている人間が死にたくないのもそういうことじゃないの」
「生きるってのはある意味執着そのものだからね。死んだらまた別の話」
「私のまま消えられるんなら、焼却も悪くない気がするけど」
「焼却炉すなわち地獄よ? 簡単に半世紀分も記憶吹き飛ばしたあなたに耐えられるかしら」
ハコは立ち止まると、扉の一つをガラリと開けた。意外なことに和室だった。
明るく、甘ったるい香りがした。床にオレンジ色の果実が所狭しと転がっている。球というには歪なそれを私はよく知っている。
「枇杷……嫌いだった。おじいちゃんがいつも送ってきてた」
「中途半端な甘さも、種ばっかりで食べづらいことも、指がべたつくのも嫌いだったんでしょう。知ってるわ。こうやって記憶を辿ることであなたを洗い流すのよ」
子供の頃は嫌いだった。祖父が亡くなってからは不思議と懐かしさで手に取るようになった。味は相変わらず好きになれなかったのに。
思い出せば思い出すほど、感情が遠くなる。指をすり抜けていく記憶に足がすくんだ。
「嫌だ、行きたくない……忘れたくない」
「消えるから意味がないなんてことないわ。失われる生が無意味なら、手間をかけてまで魂を地上に送る意味がない」
手首をつかまれて部屋を横切った。突き当たりに襖。目をつむる。見たくなんて、ない。
「さァ、次の部屋よ。目は開きたくないの? でも耳は塞げないわね。鼻も」
波の音が聞こえる。潮の香りも。海のない町に生まれて、深い思い出なんかないはずなのに。手を添えて椅子に掛けさせられた。右掌に金属の手触り。
瞼をおそるおそる開く。状況がわからないのにされるがままなのはもっと怖くて。
白い部屋だった。窓のない、四畳半ほどの真四角の部屋だ。どこに投影機があるのか、いちめんに南の海の映像がうつし出されている。生成のクロスのテーブルに、ガラスの器。ふるりと揺れる海があった。握らされたスプーンがひとりでに動き、器の中の水面を掬う。
覚えていた。青色X号と黄色X号でつくるエメラルドグリーンとマリンブルーのグラデーション。ゆるく固めたゼリー。
舌に苦いような塩味が広がる。あの頃はバカで、味付けまで海にしたものだから。
「海に行きたかった夏があったの。親が許してくれなくて、かわりにみんなでこれを作った。いちばん輝かしかったころ……」
「悲しいね。あとの人生にだって愛も成功もあったろうに」
「あったよ。でも歳をとると慣れたり擦り切れてしまったりするから、痛くて青かった頃が輝かしく思えるんだ、きっと」
「あなたの魂はまた別の輝きを宿すことになるわね。どう、覚悟はできた?」
「諦めかもしれないけど」
「いいわ。次は最後の部屋よ」
そこは目の痛くなるような真紅の部屋だった。ザァザァと雑音が聞こえる。
「赤い。血みたいだ」
「正解。あなたの魂の原初の記憶。母親の血の巡る音。色は単なるイメージだけど。還りたいと思ったこともあったんじゃないかしら」
「何でも知ってる癖によく言うね。消えたい死にたいって言ってたこともあるよ。恥ずかしながら」
「それでいいの。始まりがあれば終わりを想像するのは当たり前のこと。過程が苦しければ、始まる前と終わった後に希望を抱いてしまうのも」
ゆっくりと私という存在が遠くなる。心地よい眠りに落ちる瞬間に似て、終わりはやってきた。
「お疲れ様――さん。おかえりなさい」
その名前も、もうわからない。
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