習作
クリスマスにはケーキを
上京して初めての冬、彼女と出会った。都会の歩き方を知っている東京生まれの彼女は、すこし得意げに僕を連れ回した。小洒落た店ばかりが詰め込まれたショッピングモール、気取ったレストラン、隅々まで整った公園。豊かな書籍を抱えた本屋、各国の名作を並べた美術館、多彩な公演を連日用意した劇場。圧倒されるばかりで、自主休講の目立つ大学の授業なんかよりずっと頭を使った。人の多さと情報の多さ。地図上ではあくまで小さなエリアにすぎないくせに、この国のかなりの部分が詰め込まれているわけだ。
クリスマスデートで入ったケーキ屋は、地元のそれと同じ名で呼ぶのが憚られるほど洗練されていた。ショウウィンドウには小さく、飾り気なく、しかし完成されたケーキが並んでいる。フランス仕込みらしく、ショコラやらシトロンやら、気後れしそうな名前が付いている。ケーキじゃなくてガトー。
彼女の勧めで、イチゴのタルトを頼んだ。その名もタルト・オ・フレーズ。所狭しと載ったイチゴはスーパーに並ぶものの半分くらいの大きさで、ツヤ出しの液を塗られて宝石のように光っていた。フォークを入れると思いのほか硬く、野菜でも切っているようだった。イチゴは酸味が勝って、表面のコーティングのなめらかさが包む。タルトはあくまでさっくりと、湿気のかけらもない。アーモンド粉がたっぷりと含まれた生地が薄いタルト地に充填され、イチゴの酸味と絡み合う。
いっさいの雑味がない。よほどの顔をしていたのだろう、彼女が吹き出した。そんなに気に入ったならまた来ましょう。言ってまた笑った。
彼女の言葉に嘘はなかった。狙っていたのだろうか、いつもクリスマスの時期にその店を訪れた。頼むのは決まってタルト・オ・フレーズ。ほかのケーキに惹かれはしたけれど、あのシンプルで爽やかな味が忘れられなかったのだ。都会に住んだ数年で、美味いものもそうでもないものも沢山食べた。ある意味、一年にいちど戻る故郷のような存在になりつつあった。彼女がとなりにいることも当たり前になってしまって、それがいけなかったのだろう。ささいなことで喧嘩をした。その根は深く、消えないささくれを残して僕らは別れた。夏のことだ。
今年のクリスマスイブは祝日だった。新しい恋人どころか今日の予定もない。行くあてもなく、ふらふらと電車に乗る。足を止めて苦笑した。あのケーキ屋だった。ショウウィンドウには変わらずとりどりの宝石めいたケーキがある。さすがに、イチゴのタルトを頼む気はしない。当初は大人の、都会の味だと信じていたが、さわやかな甘酸っぱさは思い出を差し引いても初恋の味めいている。悩んだ末に、茶色い地層を持つチョコレートケーキを指差した。いちばん地味だったから。
ひとりで席に座ってフォークを突き立てる。口に含めば存外苦く、洋酒がふんわりと香った。やわらかなスポンジにも軽やかなクリームにも濃いチョコレートと思わせぶりな洋酒がふんだんに使われている。甘いばかりじゃないのがきっと人生ってやつで、酒のせいでなく酔いそうなほどうっとりさせられたくせにもう二度と頼まないだろうと思った。
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