10.黒板・購買・遅刻(修辞技法山盛り)
胸の底をじりじりと焼かれる。走れど走れど目的地は近づかない。力の入らない手足、柔らかすぎる地面。時間ばかりが過ぎていく。これでは遅刻だ。だというのに道は頭に入っていなくて、たどり着ける気なんてしない。息ができない。
「美帆子さん」
涼やかな声に呼ばれた。肩に触れられる。そこでようやく、私はどこに向かうでもなく畳の上に寝転んでいることに気づく。いつの間に眠っていたのか。窓だけは閉めていて、恐ろしいほどの寒さではないのが幸いだった。真っさらな布団を使うのはしのびなくて、かえってだらしのない恰好になってしまっている。手の甲で唇の端に触れる。涎が垂れていては恥ずかしいと思ったけれど、口元は乾いていた。
「眠ってらしたのね。お布団、使ってくれればよかったのに。風邪をひくわ」
くすり、と語尾は笑いに溶ける。
「お夕食の準備ができましたよ。食べられそう?」
うなずく。意識がはっきりしてくれば痛いほどの空腹だった。当たり前かもしれない、あれだけ歩いたのだから。夜のとばりがおりて、お屋敷はひんやりと静まっている。廊下には明かりが少なく、艶やかな床板が水のようだった。襖の先に現れた部屋に、三人分のお膳がある。漆の黒に、陶器の白。鮮やかな料理は素人目にも凝ったものとわかる。ふと横を見ると小振りのイーゼルに黒板が乗っていて、料理の名前が並んでいる。洒落たカフェかと見まごう。食材の名前さえ私にはわからないものが多いけれど、きっと旬の素材ばかりだ。
「いただきましょうか」
手を合わせてはじまった食事は何もかも端正だった。無駄のない手の動き、よどみない箸づかい、食器は決して音を立てない。あまりに気を遣ってがちがちになっている私に、緊張しなくていいのよと声をかけるほどの余裕。それからおもむろに始まるお喋り。ぼそぼそと交わされるのは明らかに昨日までの続きであり、食べることに神経を使いすぎた私には理解できない。
「隣村の……をついに譲り受けることになってな」
「あぁ、村田のおばあさま、娘夫婦と住むっておっしゃってましたものね」
「結局継ぐ人はいなかったわけだ」
「街の人には理解もできないんでしょうよ」
「表層の情報だけで購買意欲をかきたてるんじゃ、いつか飽きられると思うんだがなぁ」
「飽きられたらまた別の戦略を練るんでしょ。中身をどうにかしないで」
「あんまりぴりぴりするもんじゃないよ。お客様もいらしているんだ」
「そうね……ありがとう」
けれど奥さんはため息をこぼす。
「ごめんね、美帆子さん。私たちの愛するものは、あんまり理解されないから。たまにむなしくなるの。でも、だからきっと愛してやまないのよ、私たち」
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