逃げ出した勇者
実は一度、逃げ出そうとしたこともある。
あれは、魔物の群れに追われたときだった。思い返せば数ヶ月前、僕らはそうとは知らず、魔王の居城にかなり近づいていた。
森は深い、魔物は強い、数も多い。足場は悪い、視界も最悪。
やけくそ気味に剣を振り回して魔物と木をなぎ倒しながら、僕は逃げ回った。逃げて、逃げて……逃げ回っているうちに、皆とはぐれて迷子になってしまった。
剣戟も聞こえない。仲間の声も聞こえない。鳥の鳴き声すら聞こえない。
聞こえるのは、自分の足音と心臓の音だけ。
魔物の群れを振り切ってから、数時間。
しんと静まり返った森をあてもなく彷徨い歩いていた僕は、突然思ったのだ。
(もう、家に帰ろう!)
もちろん、方角なんてこんな鬱蒼とした森の中ではよくわからない。それでも、わずかな傾斜を頼りにすればきっと森からどこかには出られる。どこかに出られれば、どこかにも行けるだろう。ここではない、もう少しましな場所へ。
森を出たら家に帰ろう……と、そのときの僕は本気で考えていた。
大体、荷が重いのだ。僕は両親を早くに亡くして、一人で村の畑を耕しているだけの農夫だったんだ。こんな、立ち木でも岩でもばっさばっさ切れてしまうような危ない剣を振り回して魔王を倒さなきゃいけないなんて、一体誰が決めたっていうんだ。
いいじゃないか、別に僕じゃなくたって。他の人がこの剣を握ったところで藁一本、葉っぱ一枚切れないという事実はあるにしても。もしかすると、もっと度胸の据わった誰かが僕と同じように剣に選ばれるかもしれないじゃないか!
僕がこの剣を使って木こりにでもなったほうが、いっそ平和じゃないか!
「もういい、帰る! 家に帰る!」
どうせ誰も聞いていないのだ。僕は半泣きで叫んでいた。
「僕じゃなくたっていいだろ! やだよもう!」
「こらー! そういう情けないこと言ってる勇者はどこだーっ!!」
……彼女に発見された。反射的に逃げだしてしばらく走り続け、こぶし二つ分ほど出っ張っていたごっつい木の根に足を取られてすっ転んでようやく止まった。
僕を捕まえた彼女は、ものすごくほっとした顔をしていたと思う。一瞬だけ。
次の瞬間、ものすごく剣呑な冷めた目つきで言い放つ。
「今、逃げようとしたでしょ」
「あ、あ、あう」
言い訳もできず、僕はひたすらどもる。
「罰として素振り三千回!」
「ええっ!? むむむ無理無理、無理ですできませんごめんなさいっ!」
「じゃ、おまけしてあげる」
泣きついた僕に、彼女はにっこり笑って。
「素振り五千回。今回だけ特別よ? 感謝してね?」
……それ以上言い訳すると一万回になりそうだった。仲間の待つ場所まで連れ戻されキャンプ地に落ち着いてから、僕は心の中で血の涙を流しながら素振りを始めた。
結局、夜半過ぎまで剣を振り、へとへとになったところで勘弁してもらえた。
あれは辛かった……物事から(彼女の前では特に)逃げまいと、固く誓った瞬間だった。
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