第32話 相武マイラ

 そして、後日。

 会社のシナリオライター用に割り当てられた個室の前に僕は立っていた。名前札を見て、直見さんがいるのは確認済みだ。

 小野寺さんたちは作業中で、今日は黒江ちゃんは来ていない。

 コンコンコン、ノックして話ができないか用件を告げるが、答えは聞くまでもなく、

「執筆中だから後にしてくれないかしら」

 身がすくむような冷たい返事。

 直見さんは他者の介入を望んでいない。わかっているが、あえてもう一歩踏み入る。

「マリ恋とブレブレ、プレイしたよ」

「……」

「前までは相武マイラさんて人がシナリオ書いてたんだね。とても面白かったよ。まるで今の直見さんが書いているみたいに」

 ここ数日で、ゲームをやりこみ、本を読み込み、その比較に時間を費やした結果、早坂くんの言葉が正しいことが確認できた。

 二人のテキスト、特にゲームの方は区別がつかない程似通っていた。細かい文章の癖から話の運びまで。

「……」

 肯定も否定もない静寂。わずかながら扉の向こうで動揺する気配がしたように思ったが、気のせいかと落胆しかけた瞬間。

 すーっと内側から扉が開いた。

「……入って」

 招かれた室内は散らかっていて、イスは一脚しかないので仮眠用ベッドに腰かける。

「誰から聞いたの?」

 直見さんはうんざりしたように尋ねてきた。

「相武マイラが私の兄だって」

「服部さんから」

「そう……」

 問いはしたものの答えには興味がないようで、

「それで、だからどうしたっていうのかしら」

 驚くほど冷たく乾燥した声。

(黒幽霊……)

 彼女のあだ名を思い出す。

 だが、気圧されてはいけない。たじろがず、腹から声を出す。主張する。それが僕がここで学んだこと。

 退くな。向き合うのだ。

「あんなに似ているのは、直見さんが全部書いたからなの?」

「……」

「……」

「……なにそれ」

 怒気が漏れ出していた。

「……なにそれ。私が全部書いた? どうゆうことかしら? それってつまり、相武マイラの作品も私が代わりに書いたとでも言いたいのかしら?」

「う、うん……」

「妄言に付き合っている暇はないの。ふざけているならさっさと出ていって」

 彼女は僕の言葉を侮辱と受け取った。

「ふ、ふざけてなんかないよ」

「いいえ、ふざけているわ。そんなのなんの根拠もない」

「そうだね。直見さんがお兄さんのゴーストなんて、荒唐無稽もいいところだよね」

 僕もそれが真実とは思っていない。

「じゃあ、なんでわざわざ似せて書いているの?」

「……」

「直見さんは明らかにお兄さんを意識してシナリオテキストを書いている。文章のテンポからセリフ回しまで、全て」

「別に。そんなこと……」

「あるよ。隠してもムダだよ」

 僕だけではない。早坂くんも、聞けば、歴戦のラノベ読みの国吉さんも、服部さんや小野寺さんも気づいていた。

「兄妹だったら、文章だって似てもおかしくないでしょう」

「確かにそうなのかも知れない。けど、直見さんはエロゲに移ってから、エタエルの頃より似せてきているよね」

 直見さんに動揺が滲み始めた。

 確信する。彼女は意図的にそうしているのだと。

 彼女は、相武マイラの作品を書こうとしているのだと。

「ねぇ……君は、今なにを書いているの?」

「……」

「……」

「……元々影響は受けていたのよ。私が書き始めたきっかけは、兄さんだったから」

 直見さんは諦めたように語り始めた。

 彼女の兄、相武マイラは優れたシナリオライターだった。

 彼女が書き始める前から、PCゲームを中心にエロの有無を問わず書きまくり、タイトなスケジュールでも決して納期を遅らせなかったという超速筆。シナリオライターには筆の速い人が多いが、中でも抜きんでていた。

 周りが月間300KB(約15万字)書く中、彼は500KBから600KB書いていたという。しかも、そのシナリオテキストはどれもが面白かった。

「目の前でみるみる内に素晴らしい物語が紡がれていくの。キャラは生き生きとしてまるで本当の会話を盗み聴いているかのようだったわ」

 そう兄のことを語る直見さんは、夢見るように幸せそうだ。

 当時まだ小学生だった直見さんは、年の離れた兄の作品を憧憬の眼差しで見つめていた。高度に発達した技術は魔法と変わらない。直見さんの目の前で相武マイラはまさに魔法のように魅力的なストーリーを描き続けた。

 そして、ある日直見さんは好奇心から兄の居ない隙にナイショでこっそりあるテキストを読んでしまう。

 それは、濃厚なエッチシーンだった。

「衝撃的だったわ。あんなにかわいらしい女の子たちが、浅ましい本性をさらけ出し、快楽を貪っていた。はしたなく大きな声で男の人を求めていた」

 幼い少女のカルチャーショック。

「頭がおかしくなりそうだった。自分の目が信じられなかった。私を包むこの世界が音をたてて崩れていくのを感じて、泣きそうになって……いえ、気づいたら泣いていたわ。兄のことが突然極悪人のように思えた。でも、同時に……」

 この上なく、彼女は興奮した。

 のぞいてしまった性の世界。

 思春期を前に訪れた、とらえようもない感情の奔流。

 少女は当然のように兄を嫌悪し、どうしようもなくエロゲに惹かれた。

「残り少ない命を燃やし尽くすように性の歓びを謳歌する病弱な少女。完璧な優等生の仮面を脱ぎ捨て己の醜さと弱さをさらけ出す金髪少女。正義と悪は二元論で語られるようなものではなく、視点を変えればたやすく反転する……それに翻弄される魔法少女。そして、それらの少女の強さを讃え、時にそれを壊し、弱さを受け入れ、時にそれを責める男たち、どれも最高だった……」

 本好きな家族の影響もあって、彼女も読書好きな少女だった。

 だが、いくら貪るように本にかじりついても彼女の欲求は満たされることはなかった。

 彼女が求めるものはエロゲの中にあったから。

「子供の頃からエロゲを愛する女なんて、気持ち悪いでしょう?」

「え、それは……」

「いいの。私は自分を偽って愛されるより、心のままに愛したいから」

 大事な事は全てエロゲに教わった、と彼女は言う。

 しかし、未成年の少女が表立ってエロゲを楽しむわけにはいかない。妹に甘い相武マイラも、その点では協力してくれなかった。

 欲求不満となった少女は、欲望のはけ口として小説を執筆し始める。絵心のない彼女はアドベンチャー形式のテキストだけでは物足りなかったからだ。

 だが、そうして書き上げた小説が度重なる偶然と幸運に恵まれ、とあるラノベ新人賞で審査員特別賞を受賞し、後にエタエルと呼ばれるようになる。

 ラノベ作家直見ライチの誕生である。

 格好の居場所と動機を手に入れた直見さんはそれからも約2年間にわたって小説を書き続ける。兄、相武マイラも妹の活躍を喜び応援してくれていた。

 順風満帆、満ち足りた日々。だが、それはある日唐突に終わりを告げる。

 相武マイラがライターを辞め転職、同時に婚約したのだ。

「ちょうどエタエルのアニメ化が決まったときだった。その日の夜は家族みんなでちょっとしたパーティーをしたけれど、私はどん底に落とされた気分だったわ」

(それは……目標を見失ったから? それとも……)

 疑問が浮かんだが、結局口にはしなかった。答えが返ってくるものではないと思った。

 ともかく、それがあって以後、意識的な問題もあって、彼女はラノベ作家からシナリオライターに転向する。

 兄の友人であり仕事仲間であったすうぃーとぱいん現社長に雇ってもらい、プロジェクトに参加するようになる。業界は常に人材が不足していて、相武マイラが脱けたこともあって会社にはシナリオの確保が急務だったのだ。

 前作『季節を歌うプリンセス』も今作『恋愛遺伝子』も元はといえば相武マイラの残した企画らしい。

「え……ということは、もしかして……」

 恐ろしい考えが浮かんだ。

 それは認めたくない事実だった。

 でも、一度思い浮かんだ以上はその思いつきはみるみる増大していき問わずにはいられなくなった。

「直見さん、言ったよね。僕がヒロインにぴったりだって。イメージそのままの理想の妹だって」

 出会うなり、僕はそうして選ばれた。だが、

「それは君の、ではないの? 僕を選んだのは、相武マイラなの……?」

 直見さんはうつむいて、申し訳なさそうに目を伏せた。

「選んだのは私よ。でも、そうね……私が一から設定したキャラではないわ」

『直見さんの理想の妹』として、その創作のために選ばれたと思い込んでいた。

 しかし、違った。

『相武マイラの理想の妹』像に適役だったから選ばれたのだ。相武マイラがいない以上、あて書きをする上で僕は有用だった。

 全ては相武マイラの残した企画を完成させるために。

「そっか……相武マイラがいれば、僕はいらなかったんだ」

「そんなことないわ。そういったことを抜きにしても、君はとても良い声を持っている」

「でも、直見さんが僕を見つけることもなかった」

「それは……そうね」

 恋愛遺伝子香織パートを書きあぐねていたとき、偶然彼女は僕を見つけた。

 絶好の創作材料だと思ったことだろう。

(もしかしたら)

 断筆させられそうになったとき、それを誓えたのは、自分が書き続けることより相武マイラの作品が完成することが優先されたからだろうか。

「……帰るね」

 なんだか、どうでもいい気分になってしまって離席を告げた。

 彼女は止めなかった。

「シナリオ続き書いてね」

 楽しみにしているから、とはとうとう言えなかった。

「……わかったわ」

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