第19話 僕の剣
彼女はこんな屈辱に身をさらしてまで僕を救おうとしている。
なぜそこまでして、という戸惑いは今回が初めてではない。今までに何度も彼女は感情的になった。そして、そのことごとくが僕に関わることであった。あれほど、ふとした瞬間を、出来事を、たちまち物語に繋げてしまう、物を書くことに身命を費やす直見さんが筆を折ってまで、助ける価値など僕にあるのか。
あるのだ。
そう信じなければ彼女の想いが無為になる。それだけはしてはならない。
「どうしてくれてもいい? なんでもする? そんなこと言っていいのか? つーか、あたし、あんたのこと大嫌いなんだけど。あんたには蹴られた恨みもあんし」
「ごめんなさい。それも含めて重い罰にしてもらって構わないわ」
「あたし、謝れば済むって考えてるようなやつも大嫌いなんだよね」
「その報いは受けるつもりよ」
「あんた、作家なんでしょ……?」
黒江ちゃんの目が残忍な光を帯びる。さながら、獲物を捕らえ、その生殺与奪の自由を得た女豹のように。
「二度と文章を書く仕事はしないって誓える?」
「……っ!」
「ちょっと、黒江ちゃッ……!」
「あんたは黙ってな!」
ダン、と床を蹴破りそうな勢いで踏みつけた。
「……どうだ。誓えるか、それともあんたの本気ってのはその程度のものなのかい?」
部屋の誰もが二人から目が離せないでいた。端から見れば、女子高生が二人いるだけなのだけども、抜き身の刀を構える真剣勝負の気迫があった。
勝利を確信している黒江ちゃんの視線から目をそらすことなく、直見さんは内ポケットから一つの物を取り出し黒江ちゃんの足下に置いた。
あれは、万年筆?
「直見さん、それは……っ!」
なにか言いかけた小野寺さんを制し、
「私の愛用の万年筆よ。誓約の証として、これを壊してちょうだい。その代わり、美幸くんには声優を続けさせて下さい」
文字通り筆を折るということなのだろう。完全降伏。
使い込まれた万年筆には積み重なった年月が染みこんでいる。それは物を壊すということ以上に大それた儀式に思えた。
「ダメだよ!」
気づけば叫んでいた。本当に彼女は物書きを辞めてしまうと思った。
「そんなのダメだよ! 君には才能があるんだ! だって、だって……僕は面白いと思ったんだ! 君のシナリオを読んで、本当に楽しかったんだ!」
「……そう君に言ってもらっただけでも十分ね」
こんな状況だというのに直見さんはすっきりとした表情で笑みを浮かべた。
「美幸くん、クリエイターというものはね。作品をより良くするためなら、他の全てを犠牲にできるものなのよ。君は必ず、いいエロゲ声優になれるわ」
「直見さん……でも」
「そんな顔しないで。私は、君の声を聴けて、とても幸せなの」
「……続ける。続けるよ。エロゲ声優。でも……」
「わかったよ!」
黒江ちゃんが声を荒げた。
「あくまで引かねーってんなら、望み通りにしてやるよ! ざまあみろ!」
黒江ちゃんは万年筆目がけて勢いよく足を踏み下ろした。
空手経験者である黒江ちゃんの蹴りは強烈で、頑丈な万年筆さえ破壊する。たとえ、一撃を耐えられても、怒れる黒江ちゃんは何度でも破壊するまで蹴り続けるだろう。その凄惨な光景を予想してさしもの直見さんも目を背けた。
「ダメだ!」
とっさに飛び出していた。伸ばした手は間に合って、万年筆の代わりになった。すさまじい音と衝撃。骨が砕けたかと思った。
「てめえ、翼ッ! 邪魔すんな!」
「邪魔なんかッ!」
感情の高ぶりが抑えられず大きい声が出た。
「邪魔なんかしてない! 悪いのは、黒江ちゃんの方だからッ!」
「んだと、てめぇ、翼のくせに、誰に向かってそんななめた口をきいて」
「黒江ちゃんが悪いッ!」
「……っ!?」
黒江ちゃんに対して怒りを向ける初めてのことかも知れない。黒江ちゃんは暴君であろうとも、支配者であり守護者であった。横暴でメチャクチャだけど、なんだかんだいって弱虫な僕を保護してくれていた。今、僕を辞めさせようとしているのも、ただ意地悪というわけじゃなく、僕の為を思っての行動なのかも知れない。
けど。
けれど。
直見さんから筆を取り上げるというのはやりすぎだ。見過ごすわけにはいかない。
「翼くんが黒江に食ってかかってるなんて……」
「初めて見たかも……」
黒江ちゃんが口を開く。驚いてくれたのか、少し声量が落ちた。
「なんであたしが悪いんだよ。悪いのはそっちだろ。学生なのにエロゲなんか作って」
「エッチなことだからいけないの!? 好きなことに夢中になるのがそんなにいけないことかな? 直見さんは半端じゃない執念でゲームを作っているよ。大人に混じって一生懸命努力している。彼女がどれだけの量を書いて、書いては消して、また書いて、それを繰り返しているのか知ってる? 彼女のしていることは野球選手や医者や弁護士や、いや部活でインターハイを目指すのと同等の、真摯なものなんだ! ただ、それがエッチなだけなんだ!」
「いや、だから、それがエッチだからダメなんだろ……」
「セ●クスしてるわけじゃないのに!」
声を大にして言う。
「彼女の書く物語にセ●クスシーンがあるだけで、彼女がセ●クスしてるわけじゃない! こないだフ●ラの本番もまだだって言ってたよ! ね、直見さん!」
「ええ」
直見さんは深々と頷いた。
「私は処女よ。肉棒一本くわえてはいないわ」
「知らねーよ……」
「彼女が直接いやらしいことに関わっているわけじゃない。作っているだけ。それにその作品だって、ちゃんとソフ倫を通っているんだ。非合法な物を作っているわけじゃない。なのに、もう二度と書くな、なんてそんなの厳しすぎるよ!」
黒江ちゃんを睨みつけた。震えているのが自分でもわかった。でも、声だけは震えないよう気をつけた。僕は雑魚でもプロだから。
「……言うじゃないか、翼のくせに」
黒江ちゃんは僕を見下ろして、組んでいた腕をほどいた。
「お前のためだってのに。わかった、わかったよ。エロゲを作ってんのは褒められたことじゃないが、それを本気でやってる、お前らのスタイルは認めてやるよ」
「黒江ちゃん」
「だが」
黒江ちゃんは再び腕を組む。豊かな胸を強調するように。
「それで? どうするつもりだよ。お前がどうこう言おうが、あたしらがチクればお前らは終わりだ。お前にあたしを止められるのかよ。なにもできないお前が」
「止めてみせるよ。なにがなんでも」
「へぇ、できんのかよ」
「やってみせるもん」
黒江ちゃんをどうこうできたことなどただの一度もない。戦う前から負け戦。でも、今の僕には武器がある。直見さんたちのくれた剣が。
勝算はない。いくら剣を振るっても、密告されたら終わりだが、このままなにもしないで退く選択肢はなかった。
「はい、これ」
直見さんに万年筆を差し出す。
「大切に持っていないと。もう手放しちゃダメだよ?」
「それは、でも……」
はっきり言えないでいる彼女に自分の影を重ねて、僕はつい叫んでいた。
「でももへちまもない!」
彼女にはいつも、堂々としていて欲しい。
「君は書きたくないわけないんだ! あんなに書くことに夢中になるのに! 書きたくて書きたくてウズウズしてるくせに! 素直に書きたいって言いなさい!」
珍しく息巻く僕の勢いに直見さんは目を丸くして、胸に詰まった物をはき出すように言葉を絞り出す。
「……美幸くんは……なんというか、男の子なのね」
「……もとから男の子だよ?」
「ありがとう。美幸くん、私、書きたい。書きたいの」
彼女は僕の手をとった。皮がめくれて血が噴き出していた。
「うわぁ。全然気づかなかった。万年筆汚れてないよね?」
「そんなことより、ケガしてるわ」
「こんなのへっちゃらだよ」
「ダメよ……私なんかのために」
直見さんが簡単な手当をしてくれた。
「どうするの?」
「僕は声優だよ。演技をするだけだよ」
「大口叩いておいて、つまんねーことしやがったら、そのときはわかってるだろうな?」
ソファにどっかり座った幼馴染みに向けて、僕は指一本唇の先に持って行き、
「……黒江ちゃん、しー」
静かにさせると僕は台本を片手に声の調子を整える。
「……あーあー」
これこそ僕の剣だ。
「ち●ぽこかたくておいしいな!」
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