第17話 コスプレ

「この展開は予想してなかったよ……」

 その日の放課後。僕は会社のトイレで独りごちた。なぜトイレかというと、用を足しにきたわけではない。答えは僕の手の中にあった。

 妙になめらかな肌ざわりのヒラヒラの衣装。ハッとするくらい鮮やか。こんな服には短い半生ながら接したことはない。

 それもそのはず、これは俗にコスプレと呼ばれる衣類なのだ。看護師やチャイナ服といった生ぬるいものではない。とあるアニメの何某というキャラが着ているというオタク趣味全開のもの。レイヤーなど、その道の趣味人でなければ目にする機会も少ない代物だ。

 僕はそれに今から着替えるというのだ。

「なんでこうなったんだっけ……」

 経緯を思い出そうとする。

 そもそもは次の収録に向けての対策会議をしようと集まったのだった。

 声優としての技量に関しては地道に練習を重ねていくしかない。僕が本番で緊張して力を発揮できない原因は他にあるので、その問題を解決しようというのが議題だった。

 努力でなんとかできるのならなんでも試してみよう、とそのときは思っていた。

 けど、開始三秒。

 学校の掃除当番を終えて会社にやってきた僕を迎えたのは、背筋も凍るような笑みを浮かべた直見さんだった。

「あら、美幸くん。遅かったわね。君の到着を今か今かと待ちわびていたところよ」

 カラーン。

 まず一つ目の警鐘が鳴った。

 直見さんのテンションが高いときは必ずおかしな事が起こる。この短い付き合いの中で僕が学んだことの一つだ。

「美幸くんの緊張対策に一つの案が浮かんだの。服部さんのアイデアなのだけれど」

 カラーン。

 二つ目の警鐘。

 服部さんの人格を否定するわけではないけれども、彼女のもたらす言動とその結果は度々僕を致命的クリティカルな事態に陥らせる。

 性的に無知な僕に、オ●ガニズムやGスポ●トといった性知識を教授してくれたのは感謝しているけれども、よく考えると異常な状況だった。

「形から入るのかと君は呆れるかも知れないけれども、衣装の影響力はバカにはできないわ。弁護士や看護師、彼らは服だけではなくイメージをまとうことで、印象をコントロールしているの。言葉に説得力を持たせ、あるいは安心感を与える。また、自分自身も特別な仕事着を着ることで、意識的に自分のモードを切り替え精神的に自己管理をしている。自己暗示にも近いかしらね」

 半透明の布地を掲げながら、直見さんは長々と説明する。そのまま話し続けてくれてもよかったのだけど。

「美幸くん、というわけで、今日はコスプレをしましょう!」

 カラーンカラーンカラーン……!

 もう数えるのも馬鹿らしいくらい鳴り響いていた。動物的な本能が逃亡一択を告げる。

「ご、ごめん。今日はお日柄もよくないので、そういうのはまた今度で!」

 慌てて逃げる。しかし……。

「甘いッ!」

 既に退路は断たれていた。くノ一姿の服部さんが背後に回り込んでいたのだ。

「……って! もう着替えてる!?」

「くくくくっ美幸殿。どこへ行かれるつもりでござる? 既に貴殿は蜘蛛の巣に絡みとられた蝶々。この牙に食いちぎられるが運命よ」

「わ。服部さん、手を放して……ちょ、近い近い近い。顔が近いです!」

 袖のない着物の下には編み目の細かい網タイツを着ていて、それがまた色香を感じさせる。改めてみると、服部さんは言動こそ子供っぽいが、成熟した女性の体をしている。

「そうじゃなくて、誰か助けて……はっ! そうだ。小野寺さんは? みなさんの中に小野寺さんはいらっしゃいませんかー?」

 懸命にその名を呼んだ。すうぃーとぱいんの小さな良心。小野寺さんは服部さんたちの暴走を止めることのできる唯一の人だ。

 初めて会ったその日から、どこからともなく取りだすハリセンでしばいて制御してきた。彼女ならばこの状況をなんとかしてくれるはず。

「小野寺さんならそこにいるわよ」

「助かった! 小野寺さっ……!?」

 僕の目論見は甘かったと言わざるをえない。なぜなら、顔を向けたその先には興奮気味にカメラのシャッターを切り続ける小野寺さんの姿があったからだ。

「そのポーズいい! いいぞ! もっと二人とも見つめ合うんだ! 服部、眼鏡外せるかッ!? なら外してくれ。そして見つめるんだ。仕えるべき主君を見つけた感じで。あ、直見くん、そこのイスを持ってきてくれないか!」

「あ、あの……小野寺さん?」

「無駄でござる。デラちゃんはコスプレ撮影が大好きなのでござるよ。絵の参考になるからか、いつしかハマってしまったのでござる。今では撮影となると普段のお堅さも吹き飛んで、荒ぶるカメ子に闇堕ちするでござる」

 小野寺さんは理性が飛ぶと、かわいいものに目がなく夢中になってしまう。これも絵描きの業の深さ故でござると、服部さんは言った。

「そ、そんな……」

 僕の心のオアシスが失われてしまった。

 最後の望みも絶たれては観念するしかない。警鐘はもう壊れた。

 そして、僕は長い時間を着替えに費やすことになる。時間がかかったのは着慣れない服の構造をしているのもあったが、つまるところなかなか踏ん切りがつかなかったからだ。

 けれど、このままモタモタしていては服部さん辺り「拙者が着せてあげるでござるよ」と言い出しかねないというか、既に近い発言はしている。

 それに、手段こそ抵抗があるものの緊張対策という目的は本望である。

(なんでも試してみようとは思っていたけど、けど……こんな格好をしてるの学校のみんなに見られたらおしまいだよう)

 自分がひどくみっともない姿をしている自覚はある。

 勇気を出してダイニングに戻った。

「おや、美幸殿着替え終わったでござるか? 遅いから迎えに行こうかと思っていたところでござ……うぬぉぉぉあぅっ!?」

「え、どうしました? やっぱりこんな格好変ですよね?」

「ちょ、ちょっとこっちに来るでござるよ。化粧したげるでござるから」

「えっ、化粧って? あれ、服部さんだけですか?」

「二人とも着替えに行っているでござるよ。美幸殿に一方的にコスプレをさせるのはフェアではないでござるからな。ささ、二人が戻る前に仕上げるでござるよー」

 イスに座り、カツラに化粧にされるがまま。口紅を塗られながら、ついこれは服部さんの私物かどうか勘ぐってしまう。

 息づかいが届く距離で真剣な表情をした服部さんが顔をのぞきこんでいる。ほんの少しイタズラ心を起こせば簡単にキスできるだろう。

 服部さんはもうコスプレ用の化粧をしているらしく、普段がきれいじゃないとかじゃなく、今日はまた別人のようにきれいで目を合わせるのが躊躇われる。

「よし、完成でござる。見てごらん」

 大きな姿見の前に立つ。

 すると、そこには見知らぬ女の子が映っていた。

 妖精。

 一口に説明するならその単語を使わざるをえない。

 絹糸のような金色の髪にリボンのような髪飾り。

 全体的に淡く、それ自体が光を放っているかのような色調。ワンピースの水着のようにピッチリとした衣装は、体のラインを陰影深くあらわに際立たせ、露出も多くてそのしたの素肌の白をむしろ白日の下にさらけ出す。

 太股むきだしの過激さなのにいやらしく見えないのはふわふわのスカートと、ところどころに用いられた蝶の羽のようなデザインのおかげだろう。短く何層にも重ねられたフリルのスカートはバレリーナの軽やかさをイメージさせる。

 腰からのびる大きなリボンが蝶の羽を背負うようで、幼くも神秘的な美しさがある。可憐でとてもかわいい。

「これが僕……?」

 信じられず目をしばたく。

「この鏡壊れてませんか?」

「鏡が壊れてもこうはならんでござるよ」

 化粧をしているとはいえ、これが自分とはとても信じられない。

 雑誌かなにかで見かけたら素直に称賛するだろう。これがコスプレの力なのか。

「思い知ったでござるか。男の子は女の子になれるのでござる」

 視覚情報がもたらす力は強い。どれだけ否定したくとも、こうした実例を見せつけられては固定観念はたやすく粉々に砕かれて、暴力的なまでに受け入れるしかない。

 今の僕は女の子なんだ。声だけじゃなくて、容姿も女の子になる。

「な、なな、なっなっ……!?」

 振り返ると、直見さんと小野寺さんが戻ってきていた。二人ともコスプレ衣装に着替えてきている。小野寺さんは激しく動揺し、意味のある言葉を発することができていない。

 直見さんも驚いていたけど、一足早く我に返ると僕に近づいてきてこう言った。

「かわいいよ、美幸」

 自然と笑みがこぼれた。不本意でも褒められたらやっぱり嬉しくなるものだ。

 今回のコスプレ衣装は全員『永遠のシェフィールド』というライトノベル原作のアニメをモチーフにしている。

 ごく普通の男子高校生がファンタジー世界に召喚され魔族とそれに操られた人間と戦うというストーリーで、主人公が裸を見てしまうヒロインの女の子がアセリア・シェフィールドというエルフであることから、ファンの間では『エタエル』という通称で親しまれている。

 示し合わせてコスプレを一つの作品で統一することをジャンル合わせというらしい。

 なんで衣装が揃っているのかというと、服部さんがこのアニメの大ファンでしかもレイヤーであるから、密かに今回のような機会を狙っていたらしいのだ。

 服部さんに解説されるまでもなく、このアニメは好きで見ていた。

 僕のキャラは、エタエルでヒロインに次ぐ人気キャラ、エルフの同盟国フェアリーの王女ウィンビィ。心優しく、他人と争うことが苦手な臆病な性格をしているけれど、主人公に対してだけは時折イタズラな一面を見せる。

 後に母である女王の死を契機に、一族の代表として、また一国の王女として、涙も見せず気丈に振る舞うようになる。

 小野寺さんはヒロイン、アセリアの側近でお堅い性格のロリ剣士ミーフ。今はカメラで激写する一方、自分が注目されるとモジモジ恥じらうだけの人となっているけど、本来は凜々しさと可愛らしさを併せ持つキャラだ。

 服部さんは人間の国のくノ一で、敵にも味方にもなる幻影のカスミ。

 直見さんは魔族の中間管理職、黄昏の魔女グロリアだった。

 ミーフやカスミは似合っていてとても魅力的なのだけど、グロリアだけは露出控えめな初期のローブ姿バージョンなので少し野暮ったい。モデル体型というのだろう、直見さんのスリムなプロポーションの一切が隠れてしまっている。

「直見殿はどうせならヒロインのアセリアにすればよかったでござるのに。背格好もちょうどよくてきっと似合うでござるよ?」

 細身でキリッとしたエルフの姫剣士アセリアは確かに直見さんにハマリ役に思える。

 アセリアはエルフでありながら胸だけは豊かで、そこも直見さんと共通している。

 と、そこまで想像して僕は頭を振った。

 いけない、いけない。直見さんをそんないやらしい目で見るなんて。

「いや、でも……あんなミニなんてはけない」

 ゴクリ。

 ダメだと思っても直見さんのすらりと長い足があのミニスカートから飛び出してくる妄想を止めることができない。すると直見さんは、疑問を抱くセリフを吐いた。

「それに、私はヒロインにはなれない。その資格がない」

 聞きとがめてその意図を問う前に、プリントアウトされた紙束を渡された。

「さあ、それよりこれを読んでほしいの」

「これは……?」

「今回の特訓用の台本よ。せっかくだからエタエルの二次創作にしてみたわ。急いで書いたので完成度は高くないけれど……」

「まさかこの短時間で書いたの?」

 昨日別れた直後に思いついたとしても一日経っていない。それで一本仕上げてきたのだ。僕は正直コスプレをしただけでいっぱいいっぱいだったが、彼女の努力をこうも見せられては逃げ出すわけにはいかない。

 しかし、そのとき。

「おーい、直見さん。友だちがきたよー……うわ、すごいね。なにしてるんだい」

 ダイニングへとやってきた男の人の声でハッと我に返る。

 よみがえる羞恥心。とっさに胸を隠してしまい……胸の開いたデザインの衣装だったからだけど……そうしている自分に気づいて余計に恥ずかしくなる。

 彼の名前は安兵衛さん。すうぃーとぱいん唯一の男性社員で、グラフィック担当。

 クマのように大きな体格で、プーサンのようにおおらかな性格だ。

 だけど、彼に見られたことよりも、それとは比べようもない大きなショックが僕を待ち受けていた。

 彼の背中からヒョコヒョコヒョコ。顔を出したのは、何度か顔を合わせたことのある安兵衛さんよりも、ずっとずっとなじみのある三人だったのだ。

 仲田さん、国吉さん。そして、黒江ちゃん。

 彼女たちの嬌声と僕の悲鳴が重なった。

 なぜ黒江ちゃんたちがここに、という疑問は直見さんが代弁してくれた。

「安兵衛さん、なぜ彼女たちを中へ通したのですか?」

「え、ごめん。まずかった? 直見さんのこと知ってたし、てっきり美幸くんのようなことかと……」

「違います。彼女らを呼んではいません」

「そっかぁ。こいつはうっかりだなぁ。あ、ごめん、じゃあ君たち悪いけど帰って……」

「うちら、美幸くんに会いに来たんですけど!」

 仲田さんが強い語調で割って入ってくる。

「美幸くんに話があるんですけど! 会わせて下さい!」

 あれ、もしかしたらまだバレてない?

 さっきの叫びは単にレイヤーが集まっていた驚きによるもの。こんな格好なのだから当然とも言える。まさか同級生の男子が妖精の王女ウィンビィだとは思うまい。

 まだごまかせる、と思った僕の淡い望みは、しかしあっさり潰える。

「翼ならそこにいるよ」

 黒江ちゃんは迷いなくまっすぐ僕を指差していた。

「そうだろ、翼」

 ダークエルフに追い詰められたときのウィンビィの気持ちがわかった気がした。

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