第16話 予兆

 滑舌をよくするためのトレーニングというものがある。

 上に向けて丸くそらした舌を歯で軽くかむのだ。短い時間で簡単にできるから思い出したときにちょこちょこやるようにしていた。

 HR前の教室で白百合先生に教えてもらったそのトレーニングをしていると、

「よう、翼」

 バシンッ!

「にゅぁぅっ!?」

「なんだよ。変な声出して。お前は猫か、アキバ系か」

「その叩くのやめてよ、黒江ちゃん。舌かんじゃうかと思った」

 黒江ちゃんとの仲は一時期ギクシャクしていたけど、今では元通りと言える。

 ただ声優のバイトを始めてからは一緒に遊ぶ時間はほとんどなくなってしまい、一抹の寂しさが生まれている。でも今は我慢の時だ。立派な声優になるために。

「マジで? 舌かんだ? 見せてみ」

「かんでないよ。大丈夫」

「大丈夫かどうか見てやるって言ってんの。ほら見せてみ。べーってしてみ」

 黒江ちゃんを満足させるために従うことにする。

「へー。翼のベロ、きれいなピンク色してるな」

 普段は口内に隠している器官をじっくり見つめられてしまうのは恥ずかしい。せめて見られるのは舌だけに、と口をすぼめたら、黒江ちゃんをなめようと舌をのばしているみたいになってしまった。

 座っている僕に黒江ちゃんがのぞきこむようにしてくるから、バックリと開いた胸元がバッチリ見えてしまう。できたての黒糖パンみたいなふくらみが。

「ん、もういいや。それより翼、今日のあたしどーよ」

 突然のファッションセンスチェック。

 これに失敗すると見る目がないとすねられてしまう。だけど、過去幾度も失敗し、それを経験として積み重ねてきた僕だ。ネイルとリップの違いに容易く正解すると、彼女は「へへっ、まー当然これくらいはわかるよな」と満更でもない。

 正直、女の子が思うほど男の子が理解があるかと言えばそんなことはない。

 ただ、それとは別に、見た目を気にする女の子のことはかわいいとは思っている。

「だけど、ボタン外しすぎだと思うな。これじゃ見えちゃいそうだよ。じっとしてて」

 さっきから気になっていた黒江ちゃんのシャツのボタンを二つとめてあげる。

「はぁぁ? おまっなにして」

「動かないで。動くとさわっちゃうから」

「……んっ」

「ボタン外した方がかわいいとは思うけど、あけすけなのもよくないと思うんだ。ほら、これでいいよ」

 バシッ!

「バ、バッカじゃねーの! こんな窮屈にしてられねーつの……つーかなんで平然としてんだよ」

 そう言って黒江ちゃんはボタンを一つ外した。照れくさそうにしているのは美的センスに反しているからかな。

「ったく、お前は昔からそんなんだから、まぁいい……んで? 日曜はバイトの大事な日だって言ってたけど、もう終わったんだよな。今日は遊べんのかよ」

 もう一ヶ月以上、黒江ちゃんたちとは遊んでいない。それどころか一緒にいる時間も大分減っている。それが彼女には不満なようだ。今のバイトを始めるまでは断ったことなんてほとんどなかったから、尚更なのか。

「カラオケ行って、帰りにラーメン。新しい店見つけたんだよ、行くだろ?」

 誘ってもらって嬉しいし、行きたい気持ちはやまやまだが、今日は予定が入っていた。次の収録に向けて対策会議が開かれるのだ。

「ごめん。今日はダメなんだ……」

「あぁっ!? なんでだよ。大事な日っつーのは終わったんだろ?」

「えっと、うん、それはそうなんだけど……その日の結果が悪くってこれからどうしていくか考えなくちゃいけないんだ」

 予想はしていたけど黒江ちゃんの機嫌は急転直下、フリーフォール並。

「なにそれ。ないわー……あのさ、由香も国吉もマジ楽しみにしてたんですけど。日曜終わったら時間とれるって。ガッカリするわー、二人とも」

「う、うん。ごめん。でも、本当に今日は行かなくちゃいけないから。ごめん、また今度埋め合わせするね」

「こないだもそう言ってたし……そのバイトってさ。マジなんなの?」

「えっと、なんなのって、それは……」

 バイトの内容は内緒にしている。小野寺さんの言葉じゃないけど、学生が関わるにしては健全とは言えないからだ。うちの学校は校則も厳しくはないところだけど、さすがに「エロゲの声優をしています」と正直に言ったら禁止されてしまうだろう。

 もしそのことを尋ねられたら直見さんにならってゲーム制作の手伝いということにしていた。嘘ではない。正確でもないけれど。

「そのバイト、幽霊もやってんの?」

 そう言われてギクリとする。

 やっぱり国吉さんから聞いたのか。彼女には日曜日に一緒にいるところを目撃された。

 黒江ちゃんは直見さんのことを快く思ってないことは明らかだ。直見さんの話が出ると、スイカの種をかんだときのような顔をする。吐き捨てないだけマシだけども。

 あんな出来事があったのだから、仕方ないとは思うけど、僕は好きな人には僕の好きな人を好きになってもらいたいから、そういう反応をされると心が痛む。

「うん。実はそうなんだ。というか直見さんに紹介してもらった仕事だから」

 ここは正直に話した。怒るかもと思ったけど、黒江ちゃんは不機嫌そうに「ふーん」と言っただけでそれきり。二時限目が終わる頃には機嫌もなおって、この一件はひとまずこれで区切りがついたとそう思っていたんだけど……。

 まさかあんなことになるなんて予想もしていなかった。

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