第12話 収録
月日は
という松尾芭蕉の文章をてっきり、光陰矢のごとしと同じような意味だと思っていたが、どうやら違うらしいってことを直見さんの指摘で知り、現実逃避の種が芽吹く前にあっさり潰された僕は気を紛らわせることもできず、目の前の収録スタジオに否応なく目を向ける。
地下にあるスタジオはおそらく一般に思うより小さい。
つまみやスイッチがたくさんある調音装置、その横に大きな窓のついた壁がある。
その壁に仕切られた奥の部屋が俗に金魚鉢と呼ばれる収録ブース。分厚い扉の上に『収録中』と光るのであろう電光掲示板のようなものがある。
手前側の部屋、調整室のすみっこのイスに座り、白百合先生たちと考えた演技プランを見直していた。
演技プランとはそのものずばりどんな演じ方をするかという計画のこと。
否、見直してはいない。台本に書き込んだメモは目の中に入ってくることを拒んで読むことができない。文字の形が崩れて天井についた染みみたいだ。目が台本の上をツルリとすべる。
「うう……これはアレだよ。すごいやつだよ」
「緊張しているの?」
「それだよ。すごいやつだよ」
「誰でも緊張はするものよ。だからゆっくり深呼吸」
直見さんは僕を落ち着かせようと色々気を使ってくれたけど、あまり効果はなかった。
息苦しい。
ここに来るのは見学にきたとき以来二度目だけど、前はこんなことはなかったから、やっぱり僕の気持ちの問題だろう。
スタジオという巨大な生き物の胃袋に収まっているような気がしていっそ一寸法師のようにクシャミと一緒にはき出されたいと思った。
やってきたディレクターさんたちに挨拶をする。黒縁の太眼鏡をかけた男の人。この人が今回収録するゲームの音声を監督をする池山田Dだ。
他に脚本さん、スタジオ所属のエンジニアさん、直見さんと僕が今このスタジオにいる全員だ。白百合先生は用事で今日はいない。
心細いけれど、本番では結局僕一人でブースに入るんだ。代ってもらうわけにはいかないんだ。弱気よ立ち去れ。
「じゃあ、そろそろ始めようか」
池山田Dが宣告する。
僕は上擦った返事をしてから収録ブースに入り、席に着く。エロゲの収録は座って行われることが多い。一回で三時間以上かかることもある長丁場だからだ。短い収録や複数の声優が立ち替わり演技をするアニメの仕事だと立ってやることもある。
高性能な収録マイクは些細な音も拾うので、衣擦れの少ない服を着てきた。
(台本をめくるのも気をつけなきゃ……あれ? 台本は?)
「美幸くん、忘れ物よ」
「おいおい、てっきり暗記してきたのかと思ったよ」
「まさか。新人だからテンパってるだけでしょ」
台本を受け取ろうとして、調整室にいる池山田Dたちの会話が聞こえてしまう。
「気にしないで。練習通りに」
直見さんにうなずいて席に戻り、今度こそ本番。
僕の役はサブヒロインで、セリフ量は少ないにしても見積もって二時間はかかるだろうということだった。
長い戦い。記念すべき初収録の初セリフ。
直接吐息がかからないようにする
「私よりかわいくてセ●クスのうまい女は死ねば良いと思います」
白百合先生と何度も繰り返し練ってきたそのセリフは……
「うーん、違うな。俺の瞳ちゃんはそんな風に言わない」
リテイク。
つまり、やり直しだった。
「え……?」
「もう少し、冷たい感じで、声を抑えて」
スピーカーごしに池山田Dの指示が降ってくる。僕はその要望に従って演技を修正しなければならない。
「テイク2、私よりかわいくてセ●クスのうまい女は死ねば良いと思います」
「やりすぎ。ロボットじゃないんだから、もう少し人間らしく」
セリフの頭につけるテイクというのは、そのセリフが何回目かというのを指す。
あとで編集しやすくするためのものだ。通常なら止められるまでセリフをどんどん言っていくのだけど……
「テイク37、私よりかわいくてセ●クスのうまい女は死ねば良いと思います」
僕の初セリフはいつまでたってもOKをもらえずリテイクを重ねた。
「一回休憩を入れましょう。再開は十分後で」
見かねたエンジニアさんがそう言ってくれて一旦リテイク地獄から救い出された。
直見さんに誘われて建物の外に出る。
陽差しはポカポカとした陽気でスタジオ内のひんやりとした空気とは大違いだ。
「……きつい」
本音が漏れた。まだ一言も収録できていないのにもうくたびれきっていた。
声の収録だというのに何十回も陸上百メートルを走らされた感じ。空気が薄い。足りない、足りない。いくら吸っても出て行ってしまう。
(こんなに苦しいのに、こんなにがんばっているのに、なんでダメなの……? 認めてくれないの?)
グルグル回る。愚痴も、頭も、目眩さえ。
気持ち悪い。我慢しよう。もう嫌だ。がんばらなくちゃ。なんで僕ばかりこんな目に。
責任転嫁する自己に心底嫌悪する。
でも、そうでもしなければ心がもたない。
「……うぷぅ」
胸の奥からこみ上げる物を堪えきれず茂みに走ったが、間に合わず石畳にぶちまける。胃液の混じる悪臭。
「ハァ……ハァ……うぐぅ、ん、く……うんぅっ」
すかさず催した第二陣は、もっと大量だった。初収録に躓き、汚物にまみれた自分。あまりにも惨めだ。
「……美幸くん」
「直見、さん……? ごめん、ごめんなさい! こ、来ないで。今、掃除するから」
そう思うが、吐き気が収まらず動くことができない。
腹からこみ上げてきて喉を通り、口まできたものを飲み込もうとする。大きな質量が移動して胃袋がひっくり返ったように騒ぎ出した。
そんな僕なのに、直見さんは横に座って背中をさすってくれた。
「な、なんで。汚いのに。汚れちゃうよ」
「気にすることないわ。生きていれば汚れることもある」
「で、でも、ゲロ……うっぷぅ、けっげっ……」
「我慢しないで全部出しちゃおう、ね?」
彼女の細い指がゆっくりゆっくりさすってくれる。それが心地よくて。
促されるようにお腹の中の物を全て吐き出し続けた。
「これで口をゆすいで。トイレに行って待ってて」
飲みかけのミネラルウォーターを渡された僕は、言われるがままその場を後にした。
「ごめん、本当に、ごめん……」
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