第10話 声優への道(いかがわしい)

「あめんぼあかいなあいうえお」「あめんぼあかいなあいうえお」

「うきもにこえびもおよいでる」「うきもにこえびもおよいでる」

 運動によるところの準備運動に当たる発声練習。

 指導役の声優さんについて復唱していくのだけど……。

 僕はこれが苦手だ。元々大きい声を出すのは得意ではないけれど、これにはまた別の理由があって……。

 その原因がそろそろくるぞ。

「ち●ぽこかたくておいしいな」「ち、ち●ぽこかたくておいしいな」

「おま●こずぽずぽきもちいい」「お、おま、おま●こずぽずぽきもちいい」

「声が小さい! もっとハッキリ! フェ●チオじゅぷじゅぷがんばるぞ」「フェ●チオじゅぷじゅぷがんばるぞ」

「せいえきびゅるびゅるあたたかい」「せいえきびゅるびゅるあたたかい」

「あーん、いくいくイックー!」「あーん、いくいくいっくー」

「もう一回! いくいくイックゥー!」「いくいくいっくー!」

「ま、こんなとこかしら。素人にしたら」

 全然納得なしの本音を隠そうともせず、セレブ白百合は言った。

 立てばゴージャス。座れば雅。歩く姿はエレガンス。

 エロゲ声優を目指すにあたって、直見さんから指導役として紹介されたのは盛り髪派手メイクのお姉さんだった。

 白金台を優雅にお散歩するか夜の蝶として羽ばたくかの二つの用途しかない豪奢な毛皮のコートを着ている。

 とても声優には見えないが、エロゲ声優はおろか一般の声優としても名の知れた人で、表名義で出演したときの声を聴いたときには悲鳴を上げるくらい驚いた。昔大好きだったアニメの声優さんだったのだ。

「別にエロゲに出ていたことを隠すつもりもないんだけどね」

 一応、一般向けの作品に出るときは表名義、成人向けの作品のときは裏名義と使い分けるのが、業界の暗黙のルールになっている。

 理由はそれぞれあるみたいだけど、白百合先生は子供がネットで検索して成人作品に行き着かないようにと言っていた。

 もちはもち屋ということで、本職の声優さんに教わるのが一番いい。

「白百合さんは一流のエロゲ声優であり、声優養成所の講師経験もある。今回は特別に指導役を引き受けてもらったのよ」

「まぁ、ライチちゃんのお兄さんにはお世話になったし、かわいいかわいいライチちゃんの頼みだものねぇー」

 むぎゅっと白百合先生にヘッドロックされながら顔色を変えずに直見さんは言う。

「私がかわいいかはともかく、そういうわけなので、大いに練習に励んで欲しい」

「私が教えるからにはビシバシいくわよ! 覚悟しなさい」

「はい! よろしくお願いします!」

 大好きなアニメの声優さんの指導。直見さんからの期待。

 僕は気合いを入れて練習に挑み、数日が経った。その結果がこの有様である。

「いちいち身構えない。これくらい、もっと大きな声でやっていけないわよ?」

「す、すいません……お、おち●ぽって言うの、恥ずかしくて……」

「ま、最初は一言も口にできなかったのだから進歩してるとは言えるわね。そこは褒めてあげましょう。喜びなさい」

 男性器や女性器のことなんて大声で、しかも人前で言ったことなんてなかったから、かなり抵抗があったけど、精神的な殻は破ることができるのだとここ数日で思い知った。知ってしまった。

「白百合先生、あ、ありがとうございま……」

「次、ちゅぱ音の練習いくわよ」

 とはいえ、多少できるようになっても恥ずかしいのは恥ずかしいし、卑語というちんこに類する言葉はまだ序の口。セリフは当然単語の羅列なんかじゃなく文章になっている。

 なになにして欲しい、とおねだりしたり叫んだりする合わせ技は段違いの破壊力だし、今、白百合先生の言ったちゅぱ音というものもある。

 ちゅぱ音とは、フェラ音やリップ音とも呼ぶ、要するにちゅぱちゅぱなめる音のこと。実際の性行為をする上で発生する音を意図的に再現するわけだ。なめるのは相手の舌だったり乳首だったりするけど、男性向け十八禁作品においては主におちんちんをなめる。

 このちゅぱ音は、量の差はあれほぼすべてのエロゲにあるといってよく、エロゲ声優にとって避けては通れない必須のスキルといえる。

 だから、僕は男の子だけど、おちんちんをなめる音の練習は急務であるといえた。

 これまでに一応やり方は教わったけど……。

「うーん、全然ダメ。聴けたものじゃないわ。形ばかり真似しようとして振り回されてる感じ。頭の中でちゃんとイメージしてる?」

「あうう……すいません」

「はい、いちいち落ち込まない。できないのは当たり前。落ち込む時間があれば練習につぎ込みなさい。さ、もう一回! ちゅぱちゅぱ開始!」

 白百合先生のスパルタレッスンは毎日放課後三時間。

 学校帰りに会社へ直行すると普段は会議室に使っている部屋に先生が待っていて、すぐにレッスンが始まる。

 先生の教え方はすごく厳しいけど、今まで意識もしてなかったことを知るのは楽しい。

 呼吸の仕方とか、日本語のイントネーションとか。珊瑚と産後は読みは同じなのに発音してみるとアクセントが違っているのだ。

 会社とアルバイト契約を結び、現在の僕は専属の声優見習いで研修期間中という立場になる。僕は部活に励むように熱中して打ち込んだ。

「唾液を口の中にためてから、くわえたアレの先っぽや棒のところをなめたりこすったりするイメージで、そのとき空気を含んで音を出す……ん、ちゅぱちゅぷ……」

「……くん、美幸くん……」

 僕は手の甲を使う方法を練習している。人によっては指をなめたり、魚肉ソーセージやゼリーを使ったりする。

「……うーん。やっぱり先生みたいにうまくいかないや。これじゃない感じがする。よーし、もう一度、ん、ちゅぷ……」

「美幸くん」

「ちゅ……うひゃあっ!?」

 ちゅぱ音を上達させたいあまり、つい学校でも練習をしてしまっていた。

 どうしよう。学校でエロゲ声優の演技の練習をしているなんてバレたら!

「違うんだよ。これは、その、おしゃぶり練習なんだよ。なにも問題ないんだよ」

 ……っておしゃぶり練習ってなんだよぉ!

「……ごめんなさい。驚かせてしまったかしら」

 振り向いた先にいたのは直見さんだった。

 学校の先輩でエロゲブランドすうぃーとぱいんのシナリオライター、直見ライチさん。

 僕をエロゲ声優の道へと引っぱりこんだ張本人だ。

 周りに他に人はいない。よかった。練習しているのを見られたのが事情を知っている直見さんならおかしいやつとは思われないだろう。

「でも、美幸くんが自分の手の甲をすすっておしゃぶり練習とやらをしているのを道行く生徒がおかしいものを見る目で見ていたから、そろそろ止めなきゃと思って」

 手遅れだった!

 とっくにおかしい人認定されてた!

「まあ、私には見当がついていたけれども。仕事熱心なのは感心するし、私としては非常に喜ばしい事態なのだけれど、健全な学校生活を送りたいのならばそういった行為は人前では控えた方がよいのではないかしら」

「ぐう……」

 正論すぎてぐうの音しか出なかった。

 ぐうの音が出たのは、その正論を言ったのが他でもない直見さんだったから。

 校内で奇行を繰り返し、不気味な黒幽霊と呼ばれている直見さんには言われたくない。

 とはいえ、直見さんは変な人だけど理解できない程ではない。

 この短い間に少しだけ直見さんについてわかったことがある。

 それは、彼女は目的に対して一途だということ。

 『昼休みになるとカバンもってどっかいっちゃう』し『かと思ったらすみっこで他人のことをガン見してる』のはネタ探しと人間観察のため。

 『ずっとブツブツ独り言つぶやいて』『ノートが真っ黒になるくらい』『めっちゃノートとってる』のは常に物語のことを考えていて、思いついたらその場で書き始めるから。

 僕が早坂くんに告白されたときや、黒江ちゃんたちに囲まれていたときも、そういう人気の無いところで行われる場面を取材するための行動の結果で。

 つまるところ、直見さんの奇行は全て、より良いエロゲシナリオを書くためなのだ。

 といっても、普段の生活を全てエロゲシナリオに捧げている女子高生というのは、やっぱり変な人に違いないんだけど。

「ついてきて」

 直見さんに手を引かれる。白くて繊細な指先。そのきれいな手にふれられてちょっとドキドキする。


 連れて行かれた先は小さな部屋だった。視聴覚準備室とある。廊下側からは見えないようになっている。

「こんな場所があったんだね。知らなかったよ」

「普段は物置代わりに使われているの。校舎の増築をしたときにできてしまった空間らしいわ……秘密の部屋って感じがして私は好き」

「うん。わかるよ。僕も好きだな」

「ここなら朝夕事務員さんが開錠しにくる以外普段は誰も来ない。鍵もかかっていない。少しくらい騒いでもバレない。ソースは私」

 うちの校風少し不用心な気がするかもと思った僕の思考は中断される。なぜならそこで直見さんが振り向いて、

「ここでなら二人きりになれる」

 と言って鍵を閉めたから。

「ええっ!? それって」

「誰にも邪魔されないわ。なにをしても見つからない」

「なにをしてもって……えっ? えっ? あっ」

 つないだままだった手を慌てて放したが、手の中にはすべすべした冷たい手の感触がしっかりと残っている。利き手じゃない方の手はあんなに女の子らしい。

「だから、もし君がよければここで私と……美幸くん、聴いてる?」

「えっえっ? あ、取材? いや、でも、その……そういうことはたとえ取材でも、その……大切な人のために取っておくべきだと思うし」

「んっ? 聞こえないわ、美幸くん」

 直見さんが近づいてくる分だけ、僕は逃げる。

 けど逃げられない。彼女の赤い光彩を持つ瞳に縛られて壁際で立ち尽くす。

 恋愛的な意味で、僕に対して特別な感情は持ってないだろう。でも、だからこそ、そういうことはしちゃいけないと思う。エロゲシナリオのためならなんでもしてしまいそうな直見さんだけど、君だって女の子なんだから。

「……ぼ、僕は君に後悔して欲しくない」

「え?」

「僕は君の、一つのことに一生懸命になれるところが好きで、まだ僕と同い年なのにプロに混じって、認められているなんてかっこいいって、すごいなって憧れる。けど、けども、もうちょっとだけ自分を大事にしてもいいんじゃないかってそう思うんだ」

 うまく言葉になっているか、気持ちを伝えられているかわからない。けど、言うしかない。苦し紛れでも僕の本心からの言葉を。

「大丈夫だよ。あなたはちゃんとすごいよ。すごいライターで、素敵な女の子だよ」

 それに対して、直見さんは僕をじっと見つめ……。

「なんの話?」

 きょとんと小首をかしげた。

「……私は、ここで私とこっそり演技の練習をしないかって誘おうとしたのだけど」

「え、演技の練習? それだけ? 他には?」

「他になにをするというの? 君と私だけで」

「え、いや、それはその……な、なんでもない」

「ん? なにかしら、ね、なあに? 今の美幸くんからはおいしいネタの匂いがする」

「な。なんでもないったら」

 恩人である直見さんになんてことを考えてたんだ。意識してたのは僕だけじゃないか。

 休み時間に練習をする約束をしてひとまずその部屋を後にする。恥ずかしい勘違いはあったけれども、学校内で練習に集中できる場所を手に入れたのはありがたい。早くうまくなりたい、その為には時間が惜しいと思っているから。

 教室に戻る道すがら、直見さんが言う。

「さっきの話、よくわかっていないのにこういうのも失礼かも知れないけれど……」

 ギクリ。

 話を蒸し返されるのは居心地が悪い。

 けど、直見さんが口にしたのは僕が思ってもいなかった言葉で、

「……ありがとう。嬉しいのだと思うわ」

 かすかにほほえむ。笑うと年相応の女の子らしさを取り戻す。

「でも、心配はいらないわ。私は、自ら私を選んだ」

 笑顔なのにまるで別人みたいに寂しげで、

「私は不健全だもの」

 強く僕の胸に残った。

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