第9話 今日からがんばります!

「ごめんなさい。調子に乗りました。大変反省しております。もう二度と無理強いしないので許してください」

 小野寺さんと服部さんから丁寧な謝罪を受けたものの、僕は依然として自分の身になにが降りかかろうとしていたのか、どういう事態になりかけていたのか正確に理解しているとは言いがたい。

 なんとなくはわかっている。僕だって子供じゃない。

 おそらくあれは大人の男女がするような、エッチなことだ。いやらしい世界だ。

 子供じゃないけど、だからといって大人とも言えない。前に映画でそんなシーンがあったとき、黒江ちゃんにハッキリ言われた。

「翼にはまだ早い」

 昨日直見さんにやらせてもらったゲームはさっきみたいな展開だった気がする。エロゲに関わるってことは、ああいうものを作るってことなんじゃないか。

「本当にすまない。今後こういったことが起きないよう私も厳しく監督していくのでどうかここは穏便に収めてはくれないか」

「いえ、あの、頭を上げてください。小野寺さんが謝ることでもないですし」

「そうでござるよー。デラちゃんはクソ真面目でござるなー」

「……君にはもう少し反省する時間が必要なようだな」

 小野寺さんにほっぺたを引っ張られる服部さん。二人とも仲良さそうだ。

「いやいや反省はすれども拙者とて無為にかようなことをしたわけではないでござるよ。まずはこれをお聞きくだされ」

 といって服部さんが持ち出したのはさっきの機械だった。

 ササッといじってテーブルの上に置く。

 するとその機械は音声を流し始め……。

『あ……やめて、やめてください。ダメです。そんなところ……あふぁぅ……』

 え、これってさっきの……?

 スパコォォォン!

「君は救いようのない馬鹿だなっ!? 録音までしていたのか」

「あ、違う違う違う。違うでござるよデラちゃん。待って待って、極まってる。間接極まってるから。これ、折れちゃうやつでござるから」

「腕の一本も折らないと君は反省もできないようだからな」

「キーボードが打てなくなるでござる」

「プログラマーなら片手でも打て」

 なんて二人のやりとりも僕の耳には半分ぐらいしか届いてなかった。その機械から流れてくる奇妙な音声に聞き入っていたからだ。後で知るけれど、これはボイスレコーダーというもので、流れているのは先程のやりとりを録音したものだった。

 だから当然それは僕と服部さんの会話なんだけど……。

「これ、誰の声ですか……?」

 思わず尋ねてしまった。答えはわかっている。でも訊かずにはいられなかった。

 だって、それはどう考えても女の子の声だったから。

 軽やかな鈴のような。

 架空世界のアイドルのような。

 聞くだけで初々しい少女らしさを夢想してしまうような。

 その表情を、仕草を、想像してドキドキしてしまうような。

 僕の知らない女の子が僕のしゃべったセリフをなぞっている。呼吸の間からイントネーションからなにからなにまで真似して一言一句違えずに。

 それはとても奇妙な体験だった。手品を見せられている気分。でも違う。これが本当。

 自分に聞こえている声と他人に聞こえている声は違うとは聞くけど……。

「普段自分では体内を伝わる骨導音と空気中を伝わる気導音を同時に聞いているけど、録音だと気導音のみを聞くことになるので違和感が生じるのでござるよ」

 頭が受け取り拒否してる。

 でも、これは元々僕の持ち物なんだ。受け入れないわけにはいかないんだ。

 僕が美少女声をしているってことを……!

「これが、僕の声……」

「そうよ。それが君の声。君の持つ武器」

 いつのまにか、部屋の入り口には直見さんが立っていた。

 黒い幽霊のようなセーラー服姿。手にはびっしりと書き込まれたメモ帳を持っている。白い両手はゴミ箱に突っ込んだように真っ黒だった。

「初めて意識したのは学校の屋上。でも、あのときはシチュに興奮していて気づかなかった。風もあったし」

 早坂くんに告白されたときのことだ。

 僕も直見さんを意識したのはあのときが最初だった。

「確信したのは昼休みの外階段。あなたは女子に責められてかわいい悲鳴を上げていた」

 黒江ちゃんたちに呼び出されたときのことだ。

 あのとき颯爽と現れて助けてくれたのが直見さんだった。

「のびやかで、クリアで、あげる悲鳴すら聞き心地がいい。汚れを知らぬ純粋無垢な素朴さがありながら、人の手のふれない処女雪のように天使の福音と小悪魔の誘惑二つの面の魅力を併せ持つ魔性。聴くものの情欲をかきたてる」

「拙者もさっきそれでやられてしまったでござるよ」

 服部さんが笑う。

 僕の声が服部さんをおかしくさせたの?

「常夜に誘う妖精の女王(エターニア)。深淵へと引きずり込む海魔(セイレーン)。覚めない眠り。耳を打つ麻薬……ああ、たとえきれない。しゃべるのがこんなにつたなく思えるなんて。どれだけ言葉を重ねても。君を想う私の気持ちに及ばない」

 直見さんはもどかしそうに自分の胸元をつかんでねじる。彼女の苦悩する様は、不謹慎かも知れないが、僕をとても興奮させた。

「初めはなんてエロゲ的な展開に好かれる子だろうと思ったわ。けど、違った。全ては君の魅力に引き寄せられた結果なのよ。君にふれるたび、物語が産まれる。君を知るたび、エピソードがひらめく。君を失うと、世界が色をなくす。ええ、そうよ、そうなのよ。君こそ創作の源となり得る存在。脳裏に響く理想の声。君を知ったら、もう君なしに創作できない。今の私は書けない人になってしまった」

 手が真っ黒になるほどのスランプもそのせいで?

 汚れているのは手元だけじゃなかった。どうしたらそうなるのか、ほっぺたやアゴも汚れて髪もかきむしったように乱れている。というかかきむしったんだ。髪のべたつき。服のしわ。充血した赤い瞳。学校を休んだ。

 それらのピースがピタッとはまる。直見さんは、きっと、昨日から書き続けていたんだ。スランプの中で。

 変な人なのは間違いない。

 でも、彼女はこんなにも僕を求めている。

「……お願い、美幸くん。君は嫌かも知れないけれど、私には君が必要なの」

 一人じゃなにもできない、僕を必要としてくれる。

「私に力を貸して」

 ためらいがないと言ったら嘘になる。でも、彼女が見つけた僕の武器。請われてもなお振るわないなら僕は今度こそ自分を嫌いになるだろう。

 だから僕は言う。

「うん、僕で力になれるなら」

「もう逃げたりしない?」

「逃げたりしないよ。昨日はごめんね。僕はエッチなことは得意じゃないから、ビックリしちゃったんだ。でも、今日は昨日より怖くないから、だから大丈夫」

 握手をしようとして直見さんは自分の手がひどく汚れていることに気づいたらしい。

 手をぬぐうものを探そうとしているところへ僕は言った。

「そのままでいいよ」

 とてもかっこいい手だと思うから。

 細くてきれいな指なのに、ペンを握った形にへこんでいる。漫画家でもないのに、どれだけペンを握り続けているのだろうか。

「……んっ。改めて、よろしく。私は直見ライチ。ここ、すうぃーとぱいんで、シナリオを担当している」

「プログラム担当、服部香苗でござる」

「……原画、グラフィックの小野寺シェリル」

 今いない社員はおいおい挨拶するとして、目の前の三人に対して声を張り上げた。

「美幸翼です。僕、男の子だけど、エロゲ声優がんばります!」

 こうして、僕のエロゲ声優としての挑戦の日々が始まったのだった。

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