第7話 お姉ちゃん殺人事件(死んでない)
賑やかな道を人の流れに逆らうようにして家路についた。
(逃げてきちゃった)
エロゲと聞いて、多少は覚悟したつもりだった。
しかし、実際のエッチなシーンの破壊力は予想以上。こみ上げる羞恥は半端ではなく、決意は砂糖菓子のように粉砕されてしまった。
(だってエッチすぎるよ。オッパイをもまれて、オチンチンをなめて、それもあんなに嬉しそうに! 僕たちはまだ子供なのに!)
興奮の余韻が冷めてくると滲み出てきたのは後悔。
(これで、声優さんの仕事の話はなしになっちゃったよね。直見さんをガッカリさせちゃったかな。あそこまで言ってくれたのに……)
春の終わり。日も暮れかけている。
通り過ぎる家々から灯りがもれて道にまで出っぱってきている。刺すようにまぶしい。
黒江ちゃんの家の前を通り過ぎると、一階も二階も電気は点いていない。
(カラオケに行くって言っていたけどもう帰ってきているのかな?)
と、よそ見をしたのが悪かったのだろう、ドンと人にぶつかってしまった。
「あ、ごめんなさ……い」
とても顔の怖い二人組の男の子に。
「あー? いってぇな。どこ見て歩いてんだよチビ」
まずい。不穏な気配を感じとる。
なぜかわからないが、僕はこういう輩に絡まれやすい。案の定、因縁をつけられ、道の端へ連れて行かれ、金銭を要求される運びとなってしまった。
「あ、あのぉ、僕お金なくて……」
「は? ざっけんな。しらねーし!」
「慰謝料だよ、慰謝料ー早く出せよ!」
こういうとき、会話のキャッチボールができていない、と感じるのは僕だけだろうか。それを指摘する度胸はないが。
「あれ? よく見たらこいつかわいいじゃん。実は女?」
「いや、あの僕は……」
「金がないならよ、ちょっと俺らとつきあえよー。マジ楽ししいからさぁ」
「え、いや、あの……」
強く手首を握られ、恐怖でこわばった体は抵抗という抵抗もできない。
「ね、脱法ハーブって知ってる?」
男性二人に、なすすべなく連れて行かれる、その瞬間。
「クスリなんかやってんじゃねぇよ、ボケ!」
褐色の拳が男をぶちのめした。
「ありがとう、黒江ちゃん」
逆上する暇すらない圧倒的な威力で男たちを追い払った幼馴染みに礼を言う。
黒江ちゃんは道場通いの経験もある空手の有段者なので、ケガをさせずに痛みを与える方法も熟知している。彼女にしつこく言い寄る不埒な男が痛い目を見るのを何度も見たことがあった。
だが、礼を告げた黒江ちゃんは泣き出しそうな顔をしていた。
「ごめん、翼……」
「え、どうしたの? どこかすりむいちゃった?」
黒江ちゃんは首を振る。
「翼怒ってるって、思って……」
「怒ってないよ。今助けてもらったじゃない!」
「だって、メールの返事くれないし……」
「えっ! あ、本当だ! いっぱい来てる」
端末にはたくさんの連絡が届いていた。謝罪から始まって、僕を心配する文面まで。
受信時間を見ると、面接を受けていた頃からずっと僕を探していたらしい。直接謝罪したいと僕の家の前で待っていて、一度家に戻ろうとしたところ僕が絡まれている現場にでくわしたのだ。
「絶対怒ってると思った。あんなこと、しちゃったし」
少し鼻声になっている黒江ちゃん。ひどいことをしたという自覚があるのだろう。校舎裏のサドル責め。正直言って、あれは相当な恐怖だった。
それでも僕は彼女を心底嫌いにはなれない。
荒っぽくって、感情に任せて暴走することがあって、怒ると怖い彼女だが。
何度もカツアゲやいじめから助けてくれて、今は僕に嫌われないかと不安そうにしているような、アンバランスな幼馴染みをどうして切り捨てられようか。
「僕もKYだったよね。今日のところはさ、お互い様ってことにしない?」
「いいのか……?」
「うん。だって僕たち、友だちじゃない」
そうして僕たちは、仲直りの握手を交わした。
黒江ちゃんと別れて、自宅のアパートに到着。電気は点いていない。
お姉ちゃんは「遅くなるかも」と言っていたから帰ってきていないんだろう。
就職してからというもの、お姉ちゃんの帰宅時間はとても不規則で、変な時間に出かけたり帰ってきたりすることはよくあった。
鍵を開けて入ろうとして違和感。
「あ、開いてる……」
出かけるときに鍵をかけ忘れてしまったのだと思い至って血の気が失せた。
泥棒さんに入られていませんように。
扉を開けて電気をつけると、
「わ、わぁぁっ!?」
玄関を上がってすぐのところに誰かが倒れていた。
「お姉ちゃん、どうしたの? なにがあったの?」
うつぶせの体勢で右手が前に伸びている。助け起こして揺すぶってみても、目を覚ます様子はない。
「お姉ちゃんお姉ちゃん! これ以上家族がいなくなるなんて嫌だよ!」
泣き出しそうになるのをこらえて辺りを見回す。
床にペットボトルが転がっていて中身の赤い液体がこぼれている。
お姉ちゃんの右手があった床に赤い血文字が書かれていた。
無我夢中でダイイングメッセージをのぞきこむ。
『ねむい』
「なんでそれ書いたの!?」
ベタなことだが、血文字の正体はトマトジュースだった。
色々言いたいことは脳裏を巡ったけれど言葉にならず、僕は行き場のない怒りやひるがえった安心感を脳天気なほっぺたをひっぱることにぶつけるしかなかった。
「つーくんごめんねー。お姉ちゃんものすごおく眠くてー、眠いからぁー、眠っちゃったのー。びっくりしたー?」
美幸家の夕ご飯。
二人でテーブルをはさんで向かい合って食べる。
ごはんは一応当番制だけど、お姉ちゃんが作った方がおいしいのでついお姉ちゃんに作ってもらうことが多い。お米を炊くことくらいは僕がするけども。
お姉ちゃんは社会人でもう働いている。おっとりとしたマイペースな性格なのはご覧の通り。絵を描いたり、雲を眺めたりするのが趣味。黒江ちゃん曰く「ちゃんと働いているってことが今でも信じられない」
だけど……。
「本当にビックリしたよー。大丈夫? 今日だけじゃないよね?」
「うーん、このところちょっぴり早出と残業多かったからぁ、寝不足気味かもぉ……ふみぁぁぁぅ、にゃふにゃふにゃふ」
「え? 今のあざといの、あくび?」
就職してからのお姉ちゃんはとても忙しそうで、眠そうにしていることも増えた。さすがに今日みたいに床で寝ていることは初めてだけど。
収入がほとんどなくなってから、お姉ちゃんは今の暮らしを続けようと大黒柱としてがんばっているんだ。
なのに僕ときたら少しでも家計の足しになればと思ってアルバイトを始めてもすぐにダメになってしまう。
ごはんの当番制だって、僕が当番のときに大失敗したことがある。
空回りの空騒ぎ。空振り続きの空っぽの僕。
こんな弟でなかったら、お姉ちゃんももっと楽ができただろうに。そう思ったら言葉に出ていた。
「お姉ちゃん、ごめん」
「んー、どうしたのー? ビデオの録画失敗しちゃった?」
「違うんだ。今日アルバイトの面接に行ったんだけど、うまくいかなくて」
「なんだぁーそんなことー」
「そんなこと、じゃないよ。僕だってお姉ちゃんの助けになりたいのに。お姉ちゃんがこんなにヘトヘトになるまでがんばってるのに。役に立たない弟でごめんね……」
口にするとますます自分がつまらないものに思えてきた。僕の歳で立派にバイトをこなしている人だっているのに、なんで僕はそれができないんだろう。
足手まといで、グズで、空気を読めずに他人に迷惑ばかりかけて、そのくせ他人に期待されても一つも応えられなくて……。
「本当にごめんね……こんな僕でごめんね……」
そんなつもりじゃなかったのに、鼻がツーンとして悲しみがこみ上がってきた。
一度湧きだした感情はとどまることを知らず、涙となって溢れ出そうとする。泣いたって、余計お姉ちゃんを困らせるだけなのに。
お姉ちゃんはすっと席を立つとイスを持ってきて僕の横に並んで座った。
「えへへ、つーくんの横は久しぶりだねー。昔はよくこうして座ったけど……ねぇ、むぎゅーってするよ?」
「え、しなくていいよ」
「お姉ちゃんがしたいの。だから、ねー。お願い。むぎゅーしたいって言ってよー」
「……う、うん、わかったよ。むぎゅーってして、お姉ちゃん」
「了解でありまーす」
むぎゅう、とは、要するに抱擁。ハグ。抱きつくこと。お姉ちゃんの命名。
姉弟は年が離れていて、僕は小柄な為、お姉ちゃんの体に埋められる形になる。
お姉ちゃんの体はふかふかして、冬温かくて夏はひんやりする魔法がかかっている。
さびしいときやつらいとき、台風の日や親が帰ってこない夜、お姉ちゃんはよくこうして僕を安心させてくれた。
でも、こうするとき、お姉ちゃんはネコのように頭の臭いを嗅ぐので僕は毎日のシャンプーを欠かせないようになった。
「やっぱりつーくんはむぎゅ心地がいいなー癒されるなー……クンクン、いい匂い」
「汗かいちゃってるからかがないで。それに僕もう子供じゃないよ。高校生なんだよ」
「でも、つーくんはいつまでもお姉ちゃんの弟なんだよー」
部屋着の下のお姉ちゃんの体はやっぱりやわらかくて、僕の悩みごとごと僕を包み込んでくれるみたいだ。
「いいんだよー。うまくできなくても。最初から上手な人なんていない。教科書に載っているような人だって、多分つーくんよりもいっぱい失敗してるんじゃないかな。比べちゃうのはしょうがないけど、でも、背伸びしたって意味がないよ。向き不向きとか、その人のペースとかさ、数字や形にならないものが世の中にはあるんだよ。つーくんのいいところは、自分ですら見落としてしまうかも知れないけれど、必ずわかってくれる人はいるんだから、焦ったり振り回されたりしないで、ゆっくり育んでいけばいいと思うよ」
お姉ちゃんはそれから、心配せずとも僕が大学に進学しても十分な蓄えはあるのだと告げ、だから無理してバイトしたりせずともよい、学生生活を満喫しろと言ってきた。
うたた寝のような甘い温もり。絡みつく優しさに甘えたくなる。
「ぐーぐーぐー……」
疲れが出たのだろう。お姉ちゃんは僕を抱いたまま寝息を立て始めていた。
(目の下、すごいクマ……前はこんなのなかったのに……)
起こさないようにそっと抜け出し、ブランケットをかける。
「……でも、やっぱり僕は、僕にできる限りのことをしたいって思うよ」
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