第39話 最初のキスはお酒の匂いがした。

 朝六時半、快晴。昨夜、ちなっちゃんがかなり酔っ払ってたし、朝起きられるのかなぁ? と心配になって、あと、ドアも閉めて出て来たからその鍵を返さなきゃと、俺はちなっちゃんの部屋のインターフォンを押した。


 ……が、何度押しても出てこない。ノックもしたけど、無反応、やむ得ないと、鍵を使ってドアを開けて中に入ったら、ぐーぐー寝てた。あのまま、着替えた様子もない。仕方ない、起こすか――。


「ちなっちゃん、起きて」

 と、何回か耳元で声かけたらやっと。

「……う、ん?」

 と、目を覚まし、ゆっくり布団をどけて上体を起こして目を擦っている。

「ちなっちゃん、おはよ」

 ちなっちゃん、髪がボッサボサで寝ぼけ眼がちょっと可愛い。

「……何で、たかしさんが?」

「昨日の夜、ちなっちゃん、かなり酔っ払ってたからさ、大丈夫かと思って見に来たんだよ」

 ちなっちゃん、頭ぽりぽり掻いて、キョロキョロしてる。

「……あ、私、いつ帰って来たんだろう? ……え? 何これ? 何でこんな格好で寝てんの?」

 やっとそのままの格好で寝てたことに気がついたか。でも全然昨晩のこと覚えてないみたいだな……。

「だからさ、すっごい酔っ払ってたから、俺が部屋に入れてあげてさ、着替えた方がいいって言ってんのに、そのまま寝ちゃったんだ」

「私、あのスナックで、寝ちゃって……電車乗って、あれ? ……あ、痛っ、頭が」

 二日酔いだな、こりゃ。俺はキッチンでコップに水汲んで来てベッドまで戻り、ベッドの上で座ったまんまのちなっちゃんにそれを渡した。


「たかしさん、ありがとう」

「うん、でも今日は仕事休んだら?」

「……どうかなぁ、遅刻してでもいかないと」

 しかし、そのボッサボサの頭と寝ぼけ眼の顔が、なんか、笑えてしまう。

「……ん? たかしさんなんか笑ってる?」

「いやだって、そんなちなっちゃんの顔、見るの初めてだからさ」

 すると、ちなっちゃんはベッドの上に置いてあった手鏡を手に取って、自分の顔をじーっと不思議そうに見つめて、笑い出した。

「あははは、これは酷い。確かに自分でも笑える。あはは……うう頭痛い。今、何時ですか?」

「えっと、六時四十分くらい」

「そっか、まだそんな時間なんだ。……私、なんか変なことしたり、変なこと言ったりしてませんでした?」

「全然覚えてないの?」

「家に帰ったことすら記憶にないです」

「そっかー。じゃぁ知らない方がいいと思うよ」

「えー。気になるじゃないですか、そんな言い方したら」

 と言ってちなっちゃんはニヤニヤしながら、ベッドに腰掛けてた俺の右手の甲をつねった。

「い、痛い」

「言うんだ、たかしさん。言わないともっとつねるぞ」

 ――な、なんだその可愛い攻撃は……いや、しかしこれは。

「いや、マジで知らない方がいいって、……痛いって、ちなっちゃん爪が」

 ちなっちゃんの爪が食い込みすぎてマジ痛い。慌ててちなっちゃんは手を引っ込めた。

「す、すみません。私ったら朝っぱらから……」

「いや、しかし、まだ酔ってるとかないよな? ちなっちゃん」

 と言うと、ちなっちゃんは、さっきまでつねっていた俺の右手をそっと掬い上げるようにして自分の手に取って、甲を見つめながら、

「怪我は……、してないですよね」

 と言って、もう一方の手で優しくさすった。……ダメだ、ちなっちゃん可愛すぎる。もう俺――。


 不思議な力に吸い込まれるようだった。

 ちなっちゃんは、俺が少しずつ顔を近づけると、一瞬怯えたような表情をしたけど、そのままゆっくり目を閉じた。

 止められなかった。と言うより、多分その時、俺は何にも考えてなかった、と思う。ただ自然に吸い込まれるように、磁石で引き寄せられるような、そんな感覚。

 鼻と鼻が少し触れた時、ちなっちゃんの肌を感じて、その刹那だけ、ドキっとしたけど、唇が触れても、ドキドキはしなかった。

 それは生暖かくて、柔らかくて、少しネバネバしていた気がする。

 あと、ほんのりアルコールの匂いもした。

 永遠の記憶になるその瞬間は、部屋の外から聞こえたカラスの大きな鳴き声が打ち切った――。


 ――やっちゃった。


 ――あああ、なんかこれ、うわあああ。なんでキ、キスなんか。


 ちなっちゃんは……。頭掻いて俯いて恥ずかしそうにしてるけど。ど、どうしよう、やっちゃった――。


 すると突然、ちなっちゃんはムクッと顔を起こして言った。

「み、御手洗さ……、じゃなくてたかしさん、あ、朝ごはんに、します?」

「そ、そうしよっか。と、とにかくちなっちゃん、着替えなよ。頭もボッサボサだし」

「そうですよね。えへっ」

 ああ、ダメだ、なんでそこでキラキラ微笑みなんだ。可愛すぎるよ、ちなっちゃん。と、とにかく……。

「お、俺、食パンかなんか買ってくるし、ちなっちゃんはそれまでに着替えてて、な?」

「うん、じゃぁよろしくお願いします」

 と言って、ちなっちゃんはペコッと頷いた。その仕草もやたら可愛くて、もはや死にそうなので、俺は急いで部屋を後にしてコンビニまで向かってたら、財布忘れてて一回自分の部屋に取りに戻った。


 コンビニに向かう道中も、帰ってくる時もずっと、何度も何度も立ち止まって自分の唇に手で触れて、やっちゃたんだよなぁって、自分では心の中で言ってたと思うけど、多分口に出して呟いてたと思う――。


 ***


 ちなっちゃんの部屋で、二人朝食を取った。俺が準備しようとしたら、ちなっちゃんが私がすると言って、手伝わせてもくれなかった。仕方ないから、ダイニングの椅子に座って奥の部屋にあるテレビを見てたら、まな板の上でちなっちゃんがキャベツを千切りにしてて、その「トントントン……」って音が背後から聞こえて、ふと、これってなんか新婚生活みたいだよなぁと思ったり――。


 朝食時はお互いほとんど何も話さなかった。なんだか、照れ臭くて、何話ししていいんだか分からない。テレビ見てて、朝のワイドショーでは相変わらず芸能人カップルの離婚問題やってて、ちょっと話題振ったら、ちなっちゃんは興味なさそうだったのですぐ静まり返った。でも、不思議とその静けさは心地よかった気がする。ちなっちゃんは視線を合わせると、ずっとニコニコ笑みを浮かべてた。


 ――ただ、そんな風に幸せ的な時間を感じてても、はっきりと心の奥では、過去のことを隠すちなっちゃんに対する複雑な心境というのはずっと引っかかってた。だから、毎朝一緒に食べようとか、これから関係を少しずつ進めようという提案めいたことはちなっちゃんには言えなかった。


 でも、どうにかしなきゃいけない。その鍵はやはり、俺の頭の中に閉ざされている――。


 ***


 それから毎晩、ちなっちゃんとはメッセージ。隣同士なのに変な感じもしなくはないけど、慣れてしまった。キスの影響かどうかは知らないけど、少し前よりも、距離が近くなった気はした。

 キスの話は一度だけでたけどあっさりしたもの。


「だからさ、ちなっちゃんはウイスキーなんか飲んじゃダメなんだって」

「だって、好きなんだもん」

「ちょっと臭かったし」

「キスなんかするからだよ。私、歯も磨いてなかったのに」

「しない方がよかった?」

「知らない」


 これだけだ。世間じゃそんなもんなのだろうか? もっと思い出話とかしたりはしないのだろうか? それとも大したことでもないのだろうか? ちなっちゃんの妹、凛ちゃんによれば、友達同士ですら男女が止まったらエッチは当たり前だというしなぁ。


 そういや、告白とかしてないな。「好き」とすら言ってない。こんなんでいいのだろうか? ケイは告白などいらないって、前に言ってたけど、どうなんだろう? 俺ら日本人だからなぁ。


 つか、次はいよいよ初の……、いやいやそれはまだ早い。あっちは処女らしいし、こっちは童貞だし、慎重にな。研究に研究を重ねないと、まだまだハードルは高いぞ、隆――。


 ――ま、そんなことよりやはり、俺としては、ぼんやりと見えかけてきたあの当時の記憶をより鮮明にしなければならない。そのためには神崎家のケイの部屋にあるという優作君の小学生時代の写真を確認させてもらう必要がある。

 なのにケイときたら、自分で探すと言って以来、全然連絡をよこさない。だんだんイライラしてきたので、俺は土曜日が休みだから、金曜日の夜にケイに連絡したら、その日は仕事だけど、午後三時には帰ってくるというので、その時に俺も神崎家に行ってケイの部屋で一緒に探すということになった。


 ***


 土曜日午後四時。神崎家のリビングでテレビ見ながら待たせてもらってたけど、なかなかケイが帰ってこない。で、やっとケイからメッセージが入ったかと思うと、職場で欠員が出たので帰ってくるのは六時になると言う。

 それで、写真の件は俺の話であってケイには関係ないからと思って、ケイを待たずに探そうかと、ケイのお母さんに言ったら、ケイの部屋で勝手に探してくれてもいいと言うので、自分一人で探すことになった。


 神崎家の二階にある、その六畳和室の部屋に入るのは二年ぶりくらいで、女の子らしい小物がたくさんあったり、ジャニーズアイドルなどのポスターが貼ってある女の子の部屋だからって、勝手知ったるなんとやらで結構よく来ていたから、一人で入るのは初めてかもしれないが、気にすることもなかった。

 ケイの言った通り、その押入れの上の箇所は埃まみれで、先に掃除機で掃除してからじゃないととても取り出せる状態ではなかったが、なんとか埃掃除して色々と中から取り出して調べていたら、A3四方くらいの大きさの写真がいっぱい詰まった箱が出てきた。

 そこから、優作君の小学生時代の写真を百数十枚ほど選りすぐって、その場で見てたんだけど、よくわからないから、持って帰って調べようと、それだけを紙袋に移して、取り出した荷物を押入れの上の段に戻していたその時だった。


 誤って、バラバラっと数冊の手帳のようなものを床の畳の上に落としてしまった。なんだろう? と思ってページを捲っていたら、それは絶対に俺が見てはいけないものだった――。


 


 

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