第34話 十五年前の失われた記憶へ
そこには、あれ以来一度も近付いたことすらなかった。というよりも、親が決して近づけようとはしなかったし、行ってはダメ、あの道は通ってはいけないと、きつく言われて、いつの間にかそこに近づかないこと自体が俺の、決して破ってはいけないルールになっていた。
もちろん、PTSD(心的外傷後ストレス症候群)はあった。今はもうないが、あれから高校に上がるくらいまでは、その手のニュースを見るだけで身体中から汗が噴き出して震えが止まらなかった。ただ、そのPTSDは、親からそのように過剰にストレスを与えないようにとの配慮や、カウンセリングを受けたり、周囲の大人達から神経質過ぎると言える程の扱い方だったからで、それ故に逆に怖くなってしまったのである。
言い方は悪いが、そうした過剰な配慮が俺をPTSDに陥れてしまっただけで、あのこと自体に対しては多分なんとも思ってなかった筈だ。だって記憶そのものがないんだし、逆行性健忘はあくまでも一酸化炭素中毒という外傷で起きたものであり、出来事に対する心理的ショックではないからだ。
だから、あれから十六年くらい経って、そこに行こうとすることに対して、若干の恐れはあったものの、自分の身に悪いことが起こるとかそう行った不安はほとんどなかった。ただ単に、親が勝手に気遣って言ってただけであり、それを今に至るまで忠実に俺が守っていただけなんだから。
――行こうと言ったのはケイだ。
ケイも、小学生同級生の奥井を除いたその前の三人に電話した時と反応は同じで、三太のことなど何も知らなかった。だけど、俺がそのPCに取り込んだ写真の画像で発見した強烈な疑問のことを話すと、最初はそんなことあるわけがないと信じようとはしなかったが、俺があまりにも驚いた様子で言うので、じゃあ私にも見せろと言うことで、その日の夜八時、俺んちに来たのである。
「――うん、そうだね、私はあまりはっきり見てないから確信はないけど、似てるかも知れないね、あの二人に」
「だろ? 俺はもう何回か実際に会ってるからさ、多分間違いないように思うんだ」
「でもさぁ、これ小学生だし、似てる子なんていくらでもいるんじゃない?」
「いやだって、一人ならあり得ても、二人並んでだよ?」
「今現在の写真とかはないの?」
「ない」
「じゃぁ私には今の所、似てるかも知れないとしか言えないなぁ」
とにかく、ケイに見せても仕方なかったってわけか。そうだよな、確か二回くらいしかまだ見てないし、二回ともほんのちょっとだった筈だからな。そりゃ無理もないよな。
「ねぇねぇ、その写真の現物ってあるの?」
「あるよー、奥井君から借りたボロボロのだけど」
と、俺はケイにその写真を渡した。
「奥井君て、あの小料理屋の息子だろ? たまに行くよ。しっかしこの写真ほんとにボロボロじゃん。これがパソコンでそんなに綺麗になるんだね。すごーい」
「今はもう、俺みたいなド素人でもこれくらい簡単」
「そうなんだ。でも実物見たからって何にもわかんないね」
「今度、もしかしら同じ写真が実家にもあるかも知れないから、探そうとは思ってるけど」
「でもさぁこれ、なんで私が写ってないの?」
「俺に聞かれてもなぁ。その写真は俺が五年生の時らしいけど、五年生って言ったらちょうど記憶がポシャってるところだし」
「あ、そっかー、五年生って言ったら、その年だけ半年か一年くらい家族で海外にいた時だ。お父さんが転勤でさ」
ますます、ケイには見せても意味がなかったってだけか、と俺はもっとPC上で写真をわかりやすくできないかと色々弄っていたら、ベッドの上に寝転がって写真見てたケイがパッと起き上がってこう言ったのである。
「だったらさぁ、直接今すぐにでも写真見てもらえばいーじゃんか。ご本人様に」
――え。いや、あの人とは今あれだから、そう言うのはその……。
「でも、もうこんな時間だし、今日も仕事みたいだったからさ、お疲れだと申し訳ないし」
「そんなの見て貰うだけで一分もかからないんだから、すぐ呼んじゃおうよ」
「えー、でも……」
「何? 喧嘩かなんかあったの? もしかして」
「いや、そーいうわけじゃないけど……」
「なんかよくわかんないけど……、じゃぁ私が呼んできてあげる」とケイはベッドから飛び上がるようにして、玄関まで行った。
「ちょ、ケイ、待てって」バタム。
――マジかよ。んとにケイは思いついたら即行動だもんなぁ、この前、郷原家に乗り込んだ時もそうだったし。しかし、参ったなぁ、まさかあの人を俺の部屋に呼ぶとか考えもしなかった。また、あの重い空気が……、はぁ。
「隆〜、千夏さん連れてきたよ。……入って入ってちなっちゃん」
わぁ……。ほんとに連れてきた。ケイってば人見知りゼロだからな。
「お邪魔しまーす」
「どうぞ、こんばんわ」なんか変に緊張するなぁ……。
「こんばんわ。で、私に見てもらいたいものって何なんですか?」
とりあえずちなっちゃん、表情は普通だな……。
「えっと、このパソコンの画面の写真なんだけど」
「これが?」
ちなっちゃんはキョトンとしている。
「写真自体に記憶ない?」
「全然ないですけど?」
「じゃぁ、ここね」と俺は画面を指し示して、「ここを拡大して、ちょっと色々補正したのが、これなんだけど……」
すると、ちなっちゃん、俺の真横に来るくらいに画面に顔を近づけた。確か、以前、目が悪いとか言ってたような……。
「アッ!」
――そのちなっちゃんの声に驚いたのはむしろ、俺とケイの方だった。
ちなっちゃんの顔が俺の顔の真横にあって、その声の大きさに心臓が飛び出す程ビックリしたけど、つーか椅子に座ったまま転けそうになったけど、それ以上に驚いたのは、同じちなっちゃんの声とは思えないほど本心から驚いたようなそんな異様な声の方だった。
そして、ちなっちゃんは右手で口を覆うようにして塞ぐと、そのままPCから顔をゆっくり離して、画面に視線を止めたまま、その場に立ち尽くし何も言わない。
「ちなっちゃん、どうしたの?」と俺が聞いても、全く聞こえていない感じ。
「ちなっちゃん、大丈夫?」とケイが心配そうに尋ねても、無反応。
そのうち、ちなっちゃんの顔がみるみる真っ青になってきたので、俺は思い切って大声で「千夏!」と呼びかけた。やっとちなっちゃんは我に返ったみたいに、口から手を退けた。
「やっぱりそれって?」と言いながら、ケイがちなっちゃんを指差した。
ところが、ちなっちゃんは凄い勢いで首を横に振ると、小さいけど、はっきり分かる声で、
「違います」
と言ってそれを否定した。じゃぁってんで俺が続いて、
「でも、こっちも違うの?」
と尋ねると、今度は静かに俯いて首を横に振る。でもそれじゃぁ、
「でも、何でそんなに驚いたの?」
と俺が尋ねたら、
「何でもないです。ただの勘違いです。もう部屋に戻っていいですか?」
と言って、「うん、いいけど?」って答えたら、逃げるようにして部屋を出て言ってしまった。
ちなっちゃんが出て言ってすぐ、俺とケイは視線を交わして、互いに不思議な表情。お互いに、狐につままれる、みたいな感じ。唖然というか呆然というか訳がわからんというか。
で、お互い気分を変えようと、駅前のミスドまで「茶でもしばこか」というケイの発案でね。
「あれ、何だったんだろう?」と、ケイがポンデリングを頬張りながら言う。
「さぁなぁ……、でもあの驚き方は異常だよな。マジで椅子から転げ落ちそうになったもん」
「なんかさぁ、テレビドラマとかでもあんな風に否定するシーンとかあるよね。私はやってません! みたいなさ」
「だとすればさ、あれはやっぱり……」
「うん、そうだとしか思えないよ、あんな驚き方、あの子顔ほんとに真っ青だったし、そうとしか考えられない」
――だよな。そうでなきゃ、あんな驚き方あり得ない。あの否定の仕方もそうだし、ケイが言うようにほんとに顔真っ青だったし。でも……、じゃぁどうして?
「隆は食べないの? そのフレンチクルーラー」
「え? 食べたきゃ食べていいよ。なんか食べる気にならないし」
「いっただっきまーす。……でも、何で否定するんだろうね?」
「わからん。……普通だったら、もしそうだったとすれば、どう反応する?」
「うーん、「えー? じゃぁそう言うことになるの?」って隆と顔見合わせてさ、十何年ぶりかの大発見ってことで喜ぶよね? 多分」
――だよな。そりゃ、最初は信じられんだろうけど、あんな風に異様な驚き方して、顔を真っ青にして、全力で否定するようなそんな話では少なくともない。
「隆もコーヒーくらい飲みなよ。カフェイン入れたらもっと落ち着いて冷静に考えられると思うしさ」
「ああ」と、ケイに促されて漸く一口目を飲んだら、ちょっとぬるかった。
「しかも、隆と真隣同士に住んでたってことなんだよ? そんなの絶対あり得ない超ミラクルなんだからさ、私だったら隆こそ運命の人だ! って飛び上がって喜んじゃうと思うけど……」
「そうそう、だから俺も信じらんなくてさ、目を何回擦ったかと。……でも、じゃぁあの反応は一体何なんだ? と。やっぱそこだよな」
「ほんとに何なんだろう?」
……と、いくらケイと話しててもさっぱりわからない、あのちなっちゃんの反応の意味。それでケイが、真面目に考えてても埒があかないと巫山戯た話をし出したのだ。
「例えばさ、例えばの話だよ? あの写真に幽霊見つけたとか?」
「あのなぁ……あれ、ボッロボロの写真を素人なりに一生懸命補正してさ、そんなのあったら俺が見つけてるって」
「じゃぁ、自分の不倫相手が写ってるとかは?」
「お前は一体何の話をしているんだ? ってネット画像を出してやろうか?」
「うーん、だってわかんないんだもん!」
「……だよなぁ、見てはいけないものを見てしまった、みたいには思うけど、それ以上はなぁ。さっぱり見当もつかん」と、俺は最早、匙を投げるしかないと思ったんだけど、行動派のケイは違ったんだ。
「ねぇねぇ、あの写真に隆もいるってことはさ、隆の記憶の中に答えがあるってことじゃない?」
「え? ……いや、だから小学校五年生の時の記憶は99%失われてるからさ」
「だからさ、それ、もしかして思い出せない? よくあるじゃん、記憶喪失の人が何かの切っ掛けで思い出すとかさ」
「でもさぁ、俺の場合、心理的な記憶喪失じゃなくて、一酸化炭素中毒で脳が物理的にヤラレタって感じだからなぁ」
「そっかぁ。……でも、やってみる価値はあるんじゃない?」
「何を?」
すると、ケイは腕組みして下を向いたり上を向いたり「うーん」と何回も唸って長考モードに入った。俺はしょうがないから、冷めたコーヒーを一気飲みして、おかわりを頼んだ。で――。
「現場に行こう!」とケイが言う。
「現場とは?」
「火事のあった現場」
ええ? あそこは俺が絶対に近づかない場所なんだが……。
「何? 十五年以上経ってもまだダメなの?」
「うーん、確かに十五年も経ってるけど、でもそれは出来たら避けたいなぁ」
だって、頑なに守ってきたルールだしなぁ。
「でもさぁ、あの写真の公園もどこだか思い出せないんでしょう?」
「そりゃまぁそうだけど……」
「じゃぁ行こうよ、現場。もしさ、前みたいに倒れても私がついててあげるからさ、大丈夫だって」
「うーん、……そこまで言うのなら」
と言うわけで翌日、日曜日の午後一時に十五年間、俺が決して近づくことすらなかったその現場にやってきたのであった――。
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