第24話 スペイン料理

 水曜朝七時。東の空は日の出からまだ少ししか経ってないからか、まだほんのり赤みを残しているが、空は真っ青に近いほどの雲一つない快晴。さすがに十一月中旬、これくらい晴れてると朝は肌寒く体もブルブルッと震える。ちなっちゃんを病院に連れて行く前に下だけジーパンに着替え、靴下も履いたけど、上は薄手のウィンドブレーカーをパジャマの上に来ていただけなので、余計に寒く感じる。


 ちなっちゃんは自分の部屋に戻ると割りとすぐに眠ってしまった。その眠る少し前に、ちなっちゃんが妹さんの凛ちゃんに連絡を取り、様子を見にくるらしいと聞いて俺は安心していた。病院で処方された薬を確認して、保険証と診察券を忘れないように元に戻すと、スヤスヤ眠るちなっちゃんを後にして、俺は部屋を出た。鍵はちゃんと閉めて、凛ちゃんに分かるように後で郵便受けに入れておく手筈になっている。


 ――まだあの手の温もりが残っているような気がする。


 初めて手を繋いだ記念だから、しばらく洗わない方がいいかもしれないと、右手をじっと眺めていると、なんだか自然とにやけてしまう。――いやいや、そうもいかないか。残念ながら相手はインフルエンザ患者だ、洗わないわけにはいかない。


「ちぇっ、つまんねーの」

 と思わず口に出して呟きつつ、ちなっちゃんの部屋のドアを一瞥すると、俺は自分の部屋へ戻った。ま、とにかく今日も仕事だ、仕事。夜中に目が覚めて以降ずっと寝てないけど、欠勤は元より、遅刻するわけにもいかない。ともかく、朝からお腹も空いてるし、顔洗って朝食を作ろうと決意してから土間でサンダルを脱いだ。


 でも、キッチンの前に立つと、シンクで少し手を洗うのを躊躇――、本当に握ってたんだよな、タクシーの中でずっと。でもどっちから握ったんだろう? 俺から? ちなっちゃんから? 俺がちなっちゃんの体温を気にしてたから、俺からかなぁ……。まぁいいや、初めて握ったってこの日を忘れなきゃイイ。とにかく顔洗おうっと――。


 ***


 ノー残業デーの水曜日、帰宅時は大体カバンが重い。ノートパソコンの持ち帰りが禁止されてからというもの、書類がパンパンに詰まったカバンを持ち帰らないといけないことが多くなったからだ。だからリュックにしている社員も結構いたりするが、とにかく重い。かといって、自宅に戻って自前で印刷するなど、もっとバカバカしいことだから仕方ない。しかも明日は祝日なので欲張って多めに持って帰っている自分も悪いんだけど、見切り発車で残業規制なんかするから……などと、ブツブツ言いながら自宅最寄駅から普通に歩いて十分ほどの帰路を歩いていたら、……ん? あの後ろ姿は?


 頑張って少し小走りで近づいたらやっぱり――。


「よう、ケイ」と声を掛けたら、ケイはそこで立ち止まってゆっくり後ろを振り返る。

「……隆、おかえり」と、なにやらあまり元気がない様子。ケイはピンク色のキャリーバッグを引き摺っていたんだが……。

「それ、何? ていうか、なんでこっちに?」

 ところが、顔を少し下に向けて上目遣いに何か言いたそうなくせに何も言わないで、ただケイは俺の顔をじっと見つめるだけ。

「なんだよ? なんかあったの?」

 と言うと、ケイは被っていたオレンジ色のキャップのツバに表情を隠すようにしてこうべを垂れ黙っている。一体どうしたんだ? 相当凹ん出るみたいだが……。


「とにかく、俺んちに来ようと思ってこっちに来たんだろ?」

「……うん」と力なく返事するケイ。

「じゃぁ、とにかく来い。て言うか、来るなら事前にメールしといて欲しかったな。たまたまここで会えたからいいけど、俺がいなかったらどうするつもりだったんだ?」

「……ごめん」

 かなり凹んでんなぁ――。


 ケイを連れて自分ちに戻ったんだが、ケイはダイニングテーブルの椅子に座ったはいいが、部屋に上がる際、力なく「お邪魔します」と言ったきりで、俯いたまま一言も発しない。どう見たって様子がおかし過ぎる。

 隣の部屋で着替えつつ、「なぁ、何があったの?」とは声を掛けては見たが、相変わらず声がしないので、着替えを隠すためだけに少し開けておいた引き戸から様子を伺うと……あれ? もしかして、ケイ、泣いてんの?


 「ほら、取り敢えずお茶でも飲めよ」と冷蔵庫から出したペットボトルからお茶をコップに入れて、ケイの前に置く。そのケイはと言うと、テーブルに両肘着いて両手で顎から顔を包むようにして俯いたまま、鼻を啜り続けつつ、消え入るような声で「……ありがとう」と言うだけ。


 ――困ったな。あんまりしつこく、何があったかなんて聞くのもどうかと思うし。でも、この様子じゃ、明らかに泣きたくなるような何か重大なことがあったことだけは確かなようだな。でもどうすりゃいいんだ? ……しっかし、今朝はちなっちゃんは泣いてたし、今度はケイが泣いてて、朝な夕なに女の子が泣くっつー、ったくなんちゅー日なんだ今日は。俺が女泣かせな存在なのか……とか考えてる場合でもないな。どうする? これ。


 で、相変わらずケイも鼻を啜り続けて、途方に暮れて思わず俺も「はぁ」と息を吐いたタイミングで、俺の空腹アラームが盛大に鳴ったんだな。そしたら……「…プッ」っと軽くケイが笑った。


「何がおかしいんだよ」と俺は言いつつも、自分自身それが不思議におかしくて咳き込みながら笑ってしまった。すると、ケイがむくっと顔を上げて言った。

「私もお腹空いた。夕飯、どうする?」まだ少し涙目だったが、少し明るさを取り戻した様子。

「まだ六時前か、ちょっと早いけど夕飯の買い物……」と、俺が言い終わるのを待たずにケイが言う。

「じゃぁ、私が今晩は作るから、私が買って来る。いいでしょ?」どうやら、さっきまでの暗い感じから脱出したみたいだった。

「え? じゃぁ、お願いしようかな。お金渡すし」

「いいよ、私が出すから。じゃぁ行って来る。何か食べたいものはある?」ケイはそう言うと椅子から立ち上がった。

「いや、特にはないけど」

「わかった。じゃ、私にお任せね。行って来るし」と言うと、ケイはさっさと出かけて行ってしまった。


 ふーん。何が何だかよくわからんけど、今日はケイと一緒にここで夕飯食べんのか。ケイの手料理で。……しかし、ケイの手料理なんか食べたことあったかな?あいつ一応、ホテルのレストランでコック勤めてるのに、神崎家でもいっつもおばさんが作ってんもんなぁ。切ったり程度の簡単な手伝いはしてるみたいだけど。


 ――そのとき、ふと玄関口に置きっ放しになってたピンク色のキャリーバッグが気になった。


 あれ、何なんだろう? どっか泊まりにでも行くつもりなのかな?旅行かなんかなんだろうか? みたいにぼーっと考えてたら、いきなり玄関ドアが開いた。

「隆、自転車の鍵貸して」

「え?ああ、その玄関脇のシューズボックスの上の段に置いてあるよ」そう言うと、即座にシューズボックスの中から鍵を取って行ってしまった。


 ケイが料理するっつーんで、とりあえずキッチン周りを綺麗に片付けたり、ダイニングを掃除したりしてて、することないからポケーッとテレビ見たりスマホ弄ったりしてると一時間ほどでケイが帰ってきたのだが、買い物の量が……。


「おいおい、一体今から何作ろうってんだ?そんなにいっぱい買ってきて」

 と俺が言うと、ケイは大きめのレジ袋一杯なのが二つと、紙袋になんか入ってるのをどさっとテーブルに上に置いた。

「はぁ、重かった。二軒もスーパー回ったからね」

「二軒も?で、献立は何?」

「へへへ。私がコックだっていう、プロの腕前見せてやっから。隆は奥の部屋で仕事かなんかして待ってなさい」ケイはどうも自信満々の様子。そりゃプロだもんな、一応。わーなんだろう?――。


 だが、お腹グーグーギュルギュル、流石に二時間も待つのはきつい。鶴の恩返しよろしく、トイレに先に行かされた後は、ダイニングは決して見るな! とのお達しではあったが、あまりにも食欲をそそり過ぎるキッチンからのイイ匂いに、堪らずそーっと覗いて見たんだよね。つか、ガラッと普通に引き戸開けたんだけどね。


「なぁなぁ、まだ……うおっ?」いやマジで魂消たまげた。

「ちょうど今呼ぼうかと思ってたところ。どう?結構頑張ったぞ」

「ちょ、これ、一体何これ?」赤や黄色やら緑の、派手でしかもさすがコックさん、全くレストランのように見事に盛り付けられている。

「あれ? 隆はスペイン料理とかって知らないの?」

「スペイン料理?」

「うん、私、ホテルの前はスペイン料理のレストランでバイトしてたから」

「すごーい。まさか俺んでこんな豪勢にスペイン料理とか信じ難い」

「でもパエリアと、このスペイン風ラタトゥイユ、生ハムのスープに、それにサラダ作るので限界。だって隆んち、食器も足りてないし、キッチン狭いし大変だったわ」とケイが笑いながら言った。

「いやいや、素晴らしいの一言。マジで尊敬する」

「そう言ってもらえると嬉しいけど、とにかく食べよっ、私ももうお腹ペコペコだし」

「うん!」


 とにかく美味しかった。本音を言うと、スペイン料理なんか多分ほとんど食べたこともないので、よくわからなかったと言うのはあるんだけど、パエリアもシーフードがいっぱいで美味しかったし、スペイン風ラタトゥイユをフランスパンに乗せて食うとかまるでレストランみたいだったし、ハムのスープもとにかく流石はプロって感じのお店で食べるような美味しさだった。


「ホントにホントに美味しゅうございました」と俺は丁重にケイに頭を下げた。

「料理の鉄人かよっ。あはは。でも良かった、実は手作りでしかも一人で作ったなんて初めてだったからさ」とケイはビールの残りを飲み干しながら言った。

「あら?付き合ってた彼氏とかには作ってあげなかったの?」

「そんなめんどくさいことは私はしない。お弁当を簡単に作ってあげたことあるくらいで、本格的手料理を人に食べさせたのはこれが初めてだよん」とケイはニコニコ微笑みながら言う。

「わー、じゃぁ俺が最初かぁ。でも保証してやるよ、ケイの旦那さんになる人は料理だけは心配ないって」

 イイよな奥さんが料理が上手ってのは、って普通にそう思ったから素直に言っただけなのに、ケイの反応は意外。

「ふーん、……別にそんなことはどうでもイイけどさ」

 って妙に無反応。て言うか、一瞬、今日俺んちに入ってきた時みたいにまた少しケイが暗くなった気がしたんだ。で、やっぱりどうしても気になる……。


「なぁ、ケイ、何があったの?」

 すると、ケイは腕組みして少し何か思案するよなそぶりをしてから、こう言った。

「後で言う。……それよりさ、今日の私の手料理、一泊宿泊代金ということで、お願い!」と言って、突然、合掌。

「はぁ? え? つまり、あの荷物はここに泊まる用だってことか?」

「うん。隆、ごめん、ホント今日一晩だけ、お願い」


 エーーー? うっそだぁー! そういうことだったの?




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