第22話 山本、屋上で黄昏れる。
木曜日。二課の抱えていた大型案件もそろそろ納期を控えて最後のラストスパートという状況になりつつあった。こうした最終局面に入ってくると、誰もが結局「山本さんいてくれてやっぱり有難かった」と思うようになる。山本が仕様変更作業厭わず部下からどんなに文句が出ようともガンガン指示を飛ばすのは、クライアント側からあまり勝手な仕様変更などをさせない、という目論見があってのことなのだ。
これはこの業界ではよくある話。クライアントは自分たちが金払ってる上の立場だから、いわば神様にでもなった気分の人もいるのだ。で、あーしろこーしろと、実際の契約内容や今まで打ち合わせて作ってきた仕様などを飛び越えて、勝手なことを言いまくってプロジェクトを混乱させまくる。それを、山本は山本流のやり方で防波堤となって防いでいる、というわけ。先読みしてプロジェクトが大混乱しないように。
俺なんかではとてもそんなの無理だ。せいぜいが、一課の鏑木課長のように、とにかく取引先や下請けさんと仲良く、部下とも仲良く、みんな揉めないように、謝る時は必死で誤り、嫌な言い方だが媚びへつらうくらいに謙虚に、そんな感じで人間関係の方で何とか出来るだろうと考えるしかない。あんなの絶対真似できねぇ。
というわけで、作業はかなり落ち着いたものになってきていて、応援で入っている俺なんかは正直暇を持て余していた。俺は暇なら暇でいいのだ。みんなにコーヒーを振る舞ったり、お掃除したり、紙ファイルをきっちりファイリングしたり、シュレッダーしたりと、率先して雑用係をしておったのだな。で、そのシュレッダーをしている時に「ん?これ何?」とある書類が紛れ込んでいることに気付いたわけよ。
以下は俺の独り言――。
「婚姻届?ぐっしゃぐしゃに丸めて皺皺になってるけど、雑書類束に紛れ込んでたから、ゴミ箱に捨てたけど再度取り出したってことか……一体誰の?……山本勝男/御崎舞って、おおっ!遂にか!……いや待て、ちゃうやん、捨ててるやん……て、なんで俺、関西弁になってんだよ……書き間違えかなんかかな?……いや二人共印鑑も押してあるし……うーむこれ、しかしこのままシュレッダーにかけていいのか?……気付かなかったってことにしてシュレッダーにするか。必要だったらまた役所に取りに行くだろうしな……でも重要書類ではあるわけだし……結婚記念日を今日にしたくて今日提出するつもりだったのかもしれないし……うーん……」
仕方ねぇな。こんなの見つけましたけど、どうします?って山本に持ってくか。万が一ってこともあるしな。よし。
「山本課長、ちょっといいですか?」俺はデスクで作業中の山本に声をかけた。
「何?ちょっと待ってて、そこで」いや、待ってってすぐ済む話だし…。俺はその皺くちゃの婚姻届を山本のデスクの上の置いた。
「あ…これか。どこにあったの?」
「シュレッダーに掛ける要らない紙の箱の中です」
「…そっか。ありがと。このことはみんなには内緒にね」と何故だかしんみりという感じの山本。ともかく、その婚姻届を渡して山本のデスクを離れたら、その山本が「うーーーん」と大きく一呼吸をしてから、席を離れて何処かへ行ってしまった。ふとエレベーターに乗り込む山本を見たら、右手にその婚姻届を持って。
そう言えば、御崎さんが火曜日から会社に来てない。病欠らしいけど、あの婚姻届となんか関係あるんだろうか?別に関係ないからいいけど……。でも、二人ともちゃんと印鑑まで押してあって、ってことはそれを山本が提出しようとしたってことなんだろうな。でも捨てようとした。何故?……つか、なんでそんなことが出来るんだ?結婚した、でもホントはしてない、みたいに隠そうとしたのだろうか。まさか。え、でもあの山本だしなぁ。…あの二人に俺は関係ないのに、気になって仕方がない。
「なぁなぁ、山本どこ行ったか知らない?」と、伊藤君が困った様子で話しかけてきた。
「さぁ…」
「さっきなんか二人で話してただろ?ほんとに知らない?」
「全然知らない」だって知らないもん。
「そっかぁ。弱ったなぁ、急ぎの用件があるんだけど携帯も机に置きっぱなしで連絡も取れんし…、取り敢えず戻ってくるの待つしかないか」と、伊東は自分のデスクに戻った。
――いや、確かそう言えば…、あのエレベーター、確か最上階まで上っていったような気がする。ふと、俺のデスクから見えるエレベーターホールの階数表示を見て、なんとなく、そんな気がしただけなんだけど。最上階ってことは、行くとしたら屋上しかない。
「伊東くん、伊藤くん、もしかしたら屋上かも知れんから、ちょっと俺見てくるわ、暇だし」と俺は席を立った。
「おう、サンキュ。いたらすぐ戻るように言って」
「わかった」
で、屋上に上がったら、いた――。山本はだだっ広い屋上にある、一つしかないベンチに腰掛けていた。他には誰もいない。
「おーい、山本課長、伊藤君が呼んでるよ」ん?あれは……山本、タバコ吸ってんの?お前、嫌煙家じゃなかったけ?
「ああ、分かった。伊東にはちょっと待ってて、つっといて」と、山本は席を立つ気配がなかった。屋上に上がる階段ルームからそのベンチを遠目によく見ると、山本はタバコと、もう一方の手にはあの婚姻届が……。何故だか気になったので、俺は山本に近づいてみた。
「何か?御手洗ちゃん」と山本はこっちも見ずに言う。
「いや、何ていうか……月曜日の件、ちょっと謝ろうかなぁと思って」
「何?月曜日の件て」
ちなっちゃんのハンカチの件というか、結局何事もなかったので、俺は山本にちょっと負い目を感じていたのだ。疑ったりして悪かったなぁ、みたいな。俺はそのベンチに腰を下ろした。
「うん、言い難いけどさ、山本はてっきり……」
「千夏さんに何かしようとしてた」え?なんでその続きを山本が言うの?
山本は吸っていたタバコを足元に落として火を踏み消しながら言った。
「別に疑われたって俺はなんとも思わないから、謝んなくったっていいさ。それに、千夏さんみたいにあそこまで可愛かったら、男だったら誰でもどうにかしたいなって思うしさ。気にすんな」
「ああ…」返す言葉がねぇわ。つか、お前それ、俺でも惚れるくらいかっこいい台詞だわ。
「でもさぁ、千夏さんってほんといい子だよな。御手洗もそう思うだろ?」
「え?……まぁ、そうかな」
「あんないい子を、俺がどうにか出来るわけないって。付け入るスキもなかったし」
てことは、やっぱ付け入ろうとは思ってたってことか。
「ていうかさ、ああいう、ある意味完璧な美人な人ってさ、ずっと処女でいて欲しいよな。ほら、昔の人がさ、タモリだっけ?、吉永小百合は「うんこしない!」みたいなさ、そういう存在。はははっ」
何を言ってるんだ、こやつは。つーかさっさとデスクに戻らないと駄目なんじゃないのか?
「ところでさ、山本、それ、どうすんの?」と俺は視線を例の婚姻届に向けた。別に婚姻届なんかどうでもいいけど、さっさと話を終わらせて切り上げようと思っただけ。
「これなぁ。参っちゃってさぁ。でもなぁ、結婚はいいんだけど、俺的にはどうも…」
「結婚するんだったら、役所に出せばそれでイイんじゃないの?」
「そうなんだけどな。……ま、いいや。俺、戻るわ。タバコ吸ってたの、みんなには内緒な」と言って山本は屋上を後にした。山本がこの時何を悩んでいたのか、それがまさかあんなことになろうとは、もちろんこの時点では分かるわけはないのだけど。
さて――。
山本が結婚に対して何か悩みがあるらしいのはわかったが、それはいいとして、実は俺にもちょっとした悩みが生じ始めていた。というのは、今週月曜日の夜、ちなっちゃんとファミレスからの帰り道に一緒に歩いて以来、木曜日の今日まで一度も、会うことはもちろんのこと、SNSメッセージのやりとりすらしてないのである。
うちに帰るといつも、数分か数十分、あるいは何回も、じーっとSNS画面のまま「櫻井千夏」の名前表示を見つめては、結局メッセージの一つ送ることが出来ないでいる。だって、何話せばいいのかさっぱりわからないから。かといって、作戦参謀のケイに相談するってのも、どうもプライドみたいなのが許さない感じで躊躇っちゃうんだよな。
というよりも、自分で考え、自分で行動しないとダメだ、という気持ちが日に日に強くなってきた。よくよく考えたら、実際のところ、ちなっちゃんに対しては俺は自らは何もしていないに等しかった。偶然に洗剤をちなっちゃんから貰って、ハンバーグをお返ししろというのもケイのアイデアで、あとはちなっちゃん側からその御礼や、あるいは引っ越しの協力要請という形であって、俺は自分自身からは今のところ何もしていない、としか思えなかった。
そんなことを考えつつ、木曜日の今日も、うちに帰って、SNSのメッセージ画面をじーっと睨み続けて既に夜十一時。やっとのことで、ちなっちゃんとの初メッセージの最初の一言を、勇気を持って「えーい、ままよ!」と一人呟いて発したのである。
「こんばんわ」
ドキドキして待っていると、ちなっちゃんからの返事は一分もかからなかった。
「こんばんわ。夜は少し寒くなってきましたね」
こんなに簡単なことだったんだ。何を俺は何日も迷ったり悩んだりしてたんだろうかと、拍子抜けっつーか、童貞さまさまっつーか、アホというか、なんつーか。ともあれ、溜まりに溜まったダムの水を一気に放流するかのごとく、その日は夜一時までずーっと、ちなっちゃんとSNSを通じて他愛のない会話を続けることが出来た。最後にはとうとう調子に乗ってこんなメッセージまで送ってしまった。
「ねぇねぇ、ちなっちゃん、無料の映画鑑賞券五枚も貰って持ってるんだけどさ、今週末にでも一緒に見に行かない?」と。
もちろん返事は即来た。
「今週の週末は予定が入ってて無理なんです。すみません」
調子に乗ってもうまくいくとは限らん、と、一つ勉強になったのであった。
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