第14話 Take the A Train

 実は、山本勝男、またの名を「かっちゃん」は水曜日の退社後から出張中で、翌週月曜日まで帰ってこない事は決定している。仕事の指示は相変わらずその出張先の会社だかホテルからだか知らんが、パソコンにガンガン飛んでくるので、ウザさは変わらなかったりするんだが、「かっちゃん」の仕事ぶりの凄まじさというのは認めざるを得ない。単に有能、優秀さなどといった言葉だけでは片付かない。全方位的にアンテナを張り巡らせて、微に入り細に入りほんとによく気がつくし、しかも仕事が早い。


 そう、山本は「仕事が早い」。だから、櫻井さんのハンカチの件はあの事件のあった翌日火曜日には実行されるのかもしれないと思ってたら、意外にもそのハンカチを御崎さんが持っていたので実行はまだ為されていないと、あの時「ひまわり」で内心は少しホッとしていたのだが、結局は山本の方にハンカチは戻されてしまい、心休まるのは月曜日まで、ということになる。


 仕事以外であの二人、山本御夫妻(予定)には関わりたくない。今後、御崎さんがたとえ相談に乗ってほしい、とかこっちに来ても何か適当に理由つけて断るつもりだ。しかし、「ハンカチ」はまだ生存を続けている。はっきり言って止めて頂きたい。そりゃね、櫻井千夏、またの名を「ちなっちゃん」(ケイがそう呼んでから俺も頭の中じゃ、そう呼ぶようになっていた)は俺に取っちゃ高嶺の花過ぎて、結局は単なる憧れで終わってしまうのだろうと思うし、別にそれでも仕方ないよなぁ、という現実くらい分かっている。


 だが、どうしてなのか自分でもよく分からないが、あの俺を見つめる瞳の眩しさは日に日に俺の中で存在感を増しつつあるのだ。だって、お家に帰ると「今日こそもしかしたら「何か考えておきますね」が遂に来るかもしれない」ってどうしても胸躍ってしまうんだもん…まだないけど。だから毎日、帰宅すると一度は必ずベランダに出て隣人の在室確認をするようになった。いたりいなかったりだけど、ともあれまだそれは来てない。だから、あの時ひまわりであのハンカチを渡してしまったのは、結構後悔していて、月曜日までその不安はないとは言え、気になって仕方がなかった。


 社内で御崎さんに「やっぱり返して下さい」と言おうかと何度か迷ったが、関わりたくないという気持ちの方が勝ってしまい、結局言い出せず。もしかしたら山本はすっかりハンカチのことなど忘れて何も起こらないかもしれない、って期待もあったし。…いやあの目敏めざとい山本が忘れるだなんてことはない、という方の可能性は高いとも思うけれど。


 大体、そんな感じのことを水曜日以降、金曜日くらいまでおうちに帰るとひとりボーっと考えてたりしたんだよね。そう、金曜日の夜八時くらいまでは。あと付け加えるとしたら、御崎さんからお礼として貰った映画鑑賞券。もし、ちなっちゃんがこっちに来た時、「もしよかったら、これで一緒に映画見に行きませんか?」とか勇気出して言えたら良いのになぁとか妄想も何度かしたり。


 で、そろそろ夕飯の食材をスーパーに買いに行こうかと出掛けようとしたら、まさにピッタリのタイミングでちなっちゃんがちょうど帰宅してきたところに出会したんだ。


「あ、どうもこんばんわ、お帰りなさい」


 ちなっちゃんは、今日は淡いピンク色のジャケットに白のシャツ、グレーのスカート姿で片手にビジネスバッグ、もう片手には俺が今行こうとしていたスーパーの買い物袋をぶら下げていた。


「こんばんわ」

「この前は、夜分にどうもすみませんでした」

「いえいえ、そんな。あの方は大丈夫でしたか?」

「ええ、まぁ、大丈夫みたいでしたよ」

「そうでしたか。それじゃぁどうも」


 と、ちなっちゃんは自分の部屋に入ろうとしたので、俺も買い物に出かけようとエレベーターの方に向いて歩こうとした、その時。


「…あの、御手洗さん、どこかにお出掛けなんですか?」

「ええ、ちょっとスーパーまで夕飯の買い物に」


 するとちなっちゃん、開けたドアから部屋の中へ荷物を一旦置くと…。


「あー…じゃぁどうしよっかなぁ」


 ?


「御手洗さん、九時過ぎくらいまで待っててもらえますか?」

「待ってって、とは?」

「いえいえ、その…、出来たら夕飯、作らずに待っててもらえたらなぁって。駄目ですか?」


 あ。それってもしかして、遂にか。遂に来るべきものが来たってことか。


「え、あ…、く、九時くらいなら全然、よ、余裕でお待ちできますよ」

「よかったぁ!じゃあ、急いで用意しますので、部屋で待ってて下さいね」


 バタム。


 やったぜ!遂に来たってか!わー、なんかワクワクしてきたぞ!「用意する」って今言ったよな、つまりちなっちゃんの手料理が食べられるってことか?わー、なんか、なんか、めっちゃくちゃワクワクしてきた〜!…バコッ!痛って!


「エレベーターに挟まれるとか!何やってんだよ俺は。どうして出掛けようとしてるんだ、このバカ。部屋で待てって言われたろ、俺」


 エレベーターホールから部屋に戻るまで約五メートル。ほんと、馬鹿みたいにストレートやフック、ジャブ、アッパーカットのシャドーボクシングをしながら自室に戻った。…こないだ、山本から「いいパンチ」と言われてから何故か癖になったのだ。


 何かなぁ?何かなぁ?何を作ってくれるんだろうなぁ?

 ちなっちゃんの手料理なら絶対美味しいんだろうなぁ。

 …いや、もし万が一不味くたって、全部平らげるし。俺好き嫌いないし。

 たった一時間だけど、待ち遠しいなぁ…早く来ないかなぁ…ってまだ五分しか経ってねぇか。五分じゃ作れねぇしな。


 うわー、何だろ?何だろ?

 ちょっと前祝いにビールでも…いやいや、腹はすっからかんにしておかなきゃな。

 グーグーうるせぇけど、我慢だ我慢。

 女の子から何かもらうって、こんなにワクワクするものなんだなぁ。

 えーっと…、女の子から何か貰ったって、あったかなぁ…。義理チョコとか?ケイがたまにくれた誕生日プレゼントとか?…くらいか。

 つか、こんなに貰う前にワクワクしたなんて経験は一度もない。

 てことは、彼女とかからなんかもらうってこんな感じなのかなぁ。

 なんかいいな、この感じ。


 …彼女、彼女か。ちなっちゃんは彼女じゃないけどな。ただの友達だ。

 まぁいいや、友達でもさ。

 あんな可愛い人と友だちになれたってだけでも俺的には凄いことじゃん。

 あんな可愛い人が、隣人で、偶然、洗剤貰って、ケイの発案だったけどハンバーグ食べてもらえて、喜んでもらって、ちょっと強引だったのに友達までオッケーしてもらって、その上手作り料理まで、って。

 すごいすごい。奇跡が起きたって感じ。


 何かなぁ、何かなぁ。

 正直、生まれてから、俺にいいことなんか、何回くらいあったろう?

 あったよ、それなりにはさ。

 でも、小学校時代とか、ほんとあんなの最悪だし。

 ていうか、ワクワクしながら何かを待つって、そんなにないと思うなぁ。

 …なんか俺って今、ガキみたいだな。自分で笑えるし。おっかしい奴だな、ったく。

 あ、そうだ、喫茶店「ひまわり」に感化されて、昨日数年ぶりに買ってきたCD、ちょっと聞きたくなった。


 デューク・エリントンの「A列車で行こう」。


 うわー、なんかこれ、今の俺の気持ちにぴったりじゃんか。

 ワクワク何かが始まるって感じになってきた。盛り上がってきたなぁ。

 …、…、…。


 そして時間は夜九時を過ぎたが、まだ来ない。別にいくら待ったって真隣の隣人なんだから別に全然かまわない、十時だろうが、十一時だろうが、朝までだって待ってやるよん。俺は取り敢えず、会社から持ち帰った仕事の資料などを読みつつ、ノートパソコンを開いて仕事したりしていた。


 残業規制が敷かれてからというもの、持ち帰らざるを得ないのである。これが、上層部にバレたら懲戒モノなんだが、仕事量から考えて月40時間の残業制限では到底不可能。何度もこうした不満は会議などで話し合っているものの、みんなで分担しましょうってくらいの努力目標が出る程度で解決方法はなく、結局仕事は待ってくれないし、今のところ、仕事を続けるには我慢するしかないって感じ。現実に理想が追いつくのはまだまだなんだろうなぁと、みんな溜息ばっかり。持って帰ったところで一円も時間給は出ないしね。


 でも今日は別に不満なんかない。だってだってだってなんだも〜ん♪…と、ふと時計に目をやると九時半になっていた。ピーンポーン。あ!キタキタ!遂に来た!待ってたよ〜!、と入り口から大股で五歩も歩けばすぐそこにあるDKにいた俺はすぐにドアを開けた…、だが。


 確かに、そこにちなっちゃんは立っていた。が、手には何も持っていない。あれ?


「すみません、ちょっと時間が掛かっちゃって」

「ええ、いえいえ、それは、別にいいんですけど」

「じゃあ、用意できましたので、どうぞこちらへ」


 え?何?…、え?…、…、つまり、お部屋に来て下さい、って事?

 えーーーーーーー!?

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