第12話 喫茶「ひまわり」にて。

 そして水曜日。二課の課内で俺はてっきり殴ったことを、山本が言いふらしてんじゃないかと思っていたのに、山本はただ「転んだ」としか誰にも言ってなかったようだ。山本自身も特にあの晩のことは何も触れず、激務の続く状況で今日も一日が終わろうとしていた。


 水曜日はノー残業デー。特別の許可のない限り、17時以降の残業は許されず、事務所の照明は17時20分で強制的に消されてしまう。この方針が会社から出されたのが三年前からのことで、当時はほとんどみんな夜遅くまで仕事してたし、終電過ぎるのも珍しいことではなかった。だが世間の長時間労働を悪とする空気を意識した社長の鶴の一声で、厳しい残業規制が敷かれるようになり、休日出勤は原則禁止で、残業も月トータル40時間までに制限されることとなった。で、水曜日は残業禁止デーになったのである。


 しかも、退社後の飲み会等も水曜日は原則として行なってはならない。それも仕事の延長線上ととらえられかねないということなのだろう。だから、仕事関係にある人とは誰とも内外を問わず、退社後には食事にすら行ってはならない。…の筈なのに、そうした規則を守らせるための部署である筈の総務部の、あの御崎さんからスマホにあるメッセージを受けていて、俺は困惑していた。


“今日の17時半、駅前の反対側にある「ひまわり」って喫茶店で待ち合わせ可能ですか?”


 正直言うと、気持ち的には御崎さんにはあんまり関わりたくない。宴会で座席を隣にしろとか、山本を送って帰れとか、その目的を伏せて、本来、全く無関係な俺に言ってくるからである。他人に利用されてるって感じは、結構不快なものだ。それがたとえあの悩殺美人の御崎さんであろうとも、だ。ただ、その次に来たメッセージがどーしても気になる。


“月曜日のお願いの件につき、ご迷惑をおかけしたと思いますので、理由をしっかりとお話します。またお礼もさせて下さい。よろしくお願いします”


 うーむ。どうしたもんかのぅ…。会社の規則はまぁ、取り締まるべき総務の御崎さんだから別にいいとしても、また何か利用されそうな気がする。でも、理由をちゃんと教えてくれるってんなら…。判断に迷うなぁ。今後特に関わらないってんなら、別に理由とかどうでもいいし。…でもお礼、ちょっと興味あるんだけど。


 そんな感じで自席でグズグズしていると、天井の照明が次々に消される時間となった。周りは既にほとんど退社している。その時、また御崎さんからメッセージ。


“これ、御手洗さんのですか?”


 というメッセージとともに写真が添付。…?これ、ハンカチ?え?もしかして山本が持って帰った櫻井さんのハンカチじゃ?…うーん、写真じゃそこまではよく分からんけど、取り敢えず返事を返すか。


 ”私のではありません。少し遅れるかもしれませんが喫茶店には行きます”


 しゃーねぇ。とにかく行くか。


 駅の反対側ってあんまり来たことない。御崎さんのメッセージにあった喫茶店の名前「ひまわり」でスマホに教えてもらって、場所はこの辺の筈なのに、十分もウロウロ探す羽目になった。やっと見つけたその喫茶店「ひまわり」は、ほとんど日光も指しそうにないビルとビルの間の、車も通れない狭い路地にあった。…あー、だから「ひまわり」っていうのかな?まぁいいけど。


 十人入れるかどうかくらいの狭くて暗く、古い感じの喫茶店。御崎さんはすぐわかった。店内はジャズが流れている。ジャズにはちょっとだけハマった時期があって、ああ、これはマイルス・デイビスのラウンド・ミッドナイトだってすぐわかった。し、渋すぎるぜ、ここ。


「ごめんね~、わざわざ来てもらって」

「ええ、まぁ」と対面に座ろうとしながら店内をきょろきょろ見渡す俺。

「どうしたの?そんなにきょろきょろ」

「え?…いや、なんかここタイムマシンかって思うくらい昭和感満載みたいで」


 すると、店長さんらしき人が俺の注文を取りに来た。


「何になさいますか?」

「あー、じゃぁ…クリームソーダで」と言うと御崎さんが笑っていう。

「クリームソーダ?御手洗くんの注文って意外〜」

「こんな店だから、せっかくと思って。クリームソーダって昭和感あるじゃないですか」

「へー、そうなんだ。そんなの全然知らない」

「え、でも御崎さんがこの店指定してきたじゃないですか?それに俺より年上の筈でしょ?」

 すると、御崎さんはバッグからタバコの入ったケースを取り出しながら「タバコ吸っても良い?」って聞くので、俺は全然なんとも思わないからオッケーした。御崎さんはカチッとタバコに火をつけて、一息吹かしてからこう言った。

「タバコね、この辺じゃあんまり、吸えるこういうお店とか見つけにくくなってきちゃってさ。ここ雰囲気好きだし。このジャズとかお洒落じゃん」

 おー。そう来たか。じゃぁちょっと自慢してやろう。

「セロニアス・モンクのラウンド・ミッドナイト。俺はマイルス・デイビスよりフィッツジェラルドみたいな歌が入ってる方が好きですけど」

「え?え?御手洗くん何言ってるんだか全然わからない」…がっくり。

「この今かかってる曲のことですよ。昔ちょっとジャズにハマってた時期がありまして」

「わぁ、すっごい意外。いい趣味してるじゃん。あ、クリームソーダ来たね」


 どうぞ、と店長らしき人が置いたそのクリームソーダはまさに期待したとおりの出来だった。


「これっすよ、これ。さくらんぼ」

「全然わかんない!御手洗くん、歳、誤魔化してない?」

取って27歳っす」

「…そんな言い方、今時の人はしないから」


 御崎さんはタバコを灰皿で潰すと、なにやらバッグの中を探しながら本題に入った。


「この前はほんとありがとう。これ、…えっと、あったあった、これ、こんなものしかないけど、御手洗君、もしよかったら」

 と、封筒を俺に差し出した。中を見ると、ある映画館専用の劇場鑑賞券が計五枚入ってた。

「それ、その映画館ならどんな映画でもそれでタダで見られるって」

「そうなんですか。たまに映画見に行くのでありがたいです」

「彼女と行ってらっしゃいよ」

「え?…あ、いや、彼女はその…特に今はいないんで」

「あら、そうなんだ。私もそのヘアスタイルでてっきり彼女がいらしゃるのかなぁと思ったりしてたけど、…じゃあとにかく、映画楽しんできて下さい。それで、月曜日の件ね、御手洗くんを利用したみたいでホント申し訳なかったです」

 と御崎さんは深々と俺の前で頭を下げた。俺は一瞬「いえいえ」と言いそうになったが、しかし、あの件は謝ってもらって当然だと思ったので言わなかった。それよりも…。

「で、なんで席を隣にしてくれ、とか、送っていってとか俺にお願いしたんですか?」

「そうだね。切っ掛けはたまたまふと思いついただけなんだけど、ほら、月曜日の朝、パソコンで飲み会の参加者確認しててね、今日は誰にかっちゃんを送ってもらおうかなぁって考えてたの。そしたら、その時、御手洗くんの名前がメンバーに新規登録されたからさ、あ、そう言えばかっちゃんと御手洗くんって同期入社で、もしかしたら私が今困っていることを相談出来るかもしれない、って思ったの」


 ジャズは今度はマイルス・デイビスに代わってコルトレーンのマイ・フェイバリット・シングスが流れていた。あまりに渋すぎて思わず俺は「おお!定番過ぎる!」と声を上げそうになってしまった。


「御手洗君、ちゃんと聞いてる?」

「え…あ、はい、続きを」

 ズズズッとクリームソーダをストローで吸い上げ、長いスプーンでクリームをぺろっと一口食べる。

「でね、最初は相談のつもりで御手洗くんに席を開けてってお願いしたんだけど、飲み会の雰囲気だとそうも行かないよなぁって、あとで思い返して。あの日、私んちに田舎のお母さんが来てたからさ、早く帰らないといけなくて、そんな時間もないだろうなぁって」

「で、俺に相談したいことって何だったんですか?」

「…あいつ、女癖が悪いってみんな思ってるでしょ?」

「ええ、まぁ、そうですね」

「ところがね、かっちゃん、「俺は浮気など一度もしたことはない」って言うの」


 ストローから飲んでたソーダが鼻から出そうになった。なわけねーだろ。


「ごほっ。そ、そんな嘘をあいつが?御崎さんに?」

「まぁねぇ。あたしも噂自体は耳に嫌ってほど入ってきたから、ホントのとこどうなんだろう?とは思ってはいたんだけど、よく考えたら実際は噂だけなの。で、聞くとそう言うし。もちろん浮気してたって「浮気した」なんて言う訳はないんだけどさ」


 確かに噂だけかもしれないけど、でもなぁ…。


「でも、御崎さんを前にしてこんなことを言うのもどうかと思いますが、あいつ自分自身であの女がどうとかなんとか吹聴しまくってますよ。それに、社内ではないですけど、取引先の会社の受付嬢さんの電話番号聞き出したりとか、実際に見た人もいっぱいいるんですけど」

「そう思うでしょ?それがね、かっちゃんに言わせると「周囲にそういう男だと思わせておくと仕事はバリバリ出来るってイメージにも繋がるから計算でやってる」って言うの」


 はぁ?計算で?全然そんな風には見えないぞ。こないだ俺が殴った時なんか、俺にそんな姿見せても意味ないじゃんか。それはあり得ないと思うがなぁ。つか、それ浮気誤摩化す作り話としか思えないんだけど。


「そういう風に御手洗くんも首捻っちゃうでしょ?私もそうなの。でものろけるようであんまり言いたくないんだけど、かっちゃんって私のことすっごく大事にしてくれるからさ、やっぱりどうしても信じたくなっちゃうわけ。ここまで聞いてどう思う?」


 どう思うって…うーん、しかし、どう考えたってあの櫻井さんのハンカチの件、あれは流石にわざとやってるだなんて考え難いしなぁ。


「そうですねぇ。うーん…あ、つまり、浮気そのものの証拠は一切ないってことなんですか?」

「そうなのよ!それなの。もし浮気してたとしても、誰といつしてるのかも全くわからないわけ。口紅つけて帰ってきたりとか、香水とかの移り香とかも全くないの。だから、私としてはかっちゃんを疑う余地すらないわけ。なんにもないんだから、実際は」


 ふーん。そう思いたいんだったらそう思えばいいとしか言いようがないではないか。俺ら的には浮気してないだなんてあり得ないとしか思えない。つまり、それはあいつは無茶苦茶に用意周到で微に入り細に入り念入りにやってるから、ってだけなんじゃないのか。あいつならやると思うけどな。まぁでも…。


「それなら、別にいいじゃないですか。山本が御崎さんを大事にしてくれてるってわけだし、実際には何にも問題がないってことなんでしょ?」

「…それがね、そう話は簡単じゃないから困ってるの」


 まだ話続くのかよ…。しょうがないからこのさくらんぼ食べちゃおうっと。

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