第10話 ハンカチ

 滅多にはないが、一人暮らし初めて2年くらいの間に、時々来る母やケイを別として、二回ほどなら他人を部屋に上がらせたことはある。一人は大学時代の同級生、もう一人は会社の一課で仲のいい同僚。だが、それでも泊めたことは一度だってない。玄関とDK、あとは八畳の洋間以外にはトイレ一体のユニットバスしかない、男一人暮らしの、控えめに言っても整理整頓すら行き届いてないところに泊まろうなんて奴の気が知れない。


 正直、酔いがそんなに酷くないんなら、終電には全然間に合うんだから、とっととどっかの駅から帰れ、と言いたいくらいだったが、土下座までして帰りたくないとは余程のことである。じゃぁ、適当にどっかホテルとかネットカフェでも行けよ、と言う手もあったが、それを思いついた頃にはとうとう俺のマンション前までタクシーは到着してしまった。


 タクシーを降りて、エントランス前まで山本を連れてったんだが、頭ははっきりしてるみたいなのに足元は覚束ないみたいで、多分数ミリくらいしかない入口の段差で躓いてすっ転びやがった。


「痛ってぇ」

「世話のやける奴だなぁ。足元くらい気をつけろよ、ほら」と山本の腕を引っ張って起こしてやる。

「…へぇ、なかなか新しそうなマンションじゃん。家賃いくら位?」

「んなことどーでもいいだろ。入り口開けるからさっさと歩け」

「へぇへぇ。おっ、玄関オートロックとか生意気な」

「あのな、いまどきそんなの普通だろ」


 くっそー…、やっぱどうにかして連れてくるの止めればよかったな。こいつの貸しにしていいとかって言いやがったけど、んなのいらねぇって感じ。…まいったなぁ。


「山本、先に言っておくが、このエレベーターってやたらと閉まるのが速いから乗り降りは素早くやれよ」


 って、乗る時に注意したのに、山本はフロアに着いて降りるのが遅れてしまい、その時同乗していた上の階の人と一緒に上がっていってしまった。しょうが無いから、多分そのまま降りてくるだろうと思って、この階で一旦止めようと下向きのボタンを押して待つ。だが…、到着して開いたカゴの中に山本はいない。


「あれ?…あいつ、どこ行ったんだ?」と不思議に思っていると、スマホが着信音を発する。「一課課長:山本」と表示されている…。

「もしもし?山本、どこ行っちゃったの?」

「それはこっちのセリフだぁ。いつの間に消えちゃってんだ、御手洗よぉ」

「消えたって…山本が四階で降りて、こっちについて来ないからだろ?」

「四階?…なんか、七って書いてあるけど」

 …ったくもう。あいつ、頭は酔いが冷めてんじゃなかったのか?

「七じゃねぇよ、四だよ、俺んちは。ウロウロされたら困るからそこで待ってろ。今から行くから、動くなよ」

「あーい」


 もうやだ。何であんなのの為にこんな苦労しなきゃならんのだ?…。うんざりしながら、エレベーターのすぐ脇にある階段で七階まで上ると、エレベータースイッチ番の下で胡座かいてスマホを弄っている山本がいた。俺の顔を見上げるなり、「おぅ久しぶり!」とか余裕こきやがって…。


 七階まで上がってきたエレベータに山本をカゴの中に引っ張り込み、四階で今度は確実に降りてもらわないと、と半ば突き飛ばすように山本を先に下ろし、その後を降りようとすると、このクソエレベーター、またしても挟み攻撃を実行しやがった。バコッ!「痛っ」と思わず口に出る。すると山本がこっちを振り返って…。


「あははははっ!御手洗のドジ!あははははっ」


 と思いっきり笑いやがった。俺は遂にブチ切れた。

「ふざけんなよ!もう帰れ!」

 すると、またしても山本は笑いながら言う。

「何いきなり怒ってんだよ?あはは」

 だが、もう俺は完全に激怒しているのだ。

「帰れっつってんだよ!泊めないからな!」

 やっと山本は俺がマジギレしていると気付いたようで、焦り出す。

「い、いやそりゃないだろ?ここまで来てさ」

 ここまで来てもクソもねぇってんだよ。

「知らないよ!タクシーでも電車でもとっとと帰れ!」

 さらにヒートアップした俺に遂に山本もキレ始めた。

「くっ!お前!それが上司に向かって言う言葉か!」

「こんなとこで上司ずらすんじゃねぇよ!さっさと帰ってしまえ!」

「んだと?この野郎!アッタマきた!」

 と、山本は俺の襟元を掴みかかってきた。ここは四階フロアエレベーターホール。ここまで大声でやりあって住人に聞こえない筈はない。ちらっとその瞬間、2、3室のドアが開いてて中から住人がこっちを見ているのに気がついたのに、カッとなってしまった俺は思わず山本の顔面をぶん殴ってしまったのだ。し、しまった、ヤバイ…。


 ドンッ!。静まり返った廊下に響く、山本が横向けになりながら勢い良く尻もちついた音。如何にも体重90キロの音だ。すぐそばなら震度1はあったろう…。


 その山本は、尻もちついたまま「痛たたたっ…」と顔の右側を手で抑えてる、その前で「はぁ、はぁ」と肩で息をしながら、そんな山本を見つめつつ立ち尽くすしかない俺。すると、背後から声が…。


「…あの、御手洗、さん?」


 振り向くと、その声の主はそこから5メートルほど離れた部屋の櫻井さんだった。うわっ、不味いところ見られちゃったな…。なんとか我に返って、一呼吸大きく息をつくと山本の前に跪く。


「す、すまない。殴るつもりはなかった。…顔、大丈夫か?」

「…痛たたっ。結構痛いぞ。右目が涙目んなっちゃってぼやける」

「悪かった。取り敢えず立って、俺の部屋に行こう」


 山本の左脇から支えて立たせ、部屋へ行こうとすると櫻井さんが小走りで近くまで来た。


「大丈夫ですか?救急車とか呼ばなくっていいの?」と、ハンカチを差し出す。

「え…、まぁ取り敢えず部屋に連れってってあとは俺の方でやります。ありがとう」と、ハンカチを受取り、それで顔の右半分を押さえるように山本に手渡す。ペコっと櫻井さんに一礼してから、山本を抱えて俺は自分の部屋に帰った。…はぁっ。


 出血こそなかったものの、山本の右目下くらいが徐々に腫れ出していた。俺は山本にジップロックに氷を入れて渡すと、冷蔵庫から缶ビールを二つ出してテーブルの上に置いた。一つは自分用、もう一つは山本に。


「申し訳なかった。もし痛みとか酷いとか何かあったら救急車呼ぶから言ってくれ」

 山本はダイニングのテーブルに肘を付き、もう一方の手で氷の入ったジップロックを腫れた部分にそっ〜と当てながら、こう言った。

「いや、俺も悪かったよ。ちょっと調子に乗り過ぎた。あんな風な態度取ったら俺だってブチ切れると思うし。すまんかった」

 …へぇ、謝って反省する山本なんて珍しい。いつもは偉そうな部分しか見たことないからなぁ。

「でも、自分でも人を殴るなんてバカなことした。暴力はやっぱ弁解の余地がない。ほんとにごめん」

「もういいよ。でもまさか御手洗に殴られるとか考えもしなかったよ。かなりいいパンチだったぜ。…いちちっ」

「大丈夫か?」

「多分大丈夫だよ、結構腫れると思うけど心配ない。…それよりさ、ちょっと気になったことがあるんだけど、聞いていいか?」

「いいけど何?」

 缶ビールをぐいっと飲んでから山本が言った。

「あの子、誰?」

「誰って、誰が?」

「ほら、このハンカチ渡してくれた女の子」と、山本は、さっき廊下で櫻井さんが貸してくれたハンカチを自分のワイシャツの胸ポケットから出して、テーブルの上に置いた。

「ああ、この真隣に住む住人の人だけど、それが何か?」

「どうしてあの子が御手洗の名前知ってんの?」

 え?

「いや、その…、なんつーか、あれ?なんだったっけかな、なんか知り合いになっちゃったっていうか…」

 俺はかなり慌ててしまった。山本に事細かに説明するようなことじゃない。というよりも、知られたくない。

「知り合いになった?…ふーん、で、あの子の名前は?」

 え?

「な、名前って、えと、…それ、答えなきゃならないのか?」

 だが山本は直ぐに返事をせず、缶ビールをゆっくり、残り全てをごくごくと飲み干した。

「ぷはーっ。んげっ」とゲップしやがった。

「汚ねぇな、おい」

「…ふーん、あの子の名前まで御手洗は知ってんだ。へー」

「うん、まぁな。それがどうした?」

「どういう関係?」

 え?

「か、関係って、ただ、ただの隣人同士だよ」

「ふーん。ただの隣人同士が、お知り合いになって、お互いの名前知ってる、と。表札あるわけでもなし、名簿があるわけでもないのに。へー、そうなんだ」

 何がいいたいんだ?、こいつは。

「そ、そりゃさぁ、なんかの切っ掛けあったら自己紹介くらいするじゃん、普通」

 すると、何か俺に対して疑惑を持つような視線を向けながら山本は言う。

「…切っ掛けねぇ。もしかして、それってあの子と知り合ったから?」

「それ、とは?」

「そのイカしたヘアスタイルだよ。どう考えてもおかしい」

 うっ。…なかなかこいつ鋭い。

「いやだからこれは、…き、気分を変えたかった、みたいなもんで、関係ないって」

 いちいち鋭くて、答えにくい…。山本はニヤニヤしてるし、どうもなんか見透かされているような気がする…。

「別にどうでもいいけどさ。…でも、すっげぇ可愛い子だな。しかもレベルがかなり高い。…いちちっ」

「おいおい、結構腫れが酷くなってきたけど大丈夫か?」

「大丈夫だって。で、あの子の名前なんて言うの?」

 しつこいな、こいつ。

「そりゃ、あれじゃん、個人情報だから言えないよ」

「隣人の名前程度を俺に教えるくらい、んな大したもんじゃねぇよ。上の名前だけでもいいからさ」

 あーしつこい。

「そもそも、なんでそんなこと聞くんだよ?」

「これ、ハンカチ洗って返すからさ、名前ちゃんと聞いとかなきゃ」

「俺が返しておくからいーよ」

「だめだめ、使ったの俺だし、俺から直接返したいんだ。だから名前は?」

 何なんだ、このしつこさは?…ちょっと俺も思考する間が必要だなと、山本を習って俺も缶ビールをゆっくりごくごく飲み干してたら、ふと閃いた。

「山本さ、お前なんか目論見あるんだろ?」

 そう言うと、山本は明らかに「不味っ」というような、一瞬、口元を歪めたかと思うと、些かも悪怯れずに言う。

「あー、バレちゃった?」

 …なんつー呆れた奴だ。油断も隙もないと言うか。

「…やっぱりか。お前さ、ホントいい加減にしないと、御崎さんに逃げられっぞ」

 要するに、借りたハンカチを返すのを口実に櫻井さんと知り合いにでもなろうって魂胆なのだ。おま、ホント女癖悪すぎるぞ、それ。

「ま、まいちゃんは関係ねーよ。じゃぁもういいよ。俺は帰るわ」と、山本は椅子から立ち上がった。

「え?泊まらなくていいのか?無理しなくたって…」

「いいよ。よく考えたら俺、明日早出しないといけない日だし、あんま朝早くに御手洗起こすのも申し訳ないし、会社で寝るわ。セキュリティ解除出来る立場だしな」

「そっか。じゃあ下のとこまで送るよ」

「悪ぃな、なんか色々と。…あ、貸し借りなしな、コレだし」と、山本は顔の右半分を俺の方に突き出して言った。

「いいよ、そんなの別に。ほら、カバン忘れんな」


 と、結局、山本は俺んちで泊まることはなく、会社に戻っていった。ふー、一先ずは良かった。しっかし、俺が山本殴るとか、想像したことすらなかったな。大体、人を殴ったなんて、人生初めてじゃないか? 右手拳の関節んとこ、ちょっと赤くなってるし、我ながら結構力入ってたみたいだし。山本も「いいパンチ」とか言ってたしな…。などと思い出したりしつつエントランスでエレベーターを待ってると、はっと気がついた。


 …あ。あいつ、櫻井さんのハンカチ、しっかり持って帰りやがった。



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