第2話 神崎恵子
リー、リー、リー、と秋の虫の鳴き声が響き渡るマンション廊下で待つこと約一分。
一体彼女、年は幾つなのかな? 俺と同い年くらいかちょっと年下って感じ? ビシッとグレーっぽいビジネススーツがなんか様になってたし、背中まで伸びたストレートヘアの黒髪が、化粧品のCMで見るくらいツヤッツヤでさ。特にあの瞳、あの綺麗な瞳に吸い込まれそうな感じだったもんなぁ。カチャリ――。
「これで大丈夫ですよね?」
と部屋から出てきた彼女が手に持っていたのは液体洗剤のボトル。俺は洗剤なんかよく知らないので、いつも適当に粉末洗剤の方ばかり選んでたから、大丈夫なんだか大丈夫でないんだかよく分からない。差し出されたそのボトルを受け取ろうとして、少しだけ彼女の手に触れて、ドキッ。
「え、あ、…ま、だ、大丈夫だと思われます」
あああ、今度は日本語にもなってない。穴があったらマジでズボッと落ちたい。
「…じゃぁ」
と、彼女がぺこりと会釈しつつ再び部屋に入ろうとして、――あっ俺、洗剤貰ったのに感謝の言葉一つ言ってねぇ。
「あ、ありがとうございますっ!」バタム。
はぁ……。ちゃんと聞こえたかなぁ。いくらあの可愛さに吃驚してたからって、あれはないよな。
女性に対する免疫がなさ過ぎってか、ったく我ながら情けない。ま、いいや、洗剤貰ったし、これでワイシャツ洗って明日着ていく分はなんとかなるし、とっとと部屋に入ろうっと。
***
バスルームでゴーッ、ゴーッと洗濯機が鳴り響く。プシュッと買ってきた缶チューハイを開けて、テーブルの上に並べた総菜や昨晩作り置きしておいた焼きそばを食べながら、さっきの隣人のことが気になる。
とにかく、めちゃくちゃ美人で可愛い。ランクがあるとは思わないが、敢えて言うならなら有名女優とかテレビの女子アナでもトップレベルくらい。つーか、一瞬で吸い込まれるみたいな、滅多に体験できないくらいの美人さんっていうか。
少なくとも、俺にはそう思えた。ニコッと笑われた時なんか、電気走ったもんな。いや、それくらい衝撃。そんな経験したことない。
あんな綺麗で可愛い人がこの隣に住んでるだって? なんか夢見てるみたい。真隣なんだから、もしかして俺と交際になったりしたら――。
なわけねぇよな。さっきのあのやりとりだけで落第してんじゃん。まともにありがとうの一言すら言えねぇってなんなんだ? あんなやりとりじゃ、彼女いない歴イコール年齢イコール27歳が相手になるわけがない。バカな夢見る前に、そもそも俺からしたらハードルが高過ぎる。女性交際経験ゼロってんだから話にもならない。
今まで生きてきた人生の中で、はっきり告白したって相手も、たったの二人。が、その実態を聞いたら絶対に誰でもバカにするだろう。だって、そのうち一人は夢の中にだけ出てくるあの美少女。そんなのをカウントするだなんて自分でも馬鹿げているとは思う。が、自分的にはその夢の中の美少女には何度も真剣に「好きだ」から云々などと告白しているからついカウントしたくなる。まぁそれはいいとして。
もう一人は実在する。が、そいつは腐れ縁の幼馴染、あの
でもさ、我ながらあの時は本気も本気の大マジだったんだ。ケイだってあれは本気だったと信じたい。純粋無垢な気持ちであったことは疑いの余地はない――まぁ幼児だから当たり前と言われればそれまでだけどさ。とにかく、幼児は幼児なりに大真面目だったんだからさ、カウントしたっていーじゃん。と、自分で思うぶんには罪はないかな、と。
夢の中の美少女については妄言レベルの戯言としても、告白が幼児期と言ってもケイとの仲は拘りたいっていうのには他にも理由がある。俺自身はやっぱりどう考えてもケイが初恋だと思うから。それは何も、幼児期に告白したからってだけじゃない。
神崎恵子は俺と同じ年に生まれた。お互いの実家が通りを隔てた向かい側同士で、生まれる前から親同士が既に仲が良かった。だから、生まれてからずっと知ってる仲ってことになる。で、実際にお互いが切っても切れないほどに仲が良かったのも事実だ。いわば、兄弟か家族みたいな、そんな仲。
それで、幼児期に俺がそういう告白をして、俺の中では多分中学三年生くらいまではずっと、ケイが一番だった。ただ、周囲はそうは見てなかった。俺とケイは毎日通学を共にするくらいだったのに、ほんとにいつも二人で仲良くしてて、一緒にいる時間も多かったのに、不思議なくらい誰も俺達を恋人同士だとは認めなかった。
きっかけはある。中学校に入った時に、別の小学校の出身だった男子生徒が、ケイに告白して、ケイがすぐにオッケーしたんだ。割とショックだった。ああ、俺はケイには友達としか思われてなかったんだ、みたいな。
でも、なのにその後も普通に一緒に毎日登校したし、その男子生徒よりは俺の方が一緒にいる方が多かったりしてて、関係の実態はちっとも変わらなくて、ショックがいつのまにか消えてしまったんだ。
だが、そうは甘くなかった。その男子生徒との付き合いが数ヶ月で終わると、すぐに別の男子生徒が告白即オッケー。その後もとにかく、誰も俺の存在など気にもせずケイにガンガン告白。さすがにそういう状態になると、ケイにとって俺は恋愛対象外なんだなと徐々に認めざるを得なくなってくる。それでも、ファーストキスは幼児期とは言え俺だし、その幼児期に結婚の約束もした仲だし、などと内心ではどうにかこうにか優越感を持ち続けていた。
それが完全に打ち砕かれたのは、中三の夏休み。ケイはあっけらかんとその夏休みの終わりに「初体験したよー!」って俺に報告してきたんだよね。その時は流石に一人で泣いた。もう死ぬほど枕をびしょ濡れにするくらい泣き通した。あれは結構きつかった。で、その後も色々赤裸々体験を聞かされる羽目になり、ああ、俺の幼児期から続く長い初恋も遂に終わったのだな、と。
とにかく、俺の中ではそういう経緯があるから、ケイだけはやはり、たとえそれが幼児期であっても、俺が告白した人の一人にはしておきたいわけ。間違いなく俺にとっては初恋だから。ただ、初恋破れてもずーっと二十七歳になるこの歳までずっと親友ではいられた。これほどの切れない腐れ縁も珍しいのではないか、と思うほど。
――つーか俺、飲みながら、なんでケイのことばっか思い出してんだろう? って思ってたら、スマホに電話の着信が入った。画面見たら「神崎恵子」だった。
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