第2話 水瀬の女の子

水瀬みなせ。ちょっと水瀬」

 気だるいまどろみの中で、目覚めよと呼ぶ声が聞こえ、

「んぅ……なぁに……?」

 まぶたを開いた視界の中にいた美女は、蠱惑的な微笑みを浮かべ、その間近で見ても粗の見つからない美しい顔を近づけ、

「……ふぇっ!?」

 次の瞬間、強引に唇を奪われた。

「な、なにするんだよ。火花ひばな姉さん」

「今日は私に付き合ってくれる約束でしょ。いつまでも起きないから起こしてあげたのよ」

 水瀬の姉、火花は悪びれずに言って、ペロッと自分の唇をなめた。

 日曜日の朝のこと。

 確かに今日は買い物に付き合う約束をさせられていた水瀬である。

 だが、昨日は用事があって寝るのが遅くなってしまったのと、家を出る時間までは決めていなかったのでつい油断してしまったのだった。

 だからといって、キスをしてくることはないだろう。常識的に考えて。

 けれど、弟に対して目覚めのキスを選択する相手に文句を言ってもやぶへびになりかねない。水瀬はささやかな抵抗として姉の行為を『王子様アタック』と名付けて少し気分を晴らす。

 姉の用意してくれていた朝食をとって、外出する支度をしていると、

「あんたなんで男の格好しているのよ」

「え?」

「あたしと一緒なんだから今日は一日女の子に決まっているでしょ。ほら、時間ないんだから早く」

 姉にせかされ、散々抵抗したものの、最終的にはしぶしぶ折れて。

「もう、しょうがないなぁ」

 水瀬は、女体化した。



 水瀬はトロールとサキュバスとの間に産まれた。

 サキュバスは正式には夢魔と呼ばれる種族の女性体の通称であり、男性体はインキュバスと呼ばれる。

 幼体から幼児期にかけては無性であるが、第一次性徴時に男女どちらかの特徴が見られるようになり、それらは個体の任意により変態できる。

 成人として自立する時期に性別を決定し、以降の安定期には容易に転換できないようになる。コロコロと性別が変わっては、無駄が多く、パートナーに困惑を与えるからと言われる。

 夢魔は種族の垣根をこえて魅了する美しさを持ち、社交に長けるとされる。それは他の神魔一族との長く過酷な生存競争の中で、遺伝子を後世に残すための種族的な進化であった。

 実際、かの種は多様な種族と交配が可能であり、高確率で子に夢魔の遺伝形質が継承される。子の代で形質が発現せずとも、孫やその子の代で隔世遺伝することも珍しくはない。

 夢魔の一族が選んだのはそういった生存方法であった。

 夢魔の一族は依存ともとれるその生き方をネガティブに考えてはいない。

 むしろ、一時的な肉体の隆盛や強さに衰えがあることを知り、かといって魔術的な素養、知識に偏重せず、その時代時代に求められる強さに寄り添う、深謀に長けたやり方と誇りに思っていた。

 しかし。

 その生き方に、すべての夢魔が肯定的であるとは限らない。

 水瀬は、その少数派の一人である。

 水瀬の母は、強い男に寄り添い、多くを魅了し手玉にとる、典型的なサキュバスといえた。

 すこぶる優秀で要領が良く、その美貌と人心掌握術に磨きをかけ、最小の労力で最大の成果を得る。

 最初の夫との死別後は、より優秀で収入が多く、健康的な伴侶を見つけ再婚。

 その再婚が、水瀬たちの将来を鑑みてのことであることは今では承知しているし、彼女が自分を愛していることも理解している。尊敬すべき母であることも。

 しかし、水瀬は頭ではわかっていても、その反発心を抑えることができないでいる。



 姉であり兄でもある火花は、母親の才能と夢魔としての矜持を受け継いでいる。

 既に性別もサキュバスと決めているようで、愛想良く立ち回って恋愛を楽しみ、良物件の本命もいるようだ。

 水瀬としてはそのように生きられる姉を羨ましいと思う反面、嫌悪感もある。姉のことが嫌いなわけではないのだが。

 ちなみに、水瀬に女体化を強要した件については、

「彼氏いるのに他の男に荷物持ちさせるわけにはいかないじゃない」

「他の男って、弟だよ?」

「誰に見られているかわからないでしょ? 他の男とデートしているって、そう見られかねない時点で問題なのよ」

 かくして、水瀬は白いワンピースを着させられ、デパートに連れてこられている。

 ショーウィンドウに映った、美少女然とした自分。遠くからでも女性とわかるフォルム。

「あんた結構かわいいんだからもっとかわいくしたらいいのに。ほら、これやってみ。あくまで自然に胸をアピるポーズ」

 確かに胸が五割増しに見える。

「かわいくなれるからかわいくしなければいけないっていうのは、それちょっとおかしくない? ボクのあり方を他人に決められたくないよ」

「面倒くさいわね、我が弟ながら」

 両性の種族であるから、女性として着飾ることには抵抗は少ない。

「……こんなところみんなには見せられないよ」

 やはり自分は男の子でいたいと思う。

 水瀬が、夢魔であることを勇介ユースケたち、十三文芸部の仲間には秘密にしているには二つの理由がある。

 過去に夢魔であることが原因で嫌な経験をしているせいで、明かすのに躊躇していること。

 また、水瀬は勇介たちとの男同士の関係を心地よく思っていることだ。

 夢魔であり実は女でもある、ということになったら、今までのようには接してもらえなくなるという懸念があった。

 少なくとも、一緒にグラビア誌を見て好みのタイプを教え合ったり、平然とエロ話をしたりということはなくなるだろう。

 水瀬は、そういった話題が決して得意というわけではないが、のけ者にされずそういった輪の中に混ざれるというのはとても嬉しかった。

 だから、夢魔である素性を明かさないことを不誠実と思いつつ、

「でも、嘘をついているわけじゃないんだよ。真実を全部説明していないだけで……」

 そう自分に言い訳する。

 ただ、先日の件でもそうだが、どうにも勇介は水瀬の性別を疑っている節がある。

 疑われる行為は避け、強く男を印象づけるイベントが必要かも知れない。

 間違っても、女装している姿(というか一時的とはいえ本物の女性である)を見せるわけにはいかない。

 と考えている矢先のことであった。

 女性物の下着売り場でそばにいた客がぶつかって落とした商品を拾う。

「……あ、ありがとうごひゃいます」

 うわずった声であいさつを返したその女性は、勇介だった。



 勇介。同級生の男の子で、十三文芸部の仲間。

 女装した、勇介だった。

「……ちゃうねん」

 絶対に、勇介だった。

「ま、迷いこんでしまったというか」

 パンツ握りしめてか。

「これは向こうから飛び込んできたっていうか」

 パンツは生き物じゃない。

「この格好はやむにやまれぬ事情で」

 女装はしないだろう。

 否、するか。というかまさに自分がそうじゃないか。一番見られたくない人に見られてしまった。

 どうする? どうしよう。

 性別が転換しても顔は変わらない。顔つきや体型は丸みを帯びたりするので、そういう意味では同一ではないが、元々中性的とはやし立てられる自分を別人とごまかせるものだろうか。

「て、あれ? お前も女装? さては、お前もラノベヒロインの下着取材か」

 勇介の好む作品には頻繁に女性ものの下着が登場する。だからその質感や種類などを調べにきたのだという。

(そんな取材、誰がするか、君以外)と思うが、

「さっきまで小林もいたんだが」

(……誰がするか、君ら以外)

 彼らの振り切った行動力に訂正をする。いやいや、そうじゃなくて、ごまかさなくてはと水瀬は気づき、

「だ、誰かと勘違いしているんじゃないかな? ボク……じゃない、私にはなんのことだかわからないですよ?」

 ところが、勇介はきょとんとして、微笑み、

「俺がお前のこと間違うわけがないだろ」

 と言った。

(こ、こいつぅ……!)

 水瀬は顔が熱くなるのを感じた。キザなセリフのためか、別の感情のためかはわからない。

 でも、悪い気はしなかった。

 ただ、しらを切るにはよくない流れである。水瀬は一旦心を落ち着かせて、初対面の女性を演じることにした。

「私はミナト。もしかして、あなたは私のいとこのお友達ですか?」

 果たして、その作戦は上手くいった。不本意かも知れないが、サキュバスの素質が味方していた。

 いとこを演じる水瀬の平然とした態度に、勇介は自分の勘違いだと思い込まされ、羞恥で顔が真っ赤に染まっていく。

「え、あれ……? マジで? え、いとこ? 水瀬じゃない?」

 今だ。

 水瀬は、姉直伝のあくまで自然に胸をアピールするポーズを放つ。恥ずかしいが致し方なし。

 五割増しのあざとい技は、しかし、効果は抜群だ。まだ勇介は、二次元のあざとさは見抜けても三次元ではそうはいかない。実際の女性にそうされてはたじたじとなるしかないのだ。おまけに勇介は清楚系美少女に優しく微笑まれると非常に弱かった。

「水瀬をよろしくね。でも、イタズラはほどほどにしなきゃダメですよ? ね?」

 そうして、二人は別れた。顔には出さなかったが、水瀬は内心動揺していた。果たしてうまくごまかせただろうか。勇介の胸の内を聞いて答え合わせしたいが、それはできない。どうか信じてくれますようにと、水瀬は星に願った。

 週の開けた放課後。部室。

「おい。水瀬、隠してないで教えてくれたらよかったのにー」

 そう言ってくる勇介に、水瀬は秘密がバレたのかと思った。この居心地のいい関係性の終わりを覚悟した。

 しかし、勇介の次の発言は意外なものであった。

「あんなにきれいな従姉がいるなんて。先週デパートで会ったんだよ。ミナトさんから聞いてない? ていうか、俺のことなんか言ってなかった?」

 デレデレであった。

 やれ彼女は天使だ。理想の美少女である。実にラノベヒロインであると、水瀬が見たことがないような、しまらない表情でミナトの美しさを讃辞する勇介に、水瀬はほっとする反面、苛立ちを覚える。 

(ボクのこと間違えないって言ったくせに)

 自ら望んだ結果ではあるのだが、どうにも腑に落ちない。この原因はなんだろう。自分はなにを納得していないのだろう。

 だが、思考の海に沈むには、浮かれる勇介が邪魔物過ぎたので、ひとまずこちらを対処することにする。

「なぁなぁ、水瀬。ミナトさんの好きなタイプってどんなだろー?」

「男の子っぽい子だと思うよ」

 次の水瀬の言葉で、勇介の表情が一変する。

「女装したりしないような、ね」

 慌てふためく勇介をいい気味だと笑って水瀬は部活動を始めるのだった。

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