千織

長くて短い旅

 東京駅から東北新幹線に乗車し、新青森へと向かっていた。仙台を越えてからは雪が降り始めた。この時期の車窓からの景色は僕を驚嘆させた。普段は都会に住んでいるので、雪が降り積もることはめったになく、白銀の世界がこんなにも素晴らしいものなのかと思い知らされる。

 隣の席の老人が大きなあくびをした。この人も新青森で下車するのだろう。あくびをしてからは眠る体勢に入っている。僕は窓の結露で少し落書きした。濡れた指をズボンで拭い、それから到着までの間は眠ることにした。



 浅い眠りから目を覚ます。ある時を境に、僕は目を覚ますときいつも水面から顔を出すような息苦しさを覚える。浅い眠りなら尚更である。

 距離的にはもう新青森駅が近いとアナウンスが伝える。隣の老人はもう目を覚ましていた。机の上に出していた空の弁当箱をビニール袋に入れる。少し残っていたお茶を飲みほした。ぬるいお茶は少しも僕を温めてはくれなかった。空のペットボトルを同じ袋に入れてまとめた。その行動と同時刻、車内からアナウンスが流れる。終点、新青森駅に到着する合図だ。目的地に近づくにつれ身体が震える。全身の血流が止まって、心霊映画を観たときに背筋が凍る感じがする。息も荒くなる。このとき何故そうなるかは自分で分かっている。まずはゆっくりと深呼吸をし、落ち着くよう息を整える。こういう後には必ず倦怠感に襲われる。手を膝に置いてゆっくり深呼吸しようと心がける。

「大丈夫ですか?」

 隣から低くしゃがれた声をかけられた。老人が心配そうな眼差しでこちらをうかがう。

 それほど荒い息遣いだったのか。

「ご迷惑をおかけしてすいません。大丈夫です」

 目をしっかり合わせてお辞儀した。そうですか、とこの人は嫌そうな顔ひとつせず、微笑んでくれた。少しの笑みでしわが浮きでていた。

 新幹線を出ると、駅のホームは人でごった返していた。この日は帰省を終えて都心部へ帰ろうかという人が多いのか、家族連れが多く見受けられた。その波に逆流するかのごとく、一人逆走していた。近くのゴミ箱にビニール袋を捨てて、目的地へ向けて出発した。



 それからというもの、バスと電車の乗り継ぎの繰り返しで、朝の九時頃の新幹線に乗ったのに気付けば午後二時過ぎであった。未だに雪が降っている。だがここまで降っていると思いもしなかった僕は普通のスニーカーで来てしまった。おかげで靴の中はびしょびしょに濡れていた。僕は面倒くさがりであるが故に行き当たりばったりな部分がある。そのことを今はひどく恨んだ。足の指の感覚がない。手袋も付けない手をポケットに突っ込み、マフラーで口までを覆い隠し、何とか寒さを凌いだ。

 バスを降りてから二十分ぐらいのところでようやく見覚えのある景色へとたどり着き、安堵する。小学校の頃のおよそ二ヶ月間、この地に父の都合で滞在していた僕はここの土地勘が皆無と言っていいほど無く、ほとんど一人で過ごすことが多かった。学校へ行ってはいたが馴染めなくて孤立していた。それでも唯一仲良くしてくれた友達もいたのだ。そんなことを思い出していたとき、開けてはならないと奥にしまい込んだ記憶がよみがえる。ちゃんと向き合うまで開けないと言い聞かせ目的地へと急いだ。



 到着した場所は風情のある民家だった。雪の気配が治まってきたが周りは暗くて、木造の家で、屋根はまるで白い帽子を被っているかのようだった。また、木々の隙間から暖かいオレンジ色の光が射していて、僕の心をゆっくり溶かしていくかのようである。

 玄関は引き戸でもちろん呼び鈴はない。大きく息を吸った。

「ごめんくださーい」

 柄にもなく大きな声を出し、戸を開けた。

 床がきしむ音が聴覚を刺激し、ヒノキの香りが鼻腔をくすぐる。奥の角から、割烹着姿の女性が現れた。

「ようこそ、いらっしゃい。久しぶりね。来て、あの子が待っていますよ」

 事前に行く旨を伝えていたのですんなりと奥へ通された。その声には悲しみと少しの怒りも含まれていたと思う。

 奥の部屋に行くまではほんの数秒であったはずなのに、非常に長く感じられた。その長い時間で昔の思い出を反芻した。



 短い間だったが仲良くなった『彼』とこの土地を去る最後に神社の夏祭りに行こうと誘った。内気だった僕が自分から誘うことはそれまで一度もなかったのだが、この日は僕から誘った。後になって神社内で流斗から誘ってくるとは思わなかった、と『彼』は言った。近くの神社はとても大きく、毎年帰省する人も含め、多くの人が訪れる。

 僕たちは三十分間ほど神社を歩き回ったので、のどが渇きジュースを買って、神社の裏に回った。

「流斗はどこに引っ越すの?」

「東京だよ」

 夜の薄暗がりの中で『彼』は問う。俺は視線が下に向いているので『彼』の表情は分からない。

「手紙くらいくれよな」

「あたりまえだよ」

「でもまあ、まずは友達作りだな」

「お前、それできると思ってる?」

 『彼』がクスリと笑う。

 目の前には納屋がある。そこはこの暗さでもはっきり分かるほど、ボロボロだった。総板張りの壁も、屋根も、どうも頼りない。僕たち子供でも、本気で蹴飛ばせばコント劇のようにばったりと倒れていきそうだ。この神社は経営が難しいのか、そう想起させるほどだった。この納屋には幟(のぼり)が立てかけてある。しかし、その幟杭は低すぎて固定できないらしく、上の方がビニール紐で納屋の軒に縛りつけてあるのだ。これはひどい。

 ただ、一か所、目を引く輝きを放つのがドアだった。アルミ製でまだ真新しい。おそらく最近交換したものだ。その証拠に旧世代のドアの面影もある。何と閂(かんぬき)であった。外から閂をかけ、そしてその閂を南京錠で固定するようになっている。

 それからしばらく話したあと、『彼』は言った。

「なあ、俺のとっておきの場所を教えてあげるよ」

 少し自慢げに話す。

「あそこに納屋があるだろ。そこの少し行ったところに俺とカズの二人で作った秘密基地があるんだ、見せてあげるよ」

「でももう暗いよ、危ないよ、また明日にしよう」

 これまで生活してきて一人でいることが多かった俺としては「秘密」という甘美で輝いた単語には憧れを抱く。でもこの暗がりの中、そこに行く勇気はなかった。

「いいじゃん、ちょっとだけ」

「うん、まあ、気になるしね」

 渋々だったがここで断ってもどうにもならないので納屋に行くことにした。



 呼吸が乱れる。神社の喧騒から逃れ、水の音が聞こえてくる。向かう道中、繁茂する苔が見えた。歩いて五分ほど、ようやくたどり着いた。

 垂れ幕をくぐる。『彼』は自分のスペースのところにカバンを置く。中は秘密基地と言うほどだけあってなかなかのものだった。簡易な寝床やテーブルまである。

「すごいなあ、こんなのどこで調達したの?」

 小学六年生がどこでこんな材料を手に入れたのか。どうしても気になった。

「ここな、ここに来る前、納屋があったろ。その中から少し拝借してきた」

 どうだ、と言わんばかりの顔。

「いや、駄目だからね。何してるんだ」

「俺じゃない、カズが持ってきたんだよ。でももうあそこには入れない」

 どうして、と僕は聞く。テーブルの上にあるランタンが俺たちの輪郭を暖かな光が当たる。ドアから吹く生温かい風が夏の程よい湿り気を帯びて服の下までじんわり汗ばませる。

「あそこのドアが頑丈になったんだよ」

「ああ、なるほど」

 そういっている間にランタンに照らされない部分も見えてきた。

 見えてきたのは竹箒、鉄製のスコップ、煤払いの長い棒、何が入っているとも知れないダンボール箱。確かに納屋に置いてあるようなものばかりであった。

 なあ、と『彼』が言う。

「あのさ、これからタイムカプセル作らね?」

「タイムカプセルってあれか、大人になってから開けるやつ」

 ここにきてまた初体験。

『彼』は確かに俺と違う世界を持っている。もちろん人それぞれ十人十色、同じ人などあってたまるか。それでも自分とは明らかに違うと思わされた。

 ふと、ほんの一瞬だけ、それを寂しいことのように感じた。

 俺は浅いため息をつく。

『彼』は段ボール箱から、ガチャガチャの空のカプセルと鉛筆、そしてノートを取り出した。

「その段ボール、何が入ってるんだ?」

「んー? まあいろいろかな」

 これははぐらかしたのではなく、事実だろう。

『彼』はノートを丁寧に破く。意外と几帳面なのかと今になって『彼』を少し知ることができて嬉しかった。

「カズは? もう書いたの?」

 ああ、と『彼』は言った。一足先に来て書いたらしい。

 簡素な椅子に座って、二人はテーブルに向かう。鉛筆を走らせる音が、耳に届く。

「どうだ、書けたか?」

「いやまだ。こうしてみると案外書けないもんだな」

 横目で見ると『彼』は笑顔で、ときどき何かを思い出したかのようにあっ、と言う。

 腕時計を見ると、六時を回っていた。



 手紙を書き上げ、二人ともカプセルに入れて三つのタイムカプセルを海苔の缶に入れた。十年近く地面に入れるのでこれに入れたほうがいい、と『彼』は言った。

 シャベルを持って、外に出る。

「どれくらい掘ればいいんだろう」

「あんまり掘りすぎたら後々困るから浅くしようぜ」

 掘っていく毎に土に湿り気がある。

「それじゃあ、いつぐらいに掘り返そうか」

「大学を卒業してからはどうだ」

「そうだね、社会人か、どんな大人になってるかな」

 俺たちには、まだ想像もつかない。カプセルを埋める。掘ったときとは裏腹にゆっくりと丁寧に土をかけていく。

 作業を終えた時には二人ともドロドロだった。

「それじゃあ、そろそろ戻るか」

「うん」

 俺はこの空間が好きだ。いつまでもここにいたかった。

 あんなに乗り気でなかったのが嘘であるかのようである。

 この秘密基地で三人仲良く遊びたかった。秘密基地でありながら、何も起こらない穏やかな場所。俺はたった一回でこの場所が気に入った。

「もっと早く知らせてくれよな、秘密基地のこと」

「ごめんごめん。言うタイミングがなくて」

 行きと同様、水の音が聞こえた。

「ねえ、この近くに川でもあるの」

「ああ、あるよ。俺、足滑らせて足の骨折った」

 下手したらそんなの骨折では済まないのでは……。

「ええ、もう危ないな」

「下手したら死んでたらしい。流斗も気をつけろよ。あ、ここに来たこと俺の母さんにナイショな、落ちてから禁止されてんだ」

「オーケー、分ったよ」

 賑やかな声が聞こえ、暖光が見える。

 その時、『彼』はあっ、と声を漏らす。

「カバン忘れた。取ってくるよ、焼きそば屋の近くにいてくれ。すぐ行く」

「ああ、気をつけてな」

 それから三十分待ったが、『彼』は戻って来なかった。神社内にいない。秘密基地に戻るのは気が引けてきた。明日先に帰ってしまったことを謝ろう。そう思いながら僕は帰路に就いた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

千織 @t_iori

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ