はじまり

【1】

 店に全員が揃ったのはおよそ三十分後のことだった。…店主は居ないままだが。

「それで、何をすればいいんだ?」

 漠然と尋ねてみる。

「この店をきれいにして欲しいのよ。見ての通りだからね。店の中も散らかってるし。」

 ふむ、なるほど。結構な時間が掛かりそうだと思っていると、音無先生が口を開いた。

「ところで秋雨、この店について色々訊きたいんだけど。」

「なにかしら?」

「そもそも何故この店の片付けをしようと思ったわけ?店主の知り合いか何かなの?」

「私がその店主よ。言ってなかったかしら?」

「…え?」

 珍しく音無先生が驚いている。

「ちょっと色々あってね。ちょうど仕事を探してる時だったから、店を譲るっていう話に乗ったのよ。片付いたらここを店舗兼自宅にしようかと思ってるの。」

「いくらなんでも思い切りが良すぎるな。…そういえば昔からそんなだったような気が。」

「アイデンティティの永続性があるってことかしら。ふふ。それより片付けについてなんだけど、まずは店の中から始めようと思うの。」

 その場にいた中で異議を唱える者はいなかった。いくら外観が綺麗になっても店内が荒れていては店としての機能が損なわれる。妥当な判断だと思った。

 そしていよいよ片付けが始まった。店内はやけに荒れていて、廃墟か何かを連想させる。

「随分荒れてるな、これは。」

「おいマサヒロよ、もう少しオブラートに包んだ言い方はできんのか。」

 と熊田が言う。

「そんなこと言ったってなぁ…。」

 う、なんか熊田の目線が冷たい。いつにも増して冷たい。そっと音無先生の方を見る。相変わらず気だるげにしている。しかしその視線はどことなく鋭い。うーむ気まずい。これは気まずい。

「よ、よし、さっさと片付けようぜ。」

 場の空気を変えるべく、率先して作業を始めた。

 その事件が起きたのは俺が片付けを開始してから十数分後のことだった。片付け作業の傍ら、秋雨さんがこう発言したのが事の発端である。

「そういえばこの本、三ページ目までしか開かなかったのよね。」通常、本というのはタイトルのみが書かれたページを一ページ目とする事が多い。そしてその裏にあたる二ページ目は目次や出版社・作者関連の権利表示のページになっているのが定番だ。そしてその隣が問題の三ページ目。本文が始まる事の多いページであり、実質上の一ページ目とも言える。

「ああ、俺が試した時もダメでしたよ。」

 と熊田。その現場は俺も目撃している。

「さすがにこの状態だと鑑定以前の問題ね。」

 秋雨さんはそう言いながら再び本を開きはじめた。

「あら?次のページが開いちゃったわ。でもこれ以上は無理みたいね。」

 本は呆気無く四、五ページを開放した。その時、俺は何かを思い出した。その感覚自体は不思議なものではなかった。物忘れはよくある事で、それを思い出すのもまたよくある事だからだ。奇妙なのは、何を思い出したかがまるで分からない点だ。一体俺の頭はどうしてしまったのか。頭のつくりが特段に良いわけでは決してないが、人間として通常備わっている程度の記憶力はあるはずだ。そのはずなのだが…。

「これは栞…じゃないわね。誰かのメモが出てきたわ。」

 と秋雨さんが言った。危うく思考の迷路に踏み込むところだった俺は、そのメモを見るべく秋雨さんのところに向かった。よくよく考えてみれば、俺はこの本の中身を読もうとはしなかった。ついでに中身も見てみよう。

「ちょっと俺にも見せてくれ…じゃなくて、見せてください。」

「ええ、いいわ。」

 秋雨さんはそう言うと本を差し出してくれた。さてたまには活字を読もうと意気込んでいた俺を待っていたのは、到底解読不能な文字列と記号のようなもの、そして大量の図形だった。ひとまず俺はメモの方に目を移す。メモは日本語で書かれていて、メモというよりは手紙のようだった。そしてその内容がこれだ。

 ****************************************


 かつてこの世界に魔術が存在していたというのは驚くべきことなのだろう。しかし

 私はその片鱗を知っている。この手紙が表出しているということはおそらく封印が解

 け始めている。どうか世迷い言と思わず最後まで読んでほしい。

 魔術とは世界の理を運用し得る機構だったが、万能ではなかった。世界を改変しな

 いという前提で設計されていた筈だったのだが、それは不可能なことだったのだ。少

 しづつではあったが世界は歪み始めた。実質的な効果が現れる程ではなかったが、い

 ずれ異変が起こる事は明らかだったのだ。

 そして魔術という概念はここに封印された。しかしそれは永遠に続くものではない。

 できることなら再び封印を施してほしいのだが、後世の人間には無理難題だろうから

 せめて人目につかぬところに保存してはもらえないだろうか。


 追伸:封印をよく思わぬ者たちがこの本を取り戻そうとするかもしれない。出来る限

   り用心されたし。


 ****************************************


 とてつもなく、壮大な話。これを信じられる人間は居るのだろうか。さすがの俺でもこれは怪文書としか思えない胡散臭さだ。

 さて、この事件が進展するのは案外早く、具体的には十秒後のことだった。

 俺は一度深呼吸し、気を取り直したつもりになって本に目を戻した。この本も手紙同様、怪しさの塊である。そもそも見たことのない文字で書かれているし、挿絵かと思えばそれは図形の集合体だった。

 既視感がある。強い既視感がある。俺はこの本の中身を見たことはないはずだ。少なくともこのページは絶対に見ていないはずだ。このページは昨日の時点では開かなかったから見ることはできない。当然、熊田が開いていたのはその前のページなので横から覗き見たり、たまたま視界に入ったとしてもこのページではないはずだ。それにもかかわらず、何故か初見とは思えない。直感が激しく主張している。

 いつ、どこで、なにを見たというんだ。

 記憶が巻き戻る。現在から過去に向けて時間が逆行するように。今まで見てきた光景が逆再生され、すさまじい速度で「そこ」に行き着いた。逆行の間、俺の意識ははっきりしていたが、記憶を辿ろうとはしなかった。過去への逆行は俺の意思と関係なく、勝手に進んでいった。終着点は昨日の晩。そう、あの夢だった。内容を忘れるには特徴的すぎる夢。今まで見たことのない特異な夢。それが既視感の正体だった。

 俺はあの夢のなかで、本の内容を見ていたのだ。

【2】

 着々と作業が進む中、俺は相変わらず夢のことが気になって仕方がなかった。既視感の正体が夢だけではないような気がしていた。いい加減頭を切り替えたいところだ。

 そういえば熊田や音無先生もあのメモを読んでいたようだ。しかし動揺した様子はない。たぶんあの内容を信じていないのだろう。当然である。俺のように妙な夢でも見ないかぎり真に受ける人間なんていないだろうから。魔法とか、超能力とか、そんなファンタジーチックなものに憧れた時期を思い出す。そういうものが存在しないと分かっている今でも空想するのは楽しいものだ。俺がこうして過去の思い出に浸っていると、熊田が声をかけてきた。

「なあマサヒロ、変な夢を見たとか言ってたよな?」

「ああ。」

 片手間で返事をする。

「内容は忘れたと言ってたな。」

「ああ。でもさっき思い出したぜ。実はあの本の内容に似ている︙いや、まるで同じだったんだ。」

「なに…?つまり予知夢ってことか?」

「ああ、今日になってやっと開いたページの内容を見たんだよ。偶然にしては出来過ぎだろ?」

 いよいよ俺はいよいよこの奇妙な出来事を真面目に考え始めてしまった。思考の迷宮というのはたちが悪いことに、難しい問題に限って出口が無いものだ。いくら考えても一つの結論に収束していく。

 これは偶然ではなく、俺たちは何かとんでもない事に足を踏み入れてしまった。


【3】

 二人が同じような夢を見るとはなかなか奇妙な出来事だ。それだけなら単なる偶然と考えるが、あの本とメモのこともある。実は俺たちは想像もつかないようなトラブルに巻き込まれているのかもしれない。特に気がかりなのは魔術についてだ。実際にあの本は五ページより先が開かず、その原因はまるで分からない。マサヒロが見たという夢がどういうものなのかは分からないが、俺が見た夢はかなり抽象的な夢だった。人間は睡眠中にその日の記憶を整理する。夢はその整理の過程を覗き見ているようなものだと解釈されることが多い。夢の内容は辻褄の合わないことが多いし、それ故に今見ているのが夢だということはすぐに分かる。ここで重要なのはどんな内容の夢であれ、それは何らかの具体性を持つということだ。例えば、死んだはずの人間に会う、ランニング中に空を飛ぶ…などなど。

 しかし昨日俺が見た夢は違う。夢で見た光景は純粋な図形群だった。円や多角形といった平面の図形が重なりあい、無限の形が生み出されていくのを見た。そこから何かを読み取れるわけでもなく、なんとなく図形群の輪郭を目で辿っていたらいつの間にか夢から醒めていたのだ。

【4】

「おい熊田よ。ちょっと聞いてくれるか。」

 マサヒロの奴がそう言ってきたのは作業がもう少しで終わろうかという時のことだった。

「んん?どうした、急に改まって。」

「実はだな、例の夢のことをずっと考えていたんだが…魔術とやらが使えるような気がしてきたんだ。」

 どこから突っ込んだらいいのか分からん。思えばこいつは何かと荒唐無稽な奴だ。そういう意味では平常通りではあるが…。

「えーと、じゃあ試しに使ってみればいいんじゃないか、その魔術とやらを。」

「何か起こったら教えてくれよ~。」

 随分やる気になっているようだ。マサヒロは目を閉じるとなにやら難しい表情を浮かべている。ふと奴の後ろに視線を移すと、音無先生と秋雨さんが棚を動かしていた。二人に持ち上げられた棚はちょうどマサヒロの後ろを通過していく。その時、棚の上にあった小瓶が棚から落下し、運の悪いことにマサヒロの頭に直撃したかのように思われた。だが、その小瓶は頭に当たる直前、何か光る壁のようなものに阻まれた。小瓶はその『壁』でバウンドすると床へ落ち、割れた。そしてどういうわけか俺は、マサヒロが使った魔術が【石頭】だということを理解していた。店内が少し騒がしくなる。マサヒロは小瓶が割れた音に驚いた様子だった。どうやら小瓶が辿った経路を見ていたのは俺だけらしい。

 さっきの出来事について順を追って考えてみる。まず小瓶は偶然にもマサヒロの頭上へ落ちていった。この時は特に不思議な事は起きていないはずだ。次に小瓶が光る壁に阻まれる。その『壁』はマサヒロの頭に小瓶がぶつかりそうになったまさにその時、一瞬だけ現れた。小瓶は『壁』に阻まれ、床に落下して割れた。そして『壁』を見た瞬間、俺の頭は謎の知識を得たようだ。魔術という概念を理解したわけではないが、マサヒロが使ったものが【石頭】という魔術であることと、その効果を知った。『壁』を見て、「あれは何だ?」と思うより先にその知識が湧いて出たのだ。それもごく自然に。赤いリンゴを見て、「このリンゴの色はなんだろう?」と考えずともリンゴが赤いことが分かるのと同じ感じだ。

「マサヒロよ、お前がさっき使ったのは…【石頭】だ。」

「な、なにぃ?」

 さすがのマサヒロも驚いているようだ。

「どうやら頭部限定でバリアを展開できるらしいぞ。」

「なんか地味だな…。てか本当にそんなことできるのか?」

「じゃあもう一度やってみるといい。あ、目は開けといてくれよ。」

「おう。」

 マサヒロは先程のように集中し始めた。魔術の効果を確かめるため軽くチョップしてみる。振り下ろした俺の手は、マサヒロの頭に到達する手前でバリアに阻まれた。少し痛いが大したことはない。

「おお、おおお?」

 どうやらマサヒロは魔術の効果を理解したらしい。

「うーむ、地味だがすごいな。これならうっかり壁に頭をぶつけても問題なさそうだな。」

「おいおい、そのバリアは唱えてから一〇秒くらいしか保たないぞ。」

「えー。てことはつまり、前もって何かにぶつかるってことが分かってないと意味ないってことじゃんか。」

「お前にしては賢いじゃないか。要はそういうことだよ。」

「ふーん、まあいいか。ところでお前は何か使えないのか?」

「全く使えそうな感じはしないが︙」

 その時、俺の頭に閃きが訪れた。忘れていたことを突然思い出したような、思いがけぬ幸運に出くわした時のような感覚だ。心拍数の上昇を感じる。俺はズボンからポケットティッシュを取り出し、手のひらに載せた。そしてそいつに意識を集中していく。するとそのポケットティッシュは勢い良く飛んでいき、マサヒロの顔面に直撃した。

「痛てぇ!何だ今のは!」

「すまん、ポケットティッシュだ。今の魔術は【瞬間加速】といってな、見ての通り何かを瞬間的に加速する魔術なのだ。」

「な、なんて魔術だ。ポケットティッシュじゃなければ即死だったかもしれん。」


【5】

 手品という意味での魔術ならば練習を積めば会得できそうな気もするが、本当の意味での魔術が使えるようになるというのは実に空想的な出来事だ。あれを目撃するまでは存在すら否定していただろう。熊田の手刀から加藤の頭を守ったあの光る障壁。あれは疑いようもなくこれまでの常識を覆すものだった。近年のテクノロジーの進歩には少々驚かされるが、そのメカニズムはまだ理解の範疇を出ていない。そういった意味ではまさに、魔術は常識の外に存在している。どういう仕組みなのかも分からず、それどころか何が起きたかを正確に理解できない点においては脅威的だ。現代においては、ほぼ全ての現象が科学で説明できる。私が音無リカコであるということ、つまり自分が自分である事と同じくらい、それは確かな事実のはずだった。

 その後私も彼らを真似て何かを念じることにした。心の中にある僅かな引っ掛かりに意識を向けつつ、目の前にあったガラス球に狙いを定める。するとそのガラス球は5センチほど浮いたが、やがて地球の重力に再び捕らえられ、元の位置に戻ったのだ。地味にすごい魔術のような気がしてくるが、実際のところどうなのかは分からない。なにせ使った私自身がこの魔術の効果や仕組みを、正確には知らないのだから。つまり物が浮いたのは、重力と逆向きの力が働いたからなのか、それとも物に働く重力が弱まったからなのか、それすら定かではなく、どの程度の物なら浮かせることができるのか、またそれを決めるのが大きさなのか質量なのか、など疑問を挙げればきりがない。果たしてこれが何の役に立つのかと言われればそれは答えようがないのだが、いつか何かの役に立つのではないかと少し期待してしまっている。

 ところで、私の友人である秋雨ツミカもいつの間にやら魔術が使えるようになっていた。熊田の説明によれば、彼女の魔術は『説明書』を作る魔術だという。

「で、これがその説明書ってやつなの?」

「ええ、一応そうみたいね。」

 秋雨が差し出した『説明書』はわずか一ページ、まさに紙切れ一枚だった。

「あの本に使ったらこうなったの。どうやら説明書の内容は私の理解が及ぶ範囲に限られるみたい。」

「ふぅん。ま、あなたにはわりと向いてる魔術じゃないの。」

 私は説明書を受け取り、軽く目を通してみた。


 ****************************************

 ・この本には魔術が封印されている。

 ・封印は徐々に解けていっている。そのためこの本に関わると魔術を覚える可能性がある。

 ・魔術を使うと痕跡が残る。それは魔的な者たちを引き寄せる。

 ****************************************


「なんか最後にすごいことが書いてある。」

「ええ。そうみたいね。あくまで予想なんだけど、魔術の痕跡が何かを引き寄せるなら、この本自体もそうなんじゃないかって気がするわ。」

「つまりどういうこと?」

「封印が解けていってるってことは、中に封印されてたものが徐々に出て行ってると考えるのが普通よね。現に私たち魔術が使えるようになってるわけだし。つまり、この本は常に魔術のオーラみたいなものを放出している。」


【6】

「にしても驚いたぜ。まさか先生や秋雨さんまで不思議な力に目覚めるとは。」

「俺もだよ、マサヒロ。だが今日一日で驚くべきことが多すぎて、半分感覚がマヒしてるよ、俺は。」

「きっとあの本のせいだよな。えーと、俺のやつが頭にバリアを張る魔術で、先生のは物をちょっと浮かせるやつ、それから秋雨さんが説明書を作る魔術で、それからお前は何かを一瞬加速する魔術が使えるんだったな。」

「ああ。それから見た魔術の効果が分かる。」

 そういえばどうして俺だけ魔術らしきものを二つも習得しているんだろうか…。

「うーむ、これはどうしたらいいんだろうな。いかんせん地味だぜ。」

「派手なのを覚えられても困る。特にお前の場合は。」

「むむ…。」

 やはりこういう現実離れした事象というのは人目をはばかるべきなんだろう。そうに違いない。秋雨さんの説明書にもそのようなことが書いてあった。類は友を呼ぶ、魔術の痕跡は魔術に関する“何か”を引き寄せる。

「ま、いいか。別に魔術を使わないことで死ぬわけじゃないし。」

 とマサヒロは語る。その通りだとは思う。しかし…

「おっと、向こうも片付いたようだな。さ、行こうぜ。」

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