第50話 水の如く流れる者として
「よっ」
暗闇の中、向こうからやってくる影にアタシは声をかける。その人物はすぐにアタシを認識して、名前を呼ぶ。
「こんな夜遅くに待っていたのか?」
そりゃそうだろうよ。今日は運命の日だってのに、待たないわけがないじゃない。そんなことを思いながら、アタシは夜行性だからね、なんて、少し猫らしいことを言ってみた。
「・・・いよいよ、か。早かったね」
ああ、本当に、本当に早かった。ここまで早いひと月は今までになかった。勿論、悪い意味で。アタシの方は、このひと月が流れないで、永遠に止まったままでいてくれよ、と思っていたってのに、こいつはそうだな、と一言しか述べなかった。ったく、少しは弱み見せてくれればいいのに。
「アタシの姿も、だいぶ見慣れたでしょ」
特に深い理由があったわけじゃない。ただ、少なからずこいつも気を張っているだろうから、何か場を和ませれば、なんて思っただけだった。だが、どうもこの猫の姿には、よほど責任を感じていたらしく、こいつは重々しく、悪かった、と言った。そんな返事を望んでいないアタシは、謝りなさんなよ、と言って、ちょっとした冗談を付け加えた。ただ、アタシは冗談を言うタイプでもないので、リアクションはしてくれたものの、言ったアタシの方がいたたまれなくなってしまった。
「どう?勝算は」
しばらく歩いて、アタシは核心に迫る。さぁ、とこいつはどっちつかずの返事をしたが、アタシはそれを聞いて安心した。物事に取り組む時、自信ってのは、有りすぎても無さすぎても上手くいかないもんだ。きっと、こいつはもう、しっかりとした覚悟が出来ている。
「心配しないで。アタシたちの想いは、アンタに託すから」
アタシは強い目で言った。っていっても、猫のアタシの目に、強さも何もあるのかなんて分かったもんじゃないけどね。
「・・・ここまで、かな・・・」
ああ、ヤだな。まったく、今日くらい、自分勝手で気が利かない女になりたいもんだ。アタシは自分から、こいつとの離別の言葉を口にする。
「・・・これ以上いたら、アタシ、多分耐えられないし」
でも、これでいいだろう。ギリギリまで近づけば、絶対、アタシは懇願する。行かないで、と、こいつの腕を引き止める。まぁ、引き止められるだけの力なんて、もうアタシには残っていないけどさ。
「・・・あのさ」
でも、どうせなら・・・。最後くらいなら、いいかな・・・。ほんの少しだけだし、ほんの一瞬だけだから・・・。
「最後に、抱っこしてもらってもいい・・・?」
人間だったら、絶対に言えない台詞だけど、猫の姿なら、そんなにおかしくないでしょ。これくらいはいいでしょ・・・?
「・・・んにゃ・・・」
こいつは何も言わずに、アタシを抱き上げる。ああ、気持ちが良い・・・。今からこいつは一世一代の大勝負に出るっていうのに、そんな時に思うことでもないんだけど・・・。何だか、幸せだ、って感じる。ずっとこのまま、抱きしめていて欲しい、って思う。
「こうしてもらうとね、落ち着くんだ」
ぐるぐると喉が鳴る。嬉しい時に喉が鳴るのは猫の習性らしい。こればっかりは、自分で抑えることはできなかった。
「・・・大丈夫」
アタシは抱かれたまま、脈略もなく言った。あなたのせいじゃないから、って。
「・・・優しいな、相変わらず」
ううん、優しさじゃない、本当にそう思ってるだけだから。そう言おうと思ったら、楓は僕のせいだって言うよ、絶対、って続けてきた。アタシは確かにね、と笑って言うけど、楓だってそんなこと、本心じゃ思っていないって。
・・・ああ、駄目だね。このままじゃ、ずっとこいつを引き留める。こいつは優しいから、きっと、アタシから言い出さないと、このままにしてくれるんだろうし。本心なら、ずぅっと抱いていてほしいんだけど、名残惜しいけど、そういうわけにはいかないから。
「ありがと。最後に会えて、嬉しかった」
アタシはぴょんと腕の中から飛び出て、地面に着地して言った。こいつも、僕もだ、って言ってくれる。
「・・・じゃあね」
アタシは薄暗い中、こいつの顔を目に焼き付けて、尻尾をこいつに向ける。そして、一瞥もせずに、振り返らずに、前へと進む。振り向いたら駄目だ。滝は上には登らない、流れる水は、ただ、前へと進むのみだから。
・・・ねぇ、気づいた?最後のじゃあね、って、必死に泣くのを堪えて言っちゃったから、随分と変な喋り方になっちゃって。でも、もういいよね、我慢しなくても、さ。
誰もいない夜の中、一人の男の安否を心から祈る猫の鳴き声が、響いた。
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